兵庫県精神障害者連絡会・代表のブログ

1995年に設立された兵庫県精神障害者連絡会の設立時メンバーであり,20年間代表を務めているメンバーのブログです

新パンフレット発行します・タイトルは「ミッシングリンク—私たちはどこで間違えたのか」

2024-10-04 | 日記
新パンフレット発行します・タイトルは「ミッシングリンク—私たちはどこで間違えたのか」
A4版、全32ページ。領価500円
 
【まえがき】
 
私は新左翼運動歴50年を超えます。しかし、某党派の「政治局員」などではさらさらないし特定党派の党員でさえありません。私の時代には党派の政治局員と言えば東大・京大出身者でしたが、1968年世界革命時からの造反高校生だった私は東大・京大をめざして受験勉強にいそしんでいる同級生を心の底から軽蔑していました。「こいつら感性ゼロか」と思っていました。抑圧者にしてベトナム人民の虐殺者である自らの実存に心傷まない連中としか見えませんでした。そういう連中が、東大・京大に入ってから突然に「目覚めて」政治党派の幹部にのし上がっていったのでしょうか。かといってそういう連中に「感性が目覚めた」訳では決してなくて、政治的覇権主義に目覚めただけであることは大方の想像通りだろうと思います。
 
私の新左翼運動歴は造反高校生だったころに始まりました。その頃、私は実存主義者だったので「左翼」と言っていいのかは分かりません。その後大学に入り、普通に造反をしていましたが、大きな転機だったのは革マル派による早稲田大学生のノンセクト学生・川口大三郎さんへのリンチ殺人でした。それまでは、党派とは一線を画していた私ですが、この事件をどうとらえるのか、やはり革マル派は打倒しないといけないのではないかと真剣に考えるようになりました。右翼日和見主義にして武装した人民抑圧党派であった革マル派打倒は左翼活動家として当然極まる選択肢でした。
 
その頃にも気が付いていたのですが、「内ゲバ」はその時に始まったわけではないし、1950~60年代から日本共産党や新左翼党派が入り乱れた殺し合いを含む激しい「内ゲバ」を繰り広げていました。そのなかで、早稲田解放闘争を闘っていた川口さんを革マル派が殺した訳です。これは党派間の「内ゲバ」ではありませんでした。早稲田を一党独裁していた革マル派に逆らったという理由で一般学生であった川口さんが8時間にわたる激しいリンチを受けて殺されて、大学当局はそれを黙認していた、警察も同罪でした。それがこの事件の真相でした。早稲田大学では一般学生から「革マル=当局=警察連合」と呼ばれていた学生運動圧殺体制でした。
それからの約20年間は革マル派打倒の闘いの時代でした。やがて、激しいやりあいの末に革マル派に対する制圧戦に勝利し、武装解除した後、その主力部隊であった中核派・解放派は対国家権力ゲリラ戦を始めました。
この頃から私は思索の過程に入りました。「レーニン主義」「レーニン党組織論」というものに疑問をもったのがそもそもの問題意識でした。イタリア共産党創始者のアントニオ・グラムシの本などを読みふけっていき、随時自費出版のパンフレットを発行していました。
 
決定的にその思索過程が深まったのは、佐々木隆治や斎藤幸平などの『新MEGA』編纂者による著作に出会ったことです。ユーロ・マルキシズムの潮流に出会うことによって、ヨーロッパのマルクス主義が日本とは違い「マルクス・レーニン主義」というスターリンによってでっち上げられた思想体系を否定して、マルクス主義そのものを深めていったことを知りました。日本では「反スターリン主義」というものが「レーニン・トロツキー主義」という方向に進み、「マルクス・レーニン主義」そのものには疑問を挟む人は少なかったのでした。
こんにちでは『新MEGA』の知見は、斎藤幸平や佐々木隆治によって広められていて、多くの人の知るところとなっています。旧来の左翼党派も斎藤幸平に学ぼうとする党派もあります。しかしそこに旧来の日本左翼が結び付くには、おおきな「ミッシングリンク」があります。日本左翼は「レーニン主義の否定」を通らずには斎藤幸平も佐々木隆治の思想もわがものにすることは不可能だということです。
 
このパンフレットは、「スターリンとレーニンは同質の反革命思想」であることを論証していって、真のマルクス主義労農革命の展望にいたる出発点を築こうとするものです。
私が批評社から出した本『重度精神障害を生きる』に次ぐ位置を占めるものです。
 
また、このパンプレットではガザのジェノサイドや日本のロストジェネレーションの悲惨な現実の解決策であるはずの労働者革命と、日本左翼運動の間の乖離を埋めるものとして、「ロシア・マルクス主義者=ボリシェヴィキはマルクスの継承者だったのか」という根本的な疑問に発して、「ロシア労働者独裁は民主主義的ソビエトと社会主義を否定したのではないか」という問題、別言すれば「ロシア革命の祖であるレーニンの少数者による多数者である農民に対する独裁」はどこがおかしかったのかという問題を提起して、レーニンによる「仲間殺し」とその思想を継承した「レーニン主義者」である新旧日本左翼による「内ゲバ」思想の問題を浮かびあがらせることができたら成功したといえるのではないかと思っています。なぜならばこの「内ゲバ主義」が世代を超えてマルクス主義を引き継いでいくことを妨げたことは明らかであるからです。
私たちが闘った「対革マル派解放闘争」がなぜ「内ゲバ主義」一般に吸収されて多数の民衆に受け取られてしまったのか、という問題も本質的にはこの「レーニン主義の仲間殺しの思想」を批判しえなかった私たちに根本的な責任があると思います。
 
カール・マルクスが「もしそれがマルクス主義だと言うならば、私はマルクス主義者ではない」と怒ったと同じようなおかしな思想体系が日本では「マルクス・レーニン主義」として支配的な地位を占めています。私の最後の仕事として、この思想を解体したいと思います。


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