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久し振りの投稿、こういうのは、嬉しくないのですが、考えたいことがあるので、敢えて...
はじめに、こちらを
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【字幕付き】※超辛口 生活保護の人とかいない方が良くない?臭いしさ…【DaiGo】
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次ぎに、
そして、こちら、
さて、この問題を考えるための一つのポイントは、「思っても、公の場では口にしてはいけない」という反対の側からのコメントについて、どう考えるか、だと思います。
誰もが、心の中でどう思うか、という領域については自由であるべきであり、強制されてはいけない。心の底は、良心の領域でもあるから。集団の者の考え方と相容れない場合であっても、心の中で何を思うかということに関しては侵害されてはならず、また公に暴かれることがあってはならない...
これは、近代の市民社会が成立するための条件として、多くの生命を犠牲にしながら生み出されてきた近代的なものの考え方の枠組です。そしてたとえば、「プライバシー」や「黙秘権」というかたちで、日常生活にも浸透しています。
これは、基本は、信じる宗教の違いのために殺し合わなければならなかった時代の痛みの中から紡ぎ出されてきた思想です。そしてこの思想は、ヨーロッパの近代が生み出してきた普遍的な価値を持つ思想として、国際社会の基本的なルールとなっています。
しかし、こうした思想が、いかに難しい問題を孕んでいるのか、それもまたよく知られています。
たとえば、社会を破壊しようと考える人の考えの自由は許されるべきか?
そうした考え方を広め、マジョリティを形成しようとする人の思想的自由は保障されるべきか?
そうした考え方を、わかっていて、意図して振る舞う人の自由は守られるべきかどうか?
意図せずしてそうなっている場合は、どうか?
たとえば、社会そのものを破壊しようとは意図していなくとも、そうした考え方の浸透が社会に対して大きな影響を与えてしまい、しかもそれが好ましくないもので、将来的に由々しき事態になるかもしれないような場合、どうなのか?
そうした影響がわかっていて、その上で敢えてそうしている場合は、どうなのか、わからないでいてそうしている場合は、どうなのか?
さらに、そうした思想的な問題に対して対処しなければならない、となった場合、社会制度の仕組みの中で公権力がそれを行うべきなのか、それとも、公権力にそれを任せると思想統制に繋がるから、あくまでも民間でやるべきなのか? 民間でやる場合、熱狂した群衆によるリンチにならないで、一定の公平性、一定の公正を担保するためにはどうしたら良いのか?
こうした対立矛盾の解決はとても難しく、多くの場合、睨み合い、固まったまま時間だけが経過し、時間の中で風化し、やがて忘れられてしまう、という経過をたどります。
歴史は繰り返すはずなどないのですが、「歴史は繰り返す」という言葉がまことしやかに語られるのは、こうした事情があるからだとわたしは思います。歴史は繰り返されないけれど、愚行は繰り返される、ということです。
さて、この人は「自分が勉強不足であった」と謝罪しています。そしてすぐにアクションをし始めました。
果たして、この人の問題は、「勉強不足」ということであったのでしょうか?
そしてその場合、何の勉強が不足していたのでしょうか?
ほんとうに問題は勉強不足、知識の欠如だけであったのでしょうか?
社会科の穴埋め問題に間違った単語を入れたのは、その単語を知らなかったからだ、だから正しい単語を知れば、正しく答えることができる、ということなんでしょうか?
それとも、この人のものの考え方には、もっと根本的な問題があり、その問題にこの人自身が未だ気づいてはいないのではない、とも思われます。
いや、ここでこれ以上先に踏み込むと、個人のものの考え方の自由を侵害し思想信条の自由に対する侵害に繋がる、だから、考え方が云々、ということに踏み込んではならない、という声がここで上がります。それはその通りです。
しかし、先に「難しい」といった問題がここでも生じます。
たとえば、この人の謝罪をそのまま受け止めるとして、
①「頑張っていない人」「頑張ることができない人」「頑張る気がない人」は、いない方が良いのか?
この問題はさらに、「頑張る」ということはどういう意味なのか、という問題に繋がります。金銭を生み出すことはできなくとも、生命を維持するために必死な努力をしていることは、頑張ることにはならないのでしょうか?
②自分にとって、メリットがあるかないかで人の価値を判断して良いのか?
これは、たとえば自分にとってメリットがあるかないかで人の価値を判断することは自由である、としてしまうと、自分の利益のためなら他人が犠牲になっても構わない、という考え方を許容することになり、そうした考え方の人が多数派になると、社会秩序は維持できませんから、最終的にこうした考え方は社会のためにはならない、という議論が可能です。また、自分のメリットが社会のメリットとぶつかる場合、反社会的な思想も自由である、という考え方にも繋がります。反社会的な思想を抱く自由は守られなければなりませんが、その結果、社会的な状況如何によっては、社会全体が手痛い犠牲を負うことにもなります。ナチズムの問題が然り、です。
③自分が大きな社会的な貢献をしているのなら、社会的な福利厚生を受けている弱い人たちの立場に対して、自分の考えを公の場で自由に述べて良いのか?
これはどういうことかといえば、この人の発言には社会的な影響力があり、一つの強力な権力になっていますから、自由に発信する権利は保障されていますが、その結果起こることに対して、どの程度責任が生じるか?
という問題です。
こうした問題について一つ一つ丁寧に考えていくと、難問が幾つでも出てきます。特に、ナチズムとホロコーストを経験したヨーロッパ、特にドイツは、こうした問題について相当な議論の積み上げがあります。そして、その上でなお、未だにこの問題は折に触れ血を流し、ヨーロッパの抱える棘のようになっています。
そして、わたしが一番懸念しているのは、この人の発言から感じることのできない、苦しみ、困っている人に対する労りや慈しみ、生命に対する愛情です。
たとえば、この人は猫が大好きで、猫は可愛いから良い、と言っていますが、この「可愛いが」自分にとって「快適である」「心地よい」という意味でしかなく、「自分に都合が良い」で裏書きされているのではないか、ということです。
考えたくはないですが、万が一、可愛がっている猫が何らかの理由で重大なハンディを負ってしまい、外見上の可愛らしさが失われ、世話が大変になってしまったとき、この人は、可愛くないし、臭うし、手間がかかって面倒くさいし...にならないか?
もしもそうでないのなら、それは何故なのか、何がこの人と猫とを結びつけているのか、その「何か」に気付くために、そして気付いたものを大切に守り育てるために、努力しなければならないのではないか。
この努力は、言葉を自分で紡ぐことからしか生まれません。自分の思考から欠落しているその「結びつき」の部分、その部分を埋める言葉を紡ぐために、この人は自分自身と向き合わなければならないのではないか。そういうことをしていたら、そもそも今回のような発言は起きなかったのではないか...
自分自身のことなんて、わかっている、と思っている人はとても多いのですが、じっさいはそんなことはありません。人生の中で、そういう勘違いから大やけどをして、それでお寺に駆け込んでくる人は、皆言います、何もわかってはいませんでした、思い違いをしていました...
しかし、そういうことを言える人はまだ良いのです。この期に及んでも、自分は悪くない、~が、~が~が悪いんだ、と言い続ける人も少なくはありません。自分が悪くないのならば、非が相手にあるのならば、お寺に来るのではなく、先に行くべき処があるのではないですか?
泥臭いようだけれども、自分自身の至らないところに正直に思いを致す...問題が生じた時に、自分自身を振り返る...その時、どうすれば成功して思い通りになったかではなく、誰が正しかったかどうかでもなく、どうすればよりよい結果、自分にも、相手にも良い結果が得られたか、ということを考える...そういう営みを繰り返すことからしか、人間の深みは生まれないのではないか、そんな風に思います。
さいごに、この記事では「論破」ということについて触れられていますが、「論破」というのは議論が行われている考え方の前提の上での説得力の優劣です。
しかし、そもそも、そうした議論において採用されている前提が、向き合わなければならない事柄に相応しいか? ほんとうにそうした前提で望むべき結論に至ることができるのか?
実はそこが問題なのです。つまり、いわゆる論破やディベートの優劣は、探求は発見とは次元が違うことだし、ディベート的な思考がかえって思考の硬直を生み出す危険もよく知っておかなければなりません。
もちろん、ディベートというのは、思考を磨き鍛える訓練ですから、一定の前提を採用した上で進行させないと、自分の議論の進行を振り返り、学び、磨き、鍛える参考になりにくいですから、前提を大事にして行われます。議論の前提を混乱させる行為は、ルール違反になります。しかし、ものごとを考える場合には、前提そのものが疑問にさらされるなどということは珍しくはありませんし、むしろ前提が揺らぐというのは議論の深まりの証拠である場合だってあるのです。
たとえば、格差の問題はお金の問題を考えることで技術的に処理できる、という前提で議論をするとして、その上での優劣は判定可能ですが、ほんとうに社会的な格差の問題はお金で解決できるのか? となってきます。お金さえもらえれば、誰もが幸せに暮らせる社会になるの? という問題が必ず出てきます。
古代ギリシアの哲学者、ソクラテスは、知識人たち(知恵つまりソフィアを持っているから「ソフィスト」と呼ばれました)に話しかけ、議論をし、最後に、要するにわたしたちは実は何も知らなかったのだ、と終わるのが常でした。この結論に傷ついたソフィストたち(多くは地位のある有力者でした)に訴えられたソクラテスは、死刑を受け入れて無実の罪で死んでいくのですが、このソクラテスが議論の中でしたことは、徹底して「定義」にこだわること、つまりそれは前提を疑う、ということでした。議論の時に言葉を定義すると、その定義にしたがって議論は動きます。だから、定義は議論が動く場を決めることであり、それがその議論の前提となるのです。
そして最後にして最大の前提は、
わたしとは何者か?
ということです。
これが有名な「汝自身を知れ」です。
このようなところから見てくると、「論破」というのは、双方がとても未熟であるか、どちらか一方がとても未熟である時にのみ起こる。そこには、掘り下げへの意志が感じられないから...
だから、「論破」ということを、あまり褒めるのも、当人の名誉にはならない、ということになります。
議論の技術が未熟であっても、より深く掘り下げて考えていこうとするならば、深みへと降りていくことは可能です。
深みへと掘り下げることをしないで、決められた平面の上で喧嘩を繰り返しても、大して得るものはないのではないか。議論の技術は学べるかもしれませんが、それこそそうした技術だけの世界がいかに不毛なものであるか、二〇〇〇年以上前に哲学者ソクラテスが身をもって示しているのです。
この問題は、独り当事者だけのものではありません。
この問題に触れたわたしたち一人が、しっかりと考え、この問題を通じて自分自身と向き合うことが大切ではないか、そう思うのです。
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