リートリンの覚書

日本書紀に登場する人物・百済国 1 ・肖古王 ・貴須 ・枕流王 ・阿花王 ・辰斯王 改訂版



 日本書紀に登場する人物・百済国 1

・肖古王
・貴須
・枕流王
・阿花王
・辰斯王


肖古王
(ショウコオウ)


百済の王


別名


近肖古王(きんしょうこおう)
余句(晋書)
照古王(古事記)
速古王(新撰姓氏録)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“百済の肖古王は、深く歓喜して、厚遇しました。五色の綵絹各一疋及び角の弓箭、ならびに、鉄鋌四十枚、爾波移に幣した。”

神功皇后摂政46年3月1日、
斯摩宿禰(しまのすくね)
卓淳国(とくじゅん)に派遣しました。

この時、
卓淳王・末錦旱岐(マキンカンキ)は、
斯摩宿禰に告げて、

「甲子(きのえね)の年七月の中旬に、
百済人の久氐(クテイ)
彌州流(ミツル)、莫古(マクコ)の三人が、
我が国にきて、

『百済王が、
東方に貴国(かしこきくに)があると聞いて、
臣等を派遣して、
その貴国に朝貢しようとした。
それで、道を求めて、
この国に至ってしまった。』
といいました。

そこで久氐等に話して、
「まだいちども通じていないので、
その道を知らない。
ただ海は遠く、浪は嶮しい。
大船に乗って、
わずかに通じることができる。
もし路津(わたり)があったとしても、
船が無ければ行くことはできないだろう」
と答えました。

すると、
久氐らは、
『いちど還って、船舶を準備して、
後に通じましょう。
もし貴人の使人が来ることがあったら、
かならずわが国に告げてください』
ともいいました。」

そこで斯摩宿禰は、
すぐさま傔人の爾波移(にはや)
卓淳人(とくじゅんのひと)の過古(ワコ)
二人を、百済国に派遣して、
その王を慰勞(いろう)しました。

この時、
百済の肖古王は深く歓喜して、
五色の綵絹(そめきぬ)各一疋
及び角の弓箭、鉄鋌(てつてい)四十枚、
爾波移に贈り物をしました。

そして百済の王は
「吾の国は宝物が多くある。
貴国は献上と思っていたが、
道を知らなかった。
しかし今は、
使者に託して献上するだけだ」
といいました。

神功皇后摂政49年3月、
新羅が百済の貢物を穢乱したため、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、海を渡り、
卓淳国に到着し新羅を襲おうとしました。

その時、ある者から
兵士が少ないと新羅を破ることはできない
と忠告を受け、

木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて
さらに沙白(サハク)、蓋盧(コウロ)
を召しあげさせ、
兵士を増やし、そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。

比自㶱(ひしほ)
南加羅(ありひしのから)
㖨国(とくのくに)
安羅(あら)
多羅(たら)
卓淳(とくじゅん)
加羅(から)

の七国を平定しました。

それから兵を移して、
西に廻り、
古奚津(こけつ)に至り、
南蛮の忱彌多禮(とむたれ)を屠(ほふ)り、
百済に与えました。

ここで、百済王・肖古
及び王子・貴須(キス)もまた、
軍を率いて来会(らいかい)しました。

この時、
比利(ひり)
辟中(へちゅう)
布彌支(ほむき)
半古(はんこ)の四邑が、
自然と降服しました。

これをもって、
百済王父子及び荒田別、
木羅斤資等は、

共に意流村(おるすき)で会いました。
相見て欣(よろこ)びを感じました。
礼を厚くして送り、
また遣わしました。

千熊長彦と百済王は、
百済国に行き、
辟支山(へきのむれ)に登り、
(ちか)いました。

また古沙山(こさのむれ)に登って、
共に磐石の上に居ました。
この時、百済王が盟って、
「つねに西蕃(にしのとなり)を称して、
春秋に朝貢しよう」
といいました。

そして千熊長彦をつれて、
都に行き厚く礼遇し、
久氐等を副(そ)えて送りました。

神功皇后摂政50年5月、
千熊長彦、久氐等が、
百済から帰国しました。

皇太后は喜び、
多沙城(たさのさし)を増やして与え、
往還の路の駅としました。

神功皇后摂政51年3月、
百済王が、
また久氐を派遣して朝貢しました。

その年、
千熊長彦を久氐らに副(そ)えて、
百済に派遣しました。
よって大恩を垂れると、

百済王父子は、
「貴国の鴻恩(こうおん)は、
天地よりも重い。
永く西蕃(にしのとなり)となって、
さいごまで貳心(にしん)はありません」
といいました。

神功皇后摂政52年9月10日、
久氐等が千熊長彦に従ってやってきました。

そして、
七枝刀(ななつさやのたち)一口、
七子鏡(ななつこのかがみ)一面、
及びにさまざまの重宝を献上しました。

孫の枕流王(トムル)に話して、
「今わが通交するところの、
海東の貴国は、
天のひらいたところだ。
そこで、天恩を垂れて、
海西を割いて、
我に与えてくれたのである。
これで国の基は永く固となった。
汝もまさに善(よ)く和好(よしみ)を修め、
土物(くにつのも)を集めて、
貢上を絶やさないなら、
死んだとしても恨みはない」
といいました。

これから後、
毎年たやさず朝貢しました。

神功皇后摂政55年、
百済の肖古王が薨じました。


貴須
(キス)


百済の王子



別名


近仇首王(キンキュウシュオウ)

仇首王(キュウシュオウ)

貴須王(キスオウ

貴首王(キシュオウ

近貴首王(キンキシュオウ(新撰姓氏録抄)



「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“その王・肖古及び王子・貴須もまた、軍を領て来会しました。”

神功皇后摂政49年3月、
新羅が百済の貢物を穢乱したため、
荒田別、鹿我別(かがわけ)を将軍とし、
久氐等と共に兵を整えて、
海を渡り、
卓淳国に到着し新羅を襲おうとしました。

その時、ある者から兵士が少ないと、
新羅を破ることはできないと忠告を受け、

木羅斤資(モクラコンシ)
沙沙奴跪(ササナコ)に命じて
さらに沙白(サハク)、蓋盧(コウロ)
を召しあげさせ、
兵士を増やし、
そろって卓淳に集まり、
新羅を撃ち破りました。

比自㶱(ひしほ)
南加羅(ありひしのから)
㖨国(とくのくに)
安羅(あら)
多羅(たら)
卓淳(とくじゅん)
加羅(から)

の七国を平定しました。

それから兵を移して、
西に廻り、
古奚津(こけつ)に至り、
南蛮の忱彌多禮(とむたれ)を屠(ほふ)り、
百済に与えました。

ここで、百済王・肖古
及び王子・貴須もまた、
軍を率いて来会(らいかい)しました。

この時、
比利(ひり)
辟中(へちゅう)
布彌支(ほむき)
半古(はんこ)の四邑が、
自然と降服しました。

これをもって、
百済王父子及び荒田別、
木羅斤資等は、

共に意流村(おるすき)で会いました。
相見て欣(よろこ)びを感じました。
礼を厚くして送り、
また遣わしました。

神功皇后摂政55年、
百済の肖古王が薨じました。

神功皇后摂政56年、
百済の王子貴須が王に立ちました。

神功皇后摂政64年、
百済国の貴須王が薨じました。
皇子の枕流王が王に立ちました。


枕流王
(トムルオウ)


百済の肖古王の孫


別名


枕流王(チンリュウオウ)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“孫の枕流王に話して、
「今わが通交するところの、海東の貴国は、天のひらいたところだ。そこで、天恩を垂れて、海西を割いて、我に与えてくれたのである。これで国の基は永く固となった。汝もまさに善く和好を修め、土物を集めて、貢上を絶やさないなら、死んだとしても恨みはない」といいました。“

神功皇后摂政64年、
百済国の貴須王が薨じました。
皇子の枕流王が王に立ちました。

神功皇后摂政65年、
百済の枕流王が薨じました。


阿花王
(アカオウ)


百済の王子


別名


阿莘王(アシンオウ)

阿芳王(三国史記・百済本紀・阿莘王紀の分注)



「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“六十五年、百済の枕流王が薨じました。王子の阿花は年少でした。叔父の辰斯が奪い王となりました。”

日本書紀 巻第十では、

応神天皇3年、
百済の辰斯王は天皇に礼をしませんでした。
そこで、紀角宿禰(きのつののすくね)
羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)
石川宿禰、木菟宿禰を遣わして、
その無礼の状を叱責しました。
すると、
百済国は辰斯王を殺して謝罪しました。
紀角宿禰らは、
阿花を王に立てて帰国しました。

応神天皇八年、

百済記では、

阿花王が立って貴国に無礼でした。

貴国は、

枕彌多禮(とむたれ)、峴南(けんなむ)、

支侵(ししむ)、谷那(こくな)、

東韓(とうかん)の地を奪いました。

そこで王子・直支(トキ)を天朝に遣して、

先王の好(よし)みを修めました。

、と記載されています。


応神天皇十六年春二月、

百済の阿花王が薨じました。



辰斯王
(シンシオウ)


百済の王


「日本書紀」では


日本書紀 巻第九
本文では、
このように登場しています。

“六十五年、百済の枕流王が薨じました。王子の阿花は年少でした。叔父の辰斯が奪い王となりました。”

枕流王の弟です。
詳しい活躍は記載されていません。

日本書紀 巻第十では、

応神天皇3年、
百済の辰斯王は天皇に礼をしませんでした。
そこで、
紀角宿禰(きのつののすくね)
羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)
石川宿禰、木菟宿禰を遣わして、
その無礼の状を叱責しました。
すると、
百済国は辰斯王を殺して謝罪しました。
紀角宿禰らは、
阿花(あか)を王に立てて帰国しました。



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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