古事記 中つ巻 現代語訳 三
古事記 中つ巻
五瀬命の死
書き下し文
故、其の国より上り行でます時に、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまふ。此の時に、登美の那賀須泥毘古、軍を興し、待ち向へて戦ふ。尓して、御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。故、其地を号けて楯津と謂ふ。今に日下の蓼津と云ふ。是に登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負ひたまふ。故尓して詔りたまはく、「吾は日の神の御子と為て、日に向ひて戦ふこと良くあらず。故、賎しき奴が痛手を負ひぬ。今より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ」とのりたまひ、期りて、南の方より廻り幸でます時に、血沼の海に到り、其の御手の血を洗ひたまふ。故、血沼海と謂ふ。其地より廻り幸でまし、紀国の男之水門に到りて、詔りたまはく、「賎しき奴が手を負ひてや、死なむ」とのりたまひ、男建びして崩りましぬ。故、その水門を号けて男の水門と謂ふ。陵は紀国の竈山に在り。
現代語訳
故、その国より上り行きました時に、浪速(なみはや)の渡(わたり)を経て、青雲(あおくも)の白肩津(しらかたのつ)にお泊まりになられました。この時に、登美能那賀須泥毘古 (とみのながすねびこ) が、軍を興(おこ)し、待ち向えて戦いました。尓して、御船に入れたる楯を取りて、下りお立ちになられました。故、その地を号(なづ)けて楯津(たでつ)と謂います。今に日下(くさか)の蓼津(たでつ)と云います。
ここに登美毘古(とみびこ)と戦いになられた時に、五瀬命(いつせのみこと)は、御手に登美毘古の痛矢串(いたやぐし)を負いました。故尓して詔りして、いうことには、「吾は日の神の御子として、日に向いて戦うことが良くなかった。故に、賎しい奴により痛手を負ってしまった。今より行き廻りて、背に日を負って撃つ」と仰せになられ、期(ちぎ)りて、南の方より廻り幸(い)でます時に、血沼の海に到り、その御手の血を洗になられました。故に、血沼海(ちぬのうみ)と謂います。その地より廻り幸でまして、紀国(きいのくに)の男之水門(おのみなと)に到りて、詔りなされて、「賎しき奴が手を負いて、死ぬのか」と仰せになられ、男建(おたけ)びをして崩(かむあが)りなされました。故に、その水門を号(なづ)けて男水門(おのみなと)と謂います。陵は紀国の竈山(かまやま)に在ります。
・青雲(あおくも)
「白」「出づ」にかかる枕詞)
・白肩津(しらかたのつ)
所在不明。大阪湾の沿岸部の何処かであると想定される
・楯津(たでつ)
現大阪府東大阪市日下町辺り
・痛矢串(いたやぐし)
身体に突き刺さって、重傷を負わせ、ひどい痛みを与える矢
・紀国(きいのくに)
南海道に属し、和歌山県と三重県南西部に属する
・男之水門(おのみなと)
比定地は、和歌山県和歌山市小野町と大阪府泉南市男里
・竈山(かまやま)
現和歌山県和歌山市和田
現代語訳(ゆる~っと訳)
このように、吉備国より上り行かれた時に、難波の渡りを通過して、(青雲の)白肩の入江に停泊されました。この時に、登美能那賀須泥毘古が、兵を起こして、待ち受けていて、戦さを仕掛けてきました。
そこで、御船に入れてある楯を取り出して、船から下りお立ちになられました。こういうわけで、その地を名付けて楯津といいます。今では、日下の蓼といいます。
ここで、登美毘古と戦いになられた時に、五瀬命は、御手に登美毘古の放った矢が突き刺さって、重傷を負いました。
そこで詔りして、
「私は日の神の御子であるのに、日に向かって戦ったことが良くなかった。だから、賎しい奴から痛手を負わされたのだ。今より向きを変えて遠回りして、日を背中にして戦おう」と仰せになられ、誓って、南からまわって行った時に、(和泉国の)血沼海に到着して、深傷を負った御手の血を洗になられました。こういうわけで、血沼海というのです。
その地よりさらに廻航され、紀伊国の男之水門に到着して、詔りなされて、
「賎しい奴によって、手を傷を負って死ぬのか!」と仰せになられ、雄たけびをあげてお亡くなりになりました。
こういうわけで、その水門を名付けて男水門といいます。陵は、紀国の竈山にあります。
続きます。
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