大中姫命
(おおなかつひめのみこと)
垂仁天皇の子
母は皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“皇后日葉酢媛命は、三男二女を生みました。第一を五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)といいます。第二が大足彦尊(おおたらしひこのみこと)といいます。第三が大中姫命(おおなかつひめのみこと)といいます。第四は倭姫命(やまとひめのみこと)といいます。第五は稚城瓊入彦命(わかきに)といいます。”
父は垂仁天皇
母は皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)
八七年、春二月五日、
五十瓊敷命は(同母)妹の大中姫に、
年老なので汝が神宝を司れといいました。
しかし、
大中姫命はかよわい女人なのでと断ります。
その後、
大中姫命は神宝を司ることを承諾しますが、
物部十千根大連に授けて治めさせました。
物部連たちが、
今にいたるまで石上の神宝を治めるのは、
これが起源です。
稚城瓊入彦命
(わかきにいりひこのみこと)
垂仁天皇の子
母は皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)
・別名
若木入日子命
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“皇后日葉酢媛命は、三男二女を生みました。第一を五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)といいます。第二が大足彦尊(おおたらしひこのみこと)といいます。第三が大中姫命(おおなかつひめのみこと)といいます。第四は倭姫命(やまとひめのみこと)といいます。第五は稚城瓊入彦命(わかきに)といいます。”
父は垂仁天皇です。
母は皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)
名前のみの記述で、
これ以上の活躍は記述されていません。
淳葉田瓊入媛
(ぬはたのにいりひめ)
垂仁天皇の妃
皇后・日葉酢媛の妹
・別名
沼羽田之入ビ売命
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“丹波の五女を召しだし、掖庭(うちつみや・後宮)に入れました。
第一は日葉酢媛(ひはすひめ)といいます。第二は淳葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)といいます。第三が真砥野媛(まとの)といいます。第四を薊瓊入媛(あざみにいり)といいます。第五は竹野媛(たかの)といいます。“
垂仁天皇の妃です。
丹波の五女を召しだし、
皇后の妹の三女を妃としました。
鐸石別命(ぬてしわけのみこと)と
膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)を
生みました。
名前のみの記述で、
これ以上の活躍は記述されていません。
膽香足姫命
(いかたらしひめのみこと)
垂仁天皇の子
母は妃・淳葉田瓊入媛
・別名
胆香足姫命
(いかたらしひめのみこと)
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“妃の淳葉田瓊入媛は、鐸石別命(ぬてしわけ)と膽香足姫命(いかたらし)とを生みました。”
父は垂仁天皇
母は妃・淳葉田瓊入媛
名前のみの記述で、
これ以上の活躍は記述されていません。
真砥野媛
(まとの)
垂仁天皇の妃
皇后・日葉酢媛の妹
・別名
円野比売命
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“丹波の五女を召しだし、掖庭(うちつみや・後宮)に入れました。
第一は日葉酢媛(ひはすひめ)といいます。第二は淳葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)といいます。第三が真砥野媛(まとの)といいます。第四を薊瓊入媛(あざみにいり)といいます。第五は竹野媛(たかの)といいます。“
垂仁天皇の妃
皇后・日葉酢媛の妹
丹波の五女を召しだし、
皇后の妹の三女を妃としました。
名前のみの登場で、
詳しい活躍は記されていません。
『古事記』では
『古事記』には円野比売命とあり、
醜いので国元にかえされたのを恥じて、
途中の山代(京都府)相楽(さがらか)で
自殺をはかり、
乙訓(おとくに)にいったとき
深淵におちて死んだとあります。
薊瓊入媛
(あざみにいりひめ)
垂仁天皇の妃
皇后・日葉酢媛の妹
・別名
阿邪美能伊理毘売命
(あざみのいりひめ)
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“丹波の五女を召しだし、掖庭(うちつみや・後宮)に入れました。
第一は日葉酢媛(ひはすひめ)といいます。第二は淳葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)といいます。第三が真砥野媛(まとの)といいます。第四を薊瓊入媛(あざみにいり)といいます。第五は竹野媛(たかの)といいます。“
垂仁天皇の妃
皇后・日葉酢媛の妹
丹波の五女を召しだし、
皇后の妹の三女を妃としました。
池速別命(いけはやわけ)、
稚浅津姫命(わかあさつひめ)を生みました。
詳しい活躍は記されていません。
稚浅津姫命
(わかあさつひめのみこと)
垂仁天皇の子
母は、妃・薊瓊入媛
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“次の妃薊瓊入媛は、池速別命(いけはやわけ)、稚浅津姫命を生みました。”
父は垂仁天皇
母は妃・薊瓊入媛です。
詳しい活躍は記されていません。
竹野媛
(たかの)
垂仁天皇の妃候補の一人
皇后・日葉酢媛の妹
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“丹波の五女を召しだし、掖庭(うちつみや・後宮)に入れました。
第一は日葉酢媛(ひはすひめ)といいます。第二は淳葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)といいます。第三が真砥野媛(まとの)といいます。第四を薊瓊入媛(あざみにいり)といいます。第五は竹野媛(たかの)といいます。“
垂仁天皇の皇后・日葉酢媛の妹です。
丹波の五女を召しだし、
皇后の妹の三女を妃としました。
ただ、
竹野媛は容姿が
醜かったので、
本土(くに・丹波)に返しました。
竹野媛は返されるのを恥じて、
葛野(かずの・京都市右京区辺)で、
自分で輿から堕ちて死んでしまいました。
そこでその地を堕国(おちくに)と呼びます。
今、弟国(おとくに・乙訓郡)というのは
訛ったからです。