大鹿嶋
(おおかしま)
中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖
五人の大夫(まえつき)のひとり
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“二五年春二月八日、阿倍臣(あへのおみ)の遠祖武渟川別、和珥(わに)臣の遠祖彦國葺、中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖大鹿嶋(おおかしま)、物部連(もののべ)の遠祖十千根(とおちね)、大伴連の遠祖武日(たけひ)、の五大夫に詔して、”
中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖
五大夫のひとりです。
探湯主命
(くかぬしのみこと)
中臣連の祖
・別名
久志宇賀主命
(くしうかぬしのみこと)
中臣連祖探湯主
「日本書紀」では
日本書紀巻第六一伝では、
このように登場しています。
“天皇は、この言葉を聞いて、すぐに中臣連の祖探湯主(くかぬし)に命じて、誰に大和大神を祭らせるかを占わせました。”
倭大神が大水口宿禰神懸かりして、
「先帝崇神天皇は天神地祇を祭祀したが、
事細かな根源を探ろうとせず、
粗く枝葉を知るにとどめた。
故に天皇は短命だった。
是を以て、
先帝の至らぬところを悔い改め
慎み祭祀したなら
寿命は延び天下太平になるだろう」
と託宣しました。
そこで垂仁天皇は探湯主に命じて
誰に倭大神を祭らせるかを占わせました。
天皇は長尾市(ながおち)宿禰に
命じて倭大神を祀らせました。
苅幡戸辺
(かりはたとべ)
垂仁天皇の寵愛をうけた女性。
・別名
苅羽田刀弁
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“山背の苅幡戸辺(かりはたとべ)を寵愛しました。三男を生みました。”
垂仁天皇の寵愛を受け、三男を生みました。
第一は祖別命(おおじわけのみこと)、
第二が五十日足彦命(いかたらしのみこと)、
第三を膽武別命(いたけるわけのみこと)
といいます。
膽武別命
(いたけるわけのみこと)
垂仁天皇の子
母は苅幡戸辺(かりはたとべ)
・別名
伊登志別王
(いとしわけのおう)
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“山背の苅幡戸辺(かりはたとべ)を寵愛しました。三男を生みました。第一は祖別命(おおじわけのみこと)といいます。第二が五十日足彦命(いかたらしのみこと)といいます。第三を膽武別命(いたけるわけのみこと)といいます。”
垂仁天皇の子です。
母は苅幡戸辺(かりはたとべ)。
名前のみの登場で、
詳しい記載はありません
市河
物部首(もののべのおびと)の始祖
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
”よって市河に命(令)して納めさせた。この(市河)が、いまの物部首(もののべのおびと)の始祖です。”
一伝では、
五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上に居て、
河上という名の鍛冶を召喚して、
太刀千口を作りました。
この時、
楯部(たてべ)、
倭文部(しとりべ)、
神弓削部(かんゆげ)、
神矢作部(かんやはぎ)、
大穴師部(おおあなし)、
泊橿部(はつかし)、
玉作部(たますり)、
神刑部、
日置部(ひおき)、
太刀偑(はき)部、
あわせて十箇の品部(ともべ)を、
五十瓊敷皇子に賜わりました。
その千口の太刀は、
忍坂邑(おしさか・桜井市忍坂)に
所蔵しました。
しかしのちに、
忍坂から移して、石上神宮に所蔵しました。
この時、神に教えを乞うと、
「春日臣(かすがのおみ)の一族で、
名は市河に納めさせよ」といいました。
よって市河に命令して納めさせた。
この市河が、
いまの物部首(もののべのおびと)の
始祖です。