名所江戸百景を訪ねて
名所江戸百景を訪ねて
第72景 「深川三十三間堂」
西側から三十三間堂越しに三十間掘を俯瞰しています。
三十間掘の沿岸には茶店が軒を連ねています。
堀の川面には係留された材木が浮かんでいます。
三十三間堂では、通し矢が行われ、それを見物している人の姿が見えます。
深川三十三間堂
江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目あたり)にあった仏堂です。本尊は千手観音。
京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて、寛永19年(1642年)11月、弓師備後が幕府より浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したことに始まります。
その後、元禄11年(1698年)勅額火事(ちょくがくかじ)により焼失しましたが、その後、元禄14年(1701年)富岡八幡宮の東側に再建されました。
しかし、明治5年(1872年)江戸三十三間堂は廃されました。
三十三間堂跡
通し矢
通し矢とは、弓術の一種目です。堂射(どうしゃ)、堂前(どうまえ)などともいいます。
京都蓮華王院(三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約121m)を南から北に矢を射通す競技です。
三十間掘
三十間堀川(さんじっけんほりかわ)は、東京都中央区にかつて存在した河川です。
江戸時代に造られた堀川で、京橋川(現在の新京橋出口付近)から汐留川まであり、幅が約30間(約55m)あったために三十間堀と呼ばれていました。
描かれた場所は
現在どのようになっているのでしょうか?
訪れてみました。
うっかり、していました。
本来三十三間堂跡地を西側から撮影しなければならないのに、反対東側から撮影してしまいました。
西側から撮影したものがこちらの写真しかありませんでした。
現在、三十間堀川は消滅。
三十三間堂跡地周辺は、江戸時代の面影はありませんでした。
最後に
今回、撮影する方向を間違えてしまい、作品と全く違う構図となってしまいました。
次回からはもっとしっかりと下準備をして臨みたいと思います。
作品に描かれた三十間堀。
第二次大戦後、銀座に残された瓦礫処理を急ぐよう命令された東京都は、手近な三十間堀への残土投棄を決定しました。
1949年(昭和24年)7月には埋立が完了し、水路としての三十間堀川は完全に消滅しました。
美しい風景が消えていった経緯を知ると…なんだか悲しくなります。
参考
Wikipedia
太陽の地図帖 広重「名所江戸百景」の旅
東京都建設局HP