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リートリンの覚書

名所江戸百景を訪ねて 第71景 「五百羅漢さヾゐ堂」


名所江戸百景を訪ねて


名所江戸百景を訪ねて
第71景 「五百羅漢さヾゐ堂」


黄檗宗(おうばくしゅう)の羅漢寺本堂には松雲禅師が造立した五百羅漢が、その隣に三匝堂(さんそうどう)がありました。三匝とは、三回めぐるの意味で、螺旋状の階段があったので栄螺堂(さざえ)と呼ばれました。

絵は、南側から北西方向を描いています。

近景には、三匝堂が描かれています。

三匝堂からの展望は江戸名所の一つで、道をへだてて茶屋も立ち並んでました。


五百羅漢跡


 

五百羅漢跡
大島4-5
 五百羅漢は、元禄8年(1695)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(1684~88)に江戸へ出て、元禄4年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄8年、将軍徳川綱吉から天恩山五百阿羅漢寺の寺号と六千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など五三六体を安置しました。
 当時の三匝堂は、廊下がらせん状に3階まで続いており、その様子がサザエのようであることから、また三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が二基現存しています。
 羅漢寺は明治20年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに同42年(1909)現在地(目黒区)へ移転しました。
ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和33年に建てられたものです。
平成20年3月 江東区教育委員会
 

五百羅漢跡・石標柱


 

五百羅漢道標 文化二年再建銘
江東区猿江2-16に五百羅漢道標が現存しています。



五百羅漢道標 文化二年再建銘
江東区猿江2-16
五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道しるべです。かつては、現在地より50mほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[]八町ほど先へ参り[]、右側面には「北○道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。
建立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保十六年(1731)、寛政九年(1797)、文化二年(1805)の計三回再建されたことがわかります。現在の道標は文化二年に再建されたものです。
五百羅漢寺とは、明治二十年(1887)まで現在の大島4-5付近にあった、天恩山五百羅漢寺(現在は目黒区に移転)のことです。堂内に安置された五三六体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂(通称さざえ堂)が有名で、亀戸天神と並び多くの参詣客を集めました。
この道標は、川沿いの道を多くの人はもちろんのこと、小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路に恵まれた江東区ならではの文化財です。
平成十九年3月 江東区教育委員会


注)看板を引用させていただいたのですが、「北○道四ツ目橋通り亀戸天神□」○の字が読み取れませんでした。すみません。
 


描かれた場所は
現在どのようになっているのでしょうか?
見比べてみましょう。




描かれた場所は現・東京都江東区大島4-5。都営新宿線の西大島駅からすぐの場所です。

五百羅漢跡地の目の前を走るのは新大橋通りです。

見えるお寺は羅漢寺です。

描かれた当時は、茶屋の向こうは野原でしたが、現在は、ビルが建ち並んでいます。

昔と変わらないのは空だけのようです。
 


最後に

ちょっと残念なことですが、帰宅後写真を整理してみると、石標柱の足元には。ゴミが捨てられていました。他に良い写真がなかったのでそのまま使用しました。

いつ撮影されるかわかりません。

史跡の周りにはゴミを捨てるのはやめましょう…というか、どこの場所でもポイ捨てはやめましょう。

ゴミはゴミ箱へ。

運が落ちますよ(多分)。



 

参考
太陽の地図帖 広重「名所江戸百景」の旅
Wikipedia

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