大足彦尊
(おおたらしひこのみこと)
景行天皇
垂仁天皇の子
母は皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)
・別名
大帯日子淤斯呂和氣天皇
(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
大足日足天皇
大帯日子天皇
大帯日古天皇
大帯比古天皇
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“皇后日葉酢媛命は、三男二女を生みました。第一を五十瓊敷入彦命といいます。第二が大足彦尊といいます。第三が大中姫命といいます。第四は倭姫命といいます。第五は稚城瓊入彦命といいます。”
父は垂仁天皇
母は皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)
垂仁天皇三十年、春正月六日、
天皇は五十瓊敷命、大足彦尊に、
「汝ら、各々欲しいものを言いなさい」
といいました。
五十瓊敷命は、
「弓矢が欲しい」と返答し、
大足彦尊は「皇位が欲しい」
と返答しました。
そこで天皇は、
五十瓊敷命に弓矢を賜り、
大足彦尊には、
必ず朕の位を継ぐように言いました。
三七年、春正月一日、
大足彦尊は皇太子になりました。
主な神社
景行天皇社(愛知県長久手市)
建部大社 摂社 聖宮神社(滋賀県大津市)
倭姫命
(やまとひめのみこと)
垂仁天皇の第四皇女
母は皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)
・別名
倭比売命
「日本書紀」では
日本書紀巻第六では、
このように登場しています。
“皇后日葉酢媛命は、三男二女を生みました。第一を五十瓊敷入彦命といいます。第二が大足彦尊といいます。第三が大中姫命といいます。第四は倭姫命といいます。第五は稚城瓊入彦命といいます。”
父は垂仁天皇の第四皇女です。
母は皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)です。
垂仁天皇二十五年三月十日、
天照大神を
豊耜入姫命(とよすきいりびめのみこと)から離し、
倭姫命に託しました。
倭姫命は、
大神を鎮座する処を求め、
菟田筱幡(うだのささはた・榛原町筱幡神社)、
近江国(滋賀県)、
東方美濃(岐阜県南部)を周り、
伊勢国(三重県)に到着。
この時、天照大神が、
「この神風の伊勢の国は、
常世の浪が幾重にも寄せてくる国。
近い国で美しい国である。
この国に居たい」
といい、
大神の教えのままに、社を建てました。
一伝では、
垂仁天皇は、倭姫命を御杖として、
天照大神に貢奉じました。
日本書紀巻第七 景行天皇の条では、
このように活躍しています。
景行天皇40年6月、東夷が叛逆しました。
7月16日に、
東夷征伐を誰にするのか議論し、
日本武尊が派遣されることになりました。
7日、
日本武尊は、
寄り道し伊勢神宮を拝みました。
倭姫命に辞去し、
「今、天皇の命をうけ、
東征し、諸の叛逆者を誅伐しにいきます。
こういうわけで、おいとまします」
といいました。
そこで、倭姫命は、
「つつしみなさい。怠ってはいけません」
といい
草薙剣(くさなぎのつるぎ)を
日本武尊に授けました。
主な神社
皇大神宮別宮 倭姫宮(三重県伊勢市)