神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

神の御言葉「全宇宙に向かって語った神の言葉:十一番目の言葉」

2020-12-21 23:00:13 | 全宇宙への神の言葉

 

 人間は誰もみな、わたしの霊による観察を受けなければならない。自分のすべての言葉と行動を細かく調べ、さらに、わたしの驚くべき行いを見なければならない。神の国が地上に来るとき、あなたがたは、どのように感じるだろうか。わたしの子らと民がわたしの玉座に来るとき、わたしは大きな白い玉座の前の裁きを正式に始める。これはつまり、自ら地上での働きを開始し、裁きの時代が終わりに近づくと、わたしの言葉を全宇宙に向け始め、わたしの霊の声を全宇宙に放つということだ。わたしの言葉を通して天と地のすべての人々と物事を洗い清め、地はもはや穢れと淫乱の地ではなく、聖なる国である。わたしはすべてを新たにし、わたしが用いることができるようにし、もはや地上の息を含まず、もはや土のにおいに汚れていないようにする。地上では、人間はわたしの言葉の目的と根源を手探りし、わたしの業を観察したが、誰一人ほんとうにわたしの言葉の根源を知らず、誰一人わたしの業のすばらしさを真に見ていない。ようやく今日、わたしが自分で人間たちの間に来て言葉を発してはじめて、人間はわたしについてわずかの認識を得、彼らの考えにあった「わたし」の場所を取り去り、意識の中に実際の神のための場所を作ったのだ。人間は観念と好奇心に満ちている。誰が神を見ることを望まないだろう。誰が神に会うことを望まないだろう。しかし、人間の心に確かな位置を占めるのは、ただ人間がぼんやりと抽象的に感じている神なのだ。わたしが平明に告げなければ、誰が気づくだろう。わたしがほんとうに存在していると、誰がほんとうに信じるだろう。まことに疑いの影もなく。人間の心にある「わたし」と実際の「わたし」との間には大きな隔たりがあり、誰一人、その二つの違いを述べることができない。わたしが受肉しなければ、人間はけっしてわたしを知らず、たとえわたしを知るようになったとしても、そうした認識は観念的なものに過ぎないのではないか。わたしは毎日、とだえることのない人間の流れの中を歩き、毎日、すべての人の中で働く。人間が真にわたしを見ると、わたしの言葉の内にわたしを知り、わたしの語る方法、わたしの心を理解する。

 神の国が正式に地上に着くと、すべての中で、何が沈黙しないだろう。すべての人の中で、誰が恐れないだろう。わたしは宇宙世界のいたるところを歩き回る。すべては、わたしが自分で定めた。このとき、誰が、わたしの業がすばらしいものだと知らないだろう。わたしの手はすべてを支え、同時に、すべての上にある。今日、わたしの受肉とわたしが実際に人間の間にいることとは、わたしの謙遜さと神秘のほんとうの意味なのではないか。表向きには、多くの人がわたしを善であるとしてたたえ、美しいとほめるが、誰がほんとうにわたしを知っているのか。今日なぜわたしは、あなたがたがわたしを知るように要求するのか。わたしのねらいは赤い大きな竜を辱めることではないのだろうか。わたしは、人間にわたしをたたえるよう強制はしたくない。しかしわたしを知り、それを通じてわたしを愛するようにさせ、そうしてわたしをたたえるようにする。そのようなたたえはその名にふさわしく、むなしい言葉ではない。そのようなたたえだけが、わたしの玉座に届き、天に昇るのだ。人間はサタンに誘惑され、堕落させられたから、人間は観念的思考に囚われてしまったから、わたしは自分で全ての人間を征服し、人間の観念を暴き、人間の考えを引き裂くために受肉したのだ。その結果、人間はもはやわたしの前で誇示せず、もはや自分の観念でわたしに仕えることをしなくなる。そうして、人間の観念の中にある「わたし」は完全に消される。わたしの国が来るとき、わたしはまず、この段階の働きをはじめ、それをわが民の間で行う。赤い大きな竜の国に生まれたわが民であれば、まことにあなたがたの中の赤い大きな竜の毒素は、ほんの少しでも、一部だけでもない。だから、わたしの働きのこの段階は、主にあなたがたに集中する。そして、これがわたしの中国での受肉の意義の一面なのだ。たいていの人は、わたしの語る言葉のかけらも理解できない。そして、たとえできたにしても、彼らの理解は曖昧で混乱している。これは、わたしの話す方法の転換点の一つだ。もしすべての人がわたしの言葉を読み、その意味を理解できるなら、誰が救われて、ハデスに投げ落とされずに済むだろう。人間がわたしを知り、従うとき、わたしは憩う。そのときこそ、人間はわたしの言葉を理解できる。今日、あなたがたの背丈は低すぎる。哀れなほどに小さく、わざわざ言う甲斐もない──あなたがたのわたしについての認識は言うまでもない。

 わたしの子らや民を牧養するために天使たちが派遣されはじめたと、わたしは述べているが、誰一人わたしの言葉の意味を理解できない。わたしが自分で人間たちの間に行き、天使たちが同時に牧養の働きを始めると、天使たちの牧養する間、子らと民はみな、試練と牧養とを受けるだけではなく、あらゆる幻をも、その目で見ることができる。わたしは神性において直接働いているので、全ては新しい始まりに入る。また、神性が直接働いているため、人性に少しも束縛されない。そして、人間の目には超自然的な状況下で自由に働いているように見える。しかし、わたしには、すべて正常で(人間は直接神性を経験したことがないため、これが超自然現象だと思い込む)。そこには人間の持つ観念は存在せず、人間の意思を少しも含まない。人々は正しい道に入ってはじめて見るだろう。今は始まりであり、人間がその道へ入るということになると、人間には数多くの欠点があり、そのような過ちや不透明さを避けて通ることはできない。今日、わたしがこの時点まで導いてきたのだから、わたしには適切な計画があり、わたし自身の目的がある。もしわたしがそれらについて今日語るなら、あなたがたは、ほんとうにそれがわかるだろうか。わたしは、人間の考え方と、人間が心に望むこととをよく知っている──自分で逃げ道を探したことがない人などいるだろうか。自分の行く末について何も考えたことがない人などいるだろうか。しかし、人間は豊かで多彩な知性を持っているが、長い時の果てに現在がこのようになるとは、誰が予想しただろう。これが、ほんとうにあなたの主観的努力の成果なのか。これが、あなたの疲れを知らぬ努力の報いなのか。これが、あなたが心に描いた美しい情景なのか。もしわたしがすべての人々を導かなければ、誰がわたしの定めから離れて別の出口を見出せるだろう。今日まで人間を導いてきたのは、人間の思いや願いなのか。多くの人は生涯、願いをかなえることなく生きる。これはほんとうに、その人たちの考えが間違っているせいだろうか。多くの人の生は、思いがけない幸福と満足で満たされている。これはほんとうに、彼らが多くを期待しないせいなのか。すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。誰の生と死が自分の選択で訪れているのか。人間は自分の運命を左右できるのか。多くの人は死を求める。しかし、それは彼らからは遠い。多くの人は人生において強くありたいと願い、死を恐れる。しかし、彼らの知らないところで死の時は近づいてきて、彼らを死の淵に陥れる。多くの人は空を見て、深い溜め息をつく。多くの人は激しく叫び、泣いて嘆きの声を上げる。多くの人は試練の中に倒れ、多くの人は誘惑に囚われる。わたしは姿を現して人間にはっきり見られるようにはしないが、多くの人はわたしの顔を見ることを恐れ、わたしが彼らを打ち倒すのではないか、彼らを消し去るのではないかとひどく恐れる。人間はほんとうにわたしを知っているのか、知らないのか。誰一人、確かなことは言えない。そうではないか。あなたがたは、わたしとわたしの刑罰を恐れる。しかし、あなたがたはまた、立ち上がって真正面からわたしに敵対し、わたしを裁こうとする。そうなのではないか。人間がわたしを知らずにきたのは、けっしてわたしの顔を見たことがなく、また、わたしの声を聞いたこともないからだ。そこで、わたしは人間の心の中にいるのだが、心の中にいるわたしが朦朧としていて不可解なものでない者がいるだろうか。心の中のわたしが完全に明瞭な人が、誰かいるだろうか。わたしは、わが民までもがわたしをぼんやりと、不明瞭に見ていることを望まない。そこで、この大いなる業に取り掛かったのだ。

 わたしは静かに人間の間に来て、そっと去る。これまで誰か、わたしを見た者がいるだろうか。太陽は燃える炎があるから、わたしを見ることができるのだろうか。月はそのさやかな光のおかげで、わたしを見ることができるのだろうか。星々は空でそれぞれの場所にいるから、わたしを見る事ができるのだろうか。わたしがいつ来るのか、人間は知らないし、あらゆるものは知らずにいる。また、わたしがいつ去るかも、人間は気づいていない。誰がわたしについて証しできるのだろう。地上の人々のたたえだろうか。野に咲く百合だろうか。空を飛ぶ鳥だろうか。山々で吠える獅子だろうか。誰一人、わたしを完全に証しできない。誰一人、わたしのする働きができない。たとえ人々がこの働きをしてみても、それでどんな効果があるのか。わたしは毎日、大勢の人々の行いを見、毎日、多くの人々の心や考えを探る。誰一人、わたしの裁きから逃れた者はいない。また、誰一人、わたしの裁きの実際を免れた者はいない。わたしは空の上に立ち、遠くを見やる。無数の人々がわたしに打ち倒された。しかしまた、無数の人々がわたしの憐みと慈愛の中で生きているのだ。あなたがたもまた、そうした中で生きているのではないか。

1992年3月5日



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