神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

カトリック教徒の証し:主は本当に再臨された

2020-02-13 21:29:44 | 天の国の福音

カトリック教徒の証し:主は本当に再臨された

レンシー(米国)

       私の家族は全員が神様を信仰しています。私は子どもの頃から母と一緒にミサに参列し、神様は私たちに本当にたくさんの恵みを与えてくださいました。私たちは神様への感謝の気持ちで満たされ、主の再臨を切望していました。しかし、主が働き私たちを救うために本当に再臨された時、自分が主の働きに気づかないどころか、自分の傲慢な本性に頼り、古い観念にしがみついて危うく主の救いを逃しそうになるとは想像しませんでした。私はこれについて考える度に自責の念に駆られ、また同時に喜びも感じます。主イエスは私をあわれんでくださり、兄弟姉妹が根気強く主の新たな御言葉について語ってくれたおかげで、私は主の新たな働きについての認識を得て主の足跡についていけるようになったのです。私は主の救いによって神の国の時代行きのいわば最終列車に乗ることができたことをとても感謝しています。いま、主を受け入れる過程での様々な場面が私の頭に浮かんできます。

ある日、母の教会友達のリー叔母さんが、終わりの日の神の福音について話すために教会友達を何人が連れて私たちの家にやって来ました。私は叔母さんたちは私たちをプロテスタントに転会させるために来たのだと思ったので、あまり歓迎しませんでした。しかしリー叔母さんは言いました。

「主は既にお戻りになりました。主は全能神で、終わりの日のキリストです。全能神は真理を表され、神の家から始まる裁きの働きをされました。恵みの時代は終わって、今は神の国の時代です。罪を犯しても、もう神父様の所に行って告解しなくていいんです。代わりに直接全能神の御言葉を読み、その裁きと刑罰を受け入れ、神様の御言葉から自分の堕落した性質についてよく考えて、それを認識し、神様の要求事項に従って振る舞えばいいのです。こうすれば、私たちは徐々に罪の束縛から解放されて、清らかになり、神の御心に沿った人になれるのです」。私はこれを聞いてショックを受けました。そして心の中で、「全能神が主の出現?でも、私は今まで何年も主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かった。全能神の新たな働きを受け入れたら、主イエスに背くことになるんじゃない?」と思いました。私は少し混乱しました。私は自分の考えを何も言いませんでした。それで、私の態度を見た叔母さんたちもそれ以上は何も言いませんでした。

その後、私は姉が頻繁に一人で外出するようになり、帰宅した後には母と一緒に何やらこそこそ話しをしているのを目にしました。それから、二人は一緒に外出するようになり、帰宅するといつも満面の笑みを浮かべていました。二人は以前よりも調子が良いようでした。私はこれにとても困惑し、二人は何かを隠しているんだと思いました。しばらくした後、二人は終わりの日の全能神の働きを受け入れ、全能神は主の出現であることを見極めたとまじめに私に告げたのです。二人は私にこれを真剣に検討するように勧めました。私は二人がそう言うのを聞いて理解に困りました。私は「お母さんとお姉ちゃんはとても敬虔な信者なのに、どうして今では全能神を信じているの?これは主の道から離れてカトリックの信仰に背くことにならない?二人はたった数日で変わってしまった」と思いました。私は顔をしかめて何も言いませんでした。その私を見た姉は言いました。

「その気持は分かるわ。リー叔母さんが来て終わりの日の福音の話をした時、私も間違った信仰を取り入れてしまうのが怖かった。でも、叔母さんたちが宣教していることは十分に筋が通っているし、聖書の預言にも一致していることがわかったの。世界中で災害がどんどん大きくなっていることも知ったわ。これはみな主の再臨のしるしよ。もし全能神が本当に主の再臨ならば、その全能神を受け入れるのを拒否したら、主の救いの恵みを逃してしまうことになるんじゃない?だから、私は『全能神が本当に主の再臨であるなら、主の足跡を辿って、全能神の福音について話してくれたあの姉妹たちにもう一度会えるよう、私を啓き導いてください』と主に毎日祈りを捧げたの。そしたら、不思議なことに叔母さんたちがまたやって来て、私に全能神の国の福音について話してくれたので、これは主の意図で采配だって分かったの。それで私は終わりの日の全能神の働きを調べ始めたの。叔母さんたちはそれから私に全能神の御言葉をたくさん読ませてくれたの。そのすべてに権威と力があって、そのすべてが真理で神の御声であると知ったの。全能神は、神様の経営計画の目的、神様が人を救われる方法、人類の堕落の根源、人間はどうやって悪を振り払って救われるべきか、私たちの最終的な結末と終着点といったすべてについて私たちに語ってくださった。全能神の御言葉を読んで、私は真理と聖書の奥義をたくさん理解したわ。私の心の中はすごく明るくなって、私は全能神は主イエスの再臨だって心の中で判断したの」 姉の言ったことを聞いて、私の心のわだかまりが少しほぐれました。姉はむやみに終わりの日の全能神の働きを受け入れていたのではなく、主の導きを求め続けていたのです。主の再臨を待ち続けていながらも、主が本当に再臨されていると人々が証言するのを聞いた時に謙虚な気持ちで探求しようとは思わなかった自分を考えると、その時私は少し恥ずかしくなり、自責の念も感じました。そんなことで、どうして主の啓きと導きを得ることができるでしょうか。全能神が本当に主の再臨であり、それを私が探求も考察もしなかったならば、私は本当に主の救いを逃してしまうのではないでしょうか。そう気づいた時、私は終わりの日の全能神の働きを考察することを姉に約束しました。

その二日後、母と姉は見学できるようにと私を全能神教会に連れて行ってくれました。私はまだ警戒していたので、人が話し合っている間、どうしても静かにしていられなかったのですが、母と姉が一緒だったので、恥をかかせないようにと無理して「真面目に」話を聞きました。その間に、私はそこの教会の兄弟がこう話すのを聞きました。

「ミサに参列しても司祭はいつも聖書から同じことばかり話し、つまらなくて何の光もないとほとんどの人が感じでおり、教区民は何の喜びも得られません。彼らは毎日告解していますが、抜け出すことができない罪の中にいまだに生きています。たくさんの人が信仰を失って闇に陥りました。宗教界全体が荒廃し、聖霊の働きを欠いていることは誰もが知っています。これは広く認められている事実です。ですが、宗教界が荒廃している理由はご存知でしょうか。これは、主イエスの再臨をお迎えできるかどうかに直接関わることです。実は、宗教界が聖霊の働きを失い荒廃した理由はおもに二つあります。一つ目は、司祭と指導者たちが主の戒めに従わず、主の御言葉を実践してもおらず、代わりに人間の作った伝統を守り、神学的議論や聖書に関する知識に注目してばかりいることです。彼らは人から尊敬されるように、これを利用して自己顕示して自らの証しを立てているのです。彼らは主を証ししたり高く掲げたりすることもなく、人々が真理を理解して主を知ることができるように人々が主の御言葉を実践したり体験したりするように導くことも全くありません。彼らは主の道から完全に外れてしまったので、主から見捨てられ、排除されてしまったのです。これが宗教界が荒廃している第一の理由です。もう一つの理由は、主イエスが再臨されたからです。主は受肉して全能神となり、主イエスのなされた贖いの働きを土台にして、神の家から始まる裁きの働きをされ、終わりの日の全能神の働きを受け入れたすべての人々裁き清めるために真理を表されています。これに伴い、聖霊の働きも終わりの日の神様の裁きの働きに移行したのです。この働きを受け入れる人は聖霊の働きを受けられるほか、生ける水の供給と潤しも得ることができます。しかし、宗教界の中にはまり込み終わりの日の神の働きを受け入れない人は聖霊の働きを失って、闇に陥り、否定的で弱くなってしまいました。これは聖書にあるこの預言を成就しています。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)

私はこの話を無理やり「真面目に」聞きましたが、心配が邪魔をして兄弟の話をあまり理解できませんでした。家に帰った後も、教会に行って祈りを捧げたり、聖書を読んだり、ミサに参列するということを続けましたが、心を落ち着かせることが全然できませんでした。あの日の話が頭の中に浮かび続け、私は考えました。

「あの兄弟の話は筋が通っていたし、私も教会は聖霊の働きを欠いていると感じていた。主が新たな働きをするために本当に再臨されているってことがありえるのだろうか。でも、私はずっと主を信仰してきて、主は私にたくさんの恵みを与えてくださった。私に主を裏切ることなんてできない」

私は強い葛藤を感じ、終わりの日の全能神の働きを考察し続けたいのかどうかが分からなくなってしまいました。

ある時、私はミサに行ったのですが、教会に到着して唖然としました。以前だと到着した時にはミサはいつも既に始まっていたのですが、その日はまだ教会の中の明かりがいくつか消えたままになっていて、中は真っ暗でした。人は数人ちらほらといるだけで、ただ座って世間話をしていました。司祭の姿はどこにも見当たりませんでした。目の前の光景は私にとって非常に残念なもので、私は思いました。

「教会は本当にどんどん荒廃している。全能神教会の兄弟姉妹たちが言ったように、主はお戻りになって新たな働きをされ、それに付いて行けない人たちは聖霊の働きを失ってしまったということなんだろうか。あぁ、主の働きは本当に移行してしまったのか」

ミサの後、私は家に帰り、主イエスの肖像画の前に立って静かに祈りました。

「あぁ、主よ!本当に肉となり新たな働きをされたのですか?全能神は本当に主の再臨なのですか?主よ!どうか私をお導きください」

この祈りの後、のしかかっていた大きな重りが引き上げられたように感じました。私は息をついて、思いました。

「この教会にはもう聖霊の働きが宿っていないから、聖霊の働きのある教会を探さなきゃ。そうよ、終わりの日の全能神の働きを調べ続けなきゃ。全能神が本当に主イエスの再臨なら、受け入れなければ!」

私はこう思った時、気持がとても楽になりました。

その後、私は母と姉と一緒に終わりの日の全能神の働きを勉強し続けました。驚いたことに、もう一度説教を聞きに行ったときに心を静めることができることに気づきました。そして、私は心の中の困惑を打ち明けました。

「以前、教会が荒廃する理由についてのお話を聞いた時、私も全く同じ意見でした。教会は本当に荒廃していて、聖霊の働きを欠いています。でもまだ気掛かりなことがあるんです。私は長年に渡って主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かりました。主イエスから離れて全能神を信仰したら、主イエスに背くことになりませんか?これについて話していただけませんか?」

私の質問を聞いたリュウ姉妹は笑顔で言いました。

「姉妹、それは本当に重要な質問ですね。その心配はおもに神の働きの理解が足りないために生じるものです。それはちょうど律法の時代末期に神が主イエスとして受肉され、律法の時代の基盤の上に恵みの時代の働きを完成された時と同じです。主の御言葉を聞き、それが神の御声であることに気づいて主の働きを受け入れた人たちは皆、主と共に歩んでいた人たちでした。ペテロ、ヨハネ、サマリア人の女と同じように、彼らは主イエスの御言葉を聞いて、主がメシアであることに気づいたのです。彼らは神の足跡を辿り、神の御言葉の潤しと霊的な糧を授かり、聖霊の働きを得ました。彼らはヤ―ウェに背かなかっただけでなく、神の足跡について行きました。それがヤ―ウェ神に忠実でいられる唯一の方法だったからです。しかし、律法にしがみついて主イエスの御言葉と働きを受け入れなかった司祭長、律法学者、パリサイ人はヤ―ウェ神の称賛を得られなかった上に、神に抵抗する人となり、主の働きによって排除されてしまったのです。同様に、終わりの日の主は神の経営(救いの)計画および人類の必要に合わせて、主イエスの働きを土台に裁きと清めの段階の働きをされました。終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなくて、むしろ神の足跡を辿ることです。それは神の道を守り忠実に神に従うことです。これはヨハネの黙示録にある『そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。(ヨハネの黙示録14:4)』という預言を成就しています。これは全能神の御言葉を何節か読めばもっと良く理解できます。全能神はこう仰いました。

「人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)「現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)

「三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。」「ひとつの霊によって行なわれる。」これほど新鮮な言葉を聞いたのは初めてのことで、私はそれに深く引き込まれました。私は思いました。

「これら三つの段階の働きは律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代ですね。この三段階はすべて主がなさるのですか。なぜ主は三段階の働きをおもちなのですか。この三段階はどのように完成されるのですか」

私はとても興奮していて、そこにある奥義を理解したかったので、自分の困惑を言葉にしました。

リー姉妹はコンピューターで三段階の働きの解析図を開いてから、話してくれました。

「主が人類を救う働きには合計で三段階あると全能神の御言葉は私たちに教えてくださいます。一つ目は旧約聖書の律法の時代、二つ目は新約聖書の恵みの時代、そして三つ目はヨハネの黙示録に預言されている神の国の時代です。これら三段階は、神様が異なる時代になさる異なる働きであり、時代、働き、神様の御名、神様が表現される性質はすべて異なりますが、これらはすべて一つの御霊による働きです。この三段階はそれぞれが次の時代に綿密につながっており、それぞれが前の段階よりも高く、奥深いのです。このうちどの段階を欠いても、人類をサタンの支配から完全に救い出すことは不可能です。旧約聖書の律法の時代の間、神様はヤ―ウェという御名で働きをされました。神様は威厳、怒り、慈しみ、そして呪いといった性質を表現されました。神様はモーセを通じて戒めと律法を発布され、創造されたばかりの人間の地上での生活を導き、人々は罪とは何か、どのようにして神様を礼拝すべきか、ヤ―ウェの律法を守ることで神様の祝福と恵みを受けられるということを知りました。律法を破る人は石で撃ち殺されたり、火あぶりにされました。律法の時代末期に近づくと、人々はますます堕落して罪深くなり、もはや律法を守りませんでした。人々は皆、律法によって断罪され処刑される危険にさらされていたのです。そして、神様は人類の必要に合わせて新しい段階の働きをなされ、働くためにイエスとして受肉されました。イエスは恵みの時代を迎え入れ、律法の時代の幕を閉じられました。イエスは愛と慈しみの性質をお見せになりました。神様は悔い改めの道をもたらし、寛容で忍耐強い心を持つこと、敵を愛すること、そして人を何度でも許すことを人々に教えられました。イエスはまた人々に豊かな恵みを与えられ、最後には人類を救うために十字架にはりつけられ、私たちをサタンの支配から救ってくださいました。それ以降、私たちは罪を犯すたびに主イエスに呼び掛けて罪を告白し悔い改めることができるようになり、それにより私たちの罪は許され、私たちは神がお与えくださる平安と喜びを受けられるようになったのです。私たちの罪は主イエスの贖いによって消し去られますが、私たちは未だに堕落したサタン的な性質から抜け出すことができていません。それ故に、私たちは依然として頻繁に罪を犯してしまうので、神様に得られていないのです。私たちを罪から完全に救い出すために、神様はもう一度肉となられ、全能神の名において神の家から始まる裁きの働きをされ、人類の堕落した本性を明らかにし、私たちの不義を裁き、私たちが神の御言葉をとおして自分たちの本性を知り、自分たちがどれだけ深くサタンに堕落させられているかという真理を明確に知り、堕落の根源を知り、不可侵である神の義なる性質を認識できるように、無数の御言葉を表現されました。神様の御言葉はまた、私たちがサタン的な性質から自らを解放するために実践するべき道を指し示してくださっています。神様の御言葉の裁きと刑罰を受け入れて自省し、神様の御言葉が明らかにする自分のサタン的な性質を知り、真理を実践するならば、私たちは次第に罪の束縛から脱却し、物事の見方も徐々に変わり、いのちの性質も時間とともに変化を遂げます。最終的に、私たちは神様を畏れ、悪を避け、神様の御心に沿った人となり、ついには神様に素晴らしい終着点へと連れていっていただけるようになるのです。三段階の働きは神の経営計画と人類の堕落に基づいて実行されています。各段階はその前の段階を基に築かれており、前の段階よりも高く、奥深いものとなっています。もし神様が一つか二つの段階の働きしか行われなかったならば、人類を完全にお救いになることはできないでしょう。三段階すべての働きを行なわれることによってのみ、神様は人類をサタンの支配から完全に救い出すことができるのです。この三段階の働きこそ、神様による人類の完全なる救いの働きなのです。だからこそ、終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなく、子羊の足跡を辿ることなのです。そうする人のみが神に心から忠実な人です。」

神様の御言葉と姉妹の話を聞いた後、私の心はとても明るくなりました。私は嬉しくなって言いました。

「では三段階の働きはすべて一つの神によってなされましたが、それはただ異なる時代にあったので、働き、神様の御名、そして神様が表現される性質もそれぞれ同じではなかったということですね。神様は私たちをサタンの支配から完全に救い出すために三段階の働きをなさっただけですね。神の国の時代における全能神の働きは、主イエスの働きを土台に築かれていて、それはさらに高次の新しい段階の働きであり、私たちが全能神の新たな働きを受け入れる限り、罪深い本性を脱却し、清らかになり、神様に救っていただけるのですね。全能神を信仰することは主イエスに背くことではなくて、神様の新たな働きに付いて行って、主をお迎えするということだと今回は理解できます」

これを聞いたリー姉妹は嬉しそうに言いました。

「そのような理解が得られるのは神様のお導きです。主に感謝します!神様は終わりの日に人間を清めて救うために受肉され、すべての真理を表され、神が人類を救う六千年の経営計画の奥義を明らかにされました。神様は人類を救う三段階の働きの目的、受肉の奥義、サタンはどのように人類を堕落させたのか、神様はどのように人類を救われるのか、人類の最終的な終着点とは何なのか、私たちは救われて天国に行くにはどのように探求すべきかなどの真理のすべてを私たちに教えてくださいました。真理を愛し神様の御声を聞くことができる人々は、神様の御言葉からそれが主の御声であることに気づき、神様の玉座の前に立ち返ることができます。真理を求めることで、私たちは清らかになり、神様に完全にしていただくことができます。しかし、真理を愛さず終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れず、依然として終わりの日のキリストに抵抗して非難する人々は、災難に遭い、涙しながら悔しさのあまり歯ぎしりすることになります。その人々はさらけ出され、排除されます。神様はこのような実際的な働きによって人々をそれぞれの種類によって分類し、最後には善人を報い、悪人を罰されます。神様の経営計画における働きはすべて神様御自身が実行なさり、その代わりをすることは誰にもできないのです」

ヤン兄弟が神様の御言葉から二節を読みました。「もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

「三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

ヤン兄弟は言いました。

「三段階の働きを知ることは、私たちの信仰において最大のビジョンであり、神様を知る唯一の道でもあります。もし神様の三段階の働きを理解しないままであれば、あるいはもし働きの一段階をとおしてのみ神様を知らずに、神様は単に人類の罪を贖い恵みを与えてくれるだけの神様であるとか神様の御名はイエスだけであるなどと信じていたら、私たちはおそらく神様というものを勝手に定め、神様を自分たちの観念と想像の中に制限してしまうことになります。これはちょうどユダヤ教の司祭長、律法学者、パリサイ人が傲慢にも自分たちの観念と想像を頼りに主イエスの働きを決めつけて、「メシア」と呼ばれないのなら神であるはずがないと信じたのと同じです。彼らはあらゆる機会を利用して主イエスに抵抗し、非難し、最終的には主を十字架に釘付けにするという最も凶悪な罪を犯して神に罰せられました。これはイスラエルの民が二千年近くにも渡って国を失うという事態を引き起こしたのです。現在、宗教界の牧師、長老、司祭、指導者たちの多くは神の働きを認識せず、それぞれの傲慢な本性を頼りに自分たちの観念と想像に執着して、全能神の働きに抵抗し、非難を向けています。彼らはパリサイ人が犯したのと同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。神様の三段階の働きのビジョンを認識することができなければ、私たちは宗教界の司祭や指導者に従って神様の働きを裁き、非難し、神様に反抗することをしやすくなってしまいます。これは極めて深刻なことで、確実に神に救われる機会を逃すという結果を招くでしょう」

神様の御言葉とこの兄弟の話を聞いた後、私は興奮して言いました。

「今、本当に理解できました。人類を救うための三段階の働きを行なえるのは神様御自身のみで、神様の三段階の働きを理解していないと私たちは自分の観念と想像をもって神様の働きの範囲を決めつけて、神様に抵抗することしかできず、神様の再臨による救いを逃す可能性が極めて高くなってしまうということですね。ということは、私のこれまでの神様への信仰は無駄ではなかったのでしょうか。私は神様に認めていただけないだけでなく、神様を信仰しながらも神様に抵抗する人になってしまいました。考えるだけでもゾッとします。私は謙虚で従順な人になって、自分の観念と想像を捨てて、急いで終わりの日の全能神の働きを考察して受け入れなければなりません」

私がこう言うのを聞いた母は喜びを込めて「その通りよ!」と言いました。私の姉と他の兄弟姉妹たちも嬉しそうに私に拍手をしてくれました。

その後、私は積極的に全能神の御言葉を読み、全能神教会ウェブサイトで福音映画を観賞し、兄弟姉妹と集会を開いて一緒に全能神の御言葉を読み、神様の御言葉についての自分たちの理解を話し合うようになりました。神様が肉として現れて働きをされることの奥義、神様はどのようにして裁きの働きをなさるのか、そして神様が御名をお変えになることの意義など、私の以前の信仰生活では分からなかった真理をたくさん徐々に理解できるようになりました。集会に参加したり、全能神教会の福音映画を見ることで、神様の新たな働きをもはや疑うことはなくなり、神様との関係もどんどん近くなっているように感じました。私は心の中でもどんどん解放されていく気がして、全能神は本当に主イエスの再臨であることを確信しました。私が全能神の福音を受け入れてからまだあまり時間は経っていませんが、その期間に今までの二十数年の神様への信仰生活で理解した以上の真理を理解していると感じます。私をお救いくださった神様に感謝します。

編集者注 このエッセイを読むと、今日の教会がすべてひどく荒廃している理由、そして私たちはどのように主の再臨をお迎えするべきかがついに理解できました。私たちは、本エッセイの主人公が成し遂げたように、忠実な兄弟姉妹のすべてが聖霊の働きを受け、神様の足跡を辿ることを私達は願っています。では、私たちはどのように注意して主の再臨をお迎えするのを待つべきでしょうか。 (待つ―主の再臨をお迎えするにはどのように目を覚まして待つべきか?)」と題した素晴らしい映画からの抜粋をお勧めします。


キリスト教映画「敬虔の奥義」抜粋シーン(1)人の子の到来の奥義

2020-02-12 21:58:40 | キリスト教映画

キリスト教映画「敬虔の奥義」抜粋シーン(1)人の子の到来の奥義

キリスト教映画「敬虔の奥義」抜粋シーン(1)人の子の到来の奥義
主の再臨について、主イエスはこう仰せられた、「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書12 : 40)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書17 : 24-25)これらの預言は「人の子が来る」や「人の子の到来」に言及しているが、「人の子の到来」とは正確に何を意味しているのか?主イエスはどのように再臨をなされるのか?この短い動画が真理を明らかにする。

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キリスト教映画「敬虔の奥義」

キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン(1)主はこのようにお見えになる 日本語吹き替え

  
[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


質問3

2020-02-11 20:33:11 | 書籍

質問3.聖書にあります。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝 1:11)主が復活されたあと天に上がったのは霊体で、その霊体が雲に乗って戻られるはずです。神が終わりの日の働きのため再び受肉されるなど、聖書と矛盾しています。牧師たちは主が受肉して再臨したという証しは嘘だと言っている。だから、主が受肉して戻るなんて証しは、私は受け入れられない。我々はただ主が雲に乗って降りて来られるのを待っていればいい。

       解答: 主が受肉して再臨されるはずがない、本当にそうですか?このことは聖書にも明記されています。あなたは見つけられなかったのですか?聖書には主が受肉して再臨されることについて特に明白に書かれています。主は言われました。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25) 主は人の子として再臨するのです。人の子とは受肉した神のこと。主イエスと同じです。見かけは普通の人間で、人間と同じように生活しますが、復活後の霊体は違います。壁を突き抜けたり、姿を消したりできたので、人の子とは呼ばれませんでした。主はこう預言されています。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:25) あなた方は主は霊体として雲に乗って公衆の前に現れ、人々はそれを見てひれ伏し崇拝すると言うのですね。それでは、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:25) これはどう成就しますか?神が人の子として受肉し働かれる時、人々はそれがキリストだとわからずに非難し、拒んでしまうのです。そうではないですか?主はこうも預言されています。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書 24:36)「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」(ヨハネの黙示録 3:3) 主が雲に乗って降りてくるなら、誰でもそれに気付くでしょう。では主の再臨が「だれも知らない」「子も知らない」「盗人のよう」ならば、どう成就しますか?霊体として現れるなら、主が知らないはずがない。終わりの日に神が人の子として受肉するからこそ、「子も知らない」が成就するのです。主イエスはその働きを始められる以前、ご自身がキリストだとはご存じありませんでした。しばしば父なる神に祈り、職分を果たすようになりようやくご自身の身分に気づかれたのです。より現実的な考えでしょう?これでも受肉による再臨の預言がないと仰いますか?主イエスの預言です。「人の子」とは神の受肉なのです。不思議ですよね。主が受肉して戻るなら、なぜ主はそれをはっきりと言わずに、「人の子」と表現されたのでしょう?預言とはそういうもので謎に満ちているんです。「肉体を持つ」と言えば、普通の言葉に聞こえるでしょう。「人の子」の意味を深く掘り下げれば啓きを受け、受肉を意味していることがわかります。全能神が奥義を解き明かして初めて理解できました。「人の子が来る」という聖書の預言は受肉を表しているのだと。主が受肉して戻ることは間違いありませんが、受肉した神をどう見分けるのでしょう?神の声を聞き分けるのです。神が人の子として受肉されたのなら、多くの真理を表すはず、その出現の起源と目的を明確にし、具体的な働きを始められるはずです。終わりの日に受肉した全能神は、真理を表してまずは神の家から裁きの働きを始めました。全能神の言葉は教会に向けられた聖霊の御言葉です。神の出現を待ちわびている者たちに肉体を通して語り掛けているのです。全能神の言葉が真理であり神の声だと理解できた者は、神様の御前に上げられ子羊の婚宴に招かれる賢いおとめなのです。聖霊の真新しい言葉に毎日触れることで、終わりの日の神の働きを確かめられます。そして主が全能神として再臨されたと宗教界に証しします。すると、人々が全能神の御言葉を聴きに来ます、「言葉は肉において現れる」を。主の預言を成就するものです。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20) 神の声に気付かずに神の働きを非難する人々は、愚かなおとめとして捨てられるでしょう。そして、大災害の中で泣き叫ぶでしょう。

 主をお迎えするのに、主が雲に乗って降りてこられることだけに気を取られ、神の声を聞こうともせず、聖霊が語る言葉も求めずに牧師たちの言葉を鵜呑みにして、主の受肉の証しを偽りと決めつけるのは聖書に反しませんか?聖書を見てください。使徒ヨハネは言っています。「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。」(ヨハネの第二の手紙 1:7)「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。」(ヨハネの第一の手紙 4:3) 神の受肉を否定する牧師たちの姿勢は聖書と一致しますか?主が受肉したという証しはすべて嘘だと言っています。騙されていると思いませんか?ヨハネの言葉に従えば、受肉を否定する牧師や長老こそ、反キリストではないですか?彼らの嘘に耳を傾けて主を迎えることができますか?神の出現を見て、その御前に連れて行ってもらえるでしょうか?

 どうすれば神の出現に気付けるでしょうか?全能神は言われます。「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

天国への危険な道』の映画台本から

 


人類経営の目的

2020-02-10 21:22:52 | 書籍

人類経営の目的


もしも人々が本当に完全に、神の人類経営(救い)の目的と共に、人間の正しい道を理解することができるなら、人々は個人の将来や終着点を宝として心に握りしめることはないだろう。もはや豚や犬よりも悪い両親に仕えたいとも願わないだろう。人の将来と終着点とは、まさにペテロの「親」と呼ばれるものの今日版なのではないのか。それはまさに人自身の肉と血だ。肉の将来である終着点は、神を生きていながらに見ることなのか、あるいは死後に魂が神に会うことなのか。肉は明日、患難の中にあるように巨大な炉の中で尽きるのか、あるいは燃え盛る火に入れられることになるのか。人の肉がはたして不幸や苦しみに耐えられるのかに関するこの類の問いが、今この流れの中にあって、脳があり正常な思考をしている人々が最も心配している問いなのではないのか(ここで、苦しみを耐えるとは祝福を受け取ることであり、苦しみとは、将来の試練は人の終着点にとって有益であるという意味である。不幸とは堅く立てないこと、ないし騙されることである。あるいは災害のさなか、不幸な状況に見舞われていのちを落とし、魂の適切な終着点がないという意味である)。人には健全な理性が備わっているが、おそらくその考えることは、彼らの理性に備わっているべきものと完全には調和していない。これは、人々がむしろ混乱していて、物事に盲目に従うからである。人々は自分がどのように成長すべきかを完全に把握しているべきであるし、特に患難の時に(つまり、炉による精錬の間)どう成長するべきなのか、そして火の試練の際、何を備えているべきか整理しておくべきである。豚や犬のような、そして蟻や虫よりも悪い両親(肉を意味する)に常に仕えることはやめなさい。それについて苦しみもだえ、一生懸命に考え、頭を悩ませる意味は何なのか。肉はあなたに属しておらず、神の手の中にある。神はあなたを支配しているだけでなく、サタンに命令をする方だ。(これが元々意味するのは、肉はサタンに属していたということである。サタンも神の手中にあるので、こういう表現しかできないのだ。そういう表現の方が説得力があるからである。つまり、そう表現することで、人が完全にサタンの支配下にあるのではなく、神の手の中にあることを示唆する。)あなたがたは肉の苦しみの中に生きてはいるが、肉はあなたがたに属しているのだろうか。それはあなたがたの制御下にあるのか。どうして肉について頭を悩ませる必要があるだろう。どうしてとうの昔に有罪とされ呪われ、汚れた霊によって汚された、あなたがたの堕落した肉のために執拗に神に嘆願する必要があるだろうか。どうしてサタンの仲間を心から離さずにいる必要があるのか。肉があなたがたの現実の将来や素晴らしい希望、そしてあなたがたのいのちの真の終着点を台無しにすることを心配しないのだろうか。

今日の道は歩むのに容易ではない。通るのが難しいとも言えるし、これまでの時代の中でもきわめて稀だと言える。しかし、人の肉だけでその人を滅ぼせるなどとは誰が考えただろう。今日の働きとは確かに、春の雨のごとく尊く、人に対する神の優しさのごとく価値あるものだ。しかし、もし人が今日の神の働きの目的を知らず、あるいは人間の本質を理解していないのなら、その尊さや価値の高さをどのように語ることができようか。肉は人間たち自身には属さないので、その終着点が実際にどこなのか、誰もはっきりと見ることはできない。しかしながら、あなたがたは創造主が、被造物である人類を元の地位へと戻し、創造の時からの元の姿へと回復させるのだということをよく知っておくべきだ。神は人に自身が吹き込んだ息を完全に取り戻し、人の骨も肉も取り戻して創造の主に返すのである。主は人類をすっかり変えて、再び新しくする。そして人から、元々人ではなく神の所有物であった遺産のすべてを取り戻す。神はもう二度とそれを人類には渡さない。その中の何も元々人類に属していたものはないのだから。主はそのすべてを取り戻す。──これは不当な強奪ではない。むしろ天と地を元の状態へと回復し、人を変え、新しくするためのものである。これは人々が想像するような、肉の刑罰の後にある取り戻しでは恐らくないものの、これが人にとっての理にかなった終着点である。神が欲しいのは、滅んだ後の肉の残骸ではなく、初めに神に属していた人の中にあった元来の要素だ。よって、神は人類を絶滅させたり、人の肉を根絶させたりはしない。人の肉は人に属する私有財産ではないからだ。むしろそれは、人類を経営する神の付属物だ。どうして神が、自身が「楽しむ」ために人の肉を絶滅させたりなどできようか。この時点で、あなたがたは本当に自分の、たった1セントの価値もないような肉のすべてを放棄しているのか。もしあなたがたが、終わりの日の働きの30%でも理解することができたなら(たった30%、つまり終わりの日に神が行われる言葉の働きを理解することと、今日の聖霊の働を理解することだ)、あなたがたは今日しているように、もう何年も腐敗状態の自分の肉に「仕え」、「孝行」し続けることはないだろう。あなたがたは人類が今、かつてないほどの状態に進歩し、これからは歴史の車輪のように前進し続けることはもうないのだということを完全に理解するべきである。あなたがたのカビ臭い肉にはもう長いことハエがたかっているのに、それでどうやって、神が今日まで継続を可能にしてきた歴史の車輪を逆回転させられるというのか。それでどうやって、沈黙しているような終末期の時計の針を再び動かし、時を刻むようにできるというのか。そんなものでどうして深い霧に覆われたような世界を変えられるというのか。あなたがたの肉は山や川をよみがえらせることができるのか。あなたがたのほとんど機能をもたないその肉は、本当にあなたがたが憧れてきたような人類の世界を回復させられるのか。あなたがたは本当に、子孫が「人間」になれるように教育できるのか。さあ、わかっただろうか。あなたがたの肉は厳密に何に属しているのか。人に働き、完全な者とし、そして変えるにあたって、神の元々の意図とはあなたがたに美しい故国を与えることや、人の肉に安息をもたらすことではなかった。そうではなく、それは神の栄光と神の証しとのためであり、人が将来をより楽しむことができるため、そしてすぐに安息を喜べるようになるためであった。それでもなお、それはあなたがたの肉のためではない。人は神の経営の資産であり、人の肉は単なる付属物にすぎない。(人は霊と体の両方をもった物質であるが、肉は腐敗する部品にすぎない。これは、肉が経営計画の一道具であることを意味する。)あなたがたは、神が人を完全な者とし、完成させ、そして獲得することは、人の肉への剣と強打以外はもたらさなかったこと、終わりのない苦しみ、燃える火、無情な裁き、刑罰、呪い、そして果てしない試練をもたらしてきたことを知るべきだ。これが内幕であり、人類経営の働きの真実である。しかし、これらすべての目的は人の肉に対するもので、敵意の槍の穂先はすべて、無慈悲に人の肉に向けられている(人は、元々は潔白だからだ)。そのすべては神の栄光と証し、そして神の経営のためである。これは、神の働きがただ人類のためだけではなく、計画全体と、神が人類を創った時の元々の意志の実現のためだからである。よって人々が経験することのおそらく90%は苦しみと火の試練なのだが、人の肉が憧れてきた甘く幸せな日々は非常に少ないかあるいはまったくなく、ましてや神と美しい時を過ごすという幸せな瞬間を、肉において楽しめることなどない。肉は汚れているので、人の肉が見たり味わったりすることは、人が喜ばない神の刑罰以外の何者でもなく、まるで正常な理性を失っているかのようだ。これは神が、人の好まない自身の義なる性質を現すからであり、人の罪を大目に見ないからであり、そして敵をひどく嫌悪するからである。神は率直に、あらゆる方法を通して自身の性質をみな明らかにし、それによってサタンとの6千年の戦い、すなわちすべての人類の救いの働きと古きサタンの破壊を完結するのだ。

 


キリスト教映画「待ち焦がれて」あなたは再臨された主イエスに会ったことがあるか 予告編 日本語吹き替え2018

2020-02-09 11:02:51 | 讃美歌

キリスト教映画「待ち焦がれて」あなたは再臨された主イエスに会ったことがあるか 予告編 日本語吹き替え2018

2000年前、主イエスは信者達に約束をされました。

「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書 14:2-3).その約束が故に、信者たちは何世代にもわたって神の約束が実現することを懇願し、祈り続けてきました。主がお見えになった時に天国へ引き上げられ招かれて、主にお会いできることを願い、祈っているのです。 この映画の主人公である陳向光も例に漏れません。彼は熱心な信者で、福音を広め、主の再臨を迎えるために主の証しをしていました。教師の職を追われ、家族の理解が得られないにもかかわらず、希望を捨てませんでした。ある日集会に出席していたとき、陳向光は中国共産党政府に逮捕され、刑務所に入れられてしまいます。しかし驚くべき神の定めと采配により、全能神教会のクリスチャン趙智明に出会うのです。趙智明は終わりの日の神の出現と働きについて証しをし、主の再臨を欲し祈る中で陳向光が長年抱いて来た観念や想像をかき消してしまいます。出所した陳向光は終わりの日の全能神の働きを学ぶよう兄弟姉妹を導きます。最後には誰もが天国に引き上げられるとは何なのか、王国は実は天国にあるのかそれとも地上に存在するのか、神の再臨をどう迎え入れるべきであるかを理解するのです。