神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

質問2

2020-02-08 22:23:53 | 天の国の福音

質問2.全能神教会では、主イエスの再来についてすでに証しをされている。そうですね。全能神は主だと。全能神は終わりの日に裁きを行われる。しかし多くの信者は信じています。主は雲に乗って来られると。主イエスが言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30) 黙示録にもあります。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7) 私もまた、主が雲に乗って再臨されることと信じています。雲に乗って来られない主イエスは受け入れられません。主の再臨は受肉されひそかになされると言っていますね。でも誰もそれを知りません。主が雲に乗って戻られるのは間違いありません。そのため、私達は主が雲に乗って現れ天国にお連れくださるのを待っています。我々の理解は正しいのでしょうか?


       解答: 雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません!パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にしてしまった。これは事実ではないですか?主の到来を待つのは、我々が考えているほど単純なことでしょうか?もし主が戻られ肉の主イエスがなさったように人の間で働くが、我々が彼を認めなかったら、パリサイ人らがしたように、やはり彼を裁き、非難しもう一度磔にするでしょうか?その可能性はありますか?主イエスは再来することを予言し、それについて多くを語ったが、あなた方は、主は雲に乗って来られるという予言のみに固執し主が語った他のより大切な予言を求めたり、探究しないでいる。これでは簡単に間違った道を歩んでしまい、主に見捨てられてしまいますね。聖書には、単に「雲に乗って降臨される」という予言のみがあるのではない。他にも、主は盗人のように、ひそかに来られるといった予言が多くあります。例えば、黙示録16:15、「見よ、わたしは盗人のように来る。」マタイ25:6、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」そして、黙示録3:20:「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これらの予言はすべて、神が人の子として肉となり、ひそかに降臨されることに言及しています。「盗人のように」ということは、静かに、ひそかに、という意味です。人々は彼を見たり、聞いたりしても神であることが分からない、その昔、主イエスが現れ、その働きをなさったときのように。外からは、主イエスはただの人の子であり、誰も彼が神であること知らなかった。なので、主イエスは「盗人のように」という例えを使って、人の子としての出現と働きを説明しました。これはあまりにもふさわしい!真理を愛さない者は、肉となった神がいかに語り、働き、多くの真理を表したとしても、それを受け入れない。その代わり、受肉した神をただの人として扱い、彼を非難し、見捨てる。なので主イエスは、再臨するときについて次の予言をしました:「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」主の予言にもとづき、その再臨は「人の子の再来」となります。「人の子」とは、受肉した神を意味し、復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って霊的な体として降臨することを意味するものではない。それはなぜでしょうか?考えてみましょう。それが復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って降臨する霊的な体のことであれば、非常に迫力があり、世界にショックを与えるでしょう。誰もが地にひれ伏し、抵抗しようとするものは誰もいないでしょう。その場合、再臨主イエスはそれでも多くの苦しみに耐え、その世代から退けられるでしょうか?ですから、主イエスは自分の再臨は、「人の子としての再来」であり、「盗人のよう」だと予言したのです。現実には、それは神が受肉し、ひそかに人の子として来られることを意味しているのです。

では、人の子がひそかに降臨し、神の働きをなすことと、神が雲に乗って公に現れることとの関係とはどういうものでしょうか?この過程には何が関わっているでしょうか? これについて簡単に語ってみましょう。終わりの日には、神が受肉し、ひそかに人間の間に降臨され、語られ、神の家から始めて裁きの働きをなさいます。神の声を聴き、その王座の前に戻る者たち全員を清め、完成させます。そして彼らを、勝利者の群れとされます。それから神は、大災害をもたらし、終末に神の裁きを受け入れない者たちをよりわけ、罰します。その後、神は雲に乗り、すべての人の前に公に姿を現します。これで黙示録1:7の予言は、完全に果たされます:「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」主が雲に乗り来られるときに、彼を突き刺した者たちも彼が見えるのか?彼を突き刺した者たちとは一体誰なのか?これは主イエスを十字架に釘付けにした人たちだと言う人もいます。本当にそうなのか?主イエスを十字架につけた人たちは、ずっと前に神に呪われ、なきものにされたのでは?現実には、彼を突き刺した者たちは、終わりの日に受肉された神がひそかに降臨され、働かれているとき神の声を聴かず、全能神を非難し、抵抗した者たちです。そのとき、彼らは自分たちが抵抗し、非難した全能神がまさに長年彼らが激しく待ち望んでいた救い主イエスであることを知るのです。胸を打ち、泣いて歯ぎしりしても、その結果は懲罰しかありません。黙示録は、そのような人々が最後には生きるか死ぬかを記していないので、我々は知ることができません。神のみぞ知る。神の声が聞ける賢いおとめたちだけが、主の再臨を迎える機会をもつことができ、神の王座の前で子羊の宴に参加し神により、勝利者として完成されます。これで黙示録14:4の予言は果たされます:「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」だが、主は雲に乗ってくるという考えのみに固執し、終わりの日の神の働きを求め、探究しない者は、愚かなおとめたちと見なされます。ことに全能神に激しく抵抗し、非難するものは、終わりの日における神の働きにより正体が暴かれるパリサイ人や反キリストたちです。彼らは皆、神を再度十字架につけた人たちです。これらの人々は皆、大災害に遭遇し、懲罰を受けるでしょう。雲に乗ってくる主のみを歓迎するという人々の犯した間違い、彼らがどんな人たちであるか、その結果はどうなるのか、ということにつき、皆さんは明白に理解されたと思います。

 


終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる

2020-02-07 21:46:14 | 書籍

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる


いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

もしかしたら今、あなたはいのちを受け取りたいと望んでいたり、真理を得たいと望んでいたりするかもしれない。いずれの場合にも、あなたは神を見つけだし、あなたが頼れてあなたに永遠のいのちを与える神を見つけたいということだ。永遠のいのちを得たいと望むなら、あなたはまず永遠のいのちの源を理解せねばならず、神がどこにいるのかを知らねばならない。わたしは、神のみが永久不変のいのちで、神のみがいのちの道を持っていると既に言った。神のいのちは永久不変なので、それは永遠のいのちである。神のみがいのちの道なので、神自身が永遠のいのちの道である。それだから、あなたはまず神がどこにいるのか、そして永遠のいのちの道を得るにはどうしたらよいかを理解しなければならない。では、この二つの点について、それぞれ話そう。

あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか?おそらくあなたは、神は天にいると答えるだろう。もちろん、あなたの家に住みはしないだろう。あなたは、神は明らかに万物の中にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中に住んでいると言うかもしれないし、神は霊的世界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのは全く正しいわけではないが、かと言って全く間違っているわけでもない。すなわち、神を信ずる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、また神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからだ。だから神は一握りの人の心にのみ住んでいるとわたしは言う。この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれていて、既に神の永遠のいのちの道を見聞きしている。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たち――彼らは神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかに関しては無知なままでいるしかない。対照的に、心に神が住んでいる者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を与える者たちで、神に従う者たちだ。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍の両方にいる。神は霊的世界にいて、全てのものの上にいるだけでなく、人が存在する地上に、それ以上にいる。だから、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだ。神は万物に対して支配権を持っており、人の心に根幹として存在し、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらすことができ、人をいのちの道へと導く。人がいのちの道を得ることができ、生存できるように、神は地上に来て、人の間に住む。同時に、人の間での自分の計画に沿うように、神は万物を支配する。だから、あなたが神は天と人の心にいるという教義のみを認め、人の間での神の存在の真理を認めないのなら、あなたは決していのちを得ることはないし、真理の道を得ることもない。

神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、あなたはまず、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということを認め、そして神が人にいのちの道を与えるために地上に来るのは終わりの日なのだと認めなくてはならない。これは過去のことではない。今起こっていることなのだ。

終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。

キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。

脚注

a.「一片の枯れ木」は「救いようがない」という意味の中国の諺。

 


私は主の再来を歓迎した

2020-02-06 21:43:50 | HDドキュメンタリ

私は主の再来を歓迎した

2018-05-18

チンシン

私の両親は中国人で、私は幼い頃から連れられて教会の礼拝に出席しました。12歳でミャンマー国内の大規模なキリスト教キャンプに参加した時、私は牧師に「死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」と言われ、天国に入れるようキャンプ中に洗礼を受けました。その時から、私は本当のキリスト教徒となりました。

大人になり、私は教会の青年部会長を長年務め、伝道師が留守の時は、祈祷でも、聖書研究でも、讃美歌でも、証を述べる時でも、兄弟姉妹をリードしました。結婚後は日曜日の献金や十分の一献金を集める係となりました。私の教会は、当初は聖霊の働きがありました。牧師は滑らかに雄弁をふるい、兄弟姉妹は説教によく聞き入り、啓きを受けたように感じていました。誰もが自信に満ち溢れ、毎回の礼拝に出席して、非常な熱意をもって福音を広めました。しかし次第に牧師の説教は繰り返しの多い、精彩を欠いたものとなり、私たちが求めるものが得られなくなってしまいました。そして兄弟姉妹の持っていた自信も薄れ始め、金銭や肉体的な享楽に興味が移ってしまいました。信徒の数も減り始め、やがては全員が必ず出席するよう毎週土曜日になると牧師が電話をかけてくる始末でした。兄弟姉妹は、出席したとしても力も熱意もなく讃美歌を歌い、説教の最中は居眠りし、礼拝が終わると仕事の話をし始めました。礼拝は形だけのものとはり、中身が全くなくなりました。そこで私は非常に悩み、「どうして私たちの教会はこんなに荒廃した牧場となってしまったのだろう?」と思いましたが、その時過去30年間様々な牧師がよく同じ事を言っていたのを思い出しました。「私たちは主なるイエス様を信じているので、私たちの罪はすべて赦されている。」「私たちは信仰のゆえに神の恵みにより救いを得る。」「主なるイエス様は既に一度救いの働きを終えられたのだから、我々主の信者は既に救われており、天国に入る。」と。そこで「私は既に救われている、私は天国に入るのだ。」というのが、私の神への信仰の基本的な教義となりました。教会がいかにさびれていても、信者がいかに弱く受動的であっても、私は常に「私は主の道を歩まなければならない。主から離れない限り私をお見捨てになることはないだろう。主がお戻りになる時、私を天国に連れて行って下さるだろう。」と自分に言い聞かせていました。そう自分に言い聞かせてはいたものの、私は主の道を歩み続けられませんでした。昼には罪を犯し、夜にはその罪を告白しましたが、いつ祈っても側に主を感じることができませんでした。まるで主に見捨てられたかのように、私の霊は暗黒と空白を感じ、私は神からどんどん遠ざかるのを感じました。私はそのために非常に悩みましたが、問題の根源が見つからずにいました…。

2016年2月、私はインターネットでジャン兄とリーフイ姉に出会いました。主への信仰についての経験を語り合った後、私は二人に自分の教会が荒涼たる牧場になってしまった、という悩みを打ち明けました。するとジャン兄はこう言いました。「荒廃してさびれているのはあなたの教会だけではありませんよ。今は宗教界全体が荒廃しています。それは、主なるイエス様が働きをなさっていた頃、荒廃した寺院が盗賊の巣窟になっていたのと同じです。そこで、まず寺院がどうして荒廃したかを理解すれば、今の宗教界がこんなにさびれて荒廃している理由もわかるでしょう。主なるイエス様が律法の時代を終えて恵みの時代を始められた時、聖霊は寺院では働きを行わず、代わりに主なるイエス様を受け入れ、イエス様に従った人々に働きかけました。ヤーウェを崇拝した人々は、神の働きのペースに追いついていけず、聖霊の働きを受けられませんでした。自らの寺院が牛や羊は鳩を売り両替をする場所となってしまったことからもわかるように、神の加護と配慮を失った彼らは、罪に生きていました。元はヤーウェの栄光に輝いていた寺院は盗賊の巣窟になり、そのために神の性情を怒らせ、神の憤慨のうちに見捨てられたのです。それが、寺院が元々荒廃した理由の一つです。」そして私たちは聖書からアモス書の次の2個所を読みました。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに,雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書 4:7)「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」(アモス書 8:11)ジャン兄はまた、私に全能の神の御言葉から次の2個所を送ってくれました。「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より)「実際は、そうした者に対する神の業は遠い昔に既に停止しており、そうした者には聖霊の業が存在しない。神の業が、それとは別の人間の集団、すなわち神が新たな業を完遂させる意向の人間の集団に移転して久しい。なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。」(『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より)そしてジャン兄はこう言いました。「現在の教会もこの寺院のように荒廃していますが、それも神が新たな働きをなさっているからです。私たちが非常に待ち望んでいた主なるイエス様は、今や人間の形に受肉され、私たちの間に戻っていらっしゃいました。イエス様は、終わりの日に真実を表し人間を裁き、清め、救われるため、全能の神と名乗られています。イエス様は、恵みの時代を終わらせ神の国の時代を始められるためにいらっしゃいました。聖霊は既に恵みの時代の教会を離れ、今や終わりの日の全能の神の働きを受け入れる人々にその働きを行っています。単に主なるイエス様の御名を守るだけで、神の新たな働きに追いついていない人々は皆、もはや側に神がいらっしゃらず、もはや聖霊の働きがなく、命の生ける水を与えられることが決してないでしょう。そこで当然、そうした教会はどんどん荒廃していくのです…。」

ジャン兄の話を聞いて、私は今日の教会の状況が本当に主なるイエス様がその働きを始められた頃の寺院と変わらないのを知りました。そして、ジャン兄の話に主の新たな光と導きがあるのが感じられました。しかし、主なるイエス様がお戻りになって人間を裁き清める新たな働きをなさっている、と言ったことには少し困惑して、こう思いました。「確かに主なるイエス様は戻っていらしたかもしれない。しかし、私たち信者はもう救われているのだから、主がお戻りになられた時は、裁きと清めの別の段階の働きをなさらずに、私たちをそのまま天国に連れて行ってくださるはずだ!だが、主の再来は重要な事なのだから、まずそれについて一生懸命に答えを見つけるべきだ。」

そこでジャン兄に混乱した気持ちを伝えると、ジャン兄はこう言いました。「主の兄弟姉妹の多くがあなたと同じ意見です。また、そういう人々は、私たちは既に主なるイエス様を救い主として受け入れているので、自分たちの罪は赦され、イエス様の恵みを通じて救いを得、イエス様が戻っていらした時にはそのまま天国に連れて行ってもらえるのだとも思っています。そこで、そういう人たちは終わりの日における神の救いを受け入れようとしません。その主な理由は、主なるイエス様の働きがもたらした良い結果を理解せず、神の働きを知らないからです。全能の神はこうおっしゃいました。『当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。』(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)『イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)神の御言葉から、私たちは恵みの時代の主なるイエス様の働きは人類の救済だったことがわかります。主なるイエス様は、私たちの罪の生贄となられ、律法による罪の宣告から私たちを救われるために十字架に掛けられました。主の御前に来たり、自らの罪を認めて悔い改めることで、私たちはその罪を赦されます。それが救われるということです。つまり、救われるということは赦されるということであり、律法の下には罪の宣告はありません。しかしそれは、私たちがサタンの汚れた性情や私たち自身のサタンのような本質から逃れ、二度と罪を犯さないということではありません。傲慢、欺瞞、身勝手さ、貪欲さなどの、私たちのサタンのような本質は未だに存在します。私たちはサタンのような本質とサタンの性情に支配されているため、未だによく嘘をつき、騙し、傲慢でうぬぼれた行動をし、善良な振りをして神を欺きます。私たちは、特に自分の観念とそぐわない時は常に神の働きを故意に批判し、神を非難し、神に背きます。このように深く堕落し神に背く私たちのような人類が、どうして神の賞賛を得られましょうか?私たちは天国に入る資格があるでしょうか?神に背きサタンに属する堕落した人類の私たちを、もし神が御国に招き入れられるならば、神の義と神聖さに対する説明が付かなくなってしまいます。そこで、私たちが御国に入る資格を得るためには、神に裁きと清めの段階の働きを行っていただき、私たちの汚れた性情を変えていただき、私たちの罪深い本質という足かせを完全に振り払っていただかなければなりません。一たび私たちの命の性情が変われば、もはや神に反抗したり背いたりせず、真に神に従い、神により完全に得られ、完全に救われて天国に入り、神が約束なさったものを受けることができるでしょう。それが終わりの日における神の裁きの働きの結果であり、主なるイエス様の救いの働きは、終わりの日における人間の裁きと清めへの道を開くためのものであったことがわかります。つまり、主への信仰により私たちの罪は赦されても、私たちは罪から完全に逃れることも、天国に入ることもできないのです。罪から完全に救われるためには、裁きと清めの働きという別の段階を経なければならないのです。終わりの日における神の裁きの働きにより、聖書の『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。(ペテロの第一の手紙 1:5)』という言葉が正に成就するのです。」

全能の神の御言葉とジャン兄の話を聞いて、私は主なるイエス様がなさったのは救いの働きであり、完全に罪を拭い去ったのではなかったことがわかりました。罪を犯した人は、法の下で非難され、刑罰を受けるべきですが、私たちが主なるイエス様の御前に来てその罪を認めるならば、罪は赦されます。神は私たちに罪があるとは見なさず、刑罰を受けなくて済むようにしてくださいます。それが救いです。しかし、この救いは、私たちが清められ、完全に救われたことを意味してはいません。どうも人々は真実を理解せず、真の救いが何かを誤解しているようです。私は、私たちが毎日罪を犯してはそれを認めるという未だに罪深い生活を送っており、それで裁きと清めという別の段階の神の働きを必要としていることを思いました。そして、キャンプで牧師が言った「クリスチャンが死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」という言葉を思った時、その考え方が本当に余りに非現実的であるのを悟りました。子供じみていて荒唐無稽だとさえ言えるでしょう。その後ジャン兄やリーフイ姉と長いおしゃべりができ、二人の話をよく考えてみた時、私は全能の神の御言葉には求めるべき真実があり、その御言葉は非常に実践的で、とても私のためになり、助けとなると感じました。しかし、主の再来は重大な事であり、その事をじっくり考えるため、私は終わりの日の全能の神の働きを徹底的に追求することにしました。

そこで、それからの数週間、私は全能の神の終わりの日の働きについてインターネットで情報を探し始めました。インターネットを使う前に、私は「主よ、東方閃電が本当に渡した信じる主であるならば、私の心を動かし、あなたの御声をお聞かせください。」と主に祈りました。そして、それとは気づかずにあるウェブサイトをクリックすると、驚いたことに、そこには全能神教会に対する宗教界や中国共産党からのあらゆる批判、攻撃、非難の言葉が書かれていたのです。私は非常にショックを受け、危険な道に足を踏み入れてしまったかと怖くなりました。そこで、ジャン兄とリーフイ姉にそのサイトのリンクを送り、「こうしたことを全部どう説明してくださいますか?」と尋ねました。最初、ジャン兄らは私が送った情報に対し何の返信も寄こさないだろうと思っていたので、二人が落ち着いてしっかりと返答した時はびっくりしました。「全能の神は真の神であり、主なるイエス様の再来です。宗教界や中国共産党がインターネット上で広めているものは、人々を混乱させるために作った噂や出鱈目です。人々を神に従わせないようにするたくらみの一部なのです…。」

ジャン兄の言葉は私を本当に揺れ動かし、私はその意味を把握しようと心の中でもがき始めました。私はインターネットの接続を切り、主にこう祈りました。「主よ、全能の神が本当にあなたの再来であるのなら、あなたの道を理解し、あなたの再来をこの目で見る機会を逃さないよう、どうぞ啓示をお与えください。インターネット上のああいう事柄が、すべて宗教界や中国共産党の流す噂に過ぎないのならば、私がそれに耳を貸さないようにしてください。サタンに誘惑されるのは恐ろしいことですから。」祈ると私は少し落ち着き、私も間違って非難された時のことや、玉石製品を売って商売がうまくいっていた知り合いの店主が、それを妬ましく思った競争相手に噂を流されて信用を失ってしまった時のことを思い出しました。そして私の心にはいくらかの光が差し始め、この世がいかに暗黒と悪に満ちており、インターネット上の多くのものは、良きにせよ悪しきにせよ、人の話に過ぎないと思い至りました。そして、全能の神とその教会に対し宗教界と中国共産党がインターネット上で流している非難についてよく考えてみました。そこには何の証拠も挙げられておらず、どれも信じ難いことでした。しかも、私は全能の神の御言葉を読み、全能神教会の兄弟姉妹と交流していました。兄弟姉妹が言ったことはインターネットで広まっている噂とは何の関係もなく、二人が私を無理に全能神教会に入らせようとしたこともありませんでした。交流している数か月間、聖書を探求し、全能の神の御言葉を読み、神の御言葉を語り合う他には、何の話題も上ったことはありませんでした。話し方からしても、二人が敬虔で立派な人たちだというのが伝わりました。二人の話は光に満ちていて、私にはとてもためになるように感じられ、彼らの教会は本当に聖霊の働きがある教会でした。私はそう考えたところで、聖霊の働きのある教会は神の教会であるのだから、もちろんサタンはそれを攻撃・非難して、否定的なプロパガンダで取り巻くことだろうと思い至りました。

後日、私はインターネットで中国共産党の悪意に満ちた様々な行為について読みました。共産党がいかに外国人伝道師を中国から締め出し、聖書を焼きはらい、教会を破壊し、クリスチャンを拘束して殺害したか…。私の心には、中国共産党に対する憎しみと怒りが沸き起こりました。無実で無抵抗のクリスチャンを迫害するとは、何と悪意に満ちていることか。中国共産党は無神論を広めて常に神に反対し、人間性や理由を微塵も示さずにキリスト教徒を捉えて迫害してきたのだから、彼らが言ったことが真実かどうかは知りようがありません。そこで、私はジャン兄らにまた連絡を取り始め、終わりの日における神の働きについて、そしてサタンの狡猾なたくらみをどう見抜くかについて、多くの真実を語ってもらいました…。彼らの話を聞いて、私は終わりの日の神の働きについて多少理解し、宗教界や中国共産党がインターネット上で広めている出鱈目が、いかにすべて根も葉もない噂や荒唐無稽な意見であり、全能の神の働きを人々に受け入れさせないようにするためのサタンの狡猾なたくらみの一部となっているかがわかりました。そして私は、もう二度と宗教界や中国共産党が言う事を聞かないことにしました。すると心の中にあった心配や恐怖は消え、同時に、全能の神の働きと主なるイエス様の働きは同じであり、両方がサタンのような政権や宗教界から抵抗や避難を受けたことに思い至りました。私はそれにより全能の神の働きが真実の道だと確信したのです!

ある日、私はFacebookで神をほめ讃える讃美歌を聞き、非常に感動しました。実際、賞讃に値し、讃美する価値があるのは神のみです。その讃美歌には聖霊の導きがありました。そして出典を調べてみると、その讃美歌は全能神教会のものでした。私はその讃美歌に感動するあまりただただ涙を流し、嬉しさのあまり兄弟姉妹に連絡して、神が私の心を突き動かし、私を導いてくださったことを告げました…。今や私は、全能の神が主なるイエス様の再来であると完全に信じており、この道の終わりまで全能の神に喜んで従っていこうと思っています。

現在私は全能神教会に出席し、玉座から流れる生ける命の水を享受しているとともに、自信と愛も回復しました。そして、さらに大切なことに、今では正しいことと誤ったこと、暗黒と光を見分けられるようになりました。私には何が真実で何が噂かがわかります。真実は神から来るもので、噂はサタンから来るものです。そして噂を聞いてもただ盲目的にそれに従うのではなく、慎重に真実と偽りを見分け、熱心に祈り、真実を謙虚に追求し調べるべきです。そうすることでのみ、私たちは噂から逃れて神の御前に戻れるのです。

 

質問1

2020-02-05 21:55:05 | 天の国の福音

質問1.主イエスは再臨され、それが全能神だと。そんなまさか。マタイの福音書24章29節を見て。「しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」 主が戻られたのなら、雲に乗って輝かしく来られたはずだ。天と地は震え、太陽も月も輝きを失う。そんな光景は見ていないのに、なぜ主はもう戻られていると言えるんだ?一体どういう事だろう?
    解答: 主の再来について、みな勘違いしている。雲に乗って来るという預言ばかりを当てにしていて、ほかの預言を見過ごしてるんだ。大きな過ちだ。聖書のあちこちに再来の預言がある。主の預言にある。「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録 16:15)「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25) 預言によると主は、「盗人のように」人の子として、扉を叩き、話しかけるとされている。雲に乗って大衆の前に姿を現される以外にひっそりと来られるのでは?主が雲に乗って来るということだけを信じるとしたら、ひっそり来るという預言はどうなるんだ?考えてみろ。雲に乗って来られる、その時は兆しがあるんだ。日も月も陰り、星は空から落ち、天と地は揺れる。それはまさに天変地異じゃないか。誰にでも一目瞭然だろ。盗人のように来て、扉を叩くという預言はどう成就するんだい?雲に乗って来れば、誰にでも見える 。「花婿だ、迎えに出なさい」なんて証しは要らない。主は言われた。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」この預言はどうなる?主が終わりの日に戻られ、働きを完了するという預言もある。例えば、神の家から始まる裁き、巻物を開き、七つの封印を解き、収穫して選別をなさる。小麦と毒麦、羊とヤギ、良きしもべと、悪しきしもべをな。もし主が、白い雲に乗って来られたら、誰にでも分かる。復活した主イエスの霊体を全人類が見れば、誰だって地にひれ伏して、従うんじゃないか?誰が主を拒む?そしたら、良きしもべと悪しきしもべをどうやって分ける?どうやって収穫と選別をするんだい?主の再来は聖書に多くの預言がある。なのにほかの預言は無視して、雲に乗って来るという一部の預言だけを取って、その方法を決めつけようなんて、都合がよすぎないか?それでは、主を迎える機会を逃し、主に拒まれるだろう。

 主は盗人のように来られると聖書にある。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」それが全能神の現れで成就したんだ。全能神の外見は普通の人と同じだし、普通の人のように話をされるから、主の現れと働きだとは誰も思わない。主が盗人のように来るという預言の成就だ。「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。」(ヨハネの黙示録 3:3)これは全能神の現れと働きが盗人のように、誰も知らないうちに全宗派に広がることを意味しているんだ。伝道者は、神様の出現を願う者に全能神の言葉を証しし、辛抱強く話をする。それこそが、主が戸を叩くこと。全能神が現れてからは中国政府から厳しい検挙や迫害を受け続け、宗教界の抵抗、非難や拒絶に遭ってきた。インターネットで公然と攻撃したり、冒涜したりする悪党どももいる。これも主の預言どおりだ。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」 主が雲に乗って、公然と降りて来るなら、毒麦もヤギも、悪しきしもべも、反キリスト者もひれ伏すだろう。正体は暴けない。あくどい共産党や不信心者も全能神を受け入れる。世界は大混乱。では終わりの日の神の働きはどうなる?つまり、神様が受肉して出現し働くからこそ、終わりの日に主が戻り、働きを行うという主イエスの預言が完全に成就するんだ。全能神がすでに来られて、人類を清め救うために真理を示し、裁きをされているんだ。神の羊は神の声を聞き、賢い乙女は宗派に関係なく、全能神の語る言葉を理解した。それが真理で神様の声と知り受け入れたんだ。それが携挙だ。彼らは神様の御前に召され、裁きと刑罰を受けた。最初に清められ、勝利者となされ、最初の果実となった。黙示録の預言どおりだ。「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」(ヨハネの黙示録 14:4-5)神様が密かに来られ勝利者の集団ができれば、神様の働きは完了する。そののちに雲に乗って、全人類の前に現れる。みなが言う大々的な主の再来は、その時のことだ。黙示録1章7節にある。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」 主が雲に乗って降りてこられる情景だよ。誰もが見るんだ。全能神に逆らい非難した者にさえ、雲に乗って来るお姿が見える。だからこそ「地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」とある。再来の預言は成就してきた。残るは、災害のあと雲に乗って、来られることだけ。

 全能神は言われます。「多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)

『待ち焦がれて』の映画台本から

 


神の現れによる新時代の到来

2020-02-04 22:15:21 | 書籍

神の現れによる新時代の到来


六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求める人々にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。ああ、神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことがいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をしなくてはならないのだろうか。神の足跡をたどるには何をしなければならないのだろうか。神の現れを求める人であれば、だれでもそのような疑問を持つものである。あなたがたもそのような疑問を抱いたのは一度や二度ではないと思うが、その結果はどうだったか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営(救いの)計画と関係している。ここで言う現れは、神が人を導き、先導し、啓くときの現れとは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる業の一つの段階を実行に移すのである。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、新しい、一歩進んだ、人類を救う働きである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。神の現れが持つ意義はそこにある。

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神の現れについて理解するとともに、神の足跡をどのように探し求めるべきなのだろうか。この問いに答えるのはさほど難しくはない。神の現れがあるところで神の足跡も見つかるからだ。そう言うと単純に聞こえるが、実際に見つけるのは単純なことではない。多くの人は、神がどこで自分を現すか、ましてや神がどこで自分を現したいか、現すべきかを知らないからである。ある人々は、聖霊の働きがあるところには神が現れると何の考えもなく思っている。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、人々の知名度が高いところに神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。

アメリカ人でも、イギリス人でも、どこの国の人でも、自分という枠を乗り越え、自分という存在を超越し、神の創造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはないだろう。それは、特定の国や民族に神が現れることはないだろうと考えている人が多いからである。ああ、神の働きの意義はなんと深く、神の現れはなんと重要か。それは人の観念や考えで測ることなどできるのだろうか。そのため、神の現れを探し求める際には、みずからの国籍や民族性という枠を突き抜けるべきである。そうすれば、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを喜び迎えることができる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

神は全人類の神である。神が自分を一つの国や民族の所有物とすることはない。神が自分の計画にある働きを、形式や国、民族といった制限を受けることなく行う。これまであなたはこのような形式を考えたこともなかったかもしれないし、そのような形式があることを否定するかもしれない。神が現れる国や民族は差別されている最貧国かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神は、自分の力によって、また自分の真理と性質を通して、自分と心が一つになっている人々をすでに得ている。それは神が求めていた人々で、神に征服され、苦しい試練とあらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる人々である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。まずは、自分の観念を脇に置きなさい。立ち止まって、次の言葉をよく読みなさい。あなたが真理を慕い求めるなら、神はあなたの知性を明るくし、神の心と言葉を理解できるようにしてくれる。「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。