神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

復活後にパンを食べ、聖句を説明するイエス

2020-04-11 00:11:44 | 天の国の福音

復活後にパンを食べ、聖句を説明するイエス



一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。(ルカによる福音書 24:30-32)

こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。(ルカによる福音書24:36-43)

次に、上記の聖句を検討する。前者は復活後の主イエスがパンを食べながら聖句について説教している部分の説明、後者はイエスが焼き魚を食べている部分の説明である。神の性質を知る上で、これらの聖句はどのように役立つであろうか。パンを食べている主イエスと、焼き魚を食べている主イエスの描写から、そのような場面を想像することが出来るであろうか。主イエスがあなたがたの前に現れ、パンを食べているとしたら、あなたがたは何を感じるであろうか。あるいは、イエスがあなたがたと同じ食卓で人々と共に魚とパンを食べているとしたら、あなたはどのように感じるであろうか。イエスはあなたがたに極めて親しく、懇意な存在であると感じるとしたら、その感情は正しい。復活後にイエスが大勢の人々の前でパンと魚を食べることにより主イエスが求めていた結果は、正にそうした感覚を与えることであった。仮に復活後の主イエスが人々と話をするだけであり、イエスの身体を感じることが出来ず、イエスが触れることの出来ない霊であると感じたとしたら、人々はどのような印象を抱いていたであろうか。人々は落胆していたのではないだろうか。人々が落胆した時、人々は見捨てられたように感じていたのではないだろうか。主イエス・キリストとの間に隔たりを感じていたのではなかろうか。こうした隔たりは、神と人々の間に、どのような悪影響を与えるであろうか。人々は、間違いなく恐怖を感じ、敢えて主に近づかず、イエスに対する敬意を示すに十分な距離を置く態度を取るであろう。その後、人々は主イエス・キリストとの親しい関係を絶ち、恵みの時代以前における、人間と天の神との関係へと戻るであろう。人々が見ることも触れることも出来ない霊的存在が原因となり、神との親密な関係が解消されてしまい、受肉した主イエス・キリストが人間と密接にかかわることにより築き上げられた懇意な関係もまた消滅するであろう。霊的存在に対し、人々は、恐怖、回避を感じ、目を丸くして絶句するような感覚となる。人々は、霊的存在に近づいたり、会話したり、ましてや従ったり、信じたり、望みを持ったりはしないであろう。神は、人々が自身に対してこうした感覚を持つことについて、難色を示した。神は、人々が自身を回避したり、自身の前から立ち去ったりするのを望まなかった。神は、人々が自身を理解し、自身に近づき、自身の家族となることを望んでいた。あなたの家族や子ども達が、あなたを見て、あなたであることを認識せず、あなたに敢えて近寄らず、常に回避していたとしたら、あなたが家族や子のために尽くしたことを、家族や子ども達に理解してもらえなかったとしたら、あなたはどのように感じるであろうか。それは辛いことではなかろうか。あなたの心が痛むのではなかろうか。人々が神を避けた時に神が感じるのは、まさにそうした感覚である。そこで、復活後、主イエスは肉と血のある姿で人々の前に現れ、人々と飲食を共にしたのである。神は人々を家族と考え、また人々にも神を家族と考えることを望む。なぜなら、神が真に人々を得て人々が真に神を愛し、礼拝することが出来るのは、この方法によるほかはないからである。これで、主イエスが復活後にパンを食べながら聖句について説明している聖句と、使徒がイエスに焼き魚を差し出している聖句の2つをわたしが取り上げた趣旨が理解できたであろうか。

イエスが復活後に述べた言葉と行った業は、思いやりがあるものであり、親切な旨をもって行ったものである、と言えるであろう。こうした言葉や業は、人間に対する親切さと愛情、イエスが受肉した時に築き上げられた人間との親密な関係に対する認識と周到な慈しみに満たされていた。さらに、そうした言葉と業は、受肉したイエスが自身に付き従う者と飲食を共にしていた頃に対するイエスの懐古と希望で満たされていた。そうしたわけで、人間が神との間に距離を感じることも、人間が神から距離を置くことも、神は望まなかった。さらに、神は復活した主イエスが、もはや人間と親密であった時の主ではない、また主が霊の世界、人間が決して見ることも触れることも出来ない神の元へ戻ったので、もはや人間と共にはいない、と感じることを望まなかった。神は、自身と人間との立場に相違があると人間が感じることを望まなかった。神に付き従いたいと望みながら、神との間に敬意として相応しい距離を置いていた人間を神が見た時、神は心を傷めた。なぜなら、それは人間の心が神から遠く離れていること、神が人間の心を得るのは極めて困難であることを意味するからである。そうしたわけで、仮にイエスが誰も見ることも触れることも出来ない霊的存在として人々の前に来ていたとしたら、再び人間を神から遠ざけてしまい、またその結果として、復活後のキリストは、高尚な、人間とは違う存在となり、人間は罪深く、汚れ、決して神には近づくことの出来ない存在であるから、人間と食卓を共にできない存在となった、といった人間の誤解を招いていたことであろう。こうした人間の誤解を払拭するため、聖書に「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられる。」とあるとおり、主イエスは、受肉していた時に頻繁に行っていた多くの業を行った。また主は、従前のように、人々に聖句を説明した。こうしたイエスの業により、主イエスと会った人々は皆、イエスが変わっていないと感じ、またイエスが依然として主イエスであると感じた。イエスは十字架にはり付けられ、死んだのだが、復活し、人間から去っては居なかった。イエスは人間の中に戻り、しかも全く変わっていなかった。人々の前に現れた人の子は、依然として人々が従前知っていた主イエスであった。イエスの態度や人々との会話は、なじみ深いものであった。イエスは依然として親愛、恵み、そして寛容さに溢れていた。自らと同様に人々を愛し、人間を七の七十倍赦すことのできる主イエスであった。従前通り人間と食事を共にし、人々と聖句について話し、またとりわけ重要なこととして、従前と同様に、見て触れることのできる肉と血のある姿であった。こうした人の子の姿により、人々はそうした親密さを感じ、くつろぎを感じ、失った何かを取り戻した喜びを感じ、また人々は安心できたので、果敢かつ確信をもって、人類の罪を贖うことのできる人の子を頼りとして敬うようになった。また人々は、主の恵みと祝福を得、主からの平和と喜び、そして慈しみと保護を得るため、ためらいなく主イエスの名に祈りを捧げるようになり、また主の名において癒しを行い、悪魔を追い出すようになった。

受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。

主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における生活では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の配慮があり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。人間から見ると、復活した後に主イエスが行った業は、極めて小さなことであるものの、わたしから見ると、それら全てが有意義であり、貴重であり、またそうした業はすべて極めて重要である。

主イエスが受肉して業を行っていた時期は苦難に満ちていたものの、肉と血のある霊的存在たる主イエスの顕現により、イエスは肉にあった人類を贖うというその時期の業を完全に遂行した。イエスは、その業で最初に受肉し、締めくくりとして肉のある存在として人々の前に現れた。イエスは恵みの時代を告げ、キリストの身分により恵みの時代を開いた。キリストの身分により、主イエスは恵みの時代の業を行い、恵みの時代にあって自身に付き従う人々すべてを強くし、導いた。神の業について、神は自身が始めた業を真に完遂すると言えるであろう。その業には段階と計画があり、神の知恵、全能、偉大な業で満たされている。また神の業は神の愛と憐れみで満ちている。当然ながら、神の業の中核として一貫している事は、神の人間に対する慈しみであり、神の業には神が無視することの出来ない懸念が染みわたっている。これらの聖句では、主イエスが復活後に行った業の全てで啓示されていることは、変わることのない神の人間に対する望みと懸念、そして神の人間に対するきめ細やかな慈愛であったことが示されている。現在に至るまで、それらはいずれも変わっていない。あなたがたは、それが理解できるであろうか。そのことを理解した時、あなたがたの心は、おのずから神に近づいて行くのではないだろうか。仮にあなたがたが、この時代に生きていて、イエスの復活後に、あなたがたが理解できるように物理的な姿であなたがたの前に現れ、あなたがたの前に座ってパンと魚を食べ、あなたがたに聖句について教えを授け、話をしたとしたら、あなたがたはどう感じるであろうか。あなたがたは幸福になるであろうか。罪悪感はあるだろうか。従前における神に対する誤解や回避、神との衝突、神に対する疑念などは、全てすぐに消え去るのではなかろうか。神と人間との関係は、一層適切なものとなるのではなかろうか。

これらの僅かな聖句を解釈することにより、あなたがたは神の性質に関して何らかの欠点を見出したであろうか。神の慈愛に、何らかの不純を見出したであろうか。神の全能たる存在や知恵に、何らかの狡猾さや邪悪さを見出したであろうか。そうしたことを見出せないのは当然である。あなたがたは、神は聖なる存在であると、確信を持って言えるようになったであろうか。神の感情は、神の真髄と性質の啓示であると、確信を持って言えるであろうか。これらの聖句を読んだ後、そこから得た知識が、あなたがたが自らの性質を変えようとする取り組みと、神を畏れる努力において役立つことを願っている。また、これらの言葉により、あなたがたに何らかの成果をもたらし、それが日々成長し、そうした取り組みのなかで、あなたがたが真理を追究してゆく上で退屈しないよう、また真理の追究と性質を変化させる取り組みが面倒なこと、不要なことであるなどと感じることのないよう、あなたがたを神へと近づけてゆくものであること、そして神が人間に求められている基準に近づけてゆくものであることを願っている。あなたがたに光や正義を求めること、真理の追求や神の旨を満足させることを追求すること、神のものとされること、真の人間となることを追求することは、むしろ神の真の性質と聖なる真髄により奨励される。

『言葉は肉において現れる』より


神は人の永遠の支え

2020-04-09 21:26:26 | 書籍

神は人の永遠の支え
復活しても

イエスの心と働きは人から去らない

人に現れ、どんな形であれ

そこにいると伝えた

彼は人と歩み いつでも与え牧し

自分を見せ触れさせる

だから彼らはもう無力ではない

イエスは人に伝えたかった

この世の生活が孤独ではないと

神は人を案じ 共にいる

神こそ頼れる方

従う者にとって家族

神に頼れば弱くも孤独でもなく

彼を罪のための犠牲として認める者は

罪に縛られない

イエスが復活後にした全てのことは

神がいつも変わらず人に望み 人を心配し

思いやり、大切にすることを示した

それはいつも、ずっと変わらない

イエスの復活の働きは

人の目には些細なものだが

神には意義深く価値があり 重要だった

神は、始めたことは必ず成し遂げる

そこには、神の知恵と全能性と大いなる業

そして神の愛と憐みを表す段階と計画がある

神の働きを貫いているテ-マは

神の人に対する深い思いやり

そして神が人々に対して感じる真の憂慮だ

神はこうした感情を捨てることはできない

イエスが復活後にした全てのことは

神がいつも変わらず人に望み 人を心配し

思いやり、大切にすることを示した

それはいつも、ずっと変わらない

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より編集

その他の内容

神は神を愛する者を守る

信仰において神を愛そうとするべき

 

 

復活祭と真の意味を知っていますか

2020-04-08 21:38:17 | 福音を証しするシリーズ

復活祭と真の意味を知っていますか


復活祭とは?復活祭の起源

 復活祭とは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。

主イエスの復活と人の前での出現の意味

 神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。

これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。

主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!

 


 


问题(12)

2020-04-06 21:12:24 | 書籍

问题(12)你们见证主已经回来作了末世审判从神家起首的工作,这与圣经启示录预言的白色大宝座的审判好像不是一回事。宗教界多数人都认为白色大宝座的审判是针对属魔鬼撒但的外邦人,当主来时信主的人被提到天上,然后主降下灾难毁灭外邦人,这才是白色大宝座的审判,而你们见证神的末世审判已经开始,可我们却没有看见神降下灾难毁灭外邦人,这怎么能是白色大宝座的审判呢?


相关答案:

真正明白圣经的人都知道,启示录预言的白色大宝座的审判,就是神末世审判工作的异象。道成肉身的全能神发表真理作末世审判工作,开始洁净、拯救败坏人类,就是末世白色大宝座的审判已经开始了,审判从神家起首,首先在灾前作成一班得胜者,之后大灾难降下,神开始赏善罚恶,直到毁灭这个邪恶的时代,神末世白色大宝座的审判工作就彻底结束了,然后神公开显现,新的时代开始。现在我们都看得很清楚,大灾难的兆头——四血月已经出现了,大灾难已经临近了,当大灾难来到时,凡是抵挡神、论断神、与神敌对的,以及所有属魔鬼撒但的种类都要被毁灭在灾难中,这不正是白色大宝座的审判吗?我们从圣经的预言中看到,主再来分隐秘降临、公开降临两个阶段,首先主像贼一样来,就是神道成肉身隐秘降临发表真理作末世审判工作,主要目的就是为了成全一班得胜者,正应验了“审判要从神的家起首”的预言。神末世的审判工作,从神道成肉身隐秘降临发表真理审判全人类时就开始了,首先是作审判从神家起首的工作,神把那些听见神的声音被提到神面前的人洁净、拯救,作成得胜者,神的大功就告成了,然后大灾难开始降下,神就用灾难来惩罚、毁灭这个旧世界,神末世的审判工作就达到了高峰;到神驾云公开显现的时候,神的审判工作就彻底结束了,神的国度随后就出现了,这就应验了新耶路撒冷从天而降的预言。正如全能神说:“神的作工一方面借着话语来征服全人类得着选民,另一方面借着各种灾难来征服所有的悖逆之子。这是神大规模工作的一部分,只有这样,才能一点不差地达到神要的在地之国,这是神工作的精金部分。”(摘自《话在肉身显现·神向全宇说话的奥秘揭示·第十七篇》)全能神的话把神末世的审判工作概括得很准确,我们一看就能明白。全能神作的末世审判工作,就是启示录里所预言的白色大宝座的审判。根据全能神末世审判工作的事实,我们也就明白了启示录中所预言的审判死人的案卷展开与生命册展开究竟是指什么说的了。其实,审判死人的案卷展开,就是神对所有不信神的外邦人、所有否认神抵挡神的人的审判,这审判对他们就是定罪,就是惩罚,就是毁灭。生命册展开是指审判从神家起首的工作说的,也就是末世基督全能神发表真理审判洁净所有被提到神宝座前的人说的。凡是接受全能神末世审判工作被提到神面前的这些神选民,都是神审判、洁净、拯救的对象,审判从神家起首的工作就是为在灾前成全这班人。这班人才是聪明童女,才是名字记在生命册上的人,才是启示录预言的十四万四千得胜者,是最终进天国承受永生的人,这就应验了启示录的预言:“我又观看,见羔羊站在锡安山,同他又有十四万四千人,都有他的名和他父的名写在额上。我听见从天上有声音,像众水的声音和大雷的声音,并且我所听见的好像弹琴的所弹的琴声。他们在宝座前,并在四活物和众长老前唱歌,仿佛是新歌;除了从地上买来的那十四万四千人以外,没有人能学这歌。这些人未曾沾染妇女,他们原是童身。羔羊无论往哪里去,他们都跟随他。他们是从人间买来的,作初熟的果子归与神和羔羊。在他们口中察不出谎言来,他们是没有瑕疵的。”(启14:1-5)

全能神作的末世审判工作完全应验了启示录预言的白色大宝座审判的异象,白色大宝座象征着神的圣洁,也象征着神的权柄。那怎么认识神的权柄呢?我们都知道,神用话语创造了天地万物,用话语带领、洁净、拯救人类,用话语成就一切,神的话语就代表神的权柄。正如神的话说:“我说有就有,命立就立,……”(摘自《话在肉身显现·基督起初的发表·第二十一篇》)“我既说必算,既算必成,谁也改变不了,这是绝对的。”(摘自《话在肉身显现·神向全宇的说话·第一篇》)末世全能神作的就是话语工作,神用话语控制全宇,控制整个人类,用话语引导、供应人类,也正在用话语审判洁净人类。全能神说:“我要把全地之民都带到迦南之地,所以我在迦南之地仍然发声说话控制全宇,此时,全地无有光明,除迦南之外,人都处在饥饿寒冷的威胁之中。”(摘自《话在肉身显现·七雷巨响——预言国度的福音将扩展全宇》)“在末世神道成肉身主要是用话语来成就一切,用话语来显明一切,……”(摘自《话在肉身显现·话语成就一切》)“一切恶人因着神口中的说话而受刑罚,一切义人因着神口中的说话而得着祝福,一切因着神口中的话而立而成,也不显什么神迹奇事,就是话语来成就一切,因着话语而产生事实。地上的人都传颂神的话,不论大人小孩,不论男女老幼,一切的人都归服在神的话下,……”(摘自《话在肉身显现·千年国度已来到》)

全能神的话语一发出就如同闪电从东方直照到西方,洁净、成全了所有归到神宝座前的人,也显明了一切仇恨真理、假冒为善的法利赛人与所有否认神、抵挡神的恶人,同时击杀了一切悖逆之子。末世全能神在地上作审判工作,就证明神已经坐在宝座上掌王权了。虽然这个邪恶黑暗的旧世界还暂时存在,但毁灭世界的各种大灾难马上就要降临,地上没有任何势力能摧毁神的国度,没有任何势力能取缔神的作工、能拦阻神工作的进行。神在地掌权作审判工作,就像他的宝座在天上一样,谁也撼动不了,谁也改变不了,这是事实。正如全能神说:“国度在人中间扩展,在人中间成形,在人中间站立起来,没有任何势力能将我的国度摧毁。”(摘自《话在肉身显现·神向全宇的说话·第十九篇》)这就是神话语所显示的权柄、威力,神的话在地上掌权了,就是基督在地上作王掌权了,也就是神在地上已坐在宝座上掌王权了,足以证明,神的国度已经降临在地上了,这是任何人无法否认的事实。我们看见神的旨意已经完全通行在地上,如同通行在天上一样,主耶稣说的“愿你的国降临;愿你的旨意行在地上,如同行在天上”(太6:10),启示录上也预言“第七位天使吹号,天上就有大声音说:‘世上的国成了我主和主基督的国;他要作王,直到永永远远。’在神面前,坐在自己位上的二十四位长老,就面伏于地,敬拜神,说:‘昔在、今在的主神——全能者啊,我们感谢你!因你执掌大权作王了。’”(启11:15-17),这些话已经成就实现了。这都是全能神末世审判工作所成就的事实。

——摘自《国度福音经典问答(选编)》

“‘我的公义、威严、审判对撒但是不留一点情面的,但对你们,是为了拯救你们,你们就是摸不着我的性情,不知道我作事的原则。’(摘自《话在肉身显现·基督起初的发表·第九十篇》)这句神的话说的是神的公义、威严、审判在人身上达到的果效。达到什么果效?有些人看不透。‘我的公义、威严、审判对撒但是不留一点情面的’,这话是什么意思?有的人说:‘这话的意思就是说神的公义、威严、审判是针对撒但的,不是针对人的。’这么领受对不对呀?这是领受偏谬,或者说是领受谬妄。这里又说‘但对你们,是为了拯救你们’,这句话是什么意思?‘你们’就是神的选民,所有接受神作工的人。对神的选民、所有真心信神的人,神的公义、威严、审判是为了拯救。这么一来,有些人就感觉矛盾了,‘对撒但不留一点情面,对人是为了拯救,那神的公义、威严、审判到底是对撒但还是对人哪?’这个问题好不好解决?有的人可能这么想:‘在人中间有一些人就属于撒但,就属于魔鬼,有一些人就属于神的选民,是蒙拯救的对象,所以神的公义、威严、审判对撒但就是显明、淘汰或者惩罚,对神的选民,对真心信神的人,那就完全是为了拯救,为了洁净,为了成全。’这么领受对不对呀?这么领受就对了,找着路了。那你们说,是撒但该受神公义、威严、烈怒的审判,还是神选民该受这公义、威严、烈怒的审判哪?都得接受啊,谁不接受也不行,换句话说,谁也逃脱不了,这是事实。有些人说:‘神发声说话,外邦人、宗教人、属撒但的他也没听,他也没读啊!’他没听、没读、没看,他能逃脱神的审判刑罚吗?话语的审判刑罚逃脱了,但是神发的烈怒、神降的灾他能不能逃脱呀?事实临及的审判刑罚他能不能逃脱?谁也逃脱不掉,你不接受话语的审判刑罚,那你就得接受事实临及的审判刑罚。那事实临及的审判刑罚是什么?就是灾难哪!所以说,神末世白色大宝座的审判已经开始了。

神话语的审判是对神选民说的,事实临及的审判,灾难的审判、惩罚是对外邦人说的,这样一来,审判工作就有两个方面,是同时进行的,这一点不能忽略。有人说:‘神家神选民都在接受神的审判刑罚,外邦人都在吃喝玩乐呢,他们也没接受审判刑罚呀!’他们那个事实临及的审判刑罚跟话语的审判刑罚不一样,话语的审判刑罚时间长,事实临及的审判刑罚短时间内、转眼之间就临到了。就像大地震,人正吃喝玩乐呢,突然地一摇晃,大地震开始了,人想跑都跑不掉,都被砸死了。事实临及的审判刑罚快,时间短,是突然的,防不胜防的;话语的审判刑罚就不一样了,它有一个时间段。另外,有些人没吃喝神的话,有些人即使吃喝了也没往心里去,有些人往心里去了还得经历,不经历还不行,第一次没有顺服,第一次没有认识,第一次不理解,经历一段时间有点明白,再经历一段时间又有点明白,再经历一段时间明白得比较透亮了,然后才产生真实的悔改,产生真实的变化,追求真理的过程就是这样。由不明白到明白,由明白产生顺服,由顺服产生认识,这样一个过程时间拉得就长,要达到果效有的人就得经历十年二十年,有的人就得二三十年。在咱们经历神话语审判刑罚的时候,外邦人在干什么呢?在吃喝玩乐呢,睡大觉呢,做美梦呢。等咱们这些人受完审判刑罚得着洁净,开始欢喜快乐赞美神的时候,等神的子民被神作成的时候,外邦人的灾难就降下来了,灾难一降下来就是他们的死期呀!现在多数人认识到了,白色大宝座的审判原来是这么回事啊!对内是话语的审判刑罚,对外是灾难的降临、灾难的惩罚,不信神的、抵挡神的都得死在灾难中。对内话语的审判刑罚和对外灾难降临的惩罚,这两个的时间关系是怎么样的?同时的。外邦现在也有灾难,什么灾难都有,但是不那么大,还不算毁灭性的灾难,一旦神选民被作成了,有一班得胜者出现的时候,大灾难‘咔嚓’一下子就降下来了,这就是对外邦人用灾难解决的审判刑罚,这个审判刑罚全是烈怒,全是威严哪!”

——摘自《生命进入的交通讲道》


主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

2020-04-05 20:38:38 | 天の国の福音

主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

参考聖書箇所

「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書 12:40)

「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」(マタイによる福音書 24:37)

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25)

「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録 1:12-16)

関連する神の言葉

イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。あなたがたには今聖霊の言葉が聞こえたか。神の言葉があなたがたに届いた。それが聞こえるか。神は終わりの日に言葉による働きを行うが、そのような言葉は聖霊の言葉である。神は聖霊であり、また肉になることもできるからである。したがって、過去に語られた聖霊の言葉は今日肉となった神の言葉である。聖霊の言葉は天から降りてきて人の耳に届くはずだと信じている多くの愚かな人がいる。このように考える人は誰も神の働きを知らない。実際、聖霊が語る言葉は肉となった神が語る言葉なのである。聖霊は人に直接語りかけることはできないし、ヤーウェは律法の時代でさえ人々に直接語りかけることはなかった。ましてや、今日、この時代に神が直接語りかけるなどとはまず考えられないのではないか。神が言葉を発して働きを実行するためには、肉とならなければならない。そうでなければ神の働きは目的を達成させることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12~16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より