神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

聖書に関する映画「私の主は誰か」抜粋シーン(3)「聖書はすべて神様に霊感を受けたものか」という議論について|日本語

2020-04-04 23:04:43 | 聖書に関する映画

聖書に関する映画「私の主は誰か」抜粋シーン(3)「聖書はすべて神様に霊感を受けたものか」という議論について|日本語
この2000年の間、宗教界では、聖書はすべて神様に霊感を受けたものであるというパウロの言葉を受け、「聖書は神様の言葉であり」「聖書は神様を代弁している」ということが常に信じられてきました。こうした思想は正しいのでしょうか?この短編でその答えを明らかにします。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


聖書に関する映画「私の主は誰か」抜粋シーン(2)神の働きや言葉は全て聖書の中に書かれているのでしょうか|日本語

2020-04-03 17:04:40 | 聖書に関する映画

聖書に関する映画「私の主は誰か」抜粋シーン(2)神の働きや言葉は全て聖書の中に書かれているのでしょうか|日本語
宗教界では、神様の働きや言葉はすべて聖書の中に書かれていると信じられています。つまり聖書の外には、神様が語られた言葉や働きは存在しないという考えです。つまり、聖書を信仰している限り、天国へ行けるということが保証されいるということなのです。このような思想は、神様の働きの事実に沿っているのでしょうか?聖書の外に神様の言葉は存在するのでしょうか?一体何が人間を天国へ導いてくれるのでしょう?それはあくまで聖書に忠実にあることすることでしょうか、それとも子羊の足跡をたどることでしょうか?この短編はその答えを全て明らかにしてくれます。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 

あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である

2020-04-02 17:34:20 | 書籍

あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である


あなたはイエスに会いたいと思うか。イエスと共に生きたいと思うか。イエスの語る言葉を聞きたいか。もしそうであれば、イエスの再臨をどのように歓迎するのか。あなたは完全に備えができているか。どのようにしてイエスの再臨を歓迎するのか。イエスに付き従う兄弟姉妹は皆イエスをよく歓迎したいだろう。しかしあなたは考えてみたことがあるだろうか――イエスが再び来る時、あなたにイエスが本当に分かるのか。あなたがたはイエスの語る全てを本当に理解するだろうか。イエスの働きの全てを本当に、無条件に受け入れるだろうか。聖書を読んだことのある者は皆、イエスの再臨について知っており、聖書を読んだことのある者は皆、一心にイエスの再臨を待ち望む。あなたがたは皆、その瞬間の訪れにひたすら執着しており、その誠意は賞賛すべきものであり、あなたがたの信仰は本当に羨望に値する。しかし、あなたがたは自分が重大な間違いを起こしていることに気づいているか。イエスはどのように戻って来るのか。あなたがたはイエスが白い雲に乗って再臨すると信じているが、わたしはあなたがたに問う。この白い雲とは何を意味しているのか。イエスの再臨を待つ多くの信者がいる中、どの人々のところにイエスは降臨するのか。もしイエスが最初にあなたがたのところへ再臨するとしたら、他の人々はこのことをあまりに不公平だと考えないだろうか。わたしは、あなたがたが非常に誠意のある、イエスに忠実な人であることを知っているが、あなたがたはイエスに会ったことがあるのか。あなたがたはイエスの性質を知っているのか。あなたがたはイエスと共に生活したことがあるのか。あなたがたはどれだけ本当にイエスのことを理解しているのか。このような言葉のせいで気まずい状態になると言う人もあるだろう。彼らはこう言う。「私は聖書を隅から隅まで何回も読んだ。イエスを理解できないことなどあるだろうか。イエスの性質は言うまでもなく、わたしはイエスが何色の服を好むかさえ知っている。あなたは私がイエスを理解しないと言うが、私を見くびっているのではないか」。このような問題については、争わないようあなたに提案する。落ち着いて、次のような問題について話し合う方が良い。一つ目は、何が実際で何が理論かを、あなたは知っているのか、ということ。二つ目は、何が観念で何が真理かを知っているのか、ということ。そして三つ目は、何が想像で、何が現実かを知っているか、ということである。

自分がイエスを理解していないという事実を認めない人たちもいる。それでも尚わたしは、あなたがたがイエスを少しも理解しておらず、イエスの言葉をひとつも理解していないと言う。それは、あなたがたはそれぞれ聖書に書いてあることのために、他の誰かが言ったことのためにイエスに付き従っているからである。あなたがたはイエスに会ったことがないし、ましてや一緒に住んだこともなければ、わずかな時間を共に過ごしたことさえない。そうであれば、イエスに関するあなたの理解は理論だけではないか。現実性が欠けているのではないか。イエスの肖像画を見たことのある人もいるだろうし、イエスが住まった家を訪れたことのある人もいるだろう。イエスの着た服を触ったことがある人もいるかもしれない。たとえあなたがイエスの食したものと同じものを食べたとしても、あなたのイエスに対する理解は実際的なものではなく理論上のものでしかない。いずれにせよ、あなたはイエスに会ったこともなく、肉となったイエスとともに過ごしたことは一度もないのだから、あなたのイエスに関する理解はどこまでも現実味の欠けた空論でしかない。おそらくわたしの言葉はあなたにとってほとんど興味のないものだろう。だがあなたに聞く。例えば、あなたが自分の大好きな作家の作品を何冊も読んだとする。あなたはその作者と一度も一緒に時間を過ごしたことがなくても、その作者を完全に理解できるだろうか。その人の性格がどのようなものか分かるだろうか。その作家がどのような人生を送っているか、あなたに分かるだろうか。その作家の感情が理解できるだろうか。あなたは自分が尊敬する人すら完全に理解することができないのに、どうしてイエス・キリストを理解できるだろうか。イエスに関するあなたの理解は想像と観念に満ちており、真理と現実性の欠片もない。どうしようもなく粗末で、肉的なもので満ちている。そのような理解しかないのに、どうしてイエスの再臨を歓迎するに相応しい者となり得ようか。肉的な空想と観念に満ちた人を、イエスは受け入れない。イエスを理解しない人たちがどうしてイエスを信じる者となり得ようか。

あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前にむなしく固執しながら、できる限りのことをしてメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、「どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、諸教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが表した全てをはねつけることとなる。それほど混乱しているのなら、イエスから何を得られるというのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気づくのを拒絶しているのならば、イエスが白い雲に乗って肉に戻ってくる時にイエスの働きをどのようにしてあなたがたが理解できるというのか。わたしは言う。真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である。あなたがたは単にイエスの恵みを望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、肉に戻ったイエスが表した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯しては何度もその罪を告白するという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスへの捧げ物としてあなたがたは何を差し出すのか。自らを称賛する長年の仕事という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すのだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。

あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は単に知的で観念的であり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないのか。今日なお、あなたがたは真理の言葉の一つ一つに対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。キリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どのように聖霊の働きに入っていくのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の惑わしの区別の仕方を知らない。ただ、自分の考えに沿わない、神が表した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、軽率であってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど幸運ではない人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自らをいい加減に扱ってはならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。

 


神を再び磔にする者は災いである

2020-04-01 11:40:29 | 書籍

神を再び磔にする者は災いである


終わりの日において、神は御働きを行なわれるために中国で受肉され、数百万語の御言葉を表され、御言葉によりある集団を征服し救われ、神の家を皮切りに新たに裁きの時代の幕開けをもたらされました。現在、終わりの日における神の御働きの拡大は、中国本土において絶頂期に達しています。カトリック教会とその他のキリスト教派や分派で真理を追求する人々の殆どが、神の王座の御前へと戻っています。受肉した神は聖書で預言されている「人の子の隠れた降臨」の御働きを既に完了され、まもなく世界各国の各地において公に出現されるでしょう。世界各国の各地で神の御出現を渇望している人々は皆、神の公の御出現を見上げるでしょう。神の御国を侵害したり破壊したり出来る勢力は存在せず、神を拒む者全てが、神の怒りにより罰せられるでしょう。これは神の次の御言葉にあるとおりです。「わたしの国は全宇宙の上に形を取り始め、わたしの玉座は何億もの人々の心の中を統治する。天使たちの助けを借りて、わたしの偉業はまもなく実現されるだろう。わたしの子供たちとわたしの民は皆わたしが戻るのを息を殺して待ち、彼らが二度とばらばらにならないように再び結びつけることを強く望んでいる。わたしの国の多くの民衆が、わたしが彼らと共にいるのを喜んで、互いに駆け寄らずにはいられないだろう。これは対価を支払う必要のない再会なのだろうか。わたしはすべての人の目に尊敬に値する者として映り、すべての人の言葉によって宣言される。わたしが戻る時、わたしはすべての敵の力をさらに征服する。時は来た。わたしは自分の働きを始動させるだろう。わたしは人々の王として支配するだろう。わたしは今まさに戻る。そしてわたしは今や出発する。これはすべての人が望んでいること、彼らが希望することである。わたしは全人類にわたしの日の到来を見させよう。そして彼らにわたしの日の到来を喜びをもって歓迎させよう。」(『言葉は肉において現れる』の「二十七番目の言葉」より)「わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す。」(『言葉は肉において現れる』の「二十六番目の言葉」より)

神の驚くべき御働きは反キリスト、偽預言者、人の心を惑わす者を全て既に暴いています。それはまた神の恵みとパンで空腹を満たすことのみを求める偽信者も既に暴いています。神の裁きの御言葉は、人間の心と霊を貫く鋭い諸刃の剣のようで、咎められることを嫌う者や純粋な言葉を忌み嫌う者、真理を愛さない者に自らの真の素性をさらけ出させています。

神が御働きのために隠れて来られた際に表わされた御言葉には、人間の神に対する抵抗や反逆の真理が見て取れますが、それはおもに以下の三側面において表れます。

1.人間が往々にして罪を犯し、神に抵抗し、反逆するのは、ひとえにサタンが人間を堕落させた後、人間の本性がサタンの様々な毒に取り憑かれ、神に抵抗し、反逆する本性へと変化しているからです。したがって、人間は毎日罪を犯し、しばしばその罪を告白しますが、依然としてサタンのような本性の束縛から解放されることが出来ません。神に反逆する人間の本性は、人間の罪の根源です。

2.人間はサタンにより重篤に堕落させられています。人間の心はサタンの哲学、生活規則、思考方法のみで満たされているため、人間は神の御言葉が真理であることを理解することも知ることも出来なくなっています。聖霊の啓き照らし無しでは、人間は真理を受け入れられません。堕落した人間が神を信じても、単に神の存在を認めるだけであり、神が真理であられることを認めません。それゆえに、堕落した人間は往々にして神を非難し、攻撃し、抵抗し、反逆します。

3.人間はサタンにより過度に堕落させられています。神の裁きと刑罰や、受肉された神の救いの御働き無くしては、長年にわたり神を信仰している人でさえも神を知ることはありません。そのような人は、自らの神への信仰において神の恵みを享受し、神が実在することを認めることしか出来ません。神を真に知ることが出来ないのです。宗教的な教義と観念で満たされるだけで、ますます傲慢で独善的になり、さらには大胆にも神を非難し、罵倒し、神の御働きを冒涜するようになります。これは何ら新しいことではなく、宗教界で頻繁に起こっています。これについて人々は大いに反省する必要があります。またこれは主イエス様の次の御言葉を完全に成就しています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7章21―23節)私達は皆、宗教界には主の御名のもとに働きながらも、終わりの日における神の御働きを拒否し、非難する人があまりに多くいることをはっきりと目撃してきました。神を信じつつ、神がいることを認めるだけで、神が真理であられることを知らない人々は、神を拒み、攻撃し、冒涜しやすくなります。このような人々はある程度聖書と教義の知識があるために、自分が真理を備え、神を知っていると考えます。さらには聖霊の御働きを冒涜したり、受肉されたキリストに対抗することすらあります。彼らを待っているのは、神の義と威厳と怒りに満ちた裁きと懲罰だけです。神が公に登場される日に全てが明らかにされるでしょう。

各地で福音を説教している人々から、かつて全能神の御働きに抵抗したり、人々が全能神を受け入れるのを阻害したり妨害したりした者の多くが懲罰を受け、様々な程度の呪いを受けたとひんぱんに聞きました。それは私達の福音の働きを動機付ける好ましい役割をある程度果たしていると言えます。そうした情報を聞いて、私達は神の義を讃え、それにも増して私達の祈りを聞いて頂いていることを神に感謝せずにはいられませんでした。さらに、神への畏敬と敬愛の念が私達の心に自然に生まれました。神は、自らの羊を見捨てられることが無く、いわんや邪悪を行い神を拒む者を見逃されることなどありません。神はどこにでもいらっしゃり、全能で、神の御働きが敵対勢力により妨害されることはありえません。神は邪悪なものが懲罰をうけた事例を幾つも私達に示されました。これは私達一人ひとりへの無言の警告でもあると考えます。それゆえ、私達は懲罰を受けた人々の数多くの事例をまとめました。その範囲はカトリック教会その他の教派・宗派を網羅しています。期間は僅かに1993年から2002年までですが、地域的には二十四の省と市に及びます。全能神に抵抗して懲罰を受けた人々の事例を合計一万件以上を収集し、その中から八百七十件以上の典型的事例を選択しました。あらゆる人が教訓(全能神への抵抗したことへの懲罰の典型的事例)を得るには、これらの事例だけで十分です。

こうした神を拒んで懲罰を受けた者の衝撃的事例から、神への抵抗が比較的激烈であった人々の主要な類型を次の通り特定しました。

第一類型  この類型の人々は、聖霊の御働きを知らず、識別することができなかったことが原因で、他人に欺されたり、たちの悪い官公吏に奴隷とされました。その結果、他人や官公吏に従って邪悪を行い、そうした者の言葉を復唱して、神に抵抗する言葉を数多く述べ、邪悪を行い、人々が神の御働きを受け入れるのを阻止しました。神はこの類型の人々に対して軽い懲罰を与えられただけで、命を奪われることはありませんでした。奇妙な病を患ったり、事故に遭ったり、家族に災いがあった人もいました。神はこの種の人々に対して悔い改める機会を授けました。もちろん、特に強情で、懲罰を受けても目覚めない者もいました。そうした者は邪悪を続行し、それゆえに切り捨てられました。

第二類型  この類型の人々の殆どが、さまざまな教派・分派の指導者です。これらの人々は、自らの地位と神との間で選択に迫られました。彼らは自らの地位のために真の道を捨て、故意に神の御働きに抵抗し、自らの手中にある人々を支配しました。自らの地位がもたらす恩恵を永遠に享受するために、人々を欺して罠にかけました。どうやら自分の支配下にある人々を失うと自らの地位も失うようで、その地位無しでは生きていけないのです。それゆえ、神の羊を自分の羊であると主張し、神の選民をめぐって全力で神と競い合いました。典型的反キリストです。彼らが仕えたのは自らの地位と生計です。その心は冷酷になる一方でした。彼らは神の恵みを享受しながら、神の選民を支配することも望み、選民に与えられるべき選択の自由すら与えませんでした。まさしくこれらの人々こそが、主イエスが預言された悪い僕です。神はこれらの人々にも、その行動に応じて様々な程度の懲罰を与えられ、悔い改めの機会も授けました。しかし、抵抗を更に強め、悔い改めるよりも死ぬことを望んだ者も何人かいました。それゆえに神は彼らの命を絶えさせました。懲罰を受けた後に自制したり、邪悪な行いを止めた者について、神は命を奪われず、彼らの悔い改めを未だに待っておられます。

第三類型  この類型の人々は、以前は悪霊に取り憑かれていたか、場合によっては悪霊に頼って超自然的能力を発揮しました。これらの人々は自らの中の悪霊による業を信じているものの、聖霊の御働きについては全く知識がありませんでした。その結果、神の新たな御働きについて説教を聞いた時、悪霊が彼らの中で激しい反抗を生じました。この類型の人々は聖霊の御働きに対して特に敵対的で、神が表された真理を何よりも忌み嫌いました。あらゆる教派・分派において、彼らが神に反抗する声は最も大きく、その行為は最も邪悪であり、神に対する反抗は最も凶暴で熱狂的でした。彼らは悪霊の道具であり、神の敵であり、サタンの一味であり、したがって皆最後には呪われ、地獄へ送られ、滅ぼされました。

第四類型  懲罰を受けた者のうち、この類型の人々は三自教会に育てられた組織の中枢であった人々です。こうした人々は特に共産党に仕え、命を捧げており、神を真に信じる者全てと敵対関係にありました。国家権力に支えられ、政府の道具となりながら、神に真に付き従って神の証しに立つ人々を迫害しました。共産党から与えられた「飯茶碗」を持ち、共産党に代わり発言し、共産党に命を捧げ、宗教界において共産党の代弁者となりました。共産党こそが彼らの事実上の主人でした。彼らは殆どの場所において教会の指導者としての地位にあり、自らの手中にある無知な信者達を支配しました。神に抵抗する悪魔以外の何者でもありませんでした。まさにキリスト教を不信者でした。一時的に猛威を振るいましたが、呪われて滅ぼされました。

このようなカトリック教会や様々なキリスト教の教派・分派の著名人達は、全て神の懲罰を受け、その上呪われて死にました。なぜなら、神の御働きを非難し、神の旨が行われるのを阻止したからです。これは人々が熟考するべきことではないでしょうか。彼らが拒んだのが神であられなかったとしたら、一体誰が彼らを罰し命を奪うことが出来たでしょうか。彼らが真に神のものであったならば、一体誰に彼らの命を神の御手から奪う力があるでしょうか。神が義であられることを認めないというのでしょうか。

これら四類型の人々とその行動の事例から、そうした人々はその本性において真理を好まなかったことが明瞭に理解できます。彼らは、裁きと刑罰により人間を救い変化させる神の御働きに対して敵意のある姿勢を取り、人間の本性を暴き人間の魂を貫く神の御言葉を極度に忌み嫌い、さらには神の降臨が自らの楽しい夢を妨げたるかのように激怒しました。こうして、神に対して不平を言う彼らの心と神に反逆する彼らの本性が完全に暴かれました。さらに彼らは不謹慎にも神を非難し、冒涜し、抵抗し、圧倒するような傲慢さに満ちていました。二千年前に主イエスを迫害したパリサイ人よりも遙かに邪悪でした。彼らは自らの邪悪な行いのために、最後には懲罰を受け、呪われました。そうした人々の多くが、神の御性質は確かに侵害してはならないということを死が訪れた時になって初めて認識しました。しかし、彼らは闇ですすり泣き、歯ぎしりするほか為す術がありませんでした。事実がキリストを再び十字架に張り付ける者は滅ぼされるということを証明しました。

全能神は以下のように述べられました。「神の国は人間たちの間で拡大する。神の国は人間たちのただ中で形作られている。神の国は人間たちのただ中に建てられている。どんな力もわたしの国を破壊できない。今日、国にいるわたしの民のうち、誰が人間たちの中にあって、人間ではないのだろうか。あなたがたの誰が、人間である状態の外にあるのか。わたしの新たな出発点がもろもろの者たちに告げられたとき、人々は、どのように反応するだろう。あなたがたは、その目で人類の有様を見てきた。まことに、いまだ、この世界で永遠に存在を続けようという希望は抱いていまい。わたしは今、わが民の間を歩き回り、わが民の中で生きている。今日、わたしに本物の愛情をもっている人々は幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまる。わたしを知る者は幸いである。その人たちは、必ずや、わたしの国で権力を持つであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの縛めを逃れ、わたしの祝福を享受するだろう。自らに背くことのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは覚え、わたしのために自ら持つものを費やす人を、わたしは喜んで抱こう。わたしに捧げ物をする人に、わたしは喜びとなるものを与えよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となる。その人たちは、必ずやわたしの家で何物も及ばない富を得、並びなき者となる。あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を探し求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「十九番目の言葉」より)