聖書映画「夢からの目覚め」抜粋シーン(3)神は真理を用いて、終わりの日に人々を裁き、清める
神様は、終わりの日に肉体の姿となられ、神の家から始まる裁きの御働きをこの世でされます。では、終わりの日の全能神の裁きの御働きとは、どのようにして人々を清め救うのでしょうか。全能神の裁きと刑罰を経験した後の私達の人生の進路はどのように変わるのでしょうか。この動画、「夢からの目覚め」、は全ての答えを見せてくれます!
聖書映画「夢からの目覚め」抜粋シーン(3)神は真理を用いて、終わりの日に人々を裁き、清める
神様は、終わりの日に肉体の姿となられ、神の家から始まる裁きの御働きをこの世でされます。では、終わりの日の全能神の裁きの御働きとは、どのようにして人々を清め救うのでしょうか。全能神の裁きと刑罰を経験した後の私達の人生の進路はどのように変わるのでしょうか。この動画、「夢からの目覚め」、は全ての答えを見せてくれます!
神の裁きと刑罰に神の出現を見る
私たちは主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そしてそのすべてを、主の配慮と加護のもとに行っている。私たちは時として弱くなったり強くなったりするが、自分たちの行動はすべて主の教えに従うものだと信じている。そのため言うまでもなく、自分たちが天の父の旨を行う道にいることも信じている。私たちは主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望んでおり、また地上における生活の終わりと、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に預言されたことすべての実現を待ち望んでいる。主が到来して災害をもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従いその再臨を歓迎するすべての人々を天に引き上げ主にまみえさせる。このことを考えるたび、私たちは感動し、感謝の念に包まれずにはいられない。私たちはこの世の終わりに生まれ、幸運にも主の到来を目の当たりにすることができるのだ、と。私たちは迫害の苦難を受けているが、その見返りに「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」受けたのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。こうしたすべての切なる願いと主から授けられた恵みによって、私たちは油断なく祈るようになり、より熱心に集っている。おそらく来年、明日、さらには誰も予想できないほど早く、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んできた人々のもとに現れることだろう。主の出現を目の当たりにする最初の集団となるために、天に引き上げられる人々の一員となるために、みな遅れを取らないよう、我先にと争っている。私たちはその日のために、どんな犠牲もいとわず、すべてを捧げてきた。仕事をあきらめた者や家族を捨てた者もいるし、結婚を放棄した者、蓄えをすべて寄付した者もいる。何という無私無欲の献身であろう。このような誠意と忠誠心は、過去の聖徒たちさえも超えるに違いない。主は自らが好む者に恵みを与え、自らが好む者に哀れみをかけるので、私たちの献身や支出はもうずっと前から神の目に留まっているものと私たちは信じている。そして私たちの心を込めた祈りも神の耳に届いているし、主が私たちの献身に報いてくださるものと信じている。しかも神はこの世を造る前からすでに私たちを慈しんでおり、誰も私たちに与えられた神の祝福や約束を取り上げることはできない。私たちはみな未来のための計画を立てており、当然のこととして献身や支出を、天に引き上げられ主に会うための逆手、または見返りの元手としている。さらには何のためらいもなく、私たちが将来玉座に就き、すべての国とすべての民族を支配する、あるいは王として治めるものと考えている。私たちはこれらのことをすべて、当然の、当たり前に期待されるものと捉えているのである。
私たちは主イエスに逆らうすべての人々を軽蔑しており、彼らは皆最終的に滅ぼされることになる。一体誰が彼らに、主イエスが救い主であることを信じるなと言ったのか。もちろん私たちは主イエスに習って、世の人々に対し思いやりを持つときもある。彼らは理解していないのであり、私たちは寛容になって彼らを許すべきなのだ。私たちの行いはすべて聖書の言葉に従っている。聖書と一致しないものはすべて異教であり、異端だからである。このような信念は私たち一人一人の心の中に深く根付いている。私たちの主は聖書の中にあり、聖書から離れなければ、主からも離れることはない。この原則に忠実であれば、私たちは救われるのだ。私たちは互いに励まし合い支え合っており、集まる時はいつでも、私たちの言動のすべてが主の旨に適い主に受け入れてもらえることを願っている。過酷な環境の中でも、私たちの心は喜びに満ちている。これほど簡単に手に届く祝福のことを思えば、棚上げにできないものなどあるだろうか。手放しがたいものなどあるだろうか。これらはすべて言うまでもないことであり、すべては神の目に注意深く見守られている。掃きだめから引き上げられたこの一握りの貧しい者である私たちは、主イエスのすべての信奉者たちと同様に、天に引き上げられること、祝福を受けること、そしてすべての国を治めることを夢見ている。私たちの堕落は神の目の前にさらけ出されており、私たちの欲望と貪欲さは神の目から見れば罪に定められている。それでもこうしたことはみなごく普通に、ごく論理的に起こることなので、私たちの誰も自分の切望が正しいかどうかなどと疑問を持たないし、ましてや誰一人自分の固守しているすべてのことの的確さを疑いもしない。誰が神の旨を知ることができるというのだろう。人が歩いているのは一体どんな道なのか、私たちは探すことも調べることも知らず、ましてや尋ねようとする関心などない。なぜなら私たちが気にしているのは、自分たちが天に引き上げられるかどうか、祝福が受けられるかどうか、天の国には自分の居場所があるかどうか、いのちの川の水といのちの木の果実の分け前にあずかれるかどうかということだけだからである。私たちはこれらを得るために主を信じ、主に従っているのではないのか。私たちの罪は赦され、わたしたちは悔い改めて、苦き杯から飲み、十字架を背負った。私たちの払った代価を主が受け入れないなどと誰が言えるだろう。私たちが油を十分準備していなかったなどと誰が言えるだろう。私たちはあの愚かな乙女にも、捨てられた者の一人にもなりたくない。しかも私たちはしばしば神に祈り、偽キリストに騙されないようにと主に求めている。それは、聖書に次のようにあるからだ。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)私たちは皆こうした聖書の言葉を記憶に刻み、すべて諳んじていて、それらを貴重な宝であり、いのちであり、救われ天上に引き上げられるかどうかを決める信用状だと考えているのだ。
何千年もの間、生者はその願望や夢を携えて亡くなっていったが、その人たちが天の国へ行ったのかどうかについて、誰一人本当に知る者はない。死者は戻って来るが、過去に起こったことはすべて忘れてしまい、依然として先人の教えや歩んだ道に従っている。このためどれほど月日が経とうとも、主イエスが、神が、私たちのすることをすべて本当に受け入れてくれるかどうかは誰にもわからない。私たちはただ一つの結果を待ち望み、これから起こるすべてのことを想像するだけだ。しかし神は沈黙を守り通しており、人間の前には一切姿を現さず、言葉を発することもない。だから私たちは聖書に従い印に基づいて、自らの意思で神の旨と性質を判断している。私たちは今では神の沈黙に慣れてしまい、自分たちの行動が正しいか間違っているかの判断を自らの見方で測ることに慣れてしまった。そして神の私たちに対する要求ではなく、自分の知識、観念、道徳的倫理に依存することに慣れてしまった。神の恵みを享受することに慣れてしまい、神の助けが必要な時にいつでも神が与えてくれることに慣れてしまった。さらに神に向かって両手を伸ばしてあらゆるものを求め、神にあれこれ指図することに慣れてしまい、ただ規則を守るだけで、聖霊の導きに注意を払わないことにも慣れてしまった。そしてそれ以上に、自分自身が自分の主人である日々に慣れてしまった。私たちはこのようにして、一度も直接会ったことがない神を信じている。神の性質とはどんなものか、神が所有するものと神そのものとはどんなものか、神はどのような姿をしているのか、神が現れたとき私たちはそれが神だとわかるだろうか、などという疑問はどれも重要ではない。重要なのは、神がわたしたちの心の中にいるということと、私たちが皆神を待ち望んでいるということであり、私たちは神の姿をこうだああだと想像できるだけで十分なのだ。私たちは自分の信仰を評価し、自分の霊性を大切にしている。私たちはすべてを不潔なものと見なし、すべてのものを踏みつけていく。私たちは栄光なる主を信じる者なので、その旅路がいかに長く困難であろうとも、いかなる苦難と危険に晒されようとも、私たちが主に従って行くとき、私たちの歩みを止めることができるものは何もない。「いのちの水の川は、水晶のように輝き、神と小羊の御座から出ていた。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。」(ヨハネの黙示録22:1-5)この言葉を唱えるたびに、私たちの胸は無限の喜びと満足感に満たされ、目からは涙が溢れ出る。主が私たちを選ばれたことに感謝し、主の恵みに感謝する。私たちは神からこの世で百倍もの報いを受け、来世では永遠の命を与えられている。もし神に今死になさいと言われれば、私たちは一言の文句も言わずそうするだろう。ああ主よ、どうぞ早く来てください。私たちがどれほどあなたを待ち焦がれており、あなたのためにすべてを捨てたかをご覧になって、もう一分も、一秒も遅らせないでください。
神は沈黙しており、私たちの前に姿を現したことはないが、神の働きは止むことがない。神は全世界を見渡し、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神はその経営を計画に従ってゆっくりと慎重に行っており、それは静かに、特に劇的な効果も見せず進行しているが、神の歩みは一歩一歩進んでますます人類に近付き、神の裁きの座は電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座が私たちのもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげるライオンのように、聖霊が私たちのもとにやって来る。神は知恵であり、義であり、威厳である。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて、そっと私たちの間にやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰もその到来を歓迎せず、その上誰も神がこれからしようとしていることを知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は私たちの間に、普通の人のように、信仰者の中で最も取るに足らない者として、平凡な一信者として生きている。彼には独自の探求や目標があり、そのうえ神は普通の人にない神性を備えている。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も彼と人の本質の違いを見抜いていない。彼は私たちの目には取るに足らない一人の信者にしか見えないので、私たちはのびのびと恐れることもなく彼と共に暮らしている。彼は私たちの一挙一動を観察しており、私たちの考えや思いつきはすべて彼の前に晒されている。誰一人として彼の存在に関心を持たないし、その役割を想像もせず、さらに誰一人その正体をかけらも疑っていない。私たちはただ自分たちの活動を継続している。あたかも彼は私たちと何の関係もないとでも言うように。
聖霊がたまたまこの人を「通して」一遍の言葉を発することもあり、それは非常に意外なことのように感じられるが、私たちはそれを神の発した声だと認め、すぐに神から出たものとして受け入れる。なぜならその言葉を誰が発しようと、それが聖霊から出たものである限り、私たちはそれを受け入れるべきであり、否定することはできないからだ。次の発言は私を通して出されるかもしれないし、あなたや他の誰かを通して出されるかもしれない。それが誰かにかかわらず、すべては神の恵みなのだ。しかしそれが誰であろうと、その人を崇拝してはならない。何があろうとその人が神であることはありえないし、そのようなごく普通の人を選んで私たちの神とすることは決してできないからだ。私たちの神は非常に偉大でかつ尊い。どうしてそのような取るに足らない人が、神に代わることなどできようか。さら私たちは神が天の国へと連れ戻しに来てくれるのを待っているのに、そのような重大で困難な仕事を、そんな取るに足らない人がどうして行えようか。主が再臨するとすれば、白い雲の上に乗って現れるはずなのだから、すべての人がそうとわかるだろう。それは何と荘厳なことだろうか。どうして神が平凡な人々の中にそっと隠れていることなどできるだろうか。
しかしそれでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが、私たちを救うための新しい働きを行っているのだ。この人は何も説明することはないし、来た理由を話すこともなく、ただ意図した働きを整然と、自分の計画に沿って行うだけだ。彼はますます頻繁に声を発し、発言するようになる。それには慰め、励まし、忠告、警告から非難や懲らしめまで、そして穏やかで優しい口調から荒々しく荘厳な言葉までがあり、そのすべてが人に哀れみを与えるとともに戦慄を植え付ける。彼が言うことはすべて、私たちの奥深くに隠された秘密に命中し、彼の言葉は私たちの心を突き刺し、霊を突き刺し、私たちを耐え難いほど恥じ入らせ、どこに隠れてよいかもわからない気持ちにさせる。そして私たちは、この人物の心の中にいる神は本当に私たちを愛しているのか、一体何をしようとしているのか、と疑い始める。もしかすると、このような痛みに耐えなければ天国に引き上げてもらえないのだろうか。これからの行く先や未来の運命について、私たちは頭の中で思案する。しかしそれでもまだ、誰一人として神がすでに肉体を得て私たちの間で働きを行っているとは考えない。神はこれほど長い間私たちと共にあり、これほど多くの言葉を私たちに直接語ってきたが、私たちはいまだにそのような平凡な人を、自分たちの未来の神だとは認めたがらないし、ましてその取るに足らない人に自分たちの未来と運命の支配を任せたりはしたがらないのだ。私たちは彼から絶えることのないいのちの水を享受し、彼を通して神と向き合いながら生活している。しかし私たちは天におられる主イエスの恵みには感謝するが、神性を備えたこの普通の人の気持ちには一切注意を払ってこなかった。それでも彼は従来どおり、肉体の中に隠れて謙虚に仕事を続け、その心の奥に秘めた思いを表し、人類が彼を拒んでも気にもならないかのように、また人の稚拙さも無知も永久に赦すかのように、自らに対する人々の非礼をひたすら黙認しているのだ。
私たちが知らないうちに、この取るに足らない人は私たちを神の働きの一つ一つの段階へと導き入れてきた。私たちは数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。そして神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じられるようになり、神の愛らしさを目のあたりにし、そして人類を救いたいという神の強い願いを目にする。この平凡な人の言葉を通して、私たちは神の性質と本質を知り、神の旨を理解し、人の本性と本質をも理解し、そして救いへの道と完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は私たちを「死なせ」、そして「生き返らせる」。その言葉は安らぎを与えるが、同時に罪悪感と恩義の念で私たちを苦しめもする。その言葉は私たちに喜びと平安をもたらすが、同時に無限の痛みも与える。私たちは時にその手によって屠られる子羊のようであり、時に最愛のもののようにその慈愛を享受する。また時にはその人の敵のようでもあり、そのまなざしのもとでその怒りによって焼かれ灰にされる。わたしたちは彼に救われる人類であり、その目から見れば蛆であり、彼が日夜見つけ出そうと躍起になっている迷える子羊である。彼は私たちに対して慈悲深くもあれば、私たちを軽蔑もし、立ち上がらせ、慰め励まし、導き啓き、懲らしめ鍛え、そして呪いさえする。彼は昼も夜も私たちのことを心配し続け、昼も夜も守り気遣い、決して私たちの傍を離れず、私たちのためにその心血を注ぎ、いかなる代償も払う。この小さく平凡な肉体から出る言葉の中に、私たちは神のすべてを享受し、神が私たちに授けた終着点を見た。それにもかかわらず、私たちの心の中ではいまだ虚栄心のために問題が起こっており、このような人を積極的に神として受け入れることができずにいる。この人は私たちに非常に多くのマナや、多くの喜びを与えたが、それでも私たちの心の内にある主の地位を奪うことはできない。私たちはこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのだ。彼が口を開いて、私たちに自分が神であることを認めるよう求めない限り、私たちは決してこの人を、まもなく現れる、そして同時にすでに私たちのもとで長く働いてきた神として、あえて認めようとはしないだろう。
神は発話を続けており、さまざまな方法や観点を用いて私たちにすべきことを諭しつつ、同時にその心を言葉に表している。その言葉は生命力を備えており、私たちが歩むべき道を示し、真理とは何かを理解させてくれる。私たちはその言葉に引き付けられるようになり、その口調や話し方に注目し始め、そして無意識のうちに、この目立たない人の心の内に関心を持ち始める。彼は私たちのために労力を惜しまず、私たちのために睡眠も食欲もなくし、涙を流し溜息をつき、病気に苦しみ、私たちの終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私たちが鈍感で反抗的なために心から涙と血を流している。このような存在とその持てるものは、普通の人を超えているし、堕落した人間が誰一人として所有も到達もできないものだ。彼には普通の人にない寛容と忍耐力が備わっており、その愛はどんな被造物にも授けられていないものなのだ。私たちの考えをすべて知り、私たちの本性や本質をこれほど明確かつ完全に把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神の代理として私たちに語りかけ、このように人の間で働くことができる人は、この人をおいて他にいない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を授けられている者はいない。この人からは神の性質、そして神が所有するものと神そのものが、あますところなく発せられている。この人以外に、私たちに道を示し、光をもたらせる者はいない。彼以外に、神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に、私たちをサタンの束縛や私たち自身の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を体現しており、神の心の奥底にあるものと訓戒、そして全人類に対する神の裁きの言葉を表現している。彼は新しい時代、新しい紀元を開き、新たな天地と新しい働きを到来させた。そして彼は私たちに希望をもたらし、漠然としていた私たちの生活を終わらせ、私たちの全存在をもって救済の道を完全にはっきりと目撃できるようにしてくれたのである。彼はわたしたちの存在そのものを征服し、わたしたちの心を得た。その瞬間から私たちの心は覚醒しており、霊が生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、私たちの間で生きながらも長年私たちに拒否され続けてきたこの人こそ、私たちが寝ても覚めても絶えず思い続け、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。そう、彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私たちの神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私たちがもう一度生きて光を見ることができるようにし、私たちの心のさまよいを止めてくれたのだ。私たちは神の家に戻り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔を目撃し、行く手にある道をこの目で見た。今、私たちの心は完全に彼に征服され、私たちはもはや彼が誰であるか疑わず、もうその働きや言葉に反抗することもなく、ただ彼の前にひれ伏す。私たちの望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、そして神の恵みと私たちへの愛に報い、神の指揮と采配に従い、神の働きに協力し、できる限りのことをして神に委ねられた物事を全うすることだけである。
神に征服されることは、まるで武術の試合のようだ。
神の言葉は一つ一つが私たちの急所を突き、私たちは傷ついて恐れに満たされる。彼は私たちの観念、想像、そして堕落した性質を明らかにする。すべての言動から思いや考えの一つ一つに至るまで、私たちの本性や本質は神の言葉によって暴かれ、私たちは恥じ入って隠れる場所もなく恐怖に震える。彼は私たちの行動、目的や意図、そして自分でも知らなかった堕落した性質まで、すべてを一つ一つ私たちに示すので、私たちは自分の惨めな不完全さをすべて見せつけられ、さらには完全に打ち負かされた気持ちになる。彼は私たちが反抗したことを裁き、神を冒涜し糾弾したことで私たちを罰し、自分たちが神の目には何の贖うべき特徴もなく、生きたサタンなのだと思わせる。希望は粉々にされ、もはや神に理不尽な要求をしたり希望を持ったりすることもなくなり、夢さえも一夜にして消え去る。これは誰一人として想像できず、受け入れることもできない事実である。一瞬のうちに私たちは内面の平静を失い、この先どうやって進んでいけばいいのか、どうやって信仰を保っていけばいいのかわらなくなる。まるで自分たちの信仰が振り出しに戻ったような、そして主イエスに会ったことも、主を知ったこともないような気持ちになる。目の前のすべてが私たちを困惑させ、ためらいに揺れ動かせる。私たちは狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには抑えきれない憤りと屈辱感がくすぶる。そしてうっぷんを晴らそう、出口を探そうと試み、さらには救い主イエスを待ち続けて、イエスに胸中を打ち明けようとさえ考える。表面上は平静で、高慢でも謙虚でもないように見えるときもあるが、心の中ではこれまでにない喪失感に苛まれている。ときには表面上いつになく冷静に見えることもあるかもしれないが、内面は荒れた海原のような苦悶に揺れている。彼の裁きと刑罰は私たちの希望と夢のすべてを奪い去ったため、贅沢な望みはみな葬られ、私たちはあの人が救い主で自分たちを救えるのだと信じようとはしなくなる。彼の裁きと刑罰は私たちと神との間に亀裂を作り、それがあまりに深いため、誰も渡ろうとさえしない。彼の裁きと刑罰によって、私たちは人生で初めてこれほどの挫折と屈辱を感じたのである。私たちは彼の裁きと刑罰によって、神の名誉と人の侮辱に対する神の不寛容とを本当に認識した。それと比べると、私たちはなんと卑しく汚れていることか。彼の裁きと刑罰によって私たちは初めて、いかに自分たちが傲慢で尊大か、いかに人間が決して神と同等でなく、神と肩を並べることは一切ないかを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私たちはもうこのような堕落した性質の中で生きることをやめたい、この本性と本質からできるだけ早く抜け出したい、神にとって卑劣で不快なものでなくなりたいと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私たちは神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と采配に反抗することはなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私たちは生き残ることを再び切望するようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった。……私たちは征服の働きから抜け出し、地獄から、死の影の谷から抜け出した。……全能神は私たちを、この一群の人々を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、数多くの敵を打ち倒したのだ。
私たちはごく普通の、堕落したサタンのような性質を持つ人々の集団であり、有史以前から神によって運命の定められた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者たちである。私たちはかつて神を拒絶し糾弾したが、今は神に征服されている。私たちは神からいのちを受け、永遠のいのちの道を授かった。地球上のどこにいても、どのような迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜなら神こそ私たちの創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。
神の愛は泉の水のように溢れ出て、あなたや私や他の人々に、そして真理を求め神の出現を待ち望むすべての人々に与えられる。
終わりのない昼夜の入れ替わりの中で月がいつも太陽を追っているように、神の働きは決して止むことがなく、あなたや私や他の人々に、そして神の足跡に従い神の裁きと刑罰を受け入れるすべての人々に行われる。
2010年3月23日
終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる
いのちの道は誰でも持てるものではなく、また誰にとっても簡単に得られるものではない。いのちは神からしか生じ得ないからである。つまり、神自身のみがいのちの本質を有しており、神自身のみがいのちの道をもっている。ゆえに、神のみがいのちの源であり、永遠に流れつづけるいのちの生ける泉なのである。世界を創造してからずっと、神はいのちの活力に関する多くの働きを行ない、人にいのちをもたらす多くの働きを行ない、人がいのちを得られるよう多大な代価を払ってきた。神自身が永遠のいのちであり、そして神自身が、人が復活する道だからである。神が人の心にいないことは決してなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の根幹であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱床である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分のすべての役割をしっかり生きられるようにする。神の力と、消えることのない神のいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのない代価を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そのうえ、いかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても圧倒されない。時や場所に関係なく、神のいのちの力は存在し、明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るかもしれないが、神のいのちは依然として残る。神は万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからである。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の存在は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、生気を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れることはできない。このようにして、誰もが神の支配下で服従し、神の命令の下で生きなければならず、誰も神の手から逃れられない。
おそらく、あなたの今の望みはいのちを得ること、あるいは真理を得ることである。いずれにせよ、あなたは神を見つけたいと願っている。つまり、頼ることができて自分に永遠のいのちを施せる神を見つけたいのである。永遠のいのちを得たいと望むなら、まずは永遠のいのちの源を理解し、神がどこにいるのかを知らねばならない。わたしはすでに、神のみが永久不変のいのちで、神のみがいのちの道をもっていると言った。神のいのちは永久不変なので、それは永遠のいのちである。神のみがいのちの道なので、神自身が永遠のいのちの道である。ゆえに、まずは神がどこにいるのか、そしてその永遠のいのちの道を得るにはどうしたらよいかを理解しなければならない。では、この二つの点について、それぞれ交わりを行なおう。
あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか? おそらくあなたは、「当然、神は天に住んでいる。あなたの家には住んでいないはずだ」と答えるだろう。あるいは、神は明らかに万物の間にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中にいると言うかもしれないし、神は霊界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのはまったく正しいわけではないが、かと言って完全に間違っているわけでもない。と言うのも、神を信じる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからである。だからわたしは、神は一握りの人の心にのみ住んでいると言うのであり、この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれているのだから、神の永遠のいのちの道をすでに見聞きした人である。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たちは、必ずや神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかを知らずにいる。対照的に、心に神を住まわせている者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を授ける者たちであり、神に従う者たちである。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍らの両方にいる。神は霊界に、そして万物の上にいるだけでなく、それ以上に、人が存在する地上にいる。ゆえに、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだのである。神は宇宙の万物に対する支配権を握っており、人の心の支えであり、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらし、人をいのちの道へと導くことができる。人がいのちの道を得て生存できるよう、神は地上に来て人の間で生きる。同時に、神は宇宙の万物を指揮し、人の間における自らの経営に協力させる。したがって、神は天と人の心にいるという教義を認めるだけで、人の間における神の存在の真理を認めないなら、あなたがいのちを得ることは決してないし、真理の道を得ることもない。
神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として敬われることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である。神が過去の時代に語った言葉の記録を現代に適用するのなら、あなたは考古学者であり、あなたに最もふさわしい表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過去の時代に行なった働きの痕跡を信じており、神がかつて人の間で働いた際に残した神の影しか信じておらず、神がかつての信者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神による今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表わしている真理の道を信じていない。ゆえに、あなたが完全に浮世離れした空想家なのは間違いない。今、人にいのちをもたらすことのできない言葉になおも固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]である。あなたは保守的に過ぎ、あまりに強情で、理知に無頓着だからである。
受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の本質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの本質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということをまず認め、そして神が地上に来て人にいのちの道を与えるのは終わりの日であることを認めなくてはならない。それは過去のことではなく、今起きていることなのだ。
終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない。
キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である。これもあなたに言っておくが、あなたが終わりの日のキリストに抵抗し、終わりの日のキリストを足蹴にするなら、その結末をあなたに代わって引き受ける人は誰もいない。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえ自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが抵抗したのは人ではなく、あなたが足蹴にしたのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからである。あなたはその結末がどのようなものか知っているのか。あなたが犯すのは小さな過ちではなく、重罪である。だから、わたしはすべての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりしてはいけない。あなたにいのちをもたらせるのは真理以外になく、あなたが生まれ変わり、再び神の顔を仰げるようにするものは、真理以外にはないからである。
脚注
a.「一片の枯れ木」は「救いようがない」という意味の中国の諺。
受肉の奥義(4)
あなたがたは聖書の内情と形成について知らなければならない。神の新しい働きをまだ受け入れていない人は、この知識をもっていない。彼らは知らないのである。これらの本質的な事柄についてわかりやすく話せば、彼らは聖書についてあなたにあれこれ言うことがなくなるだろう。彼らは、この記述は成就したか、あの記述は成就したかなどと、預言されたことを絶えず念入りに掘り下げている。彼らは聖書に従って福音を受け入れ、聖書に従って福音を説く。神に対する彼らの信仰は聖書の言葉をよりどころにしているので、聖書がなければ神を信じようとしない。このように、聖書を細かく吟味するのが彼らの生き方である。彼らが再び聖書を掘り下げ、あなたに説明を要求してきたら、次のように言いなさい。「まず、聖句を一つひとつ検証するのはやめよう。代わりに、聖霊がいかに働くのかを見よう。私たちが歩む道を取り上げ、それを真理と比較し、この道が本当に聖霊の働きと一致しているかどうかを見極め、聖霊の働きをもって、そのような道が正しいかどうかを確かめよう。あれこれの記述が成就したかどうかについて、私たち人間は首を突っ込むべきではない。それよりは、聖霊の働きや、神が行なってきた最新の働きについて話すほうがよい」。聖書の預言は、預言者が当時伝えた神の言葉と、神に用いられて霊感を得た人々が書いた言葉であり、これらの言葉を説明できるのは神自身だけ、これらの言葉の意味を知らしめることができるのは聖霊だけであって、神自身だけが七つの封印を解き、巻物を開くことができる。あなたはこう言いなさい。「あなたは神ではないし、私も違う。では、誰があえて神の言葉を軽々しく説明しようというのか。あなたはあえてこれらの言葉を説明しようというのか。エレミア、ヨハネ、エリヤといった預言者たちが来たとしても、彼らは小羊ではないのだから、あえて聖書の言葉を説明しようなどとはしないだろう。小羊だけが七つの封印を解き、巻物を開けることができるのであり、他の誰も神の言葉を説明することはできない。私は神の御名を奪おうとは思わないし、ましてや神の言葉を説明しようなどとは思わない。私にできるのは、神に従う者でいることだけだ。あなたは神なのか。神の被造物の中に、あえて巻物を開けたり、それらの言葉を説明したりする者などいない。だから私もあえて説明しない。あなたも説明しようなどと試みないほうがよい。誰もそれらを説明しようとするべきではない。聖霊の働きについて話し合おう。これは人間にもできることだ。私はヤーウェとイエスの働きについて少々知っているが、そのような働きを直接経験したわけではないので、限られた範囲でしか語れない。イザヤやイエスが当時語った言葉の意味について、私は一切説明しない。私は聖書を研究しておらず、むしろ神の現在の働きを従っている。実際、あなたは聖書を小さな巻物とみなしているが、それは小羊だけが開けられるものではないのか。小羊以外に、他の誰がそれを開けられるのか。あなたは小羊ではないし、ましてや私も、自分は神だなどと主張はしない。だから、聖書を分析したり細かく調べたりするのはやめよう。それよりは聖霊によってなされる働き、つまり神自身によってなされる現在の働きについて話し合うほうがはるかによい。神が働きを行なう原則は何か、神の働きの本質は何かを確かめ、それらを使って、私たちが今日歩んでいる道が正しいかどうかを確認し、このようにしてそれを確信しよう」。福音を説きたいのであれば、特に宗教界の人々に対して説きたいのであれば、聖書を理解し、その内情を熟知しなければならない。そうしなければ、あなたに福音を説く術はない。ひとたび全体像を熟知し、聖書の死んだ言葉を細かく詮索するのを止め、神の働きといのちの真理だけを語るようになれば、真の心で探求している人々を得ることができるだろう。
ヤーウェの働き、ヤーウェが定めた律法、ヤーウェが人間の生活を導く原則、律法の時代にヤーウェが行なった働きの内容、ヤーウェが律法を定めた意義、ヤーウェの働きがもつ恵みの時代にとっての意義、そしてこの最終段階において神が行なうこと。これらが、あなたがたが理解しなければならない事柄である。第一段階は律法の時代の働き、第二段階は恵みの時代の働き、第三段階は終わりの日の働きである。あなたがたは、神による働きのこれらの段階を理解しなければならない。初めから終わりまで、あわせて三段階ある。働きの各段階の本質は何か。六千年にわたる経営(救いの)計画において何段階が実行されるのか。各段階はいかにして実行されるのか、そして各段階が特定の方法で実行されるのはなぜか。これらはどれも極めて重要な問題である。各時代の働きには象徴的な価値がある。ヤーウェはどのような働きを行なったのか。なぜその特定の方法で行なったのか。なぜヤーウェと呼ばれたのか。また、イエスは恵みの時代にどのような働きを行なったのか。いかに行なったのか。働きの各段階とそれぞれの時代によって、神の性質のどの側面が表わされているのか。神の性質のどの側面が律法の時代に表わされたのか。恵みの時代においてはどうか。さらに最後の時代ではどうか。これらの本質的な問題を、あなたがたは理解しなければならない。神の性質のすべては六千年にわたる経営計画を通じて表わされてきた。それは恵みの時代、もしくは律法の時代においてのみ表わされたのではなく、ましてや終わりの日のこの時期にだけ表わされるのでもない。終わりの日になされる働きは、裁き、怒り、刑罰を表わす。終わりの日になされる働きが、律法の時代の働きや、恵みの時代の働きに取って代わることはできない。しかし、これら三段階は互いに繋がって一つの実体を成し、いずれも一つの神の働きである。当然、この働きの遂行は別々の時代に分割されている。終わりの日になされる働きはすべてに終わりをもたらし、律法の時代になされた働きは始まりの働きであり、恵みの時代になされた働きは贖いの働きだった。この六千年にわたる経営計画全体の働きのビジョンについては、誰も識見や理解を得ることはできない。それらのビジョンは神秘的なままである。終わりの日においては、神の国の時代を始めるべく言葉の働きだけがなされるものの、それはすべての時代を表わすものではない。終わりの日は終わりの日以上のものではなく、神の国の時代以上のものでもない。また恵みの時代や律法の時代を表わすものでもない。終わりの日には六千年にわたる経営計画のすべての働きがあなたがたに表わされる、というだけのことである。それは奥義のヴェールを取り除くことである。このような奥義について、人がそのヴェールを取り除くことはできない。人が聖書についていかに深く理解していても、その理解が言葉以上のものになることはない。人は聖書の本質を理解していないからである。人は聖書を読むとき、何らかの真理を理解したり、いくつかの言葉を説明したり、有名な聖句や章を細かく調べ上げたりするかもしれないが、それらの言葉に含まれている意味を取り出すことはできないだろう。なぜなら、人が見ているのはどれも死んだ言葉であり、ヤーウェやイエスの働きの場面ではなく、人にはそのような働きの奥義を解明する術がないからである。よって、六千年にわたる経営計画の奥義は最も偉大な奥義であり、最も深く隠されていて、人にはまったく理解できないものである。神自身が人に説明して明かさない限り、誰も神の旨を直接把握することはできない。さもなければ、それらは永遠に人間にとって謎のままで、封印された奥義であり続けるだろう。宗教界の人たちはさておき、あなたがたも今日まだ伝えられていなかったなら、把握することはできなかっただろう。この六千年の働きは、預言者たちによるすべての預言よりも神秘に満ちている。これは天地創造から現在に至る中で最大の奥義であり、歴代の預言者の誰も理解できたことがない。なぜなら、この奥義は最後の時代においてのみ解明され、それまでに明らかにされたことがないからである。あなたがたがこの奥義を把握し、完全に受け取ることができるならば、宗教の人々も残らずこの奥義によって征服されるだろう。この奥義だけが最も偉大なビジョンであり、人間はそれを理解したいと強く渇望するが、それはまた人間にとって極めて不明瞭なものである。恵みの時代、イエスの行なった働きは何か、ヤーウェの行なった働きは何かをあなたがたは知らなかった。人々は、ヤーウェが律法を定めたのはなぜか、律法を守るよう大衆に命じたのはなぜか、神殿を建てなければならないのはなぜかを理解せず、ましてやイスラエル人がエジプトから荒れ野に連れ出され、その後カナンへと導かれたのはなぜかも理解しなかった。この日に至るまで、これらのことが明らかにされることはなかったのである。
終わりの日における働きは三段階のうち最後の段階である。それはもう一つの新しい時代の働きであり、経営の働き全体を表わすものではない。六千年にわたる経営計画は三段階の働きに分けられる。どの一段階も、それだけで三つの時代の働きを表わすことはできず、全体の一部しか表わせない。ヤーウェの名が神の性質全体を表わすことはできないのである。ヤーウェが律法の時代に働きを行なったという事実は、神が律法の下でしか神でいられないことを証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を築くように求めた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表わす。ヤーウェが行なったこの働きは、神は人間に律法を守るよう求める神でしかないとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だなどと証明するものではない。そのように言うのは誤りだろう。律法の下でなされた働きは一つの時代しか表わせない。よって、もしも神が律法の時代の働きだけを行なったのであれば、人は神を次の定義の中に閉じ込めるだろう。つまり、「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣をまとって神殿に入らなければならない」という定義である。恵みの時代の働きが実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神が慈悲と愛にも溢れていたことを人間は知らなかっただろう。律法の時代の働きが行なわれず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことしかできないのだと、すべての人が認識しただろう。神は聖く汚れのない存在であり、人間のために自分を犠牲にし、十字架にかけられることができるとしか、人間は認識しなかったはずである。人はそれらのことしか知らず、他の何も理解しなかっただろう。したがって、それぞれの時代は神の性質の一部だけを表わすのである。律法の時代、恵みの時代、そして今の時代のそれぞれにおいて、神の性質のどの側面が表わされているかに関して言えば、これら三つの時代を一つの全体として統合して初めて、神の性質の全体を表わすことができる。これら三段階をすべて知って初めて、人はそれを完全に理解することができるのである。この三段階のどれも省略することはできない。これら三段階の働きを知るようになると、神の性質全体を見ることができる。神が律法の時代における働きを完成させた事実は、神が律法の下の神でしかないことを証明するものではなく、また神が贖いの働きを完成させた事実は、神が永遠に人類を贖うことを意味するものではない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代はすでに終わりを迎えたが、神は十字架のものでしかなく、十字架だけが神の救いを表わすと言うことはできない。そのように言うのであれば、神を定義していることになる。現在の段階において、神はおもに言葉の働きを行なっているが、神は人に対して憐れみ深かったことなどなく、神がもたらしたのは刑罰と裁きだけだなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェの働きとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを示し、人類のあいだにおける救いの働きを残らず終わらせるためである。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてを終わらせる。人に理解されていなかったすべての奥義が解明され、人がその奥義を徹底的に解き明かし、心の中で完全にはっきり理解できるようにしなければならない。その時初めて、人類を種類に応じて分類することができるのである。六千年にわたる経営計画が完成されて初めて、人は神の性質全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営はその時すでに終わっているからである。いま、最後の時代における神の働きをあなたがたはすでに経験したわけだが、神の性質とは何か。神は言葉を語る神に過ぎないと、あなたはあえて言うつもりか。こんな結論を出そうなどとは思わないはずだ。中には、神は奥義を解明する神であるとか、神は小羊であり、七つの封印を解くものであると言う人々がいる。とは言え、あえてこのような結論を出す者など一人もいない。また、神は受肉した肉体だと言う人がいるかもしれないが、これもまだ正しくないだろう。さらに、受肉した神は言葉を語るだけで、しるしや不思議は行なわないという人がいる。まさか、あなたはあえてこのようには言わないだろう。なぜなら、イエスは肉となってしるしや不思議を行なったからであり、ゆえにあなたは軽々しく神を定義することなどしないはずだ。六千年にわたる経営計画を通じて行なわれたすべての働きは、今やっと終わりに近づいてきた。その働きのすべてが人に明かされ、人類のあいだで実行されて初めて、人は神の性質、そして神が所有するものと神そのものを残らず知る。この段階の働きが完全に終わったとき、人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされ、これまで理解されなかったすべての真理が明確になり、人類は未来の道と終着点を告げられているだろう。これこそが、現段階でなされるべき働きの全体である。人間が今日歩く道は十字架の道であり、苦難の道でもあるが、人間が実践すること、および今日飲み食いして享受することは、律法の下にいる人間、また恵みの時代の人間に降りかかったこととは大きく異なる。今日人に求められることは、過去に求められたこととは異なり、律法の時代に求められたこととはさらに異なる。さて、神がイスラエルで働きを行なっていたとき、律法の下で人に求められたことは何だったか。それは、人は安息日とヤーウェの律法を守らなければならない、ということだけだった。安息日には誰も働くことが許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日でも、人はいつものように働き、集まり、祈り、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けなければならず、それに加えて断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭を覆い、他人の足を洗うことを求められていた。そのような規律は今や廃止されたが、人はもっと大きなことを要求されている。と言うのも、神の働きがますます深まり、人の入りがさらに高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、すべてのことが述べられた現在、按手に何の意味があるのか。言葉だけで成果を挙げることができるのだ。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、病を癒すためだった。当時、聖霊はそのようにして働きを行なったが、今は違う。現在、聖霊は働きを行なって成果を挙げるために言葉を用いる。その言葉はあなたがたに明らかにされたのであり、あなたがたは言われたとおりにそれを実践しなければならない。神の言葉は神の旨であり、神が行なおうと望む働きである。あなたは神の言葉を通じて、神の旨と、神があなたに達成するよう求めていることを理解できる。そして、あなたは按手を必要とせず、ただ神の言葉を直接実践できる。中には「私の上に手を置いてください。あなたの祝福を受け取り、あなたにあずかることができるように、わたしの上に手を置いてください」と言う人もいるだろう。これらはどれも、現在は廃れて時代遅れになった過去の慣習である。聖霊は時代に応じて働きを行なうのであり、無作為に、あるいは一定の規則に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに必ずや新しい働きをもたらす。これはどの段階の働きにも言えることであり、ゆえに神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代、イエスは病を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり、祝福したりするといった働きを数多く行なった。しかし、現在再びそのようなことをするのは無意味だろう。聖霊は当時そのように働きを行なった。それは恵みの時代だったからであり、人が享受する恵みは十分にあった。人はいかなる支払いも求められず、信仰がある限り恵みを受け取ることができた。誰もが非常に寛大に扱われた。今、時代は変わり、神の働きはさらに前進した。そして刑罰と裁きを通じ、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれる。当時は贖いの段階だったので、神はそのように働きを行ない、人が享受するのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、また恵みによって罪が赦されるようにすることを求められたのである。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉の打撃、そして言葉による懲らしめと暴露を通じて人の中の不義を暴き、それによって人が後に救われるためのものである。これは贖いよりもさらに深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が享受するのに十分だった。この恵みをすでに経験した今、人がそれを享受することはもはやない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通じて救われる。裁かれ、罰せられ、精錬されたあと、人の性質は変わる。これはすべて、わたしが語った言葉のゆえではないのか。各段階の働きは、人類全体の進歩と時代に合わせて行なわれる。すべての働きに意義があり、どれも最後の救いのためになされる。それは、人類が将来良い終着点を得られるようにするためであり、人類が最終的に種類に応じて分類されるようにするためである。
終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである。
神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。神の霊が人類のあいだで直接働いたなら、人類は残らず打ち倒されてしまうか、神と接する術がないまま、完全にサタンの虜とされるだろう。最初の受肉は人を罪から贖うもの、つまりイエスの肉体によって人を罪から贖うものだった。言い換えると、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的性質が依然として人の中に残っていたのである。二度目の受肉はもはや罪の捧げ物として仕えるためのものでなく、罪から贖われた人たちを完全に救うものである。そうすることで、赦された人は罪から解放され、完全に清められる。そして変化した性質を獲得することでサタンの闇の影響から自由になり、神の玉座の前に戻るのである。この方法でしか、人は完全に清められない。律法の時代が終わりを迎えて恵みの時代に入った際、神は救いの働きを始めた。それは、神が人間の不従順を裁いて罰し、人類を完全に清める終わりの日まで続く。その時初めて、神は救いの働きを完結させ、安息に入る。よって、三段階の働きのうち、神が受肉して自ら人のあいだで働きを行なったのは二回だけである。それは、働きの三段階のうち一段階だけが人の生活を導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神は肉となることでのみ、人と共に生き、世の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。神はそうすることでのみ、人が被造物として必要とする実践の道を施すことができる。人が神から完全な救いを受けるのは、神の受肉を通じてであり、祈りへの回答として天から直接受けるのではない。なぜなら、人は肉の存在であり、神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づく術などないからである。人が接触できるのは神の受肉した肉体だけであり、この手段を通じてでなければ、人はすべての道と真理を理解し、完全なる救いを受けることができない。第二の受肉は人の罪を一掃し、人を完全に清めるのに十分である。よって、第二の受肉とともに、肉における神の働き全体が終わりを迎え、神の受肉の意義が完成される。その後、肉における神の働きは完全に終了する。第二の受肉の後、神は自身の働きのために三度肉となることはない。神の経営全体がすでに終わっているからである。終わりの日の受肉は、神の選ばれた人を完全に自身のものとし、終わりの日の人類は残らず種類に応じて分類されている。神はもはや救いの働きを行なわず、またいかなる働きであっても、それを実行すべく肉に戻ることもない。終わりの日の働きにおいて、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心に深く埋もれた堕落した性質を残らず暴く。あなたには自分でそれらを認識する術がない。それらが言葉を通じて暴かれるとき、あなたは当然それを見つけるが、否定することはできず、完全に納得するだろう。これが言葉の権威ではないのか。これが現在の言葉の働きによって得られる成果である。したがって、病を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を示すことで人がすっかり完全にされることもないのである。病を癒したり悪霊を追い出したりする権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的性質は依然として人の中に残っている。言い換えると、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているのである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、聖いものとなる。悪霊が人から追い出されたとき、あるいは人が贖われたとき、それはサタンの手から人をもぎ取り、神のもとに戻したという意味でしかなかった。神によって清められておらず、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には汚れ、敵対心、そして反抗心が依然として存在する。人は神による贖いを通じて神のもとに立ち返っただけで、神についての認識が一切なく、依然として神に抵抗し、神を裏切ることができる。人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。たとえば、自分たちがモアブの子孫であることに気づいた人々は、不満の言葉を述べ、いのちを追い求めることをやめ、すっかり否定的になってしまった。これは、人々がいまだ神の支配に完全に服従できないでいることを示しているのではないか。これがまさに、人々の堕落したサタン的性質ではないのか。あなたが刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも高く、イエスの手よりも高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神と心を通わす者になりたまえ。サタンにひれ伏すくらいなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。どうか赤い大きな竜が惨めにも完全に権力の座から落ちるように。どうか神が私たちを完全にするように」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰の時が訪れ、人間の堕落した性質が再び明らかになった。やがて人々の叫びは途絶え、彼らの決意は失われた。これが人間の堕落である。それは罪より根深く、サタンによって植えつけられ、人の奥深くに根ざしたものである。人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。人が過去にそう叫んだのは、自分本来の堕落した性質を認識していなかったからである。これが人間の中に存在する不純なものである。これほど長期間にわたる裁きと刑罰の中、人間はずっと緊張状態の中で生きた。これはすべて言葉によって成し遂げられたのではなかったか。効力者の試練に先立ち、あなたも大声で叫んだのではないか。「神の国に入れ。この名を受け入れる者はみな、神の国に入るだろう。誰もが神にあずかるだろう」と。効力者の試練が訪れたとき、あなたはもはや叫ばなかった。初めは誰もが、「ああ、神よ。あなたが私をいかなる場所に置かれようと、私はあなたの導かれるままに従います」と叫んだ。「誰がわたしのパウロになるのか」という神の言葉を読んだ人々は、「私がなります」と言った。次いで「ヨブの信仰についてはどうか」という言葉を目にして、「ヨブの信仰を身につけようと思います。神よ、どうか私を試してください」と言った。効力者の試練が訪れたとき、人々はすぐさま崩れ落ち、再び立ち上がることもままならなかった。その後、彼らの心の中の不純なものは少しずつ減っていった。これは言葉を通じて成し遂げられたのではないか。したがって、あなたがたが今日経験してきたことは、言葉によって達成された成果であり、イエスによるしるしや不思議の働きを通じて達成された成果よりもさらに大きなものである。あなたが目にする神の栄光と神自身の権威は、磔刑を通じて、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことによって見えるだけでなく、神の言葉の裁きを通じてさらにはっきり見えるのである。そのことは、神の権威と力がしるしの働きだけ、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことだけから成っているのではなく、神の言葉の裁きが神の権威をよりよく表わし、神の全能をよりよく明らかにできることを示している。
人が今まで成し遂げてきたこと、つまり現在の人の霊的身丈、認識、愛、忠誠、従順、そして識見は、言葉の裁きによって得られた成果である。あなたが忠誠心をもち、今日まで立ち続けていられるのは、言葉によって成し遂げられたことである。受肉した神の働きが途方もなく素晴らしいことを、人は今や理解しており、そしてそこには、人には達成できず、奥義や不思議であることがたくさんある。ゆえに、多くの人が服従してきたのである。生まれてこのかた誰にも従ったことがない人たちも、今日、神の言葉を目にすると、そうと気づかないまま完全に従い、あえて吟味しようとも、他に何か言おうともしない。人類は言葉の下で倒れ、言葉の裁きの下にひれ伏している。もしも神の霊が直接人に話しかけたら、ダマスコへ向かうパウロが光の中で地にひれ伏したように、人類はみなその声に服従し、暴きの言葉がなくても倒れるだろう。神がこのように働きを続けたなら、人は言葉の裁きを通じて自分の堕落を知ることができず、ゆえに救いも得られないはずだ。神は肉となることでのみ、自身の言葉を自らすべての人の耳元に届けることができ、それによって聞く耳のある人がすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けられるようにする。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるのではない。この実践的でありながら並はずれた働きを通じてのみ、長きにわたって奥深くに潜んでいた人の古い性質が完全に暴かれ、人はそれを認識して変えられるようになる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいて、彼は実践的に語り、裁きを下すことで、言葉による人への裁きという成果を挙げる。これが受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉した神の権威と、言葉の働きが挙げた成果を知らしめるため、また霊が肉において降臨し、言葉による人間の裁きを通じてその権威を実証することを知らしめるためになされる。受肉した神の肉体は平凡かつ普通の人間性の外形だが、受肉した神が権威に満ちており、神自身であり、その言葉が神自身の表現であることを人に示すのは、彼の言葉が挙げる成果である。この手段により、受肉した神が神自身であること、肉となった神自身であること、誰にも犯されないこと、そして誰も言葉による彼の裁きを超えることはできず、いかなる闇の勢力も彼の権威に打ち勝てないことが、全人類に示される。人間が受肉した神に完全に服従するのは、ひとえに彼が肉となったことばであるため、彼の権威のため、そして言葉による彼の裁きのためである。受肉した神の肉体がもたらす働きは、彼のもつ権威である。神が肉になるのは、肉もまた権威をもつことができ、また受肉した神が現実的な方法で、つまり人が見たり触れたりできるような方法で、人類の間で働きを行なうことができるからである。その働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりもはるかに現実的で、その成果も明らかである。これは、受肉した神の肉体が実践的な方法で語り、働きを行なえるからである。受肉した神の肉の外形は権威をもたず、人が近づけるものである。一方、受肉した神の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。受肉した神が語り、働きを行なうとき、人は彼の権威の存在を感じ取れない。それにより、受肉した神は実際的な性質をもつ働きを容易に行なえる。その実際的な働きはすべて成果を挙げることができる。受肉した神が権威をもつことに誰も気づかなかったとしても、あるいは彼が誰にも犯されないことや、彼の怒りを誰一人知らなかったとしても、ヴェールに包まれた自身の権威、隠された怒り、そして自身が公然と語る言葉を通じ、彼は意図していた自身の言葉の成果を挙げる。言い換えると、受肉した神の口調、言葉の厳しさ、そして彼の言葉のあらゆる知恵を通じて、人は完全に納得するのである。このようにして、人は一見何の権威もないかのような受肉した神の言葉に服従し、それによって人の救いという神の目的を成就させるのである。これが受肉の意義のもう一つの側面である。つまり、より現実的に語り、自身の言葉の現実が人に効果を発揮するようにして、その結果、人は神の言葉の力を目の当たりにできる。したがって、この働きが受肉によってなされなければ、それはほんの少しも成果を挙げることができず、罪人たちを完全に救うことができない。もしも肉にならなければ、神は人には見ることも触れることもできない霊のままだろう。人は肉の被造物であり、人と神は二つの異なる世界に属し、違う性質を有している。神の霊は肉でできた人と相容れることができず、両者の間に関係を築く術はなく、また言うまでもなく、人が霊になることはできない。そうであれば、自身本来の働きを行なうべく、神の霊は被造物の一つにならなければならない。神は最も高い場所に昇ることもできれば、へりくだって人間という被造物になり、人類のあいだで働きを行ない、その中で暮らすこともできる。しかし、人は高みに昇って霊になることができず、ましてや最も低い場所に降りることなどできない。神が肉となって自身の働きを実行しなければならないのは、それが理由である。同じように、最初の受肉の際、受肉した神の肉体だけが磔刑を通じて人類を贖えたのであり、その一方、神の霊が人のための捧げ物として十字架にかけられることは不可能だったに違いない。神は直接肉になり、人のための捧げ物となることができたが、人が直接天に昇り、神が人のために用意した罪の捧げ物を受け取ることはできなかった。そういうわけで、可能なのは天地を何度か行き来するよう神に求めることだけで、人間を天に昇らせ、その救いを受け取らせるのは不可能だろう。と言うのも、人はすでに転落しており、またそれ以上に、人が天に昇ることは到底できず、まして罪の捧げ物を得るなど不可能だからである。よって、イエスが人類のあいだに来て、人には到底成し遂げられない働きを自ら行なうことが必要だった。神が肉となるたび、絶対にそうする必要がある。もしもいずれかの段階が神の霊によって直接行なわれることができたなら、神が受肉という屈辱に耐えることはなかっただろう。
この最後の段階の働きにおいて、成果は言葉によって達成される。人は言葉を通じ、多くの奥義や、過去の世代を通じて神が行なってきた働きを理解するようになる。人は言葉を通じて聖霊に啓かれ、過去の世代が解明し得なかった奥義、昔の預言者たちや使徒たちの働き、そして彼らの働きの原則を理解するようになる。人は言葉を通じて神自身の性質を理解するようになると同時に、人の不従順や反抗心を理解し、自分の本質を認識するようになる。これらの働きの段階と、語られたすべての言葉を通じ、人は霊の働き、神の受肉した肉体の働きを知り、さらにはその性質全体を知るようになる。六千年以上にわたる神の経営の働きについても、あなたはそれに関する認識を言葉によって得た。自分の以前の観念を知ったのも、それを脇にのけることができたのも、言葉を通じてではなかったのか。前の段階で、イエスはしるしや不思議の働きを行なったが、この段階にしるしや不思議はない。なぜ神がしるしや不思議を示さないのかという理解も、言葉を通じて得られたのではないのか。よって、この段階で語られる言葉はかつての世代の使徒たちや預言者たちによってなされた働きを越えている。預言者たちによる預言でさえも、このような成果を挙げることはできなかった。預言者たちは預言だけ、つまり将来何が起こるかを語っただけで、当時神が行なおうと望んでいた働きについては語っていない。彼らは人類の生活を導くため、人類に真理を授けるため、あるいは彼らに奥義を明かすために語ったのではなく、ましてやいのちを授けるために語ったのでもない。この段階で語られる言葉には預言と真理があるものの、それらはおもに人にいのちを授けるためのものである。現在の言葉は預言者たちの預言と異なる。これは預言を語るためでなく、人のいのちのため、人のいのちの性質を変えるための働きの段階である。最初の段階はヤーウェの働きであり、人が地上で神を礼拝するよう、その道を整える働きだった。それは地上において働きの源となる場所を見つけるという、始まりの働きだったのである。当時、ヤーウェはイスラエルの民に対し、安息日を守り、両親を敬い、互いに平和に暮らすよう教えた。なぜなら当時の人々は、人間とは何であるかも、地上でどのように生きるべきかも理解していなかったからである。神はその最初の働きの段階において、人類の生活を導く必要があった。ヤーウェが彼らに語ったことは、人類がそれまで認識しておらず、所有もしていないものばかりだった。当時、神は多くの預言者を立ち上がらせて預言を語らせたが、彼らはみなヤーウェの導きの下でそうしたのである。これは単に神の働きの一つだった。最初の段階で神が肉となることはなく、よって神は預言者たちを通じてあらゆる部族や国々に指示を与えた。イエスは自身の生涯において働きを行なったとき、今日のように多くは語らなかった。終わりの日におけるこの言葉の働きの段階が、かつての時代や世代において行なわれたことはない。イザヤ、ダニエル、そしてヨハネは多くの預言を語ったが、彼らの預言は今語られている言葉とまったく異なっていた。彼らが語ったことは預言でしかなかったが、今語られている言葉は違う。わたしが今話していることをすべて預言にしたなら、あなたがたは理解できるだろうか。わたしが語ったのが、わたしが去ったあとのことについてだったとしたら、あなたはどうしてそれを理解できただろうか。言葉の働きはイエスの時代にも律法の時代にも決してなされなかった。中には「ヤーウェも自身の働きを行なった際に言葉を語りませんでしたか。イエスも病を癒したり、悪霊を追い出したり、しるしや不思議の働きを行なったりするのに加えて、その時言葉を語りませんでしたか」と言う人がおそらくいるかもしれない。言葉がどのように語られるかには違いがある。ヤーウェが発した言葉の本質は何だったか。ヤーウェは地上における人類の生活を導いただけで、それはいのちにおける霊的な事柄とは無関係だった。ヤーウェが語ったとき、それはすべての地で人々に指示を与えるためだったと言われているのはなぜか。「指示を与える」という言葉は、明白に語り、直接命じることを意味する。ヤーウェは人にいのちを施したのではなく、むしろただ人の手を取って、どのようにヤーウェを崇めるべきかを教えたのであり、たとえ話で教えることはあまりなかった。イスラエルにおいてヤーウェが行なった働きは、人を取り扱ったり鍛練したりするものでも、裁きや刑罰を与えるものでもなく、人を導くものだった。ヤーウェはモーセに対し、神の民に荒野でマナを集めさせるよう命じた。毎朝日の出前に、彼らはその日に食べる分だけマナを集めなければならなかった。マナは翌日まで保存することができなかった。次の日になるとカビが生えたからである。ヤーウェは人々に説教したり、人間の本性を暴いたりすることはせず、人の発想や思考を暴露することもしなかった。ヤーウェは人々を変えなかったが、彼らの生活を導いた。当時、人は子どもと同じで何も理解せず、いくつかの基本的な機械的動作しかできなかった。よって、ヤーウェは大衆を導くために律法を制定しただけなのである。
福音を広め、それによって真の心で探求するすべての人たちが、今日なされている働きを認識し、完全に確信できるようにするためには、それぞれの段階でなされた働きの内情、本質、意義をはっきりと理解しなければならない。あなたの交わりを聞くことで、人々がヤーウェの働きとイエスの働きを理解し、またそれ以上に、今日の神によるすべての働き、そして三段階の働きの関係と違いも理解できるようにしなさい。三段階のどれも他の段階を妨害しないが、それらはすべて同じ霊による働きであることを、話を聞き終えた人々が理解できるようにしなさい。それらは異なる時代に働きを行ない、その内容も異なり、それらが語る言葉も異なるが、働きを行なう原則は一つのもの、同じものである。これらのことは神に従うすべての人が理解すべき最も偉大なビジョンである。
神が初めて肉となったのは聖霊による受胎を通じてであり、それは神が行なおうとする働きに関係していた。恵みの時代はイエスの名と共に始まった。イエスが自身の職分を始めたとき、聖霊はイエスの名に対する証しを始め、ヤーウェの名はもはや語られなかった。その代わり、聖霊はおもにイエスの名のもとに新しい働きに着手した。神を信じる人たちの証しはイエス・キリストのためになされ、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためだった。旧約聖書における律法の時代の終わりは、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きが完結したことを意味していた。その後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神は代わりにイエスと呼ばれ、それ以降、聖霊はおもにイエスの名のもとで働きを始めることになった。人々は今日もなおヤーウェの言葉を飲み食いし、いまだに律法の時代の働きにしたがってあらゆることを行なっているが、あなたは盲目的に規則に従っているのではないか。過去から抜け出せずにいるのではないか。現在、あなたがたは終わりの日が来たことを知っている。イエスが来るとき、彼はやはりイエスと呼ばれるということなのか。ヤーウェはイスラエルの人々にメシアが来つつあると言ったが、メシアが本当に来たとき、それはメシアでなくイエスと呼ばれた。イエスは、自分は再び来る、去ったときと同じように現われると言った。これらはイエスの言葉だが、あなたはイエスの去り方を見たのか。イエスは白い雲に乗って去ったが、白い雲に乗って自ら人々のもとに戻ってくるということなのか。そうであれば、やはりイエスとは呼ばれないのだろうか。イエスが再び来るとき、時代はすでに変わっているが、それでもやはりイエスと呼ばれることがあり得るのか。神はイエスという名でしか知られないということなのか。神が新しい時代に新しい名で呼ばれることはないのか。ひとりの人の姿とある特定の名前が神の全体を表わすことができるのか。それぞれの時代、神は新しい働きを行ない、新しい名で呼ばれる。どうして神が異なる時代に同じ働きを行なえるのか。どうして神が古いものにしがみつけるというのか。イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき、依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスはまだ贖いの働きを行なっているのだろうか。ヤーウェとイエスは一つでありながら、異なる時代に異なる名前で呼ばれるのはなぜか。それは働きの時代が違うからではないのか。一つの名前で神の全体を表わすことができるのだろうか。そのようなわけで、神は異なる時代に異なる名前で呼ばれなければならず、名前を使って時代を変え、時代を表わさなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神を完全に表わすことはできず、それぞれの名前はある時代における神の性質の一時的な側面しか表わせないからである。必要なのは、神の働きを表わすことだけである。よって、神は時代全体を表わすために、どんな名前であれ自身の性質に合う名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代であれ、イエスの時代であれ、それぞれの時代は名前によって表わされている。恵みの時代の終わりに最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのに、神はどうしていまだにイエスと呼ばれ得るのか。どうして人々のあいだでイエスの姿をとれるのだろうか。イエスはナザレ人の姿に過ぎなかったことを忘れたのか。イエスは人類の贖い主でしかなかったことを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し、完全にする働きに取り組めるというのか。イエスは白い雲に乗って去って行った。それは事実である。しかし、イエスが白い雲に乗って人間のもとに帰ってきて、依然イエスと呼ばれることなどどうしてあり得ようか。イエスが本当に雲に乗って来たなら、人間が認識できないのはどういうことだろうか。世界中の人々がイエスを認識するのではないだろうか。その場合、イエスだけが神だということになるのではないか。その場合、神の姿はユダヤ人の外見であり、またそれ以上に、永遠に同じということになるはずだ。イエスは、自分は去ったときと同じように来ると言ったが、その言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。あなたがたの集団に告げたということがあり得るのか。あなたが知っているのは、イエスは去ったときと同じく、雲に乗って来るということだけである。しかし、神自身がいかに自分の働きを行なうのか、あなたは正確に知っているのか。あなたが本当にわかっているのなら、イエスが語った言葉はいかに説明されるのか。イエスは、「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての人も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」と言った。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見て知ることができるのであれば、これらの言葉は無駄に語られたことにならないだろうか。そしてその際、イエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。……だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのかは、人の子自身も知らない。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、普通で平凡な人である。人の子自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。イエスは、去った時と同じように来ると言った。いつ来るのかは、イエス自身も知らないのである。ならば、イエスがあなたに前もって知らせることができるだろうか。あなたは彼の到来を見ることができるのか。それは冗談ではないのか。神は地上に来るたび、自身の名前、性別、姿、働きを変えるものの、自身の働きを繰り返すことはない。神は常に新しく、決して古くない神である。以前に来たとき、神はイエスと呼ばれた。再び到来した今回、神はやはりイエスと呼ばれ得るのか。以前に来たとき、神は男性だった。今回も男性であり得るのか。神が恵みの時代に来たとき、その働きは十字架にかけられることだった。神が再び来るとき、依然として人類を罪から贖い得るのか。再び十字架にかけられ得るのか。それは自身の働きを繰り返すことではなかろうか。神は常に新しく、決して古くないことを知らないのか。神は不変だという人たちがいる。それは正しいが、そのことは神の性質と本質が変わらないことを指している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わらない。神の働きは決して変わらないと言うのなら、神が六千年にわたる自身の経営(救いの)計画を終えることはできるだろうか。あなたは神が永遠に不変であることしか知らないが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代までずっと導くことができただろうか。神が不変なら、すでに二つの時代の働きを行なったのはなぜか。神の働きは止まることなく前進している。つまり、神の性質が徐々に人間に明かされており、そして明かされているのは神の本来の性質である。最初のころ、神の性質は人から隠されていて、神は決して自身の性質を人に公然と明かさず、人は神についての認識がまったくなかった。そのため、神は働きを用いて自身の性質を徐々に人に明かした。しかし、そのように働くことは、神の性質が時代ごとに変化するという意味ではない。神の旨が常に変わるために、神の性質が絶えず変化しているということではない。むしろ、神の働きの時代が異なるため、神は自身の本来の性質全体を一つひとつ人に明かし、それによって人は神を知ることができるのである。しかしそれは、神がもともと特有の性質をもたないことの証明でも、神の性質が時代と共に徐々に変わっていったことの証明でもない。そのような理解は間違いだと言えよう。時代の移り変わりに応じて、神は人に対し、自身だけがもつ固有の性質、すなわち神そのものを明らかにする。一つの時代の働きで神の性質全体を表現することはできない。だから「神は常に新しく、決して古くない」という言葉は神の働きを指しているのであり、また「神は不変である」という言葉は、神が本来所有するものと神そのものを指しているのである。いずれにせよ、六千年の働きを一点に絞ることはできないし、死んだ言葉で限定することもできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するほど単純ではないし、神の働きが一つの時代に留まることもあり得ない。たとえば、ヤーウェは常に神の名前を表わすわけではない。神はイエスの名のもとでも働くことができる。そのことは、神の働きが常に前へと進んでいることのしるしである。
神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることがない。神の本質、神が所有するものと神そのものは決して変わることがない。しかし、神の働きについて言えば、それは常に前へと進んでおり、絶えず深化している。神は常に新しく、決して古くないからである。神は時代ごとに新しい名前を名乗り、時代ごとに新しい働きを行ない、また時代ごとに、被造物に対して自身の新しい旨と新しい性質を見せる。新しい時代において、もし人々が神の新しい性質の表われを見られなければ、彼らは永遠に神を十字架にかけるのではないだろうか。またそうすることで、神を定義するのではないだろうか。もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある。神は終わりの日における新たな働きの段階に入っている。神は自身の性質をより一層明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神の手には新たな働きがあるので、それは新たな性質を伴う。ゆえに、もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神が受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通じて直接語り、人間には神と直接接触する術がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができるだろうか。もしもこの働きを行なうのが霊だけであれば、人間に神の性質を知る術はないだろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言葉が肉において現われるとき、そして神が自身の性質全体を肉によって表現するときだけである。神は本当に、真に人間のあいだで暮らしている。神は触れることができ、人間は神の性質、および神が所有するものと神そのものと実際に関わりをもつことができる。そうすることでのみ、人間は真に神を知るようになるのである。また同時に、神は「男たちの神であり、女たちの神である」という状態での働きを完了させ、肉における自身の働きを残らず成し遂げた。どの時代においても、神は自身の働きを繰り返さない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日に行なう働きを行ない、終わりの日における自身の性質を余すところなく現わす。終わりの日と言うとき、それは別の時代を指しており、その際イエスは、あなたがたは必ずや災害に見舞われ、地震、飢饉、疫病に遭遇すると言ったが、そのことは、それが新しい時代であり、もはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。人々が言うように、神が永久に不変で、その性質は常に憐れみ深く慈愛に満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神の働きが終わりを迎えることは果たしてあるだろうか。到来して十字架にかけられ、すべての罪人のために自分を犠牲にし、自身を祭壇に捧げたとき、イエスはすでに贖いの働きを完了させ、恵みの時代に終止符を打っていた。ならば、終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何だろうか。同じことをするのは、イエスの働きを否定することではないだろうか。もしも神がこの段階に来た際に磔刑の働きを行なわず、慈愛に満ちて憐れみ深いままならば、時代を終わらせることができるだろうか。慈愛に満ちて憐れみ深い神は、その時代に終止符を打つことができるだろうか。時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。
神の経営のすべてにおよぶ神の働きは完全に明白である。恵みの時代は恵みの時代であり、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代には明確な違いがある。と言うのも、神はそれぞれの時代にその時代を表わす働きを行なうからである。終わりの日の働きがなされるには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。終わりの日は最後の時代を指している。最後の時代において、神は時代を終わらせないのか。時代を終わらせるため、神は自ら刑罰と裁きをもたらさなければならない。このようにしてのみ、神は時代を終わらせることができる。イエスの目的は、人が生存して生き続けられるようにすること、そしてより良い方法で存在できるようにすることだった。人が堕落に陥るのをやめ、それ以上ハデスと地獄の中で生きることがないよう、イエスは人間を罪から救い、また人間をハデスと地獄から救い出すことで、その人が生き続けられるようにした。今や終わりの日は来ている。神は人を絶滅させ、人類を完全に滅ぼすだろう。つまり、神は人類の反逆心を変えるのである。そのため、神が憐れみ深く愛に満ちたかつての性質をもって時代を終わらせるのは不可能であり、六千年にわたる経営計画を結実させることもできないだろう。すべての時代は神の性質の特別な表われを特徴とし、すべての時代は神によってなされるべき働きを含んでいる。したがって、それぞれの時代で神自身によってなされる働きは神の真の性質の表現を含んでおり、神の名前と神の行なう働きはいずれも時代とともに変わり、それらはすべて新しい。律法の時代、人類を導く働きはヤーウェの名のもとになされた。そして第一段階の働きは地上で始められた。この段階において、働きは神殿と祭壇を建てること、および律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らのさなかで働くことから成っていた。イスラエルの人々を導くことで、神は地上における働きの拠点を築いた。この拠点から、神は自身の働きをイスラエルの外に拡張させた。すなわち、イスラエルを皮切りに、自身の働きを外に向けて拡張したのである。それにより、後の世代は徐々に、ヤーウェが神であること、天地と万物を造ったのがヤーウェであること、そしてすべての被造物を造ったのもヤーウェであることを知るようになった。神はイスラエルの人々を通じ、自身の働きを外に向けて広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地であり、神が地上で働きを行なうべく最初に来たのもイスラエルの地だった。それが律法の時代の働きだった。恵みの時代、イエスは人を救う神だった。イエスが所有するものとイエスそのものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行なった働きの多くは人の贖いのためだった。イエスの性質は憐れみと愛であり、イエスは憐れみと慈愛に満ちていたので、人間のために十字架にかけられる必要があった。そうすることで、神は自身のすべてを捧げるほど、人類を自分のように愛していることを示したのである。恵みの時代、神の名はイエスであり、それはつまり、神は人類を救う神であり、憐れみと慈愛に満ちていたということである。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いは一人ひとりに伴っていた。イエスの名前と存在を受け入れることでのみ、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、無数の大いなる恵み、そして救いを受け取ることができたのである。イエスの磔刑を通じ、イエスに従うすべての人が救いを受け、その罪が赦された。恵みの時代、イエスは神の名だった。つまり、恵みの時代の働きはおもにイエスの名のもとでなされたのである。恵みの時代において、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きの段階に着手し、その働きは磔刑で終わった。それがイエスの働きのすべてだった。したがって、律法の時代においてはヤーウェが神の名であり、恵みの時代においてはイエスの名が神を表わした。終わりの日、神の名は全能神、すなわち全能者であり、自身の力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、また神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。
最初、旧約聖書の律法の時代に人間を導くのは、子どもの生活を導くようなものだった。原初の人類はヤーウェから生まれたばかりで、彼らこそイスラエル人だった。彼らはいかに神を崇めるべきかも、いかに地上で生きるべきかも分からなかった。言うなれば、ヤーウェは人類を創造したが、つまりアダムとエバを造ったが、ヤーウェをいかに崇めるべきかや、地上におけるヤーウェの掟をいかに守るべきかを理解する能力を人類に与えなかったのである。ヤーウェによる直接の導きがなければ、誰もそれらを直接知ることはできなかった。最初のうち、人間はそのような能力をもっていなかったからである。人間はヤーウェが神であるということだけを知っており、いかに神を崇めるべきか、どのような行為が神を崇めることだと言えるのか、どのような心で神を崇めるべきか、あるいは神への畏敬のしるしとして何を捧げるべきかについて、何一つまったく知らなかった。人間は、ヤーウェが創造した万物のなかで享受できるものをいかに享受するかしか知らなかった。地上におけるどういった生活が神の被造物にふさわしいかということについて、人間は少しも知らなかった。彼らに指導する者、彼らを直接導く者がいなければ、このような人間たちは人類にふさわしい生活を送ることなく、密かにサタンの虜にされていただけだろう。ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのため、人類の創造におけるヤーウェの働きは半分しか完了しておらず、完成にはほど遠かった。ヤーウェは土で人間の雛形を造り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を授けることはなかった。最初のころ、人間は神を崇めたり恐れたりする心をもたなかった。神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上の生活についての基本的知識や人間生活の正しい規則に関しては無知だった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り、七日間の計画を終えたものの、人間の創造を完成させることは決してなかった。人間は殻でしかなく、人であることの現実を欠いていたからである。人は、人類を創造したのがヤーウェであることしか知らず、ヤーウェの言葉や律法にどう従うべきかについては何も知らなかった。だから人類が存在するようになった後も、ヤーウェの働きは完成からほど遠かった。それでもヤーウェは、人々が地上で共に暮らし、ヤーウェを崇めることができるよう、またヤーウェの導きのもと、人々が地上における正常な人間生活の正しい軌道に入れるよう、人間をしっかりと導き、自身の面前に来させる必要があった。そうすることでのみ、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そのようにして初めて、ヤーウェの創世の働きが完全に完了したのである。このように、人類を創造したヤーウェは、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における正常な人間生活のあらゆる活動に携われるよう、地上における人類の生活を何千年間も導かねばならなかった。そのとき初めてヤーウェの働きは完全に完成したのである。ヤーウェは人類を創造した後でこの働きに着手し、ヤコブの時代まで、つまりヤコブの十二人の息子たちをイスラエルの十二部族にするまで続けた。それ以降、イスラエルのすべての人が地上で正式にヤーウェによって導かれる人種となり、イスラエルはヤーウェが自身の働きを行なう、地上における特別な場所となった。ヤーウェはこれらの人々を、自身が地上において正式に働きかける最初の集団とし、イスラエルの全土を自身の働きの発祥の地としたうえで、彼らをさらに偉大な働きの先駆けとして用いた。そうすることで、ヤーウェから生まれた地上のすべての人が、いかにヤーウェを崇めるべきか、いかに地上で生きるべきかを知るようにしたのである。このように、イスラエル人の行ないは、異邦の民族の人々が後に続くべき模範となり、またイスラエルの人々のあいだで語られたことは、異邦の民族の人々が耳を傾けるべき言葉となった。なぜなら、イスラエルの人々はヤーウェの律法と掟を受け取った最初の民であり、ヤーウェのさまざまな道をいかに崇めるべきかを最初に知った民だったからである。イスラエルの人々はヤーウェの道を知る人種の祖先であり、ヤーウェに選ばれた人種の代表でもあった。恵みの時代が到来したとき、ヤーウェはもはや人間をこのようには導かなかった。人間は罪を犯し、自らを罪にゆだねてしまっていたので、神は人間を罪から救い始めた。このように、人間が罪から徹底的に救い出されるまで、神は人間をとがめた。終わりの日、人間はそこまで堕落してしまったので、この段階の働きは裁きと刑罰を通じてでなければ行なうことができない。この方法によってのみ、働きは達成され得る。これは複数の時代の働きだった。つまり、神は自らの名前、働き、そして異なる神の姿を使って各時代を区切るとともに、それらを移り変わらせるのである。神の名前と働きは、神の時代と各時代における神の働きを表わすのである。どの段階においても神の働きが常に同じで、神がいつも同じ名前で呼ばれるなら、人はどのように神を知るのだろうか。神はヤーウェと呼ばれなければならず、ヤーウェと呼ばれる神以外に、他の名前で呼ばれるものは神ではない。あるいは、神はイエスとだけ呼ばれ、イエスという名前を除き、他の名で呼ばれることはない。イエスを別にすれば、ヤーウェは神でなく、全能神も神ではない。神は全能だと人は信じているが、神は人とともにいる神である。そして神は人とともにいるのだから、イエスと呼ばれなければならない。そうすることは教義に従い、神を一定の範囲に束縛することである。ゆえに、それぞれの時代で神が行なう働き、神が呼ばれる名前、神がとる姿、すなわち今日に至るまでの各段階で神が行なう働きは、一つの規律に従うものではないし、いかなる制限を受けることもない。神はヤーウェであり、しかしイエスでもあり、メシヤ、全能神でもある。神の働きは徐々に変わることができ、それにあわせて神の名も変化する。どの一つの名も神を完全に表わすことはできないが、神が呼ばれるすべての名は神を表わすことができ、神が各時代に行なう働きは神の性質を表わしている。終わりの日が訪れるとき、あなたの目にする神が依然としてイエスであり、またそれ以上に、神が白い雲に乗って来て、依然としてイエスの姿をしており、その話す言葉はイエスの言葉のままで、次のように言ったとしよう。「あなたがたは自分のように隣人を愛し、断食して祈り、自分のいのちを大事にするように敵を愛し、他の人に寛容であり、忍耐強く、謙虚であるべきだ。わたしの弟子になる前に、これらのことをすべて実行しなければならない。そうすることで、あなたがたはわたしの国に入ることができる」。これは恵みの時代の働きに属するものではないだろうか。神が述べているのは恵みの時代の道ではないだろうか。これらの言葉を聞くことになれば、あなたがたはどう感じるだろうか。これはやはりイエスの働きだと思わないだろうか。それはイエスの働きを繰り返しているのではないだろうか。人はそこに喜びを見出せるだろうか。あなたがたは、神の働きは今のままで留まり、これ以上進歩しないと感じているかもしれない。神にはそれほどの力しかなく、行なうべき新しい働きはこれ以上ないのであって、神は力を使い果たした、と。今から二千年前は恵みの時代であり、それから二千年後、神は依然として恵みの時代の道を説き、依然として人々に悔い改めさせている。人々は「神よ、あなたにはそれほどの力しかありません。あなたはとても知恵のあるお方だと、私は信じていました。でもあなたは寛容しかご存知でなく、忍耐ばかり気にしておられます。また敵を愛す方法しかご存知でなく、他には何もありません」と言うかもしれない。人の心の中で、神は永遠に恵みの時代の神のままであり、神は慈愛に満ちて憐れみ深いと、人はいつまでも信じている。あなたは、神の働きは常に同じ古い場所で足踏みしていると思っているのか。ゆえに神の働きのこの段階において、神が十字架にかけられることはなく、あなたがたが見て触れるすべてのものは、想像したり聞かされたりしてきたこととまったく異なるだろう。今日、神はパリサイ人とは関わらず、世界が知ることを許してもいない。そして神を知るのは、神に従うあなたがただけである。なぜなら、神が再び十字架にかけられることはないからである。恵みの時代、イエスは自身の福音の働きのために全土で公に教えを説いた。イエスは磔刑の働きのためにパリサイ人と関わった。もしもイエスがパリサイ人と関わり合いにならず、権力者たちがイエスのことを知らなかったならば、どうしてイエスが断罪され、そして裏切られて十字架にかけられるということがあり得ただろうか。したがって、イエスは十字架にかけられるためにパリサイ人と関わったのである。今日、神は試みを避けるべく秘密裏に働きを行なう。二度にわたる神の受肉において、その働きと意義は異なっており、設定も異なっているのだから、どうして神の行なう働きがまったく同じであり得るだろうか。
「神は私たちと共におられる」というイエスの名は、神の性質の全体を表わせるだろうか。神を完全に表現できるだろうか。もしも、神は自身の性質を変えることができないので、イエスと呼ばれることしかできず、他の名をもつことはないと人が言うなら、それらの言葉はまさに冒涜である。あなたは、「神は共におられる」というイエスの名前だけで神の全体を表せると信じているのか。神は多くの名で呼ばれ得るが、それらの多くの名前の中に、神のすべてを要約できるものは一つとしてなく、神を完全に表わせるものもない。それゆえ、神は多くの名前をもっているが、これらの多くの名が神の性質を余すところなく明確に表現することはできない。なぜなら、神の性質はあまりにも豊かで、神に関する人の認識能力を完全に越えているからである。人が人間の言語を使うことで、神を完全な形で要約することはできない。神の性質について自分たちが知っているすべてのことを要約するにあたり、人間には限られた語彙しかない。偉大な、りっぱな、驚くべき、計り知れない、至高の、聖なる、義なる、知恵に満ちたなど、何と多くの言葉があることか。この限られた語彙では、人間が神の性質に関して目の当たりにしたことを、ほんの少しでも記述することは不可能である。やがて、自分の心の中の熱情をもっと上手に記述できるはずだと、他の多くの人がさらに言葉を追加した。神はとても偉大だ。神はとても神聖だ。神はとても美しい。今日、人間がこのように言うことはその頂点に達しているが、それでも自分自身を明確に表現できずにいる。だから、人間にとって神には多くの名前があるものの、神がもつのは一つの名前ではない。なぜなら、神の存在はあまりに豊富で、人間の言語はあまりに乏しいからである。ある一つの特定の言葉や名前では、神の全体を表わすことができない。そうであれば、神の名は固定され得るとあなたは考えているのか。神は極めて偉大で聖いのに、神がそれぞれの新しい時代に名前を変えるのを許さないつもりなのか。したがって、神は自ら働きを行なうそれぞれの時代に、自身が行なおうとしている働きを要約するため、その時代に合った名前を用いるのである。神はその時代における自身の性質を表わすために、一時的な意義を有する特定の名前を用いる。これは、神が自身の性質を表現するために人間の言語を用いるということである。たとえそうでも、霊的な体験をして神をじかに見たことがある多くの人は、この特定の名前が神の全体を表わすことはできないと感じている。ああ、何と救いがたいことか。そのせいで、人間はもはや神を名前で呼ぶことはなく、ただ「神」と呼ぶのである。それはあたかも、人間の心が愛であふれていながら、同時に矛盾に悩まされているかのようである。人間は神をいかに説明すればよいか分からないからである。神そのものは極めて豊かなので、それを表現する術はまったくない。神の性質を要約できる一つの名前はなく、神が所有するものと神そのものを余すところなく表現できる一つの名前もないのである。もしも誰かがわたしに「あなたはいったい何という名前を使うのですか」と尋ねるならば、こう答えるだろう。「神は神である」と。これこそが神にとって最良の名前ではないのか。神の性質の最高の要約ではないのか。そうであれば、神の名を求めてなぜそんなに苦労するのか。どうして名前のことで寝食を忘れ、頭脳を振り絞るのか。神がヤーウェ、イエス、あるいはメシアと呼ばれない日がやって来るだろう。神はただ創造主と呼ばれるのである。その時、神が地上で名乗ったすべての名前は終わりを迎える。なぜなら、地上における神の働きが終わり、その後神の名はなくなるからである。万物が創造主の支配下に入るとき、神がどうして適切ではあるが不完全な名前をもつ必要があるのか。あなたは今なお神の名を求めているのか。神はヤーウェとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神はイエスとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神を冒涜する罪を背負えるのか。神は本来どんな名前ももたなかったということを知るべきである。神には行なうべき働きがあり、人類を経営しなければならなかったのだから、一つや二つの、あるいは多くの名前を名乗っただけのことである。どのような名で呼ばれるにしても、神はそれを自ら自由に選んだのではないか。神がそれを決めるのに、被造物の一つであるあなたを必要とするだろうか。神が呼ばれる名前は、人が理解できること、および人の言語に沿うものだが、その名前は人が考え出せるものではない。天には神がいて、それは神と呼ばれ、偉大な力をもつ神自身であり、大いに知恵があり、大いに高められ、大いに素晴らしく、大いに神秘的で、大いに全能であるとしかあなたは言えず、それ以上は言うことができない。あなたが知り得るのはこのわずかなことだけである。そうであれば、たかだかイエスの名だけで神自身を表わすことができるだろうか。終わりの日が来るとき、神の働きは依然として神が行なうものの、時代が異なるので神の名は変わらなければならないのである。
全宇宙、そしてその上の世界において最も偉大である神は、肉体の姿を用いて自分自身を完全に説明することができるだろうか。神がその肉体をまとうのは、自身の働きの一段階を行なうためである。その肉体の姿には特に何の重要性もなければ、時代の推移とも無関係であり、神の性質とも関係がない。なぜイエスは自分の姿が残るようにしなかったのか。なぜ自分の姿を人に描かせ、それが後の世代に伝えられるようにしなかったのか。イエスの姿は神の姿であると、なぜ人々に認めさせなかったのか。人の姿は神のかたちに創造されたが、人間の外見が神の崇高なる姿を表現するということは果たして可能なのか。神は肉となるとき、天からある特定の肉体へと降臨するだけである。肉体に降臨するのは神の霊であり、神はそれを通じて霊の働きを行なう。肉において表わされるのは神の霊であり、肉において働きを行なうのも神の霊である。肉において行なわれる働きは霊を余すところなく表わしており、その肉体は働きのためにある。しかしそれは、その肉の姿が神自身の真の姿の代わりになれるという意味ではない。それは、神が肉となる目的でも意義でもないのである。神が肉となるのは、ただ霊が自分の働きに適した住みかを見つけ、肉における働きをよりよく成し遂げるためである。そうすることで、人々は神の業を見、神の性質を理解し、神の言葉を聞き、神の働きの不思議を知るのである。神の名前は神の性質を表わし、神の働きは神の身分を表わすが、受肉した神の外見が神の姿を表わすと神が言ったことはない。それは単に人間の観念である。だから、神の受肉にまつわる重要な側面は神の名前、働き、性質、そして性別である。これらは、この時代における神の経営を表わすために用いられる。受肉した神の外見は神の経営とは無関係であり、そのときの神の働きのために過ぎない。しかし、受肉した神が特定の外見をもたないということは不可能なので、神は適切な家族を選んで自身の外見を決める。もしも神の外見に何か表現的な意義があるのなら、神と同じような顔立ちをしている人も全員神を表わしていることになる。これはあまりにひどい間違いではないだろうか。人が礼拝するようにと、イエスの肖像画は人間によって描かれた。そのとき、聖霊は特別な指示を与えなかったので、人は想像によるその肖像画を今日まで伝えた。実を言うと、神の本来の意図によれば、人間はこうするべきではなかった。イエスの肖像画が今日まで残るようになったのは、ひとえに人間の熱意のせいである。神は霊であり、神の姿がどのようなものであるかを、人間が最終的に要約することは決してできない。神の姿は神の性質によってしか表現できないのである。神の鼻、口、目、頭髪の外見について、それらを要約するのはあなたの能力を超えることである。ヨハネは啓示を受けたとき、人の子の姿を見た。その口からは鋭いもろ刃のつるぎが突き出ており、その目は燃える炎のようであり、その頭と髪の毛は羊毛のように白く、その足は光り輝く銅のようで、その胸には金の帯をしめていた。ヨハネの言葉は極めて鮮明だが、彼が描写した神の姿は、何らかの被造物の姿ではなかった。ヨハネが見たのは幻に過ぎず、物質世界の人の姿ではなかった。ヨハネは幻を見たが、神の本当の外見を目にすることはなかった。受肉した神の肉体の姿は、一つの被造物の姿であり、神の性質全体を表わすことはできない。ヤーウェは人類を創造したとき、自分自身のかたちにかたどって人を創り、男と女を創ったと言った。そのとき、ヤーウェは神のかたちに男と女を創造したと言った。人間の姿は神の姿に似ているが、人間の外見が神の姿であるという意味に解釈することはできない。また、人類の言語を使って神の姿を完全に要約することもできない。なぜなら、神はかくも崇高で、かくも偉大で、かくも不思議に満ち、かくも計り知れないからである。
イエスが自身の働きを行なうために来たとき、それは聖霊の指示によるものだった。イエスは聖霊の望み通りに行ない、それは旧約聖書の律法の時代にしたがうものでも、ヤーウェの働きにしたがうものでもなかった。イエスが来て行なった働きは、ヤーウェの律法やヤーウェの戒めを遵守することではなかったが、それらの源泉は同じ一つのものだった。イエスが行なった働きはイエスの名を表わし、恵みの時代を代表した。ヤーウェによってなされた働きについて言えば、それはヤーウェを表わし、律法の時代を代表した。それらの働きは二つの異なる時代における一つの霊の働きだった。イエスが行なった働きは恵みの時代しか代表できず、ヤーウェが行なった働きは旧約聖書の律法の時代しか代表できなかった。ヤーウェはイスラエルの民とエジプトの民を導き、そしてイスラエル以外のあらゆる国の民を導いただけだった。新約聖書の恵みの時代におけるイエスの働きは、神がその時代を導く中で、イエスの名のもとで行なう働きだった。イエスの働きはヤーウェの働きに基づいていて、新しい働きに一切着手せず、イエスが行なったのはヤーウェの言葉にしたがい、ヤーウェの働きとイザヤの預言にしたがうことだけだったと言うのなら、イエスは肉となった神ではなかったはずだ。仮にイエスがそのような形で自身の働きを行なっていたなら、イエスは律法の時代の使徒もしくは働き手だったはずである。もしもあなたの言う通りなら、イエスは一つの時代を始めることも、他の働きを行なうこともできなかっただろう。同じように、聖霊はおもにヤーウェを通じてその働きを行なわなければならず、またヤーウェを通じてでなければ、いかなる新しい働きもできなかっただろう。人がイエスの働きをこのように理解するのは間違っている。イエスによる働きがヤーウェの言葉とイザヤの預言にしたがってなされたと信じるなら、イエスは受肉した神だったのか、それとも預言者の一人だったのか。この見方によれば、恵みの時代などというものはなく、イエスは神の受肉ではなかったということになる。と言うのも、イエスが行なった働きは恵みの時代を表わすことができず、旧約聖書の律法の時代しか表わせなかったからである。あり得るのは新しい時代だけであり、そのときイエスが来て新しい働きを行ない、新しい時代を始め、イスラエルで以前に行なわれた働きを打ち破り、イスラエルでヤーウェが行なった働き、ヤーウェの古い規則、あるいは何らかの規制にしたがって自身の働きを行なうのではなく、むしろなすべき新しい働きを行なったのである。神自身が時代を始めるために来て、神自身が時代を終えるために来るのである。人は時代を始めたり、時代を終えたりする働きをすることができない。到来したイエスがヤーウェの働きを終わらせなかったら、そのことは、イエスはただの人であり、神を表わすことができなかったという証明になるだろう。イエスが来てヤーウェの働きを終わらせ、ヤーウェの働きを引き継ぎ、またそれ以上に自分自身の働き、つまり新しい働きを行なったからこそ、それは新しい時代で、イエスは神自身だったことが証明される。両者ははっきり異なる二つの段階の働きを行なったのである。一つの段階は神殿の中でなされ、もう一つは神殿の外でなされた。一つの段階は律法にしたがって人の生活を導くことであり、もう一つは罪の捧げ物を供えることだった。これら二つの段階の働きは明確に異なっていた。それは新しい時代と古い時代を分け、それらは二つの異なる時代だと言うのは絶対に正しい。両者の働きの場所は異なり、働きの内容も異なり、働きの目的も異なっていた。そのため、それらは二つの時代に区分することができる。つまり新約聖書と旧約聖書であり、すなわち新しい時代と古い時代である。到来したイエスは神殿に入らなかった。そのことは、ヤーウェの時代がすでに終わっていたことを証明する。イエスが神殿に入らなかったのは、神殿におけるヤーウェの働きが終わっており、再度行なわれる必要がなく、再度行なうことは繰り返しになるからである。神殿を離れ、新しい働きを開始し、神殿の外で新しい道を切り開くことでのみ、イエスは神の働きを絶頂に至らせることができたのである。イエスが神殿の外に出て自身の働きを行なっていなければ、神の働きは神殿の基礎に停滞し、なんら新しい変化は起きなかっただろう。だから到来したイエスは神殿に入らず、神殿の中で働きを行なうこともなかったのである。イエスは神殿の外で自身の働きを行ない、弟子を率いて自由に働きに取り組んだ。神が神殿を離れて働きを行なったことは、神に新しい計画があることを意味していた。神の働きは神殿の外で行なわれることになっており、それは実行する方法に拘束されない新しい働きのはずだった。イエスは到来するやいなや、旧約聖書の時代におけるヤーウェの働きを終了させたのである。両者は二つの異なる名前で呼ばれたが、二つの段階の働きを成し遂げたのは同じ霊であり、なされた働きは継続的なものだった。名前が違い、働きの内容も違っていたように、時代も違っていたのである。ヤーウェが来たとき、それはヤーウェの時代で、イエスが来たとき、それはイエスの時代だった。したがって、神は来るたびに一つの名で呼ばれ、一つの時代を表わし、新しい道を切り開く。それぞれの新しい道において神は新しい名を名乗り、またそのことは、神が常に新しく決して古くないことと、神の働きが絶えず前方に進んでいることを示すのである。歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。六千年にわたる神の経営計画が終わりを迎えるには、前方へと進み続けなければならない。毎日、神は新しい働きを行なわなければならず、毎年、神は新しい働きを行なわなければならない。神は新しい道を切り開き、新しい時代を始め、新しくさらに偉大な働きを開始し、それらとともに新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。神の霊は刻一刻と新しい働きを行なっており、古いやり方や規則に固執することは決してない。また、神の霊の働きが止まったことは一度もなく、どの瞬間にも生じている。聖霊の働きは不変であると言うなら、ヤーウェが祭司に対し、神殿の中で自分に仕えるよう求めたのに、イエスが来たときには、彼は大祭司だとか、ダビデの家系で大祭司でもあり、偉大な王であると人々が言ったにもかかわらず、どうしてイエスは神殿に入らなかったのか。そしてなぜイエスはいけにえを捧げなかったのか。神殿に入ろうが入るまいが、これはすべて神自身の働きではないのか。もしも人が想像するように、イエスが再び到来し、終わりの日にいまだイエスと呼ばれ、依然として白い雲に乗り、イエスの姿のままで人のもとに降臨するなら、それはイエスの働きの反復ではないだろうか。聖霊が古いものにしがみつくなどあり得るのか。人が信じているものはすべて観念であって、人が理解しているものはすべて文字通りの意味、または人の想像力に沿ったものである。それらは聖霊の働きの原則と一致しておらず、神の意図に沿っていない。神はそのような形で働きを行なわないはずだ。神はそれほどばかでも愚かでもなく、神の働きはあなたが想像するほど簡単ではない。人が想像するあらゆることを基にすると、イエスは雲に乗って現われ、あなたがたの中に降りることになっている。あなたがたは、雲に乗りながら「自分はイエスだ」と告げる彼を見る。また、イエスの手にある釘の跡を見て、その人がイエスであることを知る。そして、イエスは再びあなたがたを救い、あなたがたの全能なる神となる。イエスはあなたがたを救い、あなたがたに新しい名前を授け、あなたがた一人ひとりに白い石を与える。その後、あなたがたは天の国に入ることを許され、楽園に受け入れられる。だが、このような信仰は人の観念ではないのか。神は人の観念に沿って働くのか、それとも人の観念に逆らって働くのか。人の観念はすべてサタンに由来するものではないのか。すべての人間はサタンによって堕落させられたのではないか。もしも神が人の観念に沿って自身の働きを行なったのなら、神はサタンということになるのではないか。神は自身の被造物と同じようなものだということにはならないか。神の被造物がサタンによって堕落させられるあまり、人はサタンの化身になったので、もしも神がサタンの物事に沿って働いたなら、神はサタンの仲間だということになるのではないか。どうして人が神の働きを理解できるのか。したがって、神が人の観念に沿って働きを行なうことは決してなく、あなたが想像するように働きを行なうこともない。自分は雲に乗って来ると神自身が述べたと言う人たちがいる。神自身がそう言ったのは確かだが、神の奥義を推し測れる人は誰もいないことを、あなたは知らないのか。神の言葉を説明できる人間は一人もいないことを、あなたは知らないのか。自分は聖霊に啓かれ、照らされていると、あなたはみじんの疑いもなく確信しているのか。当然それは、聖霊がそうした直接的な形であなたに示したわけではない。聖霊があなたに指示したのか、それともあなた自身の観念によってそう考えるようになったのか。あなたは「これは神自身によって述べられた」と言った。しかし私たちは、神の言葉を測るにあたって自分たちの観念や思考を用いることはできない。イザヤが語った言葉について言えば、あなたは絶対の確信をもって彼の言葉を説明することができるのか。あえてイザヤの言葉を説明するつもりなのか。イザヤの言葉をあえて説明するつもりがないのに、どうしてイエスの言葉をあえて説明しようとするのか。イエスとイザヤのどちらがより崇められているのか。答えはイエスであるのに、なぜイエスの語った言葉を説明するのか。神は自身の働きを前もってあなたに告げるだろうか。被造物の誰も、天の御使たちさえも、人の子でさえも知らないのに、どうしてあなたにわかるのか。人はあまりに多くのものを欠いている。あなたがたにとって今最も重要なのは、三段階の働きを知ることである。ヤーウェの働きからイエスの働きに至るまで、イエスの働きからこの現段階の働きに至るまで、これら三段階は神の経営全体を隙間なく覆うものであり、またそのすべてが一つの霊による働きである。創世以来、神は常に人類の経営にいそしんできた。神は初めにして終わりであり、最初にして最後であり、時代を始める存在にして時代を終わらせる存在である。異なる時代、異なる場所における三段階の働きは、間違いなく一つの霊の働きである。これら三段階を切り離す者はみな神に敵対している。今、第一段階から今日に至るまでの働きが、すべて一つの神の働きであり、一つの霊の働きであることを、あなたは理解しなければならない。そのことに疑いの余地はあり得ない。