神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

質問19

2020-06-20 09:46:46 | 書籍

質問19:神は人を完全に清め、救うために終わりの日に裁きの働きを行うとあなたがたは証を立てていますが、全能神によって表現された言葉を読むと、その言葉の中には人を罪に定め呪うものがあることが分かりました。もし神が人を罪に定めて呪われるのなら、人間は罰を受けることになるのではないのですか。それなのに、どうしてあなたがたはこの種の裁きが人類を清め、救うなどと言うことができるのですか。

 

 

回答

終わりの日に神様は勝利者の集まりを作るため、真理を表し裁きを行うのです。それは神様と心を一つにする人々で、この世を創られた時から決まっていたことです。でも働きを知らないため、御言葉に非難と呪いが含まれているのを見て、間違った観念を持ってしまう人々もいます。終わりの日の裁きは黙示録に預言されてる大いなる白い玉座の裁きです。神様は義と威厳と怒りからなる御性質を明かされ、人々の本性を暴いて、種類ごとに分けられます。古き時代を終わらせ、サタンに属する者を一掃するためでもあります。では、サタンに属し神様を拒否する人は呪われないのでしょうか?裁きについての御言葉は選民の堕落や堕落の様子を暴いています。一見、非難のようですが、それは神様の選民が自身の堕落の性質を見つめ、問題の核心を見通し、真理を理解するための機会なんです。もし神様が厳しい方でなく、御言葉が核心を突かなければ、自分の堕落とサタン的本性に気づくことができない。でなければ終わりの日の働きが人を清めることも、完全にすることも無い。ですから、真理を愛し、事実を尊重する者は皆、神様の御言葉が、たとえ鋭くても、それが裁きや刑罰、呪いの言葉でも、事実に基づいており、神様が実践的で適切に語られることを理解してます。神様の厳しい御言葉が生む結果によって、人間に対する純粋な愛と人類を救うご意思がわかりますが、真理に飽きている者は観念を生み出し、真理を忌み嫌う者は神様の働きを非難してしまうのです。神様は20年以上、中国で働かれていて、勝利者の集まりを作られてます。政府の激しい弾圧を受けながらも証することができているのはすべて御言葉のおかげです。彼らは御言葉にある神様の愛を知り、人間を救うためどれほど苦しまれたかを理解し、御言葉が厳しいものであっても、従うことができる。それで神様の性質について真の認識を得て、神様への畏敬の心を育み、本分を忠実に行い、神様と共に歩めるです。これがサタンの面目を潰す方法で、神様がサタンを打ち負かす証拠です。終わりの日に神様がどのように人を裁き、清めるかは全能神の御言葉を読んで理解を深めましょう。

 

全能神は言われました。「神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。一部の人々は理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う。彼らは『神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうやって完全になれるのであろうか』と言う。神の働きを理解しない人々はそう話すのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく、少しの気遣いもなく、人の内にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の内にある本質を顕わにするが、神はその裁きを通じて人に肉体の本質についての深遠な認識を授け、それにより人は神の前に従順を示すのである。人の肉は罪から成り、サタンによるものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である──であるから、人に自分を理解させるためには、神の裁きの言葉が人にもたらされねばならず、あらゆる精錬が行われねばならない。それにより初めて神の働きは成果を生むのである。」(『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より)

 

「今日、神はあなたたちを裁き、あなたたちを罰し、あなたたちを罪に定めるが、あなたを罪に定めるのはあなたが自分を知るためであることを知りなさい。罪に定めること、のろい、裁き、刑罰――これらはみなあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きの必要性に適っていること、神は人を救うための計画に従って働くこと、神は人を愛し、人を救い、人を裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は低い地位の者で、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通してあなたに救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験するすべがないし、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、そして救うために来たのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人の救いをもたらす神の心を理解するべきである」より)

 

「あなたたちはみな、罪と放蕩の場所で生活している。あなたたちは皆みだらで罪深い人々だ。今日、あなたたちは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことは、刑罰と裁きとを受け、こんなにも深い救い、つまり、神の最大の愛を受けているのだ。神のすることはすべて、あなたたちへの真の愛である。神に悪意はまったくない。神があなたたちを裁くのは、あなたたちの罪の故である。それは、あなたたちが自分自身をよく吟味し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな、人間を形成するために行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしている。そして、確かなことは、神には、自らの手で創造した人間を完全に破壊するつもりはない。今、神は働くためにあなたたちの間に来た。これは、より以上の救いではないか。もし神があなたたちを憎んでいるのなら、あなたたちを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたたちを憎まないし、あなたたちに何の悪意ももたない。あなたたちは、神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人々を救わなければならないのは、唯一、彼らの不服従の故である。そうでなければ、彼らは救われないだろう。あなたたちは、どうやって生活し、どのように生きていくのかを知らず、また、あなたたちは、このみだらで罪深い場所に住み、みだらで汚れた悪魔であるが、神は、あなたたちがいっそう堕落してゆくのを望まない。また神は、あなたたちがこのような汚れた場所で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびない。あるいは、あなたたちがハデスに落ちてゆくままにすることなど望まない。神はただあなたたちの群れを獲得し、完全に救いたいと願っている。これが、あなたたちに征服の働きを行う主要目的である――これは正に救いのためなのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(4)」より)

 

全能神の御言葉を聞いて、なぜ神様が終わりの日に裁きの働きをされるか理解されたでしょう。人間はサタンの領域、罪の中に生き、その罪を楽しんでる。宗教界では、誰も神様の降臨に気づかず、真理を受け入れる者はいません。どのように御言葉が広められようと、何人の人が神様の出現と働きについて調べましたか?何人の人が神様の裁きを受け入れ従うでしょうか?この世の中こそ、邪悪な世の最たるものだと思いませんか?終わりの日の神様の裁きのお働きがなければ、これほど堕落し、神様を否定するサタン的性質の人類が清められ、神様の救いを受け取れるでしょうか?終わりの日の神様の裁きがなければ、誰が勝利者の集まりを作れるでしょうか?どうやって主の預言が成就してキリストの国が実現するでしょうか?主を信仰する人の多くが神様は愛と憐れみに溢れ、どんな罪を犯そうが赦されると信じてる。どんなに堕落しようが、再臨された時は一人残らず天国へと引き上げてくださると妥当な考えでしょうか?これを肯定する御言葉は?神様は聖で義なるお方です。では不浄と堕落にまみれ、サタン的性質の人間や真理を否定する神様の敵を赦し、天国へお入れになるでしょうか?それはありえません。だからこそ主イエスは再臨され、終わりの日に真理を表し、裁きの働きによって人を徹底的に清め救うと預言された。主イエスは言われました。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47-48)堕落しきった人間に対して、神様は真理をもって確実にその裁きを行われる。これが人の心と霊を呼び起こし、サタン的性質を清める唯一の方法です。人間の不浄や堕落、反抗に対する裁きの御言葉は厳しいものですが、それでも神様の義なる性質を表し、私たちのサタン的本性と堕落を理解させてくれます。裁きと刑罰の働きを体験すると、御言葉によって征服されるのです。神様の裁きに自ら進んで服従し、喜んで真理を理解すれば、自分のサタン的性質と本性を理解して、神様の義なる性質について本当に理解し、畏敬の念を抱くことができる。そうすれば、物事の見方も無意識に変わり、いのちの性質も変わり、神様を畏れ悪を避けられる。終わりの日の神様の裁きのお働きがついに勝利者たちの集まりを作り上げたのです。これが神様の家から始まる裁きのお働きの本当の意義です。我々が学べることは、神様が御言葉で人間を裁くのは罰を与え破壊すためではなく、人間を完璧に清め変え救うためです。だが全能神の言葉による裁きと清めを受け入れない者は大災害が起こる時に、倒れて罰せられるでしょう。

 

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より





質問18

2020-06-19 19:31:54 | 書籍

質問18:終わりの日に神が真理を表し、人を裁き清める働きを行なわれるとあなたがたは証を立てていますが、それならば、神は正確にはどのように人を裁き、清め、救うのでしょうか。

 

回答

真の道を求め調べている人なら、終わりの日の全能神の裁きの働きを理解したいですよね。それについては、全能神が語っておられますから、御言葉を少し読んでみましょう。

全能神は言われました。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。」(『言葉は肉において現れる)の「序文」より)

全能神は言われました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる)の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

全能神は言われました。「神がこの時代に実行する働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の本性の実質と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的観念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことである。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならない。世の終わりに、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、言葉の中に神の知恵と素晴らしさを見、神の性質を知り、言葉によって人間が神の働きを知るようにする。」(『言葉は肉において現れる)の「今日の神の働きを知ること」より)

全能神は言われました。「神には人間を完全にする手段が多数ある。神はありとあらゆる環境を用いて人間の堕落した性質を取り扱い、様々な物事を用いて人間を暴き出す。神は、ある点に関しては人間を取り扱い、別の点に関しては人間を暴き、また別の点に関しては人間を明らかにし、人間の心の奥にある「秘密」を掘り出して明示し、人間にその数々の状態を明らかにすることにより本性を示す。神が実践的であることを人間が知ることが出来るように、神は暴き、取り扱い、精錬、刑罰など、様々な手段で人間を完全にする。」(『言葉は肉において現れる)の「実践を重視する者だけが完全にされることができる」より)

終わりの日に堕落した人間を裁かれるとき、神様は真理の多くの側面とお表しになる義なるご性質によって人のサタン的な本質を裁き、暴露し、断罪し、それにより人のサタン的な性質を清め、変え、人をサタンの影響から救われることが全能神の御言葉から分かります。神様の威厳と怒りに満ちた裁きと刑罰の中で、私たちはあたかも神様と向かい合っているかのように感じます。自らの本質とサタンによって堕落させられた事実をはっきりと知り、侵すことのできない神様の聖い本質と義なるご性質を真に理解するのです。私たちの中に神様を畏れる心が生まれ、神様に関する本当の認識を育むと同時に、多くの真理を理解するのです。それによって私たちのいのちの性質が変えられ、遂には正直で神様に従う真の人間の姿を生きることができるようになります。神様によって表わされた御言葉はすべて、次のような真理の多くの側面を人類に明らかにしてくださいます。すなわち、神様の義なるご性質、神様の持っておられるものと神様であるもの、経営(救いの)計画の奥義、神様の三段階に及ぶ働きの内部情報、人類の救いの目的と意図、罪の根源と人類の堕落の真実、人々の終着点と結末等です。これらの真理は、私たちにいのちと永遠の命への道を与える言葉です。全能神の御言葉を読むとき、それはあたかも両刃の剣のようで、神様の威厳と怒りが言葉の一つひとつ、一行一行から発せられます。御言葉は私たちの心の奥底にある神様についての観念と私たちの信仰における卑しい目的と腹黒い意図を的確に指摘し、そして私たち自身も気づいていない私たちの中に潜むサタンの毒さえも露わにし、完全にサタンに堕落させられていることが分かるようにします。私たちはあらゆる面で、サタンの毒、哲学、論理、規則に従って生きているのです。私たちの心は悪意、傲慢、貪欲、偽りなどのサタンの性質に満ちています。私たちの生き方は悪魔そのものなのです。私たちはサタンの末裔となり、赤い大きな竜の子孫となり、神様に反抗し、抵抗するのです。神様による裁きと暴露の御言葉を読んだ後、私たちは神様に心の奥深くを見られていることを感じ、神様に畏れを抱きます。あたかも神様と向き合っているかのように、神様の御言葉はあらゆる面で私たちのサタン的な性質を打ち、時に気づかせ、警告し、責め、取り扱い、鍛錬します。時に神様の激しい御言葉は怒りに満ち、その中に自分の堕落の真実を見て、どこにも隠れることなどできないと感じ、大いに恥じ入ります。それと同時に、神様の御言葉は確かに真理で、力と権威に満ち、神様の性質と神様のいのちの存在の現れであると深く感じるのです。神様の聖なる本質は汚されることはできず、その義なるご性質を害することはできません。私たちは神様の前にひざまずき、悔い改める他ありません。私たちは自分のサタン的な性質を嫌い、自責の念に満ち、神様の裁きと刑罰を進んで受け入れます。心から納得し、神様を満足させる新たな生き方をすると堅く決意します。これが、神様に選ばれた民に対する神様の裁きの言葉がもたらすものです。そのような裁きと刑罰を経験すると、神様を心から信じて真理を愛する人々は真理を得て神様に完全にして頂くことができます。真理を愛さずに神様の裁きと刑罰を経験しない人々は、神様によって排除されるしかありません。

神様はご自身の御言葉によって人々を裁き、暴露する一方で、人々を取り扱い、刈り込み、試し、暴露するための様々な状況や出来事を用意されます。私たちに降りかかる裁き、刑罰、懲らしめ、鍛錬などの事実を経験すると、私たちは自分のサタン的な本質と性質がいかに根深いかに気づきます。神様のために費やし、苦しみ、代価を払いながらも、無意識に神様に反抗し、抵抗してしまうのです。神様の義なる、威厳ある怒りに満ちた裁きの下で、私たちは神様を拒む自分の忌まわしいサタン的な姿をはっきりと見るのです。自分達が地獄の子であり、神様の前に生きるに相応しくないと知るのです。心は痛み、苦しくなります。畏れに震え、深い反省の意を表します。自らを見捨て、呪います。私たちが心から神様の前で悔い改めるとき、神様は憐れみと寛容を示して下さいます。神様は私たちを照らし、啓き、慰め、支え、私たちが神様の救いにある善なる意図を理解し、神様のいとしさを理解できるようにして下さいます。私たちは進んで神様の御言葉の真理によって生き、神様の慰めとなり、神様に満足して頂こうとします。神様による裁きと刑罰は、神様が誰を好み、誰を救い、誰を完全にし、誰を祝福し、誰を嫌い、誰を排除し、誰を罰し、そして誰を呪うのかを私たちに明確にし、そして神様の義なるご性質が本当に理解できるようにします。神様の裁きと刑罰を経験すると、私たちは神様がお表しになる真理が、堕落した人類への裁きであることを本当に理解します。それらは刑罰であり、精察であり、清めです。神様はご自身の義であり、威厳があり怒りに満ちた侵すことのできないご性質を、神様を拒む人類のサタン的な本質に示す必要があるのです。そうすることでのみ、私たちは神様を畏れる心を育み、真理を求め、神様を愛し、従い、崇めることができるようになり、真の人間の姿を生きて神様に栄光を帰し、証しするのです。これらが、神様の裁きと刑罰の成果です。完全に堕落してしまった人類を清め、救うためには、神様が肉となって真理を現わし、裁きの働きを行なわなければならないことが私たちのすべてに理解できるはずです。堕落した人類がそれ以外に救われることなどあり得ません。私たちが信仰において恵みの時代で止まってしまい、終わりの日の神様による裁きの働きを受け入れないのであれば、間違いなく排除され、破滅します。これは絶対です。

神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より


キリストは真理をもって裁きの働きを行う

2020-06-18 22:14:25 | 書籍

キリストは真理をもって裁きの働きを行う

 


終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

過去に語られた神の家から始まる裁きにおいて、その言葉における「裁き」は、終わりの日に神の玉座の前に来る人々に神が今日下す裁きのことを指す。終わりの日が来ると、神は天に大きな卓を据え、その上には白い布が広げられ、すべての人が地にひざまずいているところに神が大きな玉座につき、一人ひとりの人間の罪を明らかにし、それにより人々が天国に昇るか火と硫黄の湖に落とされるかを決める、というような超自然的な想像の表象を信じている人もおそらくいるであろう。人が何を想像しようと、それが神の働きの本質を変えることはできない。人の想像は人の思考の産物以外の何物でもない。それは人の脳に由来し、人が見たり聞いたりしてきたものからまとめられ組み合わされたものである。したがって、その生み出された表象がいかに輝かしくとも、それは線描でしかなく、神の働きの計画にとって代わることはできない、とわたしは言うのである。結局のところ、人間はサタンにより堕落させられてきている。それならば、どうして人間に神の考えを推し量ることができるというのか。神による裁きの働きを何かとてつもないものであると人間は考える。神自身が裁きの働きを行うのだから、その働きは最大規模のもので、人間には到底理解できず、それは天のいたるところに鳴り響き、地を揺らすはずである、と人間は考える。そうでなければどうしてそれが神による裁きの働きでありえようか。それは裁きの働きであるので、神が働くときは特に堂々と威厳があるはずで、裁かれている人々は涙を流して叫び、ひざまずいて憐れみを請うているはずであると人間は考える。そのよう情景は確かに荘厳で、深く感情を揺さぶるであろう……誰もが、神の裁きの働きを奇跡的なものであると想像する。しかし、あなたは知っているのか。神はずいぶん前より人間のあいだでの裁きの働きを開始したというのに、あなたは惰眠を貪っていることを。神の裁きの働きが正式に始まったとあなたが思うときには、神はすでに天と地を新しくしていることを。その時、おそらくあなたは人生の意味をちょうど理解しだしたばかりかもしれないが、神の容赦ない懲罰の働きが、まだ深く眠りについているあなたを地獄に落とす。その時になって初めて、神の裁きの働きがすでに終わったことにあなたは突然気づくのである。

わたしたちの貴重な時間を無駄使いして、このような忌まわしく嫌な話題についてこれ以上話すのをやめよう。代わりに、裁きを構成するものについて話そう。「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。もちろん、これは未来に属することである。

裁きの働きは神自身の働きであり、そのため当然ながら神が自ら行わなければならない。それは神の代わりに人が行うことはできない。裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日においてキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。これが神の裁きの働きである。多くの人が神の二度目の受肉について悪い感情をもっている。神が肉になって裁きの働きを行うということが、人には信じがたいからである。それでも、しばしば神の働きは人間の期待を大幅に超え、それは人間の知性には受け入れがたいことである、とわたしは言わなければならない。人は地上の蛆虫にすぎないが、一方、神は宇宙を満たす至高の存在であるからである。人の知性は蛆虫だけを生み出す汚水のたまった穴に似ており、一方、神の考えが指揮する働きの各段階は神の知恵の結晶である。人は常に神に敵対しようとしているが、これに関しては、最後に誰が負けるかは自明であると、わたしは言う。自分のことを黄金より価値があるとみなさないように、わたしはあなたがたに強く勧める。もし他人が神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたにはできないのか。他人に比べてあなたはどれくらい高位に立っているのか。もし他人が真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたもそうできないのか。神の働きには止めることのできない勢いがある。あなたのした「貢献」のためだけに神は裁きの働きを繰り返すことはなく、このような好機を逃すと、あなたは無限の後悔に苛まれることになる。もしわたしの言葉を信じないなら、天空にある偉大な白い玉座があなたに裁きを下すのを待っていなさい。すべてのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したが、それでもイエスによる人類の贖罪の事実は全宇宙に、そして地の果てまで広がったことを知らなければならない。これは神がはるか昔に成し遂げた一つの現実ではないのか。もしイエスがあなたを天に引き上げるのをいまだに待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木[a]であるとわたしは言う。あなたのような真理に不忠実で、祝福だけを求める偽信者をイエスは認めることはない。それどころか、何万年も焼かれるように火の湖にあなたを投げ入れるのに憐れみを一切見せないであろう。

裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

脚注

a.「一片の枯れ木」とは、中国語の慣用句で、「救いがたい」という意味である。


ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識

2020-06-17 21:29:24 | 書籍

ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識

 


ペテロが神により罰せられた時、ペテロは祈って言った。「神よ、私の肉は不従順で、あなたは私を罰し、裁かれます。私はあなたの刑罰と裁きの中で喜び、たとえあなたが私を求められなくとも、私はあなたの裁きの中に、あなたの聖なる義のご性質を目の当たりにします。あなたの裁きの中に他の人たちがあなたの義なるご性質を目にすることができるように、あなたが私を裁かれる時、私は満足です。あなたのご性質が示され、あらゆる創造物があなたの義なるご性質を見ることができるようになり、私がもっと純粋にあなたを愛することができるようになり、義なる者の姿に達することができたなら、あなたの裁きは良いものであり、あなたの恵み深い御心によるものです。自分には未だに反抗的な部分が多く、わたしはあなたの御前に出るに相応しくないことを知っています。過酷な環境や大いなる患難を通して、あなたが私を一層裁かれることを望みます。あなたが何をなさろうとも、私にとってそれは貴いものです。あなたの愛は非常に深遠なので、私は一切不平を言わずに進んで自らをあなたの憐れみに委ねます」。これは、神の働きを経験した後のペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。現在、あなた方は既に征服されているが、この征服は、あなた方の中でどのようにして表されているであろうか。ある人たちは言う。「私が征服されたことは、神からの至高の恵みであり、引き上げである。人生は空虚であり、何の意味もないものであることが、今になってやっと分かった。人間は人生を多忙にして過ごし、何世代にもわたって子どもを産み育てるが、結局人間には何も残らない。現在、神により征服されて初めて、私はこのように生きることが無価値であることを知った。それは本当に無意味な人生だ。そのような人生を死んで終わらせた方がよい」。神により征服されたこのような人々は、神のものとされるだろうか。彼らは型となり模範となれるだろうか。このような人々は否定的な実例であり、全く熱意を持たず、向上しようと努力しない。彼らは征服された者の中に含まれるが、このように消極的な人間は完全にされることが不可能である。晩年ペテロは、完全にされた後、「神よ、もし私の余命があと数年であるならば、あなたへの一層清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。ペテロは、十字架に釘付けにされる直前に、心の中でこう祈った。「神よ、ついにあなたの時が来ました。あなたが私のために用意された時が来ました。私はあなたのために十字架に架けられ、この証しをしなければなりません。私の愛があなたの要求を満たし、一層清くなることを願います。今日あなたのために死ねること、あなたのために十字架に架けられることは、私にとって慰めとなり、励みとなります。なぜなら、あなたのために十字架に釘付けにされ、あなたの望みを満たし、自らをあなたに捧げ、私の命をあなたに捧げることができることはこの上ない喜びだからです。神よ、あなたはほんとうに愛しいお方です。もし私が生きることをあなたが許されるならば、私は一層あなたを愛することを望むでしょう。生きている限り、私はあなたを愛するでしょう。私は、あなたを一層深く愛することを望みます。あなたは私を裁かれ、刑罰を与えられ、私を試されます。なぜなら私が不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なるご性質が私には一層明らかになります。それは私にとって祝福です。なぜなら、私はあなたを一層深く愛することができ、あなたが私を愛されなかったとしても、私はあなたをこうして愛することを望むからです。私はあなたの義なるご性質を見ることを望みます。なぜなら、そうすることにより、私は有意義な人生を実際に生きることができるようになるからです。私の人生は今より有意義であると感じます。なぜなら、私があなたのために十字架に架けられ、あなたのために死ぬことは意味のあることだからです。しかしながら、私はまだ満足していません。なぜなら、私はあなたのことをほとんどほんの少ししか知らず、私はあなたの望みを完全に満たせず、あなたにほとんどほんの僅かしか報いなかったからです。私は人生において私のすべてをあなたに報いることができずにおり、それには遠く及びません。今、振り返ってみると、私はあなたに大きな負債があり、自分のすべての過ちと、わたしがあなたに報いなかった全ての愛を償うために、私にはこの瞬間しかありません」。

人間は意味のある人生を実際に生きることを追い求めるべきであり、現状に満足していてはならない。ペテロの模範を実際に生きるためには、人間はペテロの認識と経験を備えていなければならない。人間は、より高く、より深淵なことを追求しなければならない。人間は、神に対する一層深く純粋な愛と、価値と意義のある人生を追い求めなければならない。唯一これが人生であり、そうしてはじめて、人はペテロと同じようになれるのだ。あなたは、肯定的側面へ入ることに対して積極的になることに重点を置くべきであり、また一時的快楽のために、さらに深淵で、具体的で、実践的な真理を無視しつつ、追従的に後退することを許してはならない。あなたの愛は実践的でなければならず、あなたは、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を見出すべきである。あなたは意味のある人生、価値のある人生を実際に生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない。神を愛することを目指す全ての者にとって、獲得することのできない真理はなく、揺るぎなく立つことができない正義はない。あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。あなたは、どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきであろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは、何よりもそうした大志と根気を持っていなければならず、骨抜きの弱虫のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたには神を愛する機会がもう一度あるだろうか。人は、死後に神を愛することができるだろうか。あなたは、ペテロと同様の熱意と良心を持っていなければならない。あなたの人生は有意義であるべきで、あなたは自分を弄んではならない。人間として、また神を追い求める者として、あなたは自分の人生をどのように扱うか、どのようにして自らを神に捧げるべきか、どのようにしてもっと有意義な神への信仰を持つべきか、そして、あなたは神を愛しているので、どのようにして一層清く、一層美しく、一層好ましく神を愛するべきかを慎重に考慮することができなければならない。現在、あなたは自分がどのようにして征服されたかにだけ満足していてはならず、将来歩んで行く道についても考慮しなければならない。あなたは完全にされることへの熱意と勇気を持たなければならず、自分は無能だと常に思うべきではない。真理は人を選り好みするだろうか。真理は故意に人間に反対できるだろうか。あなたが真理を追求するなら、真理はあなたを圧倒できるだろうか。あなたが正義のために固く立つなら、正義はあなたを打ち倒すであろうか。いのちを追求することが本当にあなたの願望であれば、いのちはあなたから逃れることができるだろうか。あなたに真理がないのであれば、それは真理があなたを無視するからではなく、あなたが真理から遠ざかるからである。あなたが正義のために揺るぎなく立つことができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたが正義は事実に一致しないと思っているからである。あなたが何年いのちを追求しても、いのちを得られずにいるのは、いのちがあなたに対して良心を持っていないからではなく、あなたがいのちに対して良心を持っておらず、いのちを追い払ったからである。あなたが光の中で生活しつつも、光を得ることができないのであれば、それは光があなたを照らせないからではなく、あなたが光の存在に注意を払わなかったので、光が静かにあなたから去ったからである。あなたが追求しないのであれば、あなたは価値の無い屑であり、自分の人生において全く勇気がなく、暗闇の勢力に対抗する霊がないと言う他ない。あなたは弱過ぎるのである。あなたは、自分を包囲するサタンの勢力から逃れられず、このような安全で平穏な生活を送り、無知のまま死ぬことのみを望んでいる。あなたが追求すべき事は、征服されることであり、それがあなたに課された本分である。自分が征服されたことに満足しているなら、あなたは光の存在を追い払うことになる。あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、より多くの真理を得るためには、より多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたの為すべきことである。あなたは平穏な家庭生活のために真理を投げ捨ててはならず、一時的な享楽のために、あなたの一生の尊厳や品位を失ってはならない。あなたは、すべての美しく良いこと、また一層有意義な人生の道を追求すべきである。あなたがこのような俗悪な生活を送り、何の目的も追求しなかったならば、あなたは人生を無駄にすることになるのではないか。そのような人生から何が得られるであろうか。あなたは、真理のために肉の享楽をすべて捨て去るべきであり、僅かばかりの享楽のために全ての真理を投げ捨ててはならない。このような人々には、品位も尊厳もなく、彼らの存在には何の意味もない。

神が人間を罰して裁くのは、そうすることが神の働きには必要であり、またさらに人間にとって必要だからである。人間は刑罰と裁きを受ける必要があり、人間はその時初めて神への愛に達することができる。現在、あなた方は完全に確信しているが、小さな挫折に直面するだけで、あなた方は窮地に陥ってしまう。あなた方の霊的背丈はまだ小さすぎるので、一層深い認識を得るために、そうした刑罰と裁きをもっと経験しなければならない。現在、あなた方はある程度神を敬い、神を畏れており、神が真の神であることを知っているが、神に対する大きな愛はなく、まして純粋な愛に達することなどない。あなた方の認識は浅過ぎて、あなた方の霊的背丈はまだ不十分である。ある環境にほんとうに直面する時、あなた方はいまだに証しに立つことがなく、あなた方の積極的な成長は極めて少なく、実践する方法を全く知らない。ほとんどの人々が消極的かつ不活発である。彼らは心の中で密かに神を愛するだけで、実践する術がなく、自分達の目標が何であるかを明瞭に理解していない。完全にされた者は正常な人間性だけではなく、良心の尺度を超え、良心的基準よりも高い真理も備えている。彼は自分の良心で神の愛に報いるのみならず、なにより、神を知り、神が愛しいこと、神は人間の愛を受けるに相応しいこと、また神には愛すべきことが非常に沢山あるので、人は神を愛さずにはいられないことを知っている。完全にされた者の神への愛は、自分の個人的願望を満たすためのものである。彼の愛は自発的な愛であり、見返りを求めない愛であり、それは取引ではない。彼が神を愛する理由は、神に関する彼の認識の他にない。このような人は神が自分に恵みを与えるかどうかを気にすることはなく、神を満足させること以外に彼を満足させることはない。彼は神と取引することがなく、「あなたに与えられたから、それに応じてあなたを愛する。あなたが与えないのであれば、私はそれに応じて与えるものが何もない」というように、神への愛を自分の良心で測ることもない。完全にされた者は常に信じている。「神は創造主であり、私たちに対して働きを行っている。私には完全にされる機会と状況、そして資格があるのだから、意味のある人生を送ることを追求し、神を満足させるべきである」と。それはまさにペテロが経験したことと同様である。つまり、ペテロは、自分が最も弱かった時、神に祈って言った。「神よ、時間や場所に関わらず、私が常にあなたのことを覚えていることを、あなたは知っておられます。時間や場所に関わらず、私があなたを愛したいことを、あなたは知っておられます。しかし、私の霊的背丈は小さすぎて、私は弱く無力過ぎるので、私の愛は余りにも限られていて、あなたに対する私の誠実さは乏し過ぎます。あなたの愛に比べると、私はまったく生きることに不適です。私がただ望むのは、私の人生が無駄にならないこと、そしてあなたの愛に報いるだけでなく、さらには、自分にあるものをすべてあなたに捧げられることです。私があなたを満足させることができるなら、創造物として私は心安らぎ、それ以上何も求めないでしょう。今の私は弱く無力ですが、あなたの訓戒と愛を忘れることはないでしょう。今、私はただあなたの愛に報いること以外に何もしていません。おお、神よ、私は惨めに感じます。どうすれば、私の心にある、あなたへの愛をあなたに報い、自分のできる限りを尽くし、あなたの望みを満たし、自分が持っている全てをあなたに捧げることができるでしょうか。あなたは人間の弱さを知っておられます。どうすれば、私はあなたの愛を受けるに相応しい者となれるでしょうか。神よ、あなたは、私の霊的背丈が小さいこと、私の愛が乏し過ぎる事をご存じです。私はこのような環境の中で、どうすれば最善を尽くせるでしょうか。私は、自分があなたの愛に報いるべきであること、自分の持っている全てをあなたに捧げるべきことは知っていますが、現在の私の霊的背丈は小さすぎます。私があなたに捧げるための清い愛を一層備えることができ、自分の持っている全てをもっとあなたに捧げられるように、あなたが私に強さと確信を与えられるよう願います。そうすれば、私はあなたの愛に報いることができるだけでなく、あなたの刑罰、裁き、試練、そして一層厳しい呪いをもっと経験することができるでしょう。あなたは、私があなたの愛を見ることを許されたので、私はあなたを愛さずにはいられません。また現在、私は弱く無力ですが、どうしてあなたのことを忘れることができましょうか。あなたの愛、刑罰、そして裁き、これらのすべてによって、私はあなたのことを知るようになりましたが、それでもなお私はあなたの愛に応えることができないと感じています。なぜなら、あなたは極めて偉大であられるからです。私は、どうすれば自分の持てる全てを創造主に捧げられるでしょうか」。それがペテロの願いであったが、それでもペテロの霊的背丈は不十分すぎた。この時、ペテロは、あたかも自分の心がナイフでえぐられているかのような苦痛を感じた。そうした状態では、ペテロはどうすればよいか分からなかった。しかし、ペテロは祈り続けて言った。「神よ、人間は霊的背丈が幼く、人間の良心は弱く、私が達成できるのは、あなたの愛に報いることだけです。現在、どのようにしてあなたの心を満足させればよいのか私には分りません。だから私が唯一願うのは、自分のできる限りを行い、自分の持てる全てをあなたに捧げ、自分の持てる全てをあなたのために費やすことです。あなたの裁きや刑罰に関わらず、あなたが私に授けられること、私から奪われることに関わらず、あなたに対する不平が私に一切ありませんように。あなたが私を罰し、裁かれた時、私は愚痴をこぼし、清さを実現することも、あなたの願いを果たすこともできないことが、何度もありました。あなたの愛に私が報いようとしたのは、強制によって生まれたものであり、その時、私は自分を一層憎みました」。ペテロがこのように祈ったのは、彼が神への一層純粋な愛を求めていたからである。ペテロは求め、懇願し、更には自らを非難し、自らの罪を神に告白した。ペテロは神に対して負債があると感じ、自己嫌悪を覚えつつ、幾分悲しみも感じ、消極的であった。彼は常にこのように神の心に対して自分が不十分であり、最善を尽くせないと感じていた。そうした状況において、ペテロはまだヨブの信仰を追い求めていた。彼はヨブの信仰がどれほど偉大であったかを見た。なぜなら、ヨブは自分の物は全て神から授けられたものであり、神がその全てを自分から奪うのは当然であること、また神は、誰であれ神が望む者に対して与えること──それが神の義なる性質であることを理解していたからである。ヨブは一言も不満を言わず、なおも神を讃美することができた。ペテロもまた自分を知っていたので、心の中でこう祈った。「今日、私は、自分の良心であなたの愛に報い、たとえそれがどんなに多くても私があなたにお返しするだけの愛で報いることに満足するべきではありません。なぜなら、私の思いは堕落し過ぎており、あなたを創造主として見ることができないからです。私はいまだにあなたを愛するに不適であるため、私は自分の持っている全てを、自ら進んであなたに捧げる能力を実現しなければなりません。あなたが私を通して大いなる栄光を得られるように、私は、あなたが行った全てのことを知るべきであり、私には選択の余地はなく、またあなたの愛を見て、あなたを讃美することを話し、あなたの聖なる御名を讃えることができるようにならなければなりません。私はあなたのために、喜んでこの証しに堅く立ちます。神よ、あなたの愛は極めて貴く、美しいものです。どうして私が邪悪な者の手の中で生きることを望むことが出来ましょうか。私はあなたに造られたのではありませんか。どうして私がサタンの領域下で生きられるでしょうか。私は、自分の全存在があなたの刑罰の中で生きる方がよいと思います。私は邪悪な者の領域下で生きることを望みません。私が清くされて、自らの全てをあなたに捧げることが可能であるならば、私は進んで自分の身体と心を、全てあなたの裁きと刑罰に捧げます。なぜなら、私はサタンを忌み嫌い、サタンの領域下で生きることを望まないからです。私に対する裁きを通して、あなたはご自身の義なる性質を示されます。私は幸せであり、不満は一切ありません。私が創造物としての本分を尽くせるのであれば、私の全人生にあなたの裁きが伴うことを喜びます。それを通して、私はあなたの義なるご性質を知り、悪い者の影響から脱することができるでしょう」。ペテロは常にこのように祈り、そのように求め、比較的高い領域へと達した。彼は神の愛に報いることができたばかりでなく、もっと重要な事として、創造物としての自分の本分も尽くしたのである。彼は自分の良心の呵責に苛まれなかっただけでなく、良心の基準を超越することができた。彼の祈りは神の前に立ち昇り続き、彼の志しはさらに高くなり、彼の神への愛はさらに大きくなった。彼は激しい苦痛を受けつつも、神を愛することを忘れず、神の心を理解する能力を獲得することを求め続けた。彼の祈りの中に次のような言葉が述べられている。「私は、あなたの愛に報いること以外に何も成し遂げていません。私はサタンの前であなたを証ししておらず、自らをサタンの影響下から解放しておらず、依然として肉の中で生きています。私は自らの愛でサタンを打ち破り、辱め、それによってあなたの心を満足させることを望みます。私は自らの全てをあなたに捧げ、自分のうちのほんの僅かでもサタンに捧げないことを望みます。なぜなら、サタンはあなたの敵だからです」。ペテロがこのように追求すればするほど、彼は一層感動し、そうしたことに関する認識が一層高まっていった。彼は、自分をサタンの影響から解放し、完全に神に戻すべきであることを、無意識のうちに知るようになった。それこそが彼が到達した領域であった。彼はサタンの影響を超越し、肉の快楽と悦楽から脱し、進んで神の刑罰と裁きの両方を一層深く経験した。ペテロは言った。「私はあなたの刑罰と裁きのただ中で生きていますが、それに伴う苦難に関わらず、私はサタンの領域下で生き、サタンの策略に陥ることを望みません。私はあなたの呪いの中で生きることを喜び、サタンの祝福の中で生きることに痛みを感じます。私は、あなたの裁きの中で生きている時、あなたを愛し、それが自分に大いなる喜びをもたらします。あなたの刑罰と裁きは義であり、聖なるものです。それらは私を清め、またそれ以上に、私を救うためのものです。私は生涯をあなたの裁きの中で過ごし、あなたに見守られた方が良いと思います。私は一瞬たりともサタンの支配の下で生きることを望みません。私はあなたによって清められることを望み、たとえ苦難を受けるとしても、サタンに利用され、欺かれることは望みません。被造物である私は、あなたにより用いられ、所有され、裁かれ、刑罰を与えられるべきです。私は、あなたにより呪われるべきでさえあります。あなたが私を祝福することを望むとき、私の心は喜びます。なぜなら、私はあなたの愛を見たからです。あなたは創造主であられ、私は被造物です。私はあなたを裏切ってサタンの領域で生きるべきでも、サタンに利用されるべきでもありません。私は、サタンのために生きるよりも、あなたの馬となり、牛となるべきです。私はむしろ物質的な悦楽なしに、あなたの刑罰の中で生きることの方が良く、たとえあなたからの恵みを失ったとしても、そうして生きることが私に喜びをもたらすでしょう。たとえあなたの恵みがなくても、私はあなたの刑罰と裁きを受けることを喜びます。それは、あなたの最高の祝福であり、最大の恵みです。あなたは私に対して常に威厳があり、怒りに満ちておられますが、それでもなお私はあなたから去ることができず、あなたをどれほど愛しても愛しきることができません。私はあなたの家に住み、あなたに呪われ、刑罰を受け、打たれることを望み、サタンの領域下で暮らすことも、ただ肉のために忙しく奔走することも望まず、ましてや肉のために生きることなど望みません」。ペテロの愛は純粋な愛であった。これこそが完全にされる経験であり、完全にされることの最高の領域であり、これ以上に有意義な人生はない。ペテロは神の刑罰と裁きを受け入れ、神の義なる性質を大切にし、ペテロに関することで、それ以上貴いことはなかった。彼は言った。「サタンは私に物質的な享楽を与えるが、私はそれを貴ばない。神の刑罰と裁きが私の上に臨むこと──私はそこから恵みを受け、喜びを見出し、祝福される。神の裁きがなかったとしたら、私は決して神を愛さず、依然としてサタンの領域で暮らし、サタンに支配され、命令されていることだろう。そうした場合、私は決して真の人間とはなれないだろう。なぜなら、私は神を満足させることができず、私の全てを神に捧げることもなかったはずであるからだ。たとえ神が私を祝福されず、あたかも私の中で火が燃えているように、心に慰めがないままになって、平安も喜びもなく、また神の刑罰と訓練が決して私から離れなくとも、神の刑罰と裁きの中から、私は神の義なるご性質を見ることができる。私はそれに喜びを感じる。人生において、それ以上に貴いことも有意義なこともない。神の守りと慈しみが容赦のない刑罰と裁き、呪いと打ちのめしとなったが、私はそれでもなおこれらの事を嬉しく思う。なぜなら、そうしたことは私を一層清め変化させることができ、私を神に近づかせ、私が一層神を愛し、神への私の愛を一層清くすることができるからである。これにより、私は創造物としての自分の本分を尽くすことができるようになり、私は神の御前へと導かれ、サタンの影響から遠ざけられるので、もはや私はサタンに仕えない。私がサタンの領域で生活しておらず、何も躊躇せずに自分の持てる全てと、できることの全てを神に捧げることができる時、それは私が完全に満足する時であろう。私を救ったのは神の刑罰と裁きであり、私の一生は神の刑罰と裁きとは不可分である。地における私の生活はサタンの支配下にあるので、神の刑罰と裁きによる慈しみと守りがなかったとしたら、私は常にサタンの領域下で生活していたであろうし、なにより、有意義な人生を実際に生きる機会も術もなかっただろう。神の刑罰と裁きが決して私から去らない場合にのみ、私が神により清くされることが可能となるであろう。神の厳しい御言葉と義なるご性質、そして神の威厳ある裁きによってのみ、私は最高の守りを得て、光の中で生き、神の祝福を得たのだ。清くされ、自らをサタンから解放し、神の支配下で生きることができること──それこそが現在における私の人生の最大の祝福である」。これがペテロが経験した最高の領域である。

完全にされた後に人間が到達すべき状態は、そのようである。そこまで達することができないならば、有意義な人生を送ることはできない。人は肉の中に生きるが、それは人間地獄の中で生きることであり、神の裁きと刑罰なくしては、人間はサタンと同様にけがれている。どうして人間が聖くなれようか。ペテロは、神の刑罰と裁きは人間のための最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると信じていた。人間が目を覚まし、肉を憎み、サタンを憎むことができるのは、神の刑罰と裁きによる他ない。神の厳しい鍛錬は、人間をサタンの影響から解放し、自分の狭い世界から解放し、神の顔の光の中で生きることができるようにする。刑罰と裁きよりも優れた救いはない。ペテロはこう祈った。「神よ、あなたが私を罰し、裁かれる限り、私はあなたが私を見捨てていないことを知るでしょう。たとえあなたが私に喜びや平安を与えられず、私を苦しみの中で生活させ、私に無数の懲らしめを科せられたとしても、あなたが私を見捨てない限り、私の心は安らぐでしょう。現在、あなたの刑罰と裁きは私にとって最高の守りであり、最も素晴らしい祝福となっています。あなたが私に与えられる恵みが私を守っています。現在あなたが私に授けられる恵みは、あなたの義なるご性質の表れであり、刑罰と裁きです。さらに、それは試練であり、なによりもそれは、苦難の生活です」。彼は肉の喜びを脇へ置き、一層深い愛と一層大きな守りを求めることができた。なぜなら、彼は神の刑罰と裁きから、極めて大きな恵みを得たからである。人生において、人が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を生き抜き、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れるべきであり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から離れないようにし、そうすることで、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光で有り、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の祝福と恵みと守りはないということを知らなければならない。人間はサタンの影響下で生活し、肉の中に存在する。人間が清められず、神の守りを受けないのであれば、人間は一層堕落するであろう。人間が神を愛することを望むのであれば、人間は清められ、救われなければならない。彼は祈って言った。「神よ、あなたが私を優しく扱われる時、私は喜び、安らぎを感じます。あなたが私に刑罰を与えられる時、私はそれにも増して喜びと安らぎを感じます。私は弱く、予期せぬ苦しみを受け、多くの涙と悲しみがありますが、この悲しみは、私の不従順さと弱さの故であることを、あなたは知っておられます。私が泣くのは、自分があなたの望みを満足させられないからであり、私が悲しみと後悔を感じるのは、自分があなたの要求に満たないからです。しかし私は進んでその領域に到達しようとし、あなたを満足させるためにできること全てを喜んで行います。あなたの刑罰は私に守りをもたらし、私に最高の救いを与えてくれました。あなたの裁きはあなたの寛容さと忍耐にまさります。あなたの刑罰と裁きがなければ、私はあなたの憐れみと慈愛を享受することはできないでしょう。現在、私はあなたの愛が天を超越し、あらゆるものを凌いだことを、一層理解しています。あなたの愛は憐れみと慈愛だけではなく、それ以上に、刑罰と裁きです。あなたの刑罰と裁きにより、私は多くのことを与えられました。あなたの刑罰と裁きなくしては誰一人として、清められることも、創造主の愛を経験できることもないでしょう。私は数百回の試練と患難を受け、死に瀕したことさえありましたが、それらによってあなたを真に知り、最高の救いを得ることができました。もしあなたの刑罰と裁き、そして鍛錬が私からなくなったら、私は闇の中、サタンの領域で生きることになるでしょう。人間の肉にどんな益があるでしょうか。あなたの刑罰と裁きが私からなくなるなら、それはあなたの御霊が私を見捨て、もはやあなたが私と共におられないようなものでしょう。そうであるとしたら、どうやって私は生きてゆけましょうか。あなたが私に病を与えられ、私の自由を奪われても、私は生き続けることが出来ますが、あなたの刑罰や裁きがなくなったならば、私は決して生きてゆくことはできないでしょう。私にあなたの刑罰と裁きがなかったとしたら、私には言葉にできないほど深いあなたの愛を、私は失うでしょう。あなたの愛がなければ、私はサタンの領域下で生活することになり、あなたの栄光の御顔を見ることはできないでしょう。私はどうして生き続けられるでしょうか。そのような闇や生活は、私には耐えられないでしょう。私があなたと共におられることは、あなたにお目にかかることと同様ですから、どうして私があなたから去ることができましょうか。私はあなたに対し、たとえそれが短い励ましの御言葉であったとしても、私の最大の慰めを奪わないよう懇願し、願います。私は従前あなたの愛を享受し、今はあなたから離れることができません。どうして私があなたを愛せないでしょうか。私は、あなたの愛のために、多くの悲しみの涙を流しましたが、そうした生活は一層有意義であり、もっと私を豊かにし、さらに私を変化させ、被造物が持つべき真理を私が一層得られるようにすることができると、常に感じて来ました」。

人間はサタンの支配下において全生涯を過ごし、自分でサタンの影響から逃れられる者は一人もいない。人間はみなけがれた世界で、堕落と空虚の中、少しの意味も価値もないままに生きている。彼らは、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない。人間は自分をサタンの影響から解放する真理を見出すことができない。人間は神を信じ、聖書を読むにもかかわらず、サタンの影響による支配からどうやって自分を解放すればよいのか分からない。何時の時代も、この秘密を発見してそれを理解した者は稀である。それ故人間はサタンを憎み、肉を忌み嫌っているが、罠のようなサタンの影響から逃れる方法を知らない。現在、あなた方は依然としてサタンの支配下にいるのではなかろうか。あなた方は自分の不従順な行為を後悔せず、まして自分がけがれており、反抗的であると感じることなどはない。神に反抗した後、あなた方は安心し、大いに落ち着くことさえある。あなたの落ち着きは、自分が堕落していることが原因ではなかろうか。こうした安心は、あなたの不従順から来るのではなかろうか。人は、人間地獄の中で生き、サタンの闇の影響下で生きている。全地で幽霊が人間と共に住み、人間の肉を侵害している。地上では、あなたは美しいパラダイスに住んでいるのではない。あなたが住む場所は悪魔の領域であり、人間地獄であり、冥府である。清められなければ、人はけがれた者である。人が神によって守られておらず、神の慈しみを受けていないのであれば、その人は依然としてサタンの虜である。その人がもし裁きや刑罰を受けていないのであれば、その人にはサタンによる闇の影響の弾圧から逃れる術はないであろう。あなたが依然としてサタンの領域下で生活していることを証明するには、あなたが露わにする堕落した性質と、あなたが生きる不従順な態度だけで十分である。あなたの心や思いが清められておらず、あなたの性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの全存在がいまだにサタンの領域に支配されており、あなたの心はサタンに支配され、思いはサタンに操られ、あなたの存在全てがサタンの手により支配されているのだ。あなたは、自分がペテロの基準から一体どれほどかけ離れているか知っているであろうか。あなたにはそのような素質があるだろうか。あなたは、現在の刑罰と裁きについて、どの程度知っているだろうか。あなたは、ペテロが知ったことをどの程度自分のものにしているだろうか。現在において、あなたが知ることができないのであれば、将来その認識を獲得することができるであろうか。あなたのように怠惰で臆病な者が刑罰と裁きを知ることは、まったく不可能である。あなたが肉の平安と享楽を追求するのであれば、あなたには清められる術が全くなく、あなたは最後にはサタンのところへ戻されるであろう。なぜなら、あなたが実際に生きているのは、サタンと肉だからである。物事の現状として、多くの人々がいのちを追求していないが、それは、彼らが清められることにも、一層深いいのちの経験の中に入ることにも注意していないことを意味する。そんなことでは、どうして彼らが完全にされることがあろうか。いのちを追求しない者には、完全にされる機会が全くなく、神に関する認識や自分の性質の変化を追求しない者は、サタンの闇の影響から逃れられない。宗教のみを信じるものや、儀式に従い定期的な礼拝に参加するだけの者と同様に、彼らは、神に関する自分の認識や、自分の性質の変化への成長に関して真剣に考えていない。これは、時間の無駄ではないだろうか。人が、神への信仰の中で、いのちに関する問題を真剣に考えず、真理に入ることを求めず、自分の性質の変化を追求せず、ましてや神の働きに関する認識など追求しない、というのであれば、その人は完全にされることがない。あなたは、自分が完全とされることを望むのであれば、神の働きを理解しなければならない。特に、神の刑罰と裁きの意義と、この働きが人間に対して行われる理由を理解しなければならない。あなたは、これを受け入れることができるであろうか。この種の刑罰において、あなたはペテロと同等の経験と認識に達することができるだろうか。あなたが、神の認識と聖霊の働きに関する認識を追求し、自分の性質の変化を追求するのであれば、あなたには完全にされる機会がある。

完全にされる者については、征服される働きのこの段階は不可欠である。人間は、征服されて初めて、完全にされる働きを経験できる。征服される役割をただ演じることには大きな価値はなく、それによって、あなたが神に使われるに相応しいとみなされることはないであろう。あなたには、福音を宣べ伝える役割を果たす手段はないであろう。なぜなら、あなたはいのちを追い求めることがなく、自分を変えることや一新することを追求しておらず、そのため、あなたにはいのちの実経験がないからである。この段階的な働きにおいて、あなたは効力者や引き立て役としての役割を果たしたことがあるが、最終的にペテロのようになることを追求せず、あなたの追求が、ペテロが完全にされた道によって追求しないのであれば、当然、あなたは自分の性質の変化を経験しないであろう。あなたが完全にされることを追求する者であるならば、あなたは証ししてこう言うであろう。「この神による段階ごとの御働きにおいて、私は神の刑罰と裁きの御働きを受け入れた。また私は大いなる苦しみに耐えてきたが、神がどのようにして人間を完全にされるのかを知り、神が行われた御働きと神の義に関する認識を得て、神の刑罰により救われた。彼の義なるご性質が私の上に臨み、祝福と恵みをもたらした。私を守り、私を清めたのは神の裁きと刑罰である。もし私が神による刑罰と裁きを受けておらず、神の厳しい御言葉が私の上に臨んでいなかったとしたら、私は神を知らず、救われることがなかったであろう。現在、私は被造物として、創造主が造った万物を享受するだけでなく、それ以上に重要なことには、神のご性質は人間が享受するに値するので、あらゆる被造物は神の義なる性質を享受し、神の義なる裁きを享受しなければならない、ということを理解している。サタンに堕落させられた被造物として、神の義なるご性質を享受すべきである。神の義なるご性質には、刑罰と裁きがある他、それ以上に、大いなる愛がある。現在、私は神の愛を完全に得ることはできないが、それを見る幸運に恵まれており、そのことにおいて、私は祝福されている」。これこそが、完全にされた者の歩んだ道であり、彼らが語る認識である。そうした者はペテロと同じであり、ペテロと同様の経験がある。このような人々は、いのちを得た者でもあり、また真理を持っている者である。彼らが、最後まで経験する時、神の裁きの時に、必ずサタンの影響を自分から取り除き、神のものとされるであろう。

彼らには征服された後も、鳴り響くような証しがない。彼らは、単にサタンを辱めただけであり、神の言葉の現実を実際に生きていない。あなたは未だに第二の救いを得ていない。あなたは、単に罪のための捧げものを得たにすぎず、まだ完全にはされてはいない──これは大きな損失である。あなた方は、自分が入るべき事、実際に生きる事を理解し、それらの中に入らなければならない。最終的に、あなたが完全にされることを達成せず、真の人間ではないなら、あなたは後悔の念に満たされるであろう。最初に神により造られたアダムとエバは、聖なる人間であった。すなわちエデンの園にいた間、彼らは聖く、けがれがなかった。また彼らはヤーウェに忠実であって、ヤーウェを裏切ることなど一切知らなかった。なぜなら、彼らはサタンの影響による妨害を全く受けず、サタンに毒されておらず、全人類の中で最も純粋だったからである。彼らはエデンの園に住み、一切けがれにけがされることなく、肉に囚われることなく、ヤーウェを畏れ敬っていた。その後、彼らがサタンに誘惑された時、彼らはへびの毒に見舞われ、ヤーウェを裏切ることを望み、サタンの影響の下で生きた。最初、彼らは聖なるものであり、ヤーウェを敬っていた。そうすることだけが、彼らを人間としていた。その後、彼らがサタンに誘惑された後、彼らは、善悪を知る木の実を食べて、サタンの影響の下で生きた。彼らは、サタンにより次第に堕落させられ、本来の人間の姿を失っていった。最初、人間にはヤーウェの息吹があり、不従順であることは一切なく、心には悪が一切なかった。この時、人間は本当の意味で人間であった。人間は、サタンにより堕落させられた後、獣となった。人間の考えは悪とけがれで満たされ、善や聖さはなかった。それはサタンではなかろうか。あなたは神の働きの多くを経験したが、変化しておらず、清められてもいない。あなたは依然としてサタンの領域で暮らし、いまだに神に服従しない。これは既に征服されてはいるが、まだ完全にされていない者である。それでは、こういう人が、まだ完全にされていない者であると言われるのは何故だろうか。それは、その人がいのちも、神の働きに関する認識も求めず、肉の快楽や束の間の慰めをむやみに欲するからである。その結果、彼らのいのちの性質は全く変化せず、神に造られた時の、人間の本来の姿を取り戻していない。このような人々は生ける屍であり、霊のない死人である。霊の事柄に関する認識を追求しない者、聖さを追求しない者、真理を実際に生きることを追求しない者、否定的な側面で征服されることにのみ満足している者、そして神の言葉によって生き、聖なる人になることができない者──このような者たちは皆救われていない人々である。なぜなら、人間に真理がない場合、人間は神の試練の時に揺るぎなく立つことができないからである。神の試練の中で揺るぎなく立つことができる者のみが、救われた者である。わたしが望むのは、完全にされることを求めるペテロのような人々である。現在の真理は、真理を切望し、求める者たちに与えられている。この救いは、神により救われることを切望する者たちに授けられており、あなた方が得るためだけのものではなく、あなた方が神によって得られるためでもある。神によって得られるために、あなた方は神を得るのだ。今日、わたしはあなた方にこの話をし、あなた方はそれを聞いたので、あなた方はこの言葉に従って実践すべきである。最終的に、あなた方がこれらの言葉を実践する時こそ、わたしがこの言葉によりあなた方を得る時である。それと同時に、あなた方はこれらの言葉を得る、すなわち、あなた方はこの至高の救いを得るであろう。あなた方が清められる時こそ、あなた方は真の人間となるであろう。もし、あなたが真理を実際に生きること、あるいは完全にされた者の姿を実際に生きることができないなら、あなたは人間ではなく、生ける屍であり、獣であると言えるであろう。なぜなら、あなたには真理がなく、言ってみれば、あなたにはヤーウェの息吹がなく、したがってあなたは霊のない死人だからである。征服された後に証しすることは可能であるが、あなたが得るのは多少の救いだけであり、あなたは霊を持った生けるものとはなってはいない。あなたは刑罰と裁きを経験したが、その結果自分の性質が一新されることも変化することもない。あなたは依然として古い人のままであり、いまだにサタンに属しており、あなたは清められた者ではない。完全にされた者のみに価値があり、このような人々だけが真の人生を得たのである。いつの日か、誰かがあなたにこう言うであろう。「あなたは神の御働きを経験したのだから、神の御働きがどのようなものか、少し話してくれないか。ダビデは神の御働きを経験し、ヤーウェの御業を目の当たりにし、モーセもまたヤーウェの御業を目の当たりにしたので、両者ともヤーウェの御業を説明し、その奇しさについて話すことができた。終わりの日に、あなた方は受肉の神の御働きを目の当たりにした。あなた方は神の知恵について話せるだろうか。神の御働きの奇しさについて話せるだろうか。神はあなた方に何を要求され、あなた方はそれをどのように経験しただろうか。あなた方は終わりの日に神の御働きを経験した。あなた方の最も大いなるビジョンは何であろうか。そのことについて話せるであろうか。神の義なるご性質について話せるであろうか」。あなたは、このように質問された時、どう答えるであろうか。あなたが、「神は義であり、人間に刑罰と裁きを与えられ、私たちを容赦なく暴露される。神のご性質は、人間による侵害を決して容赦しない。神の御働きを経験した後、私は自分の獣のような側面を知り、神の義なるご性質を真に目の当たりにした」と言うなら、その人は続けて、「その他にあなたは神について何を知っているのだろうか。人はどのようにしていのちの中へ入るだろうか。あなたには、個人的な熱意があるだろうか」と尋ねるであろう。あなたは、「サタンに堕落させられた後、神の被造物は獣となって、ロバ同然であった。現在、私は神の御手の中で生活しているので、創造主の願いを満足させ、創造主の教えることには何でも従わなければならない。私には、そうするほか選択がない」と答えるであろう。あなたがこのように一般的な話をするだけならば、その人はあなたが言っていることを理解しないであろう。彼らが、あなたには神の働きに関してどのような認識があるのか、と尋ねる時、彼らはあなた自身の経験のことを指して言っているのだ。彼らは、あなたが神の刑罰や裁きを経験した後、その刑罰や裁きについてどのような認識があるか、と尋ねているのであり、それはあなた自身の経験のことを言っているのであり、真理に関するあなたの認識について話をするよう彼らは求めているのだ。あなたが、そうしたことについて話せなかったならば、それはあなたが現在の働きについて何も知らない証拠である。あなたはいつも、もっともらしい言葉、あるいは一般に知られている言葉を語る。あなたには具体的な経験がなく、いわんやあなたの認識には内容がなく、真の証しも全くないので、他の者たちはあなたによって説得されない。受動的に神に従う者となってはならず、自分の好奇心をそそることを追求してはならない。あなたは冷たくも熱くもないので、あなたは自分を滅ぼし、いのちの成長を遅れさせるだろう。あなたは、真理を得て、それを実際に生きることができるように、このような消極性と不活発を取り除き、肯定的なことの追求と自分の弱さを克服することに熟達しなければならない。あなたの弱みについて、恐れることは一切なく、あなたの欠点はあなたの最大の問題ではない。あなたの最大の問題であり、最大の欠点であるのは、あなたが冷たくも熱くもなく、真理を追求する願望に欠けていることである。あなた方すべての最大の問題は、臆病な精神によりことの現状に満足し、受動的に待っていることである。それがあなた方にとって最大の障害であり、あなた方が真理を追求することにおける最強の敵である。ただわたしの話す言葉が極めて深遠である故に、あなたが従うのであれば、あなたは真に認識を持っておらず、真理を大切にしてもいない。あなたにあるような従順さは、証しではないので、わたしはそうした従順さを認めない。誰かがあなたに、「あなたの神は、正確に言うとどこから来るのだろうか。あなたの神の本質は何であろうか」と尋ねるかも知れない。あなたは、「神の本質は、刑罰と裁きである」と答えるであろう。するとその人は「神は人間に対して思いやりがあり、愛情があるのではなかろうか。あなたは、それについて知っているであろうか」と続けて言うだろう。あなたは、「それは他の者たちの神である。それは宗教心のある人々が信じている神であって、私達の神ではない」と言うであろう。あなたのような人々が福音を広める時、真理の道はあなたによって歪められる。それでは、あなたは何の役にたつというのか。どうして他の人たちがあなたから真理の道を得ることができようか。あなたに真理はなく、真理について何も話すことができず、まして真理を実際に生きることなどできない。どうしてあなたに神の前で生きる資格があろうか。あなたが他の人に福音を広め、真理について交わり、神を証しする時あなたが他の人を説得できなければ、彼らはあなたの言葉を論破するであろう。あなたは場所を取っているだけではないか。あなたは神の働きを非常にたくさん経験してきたが、真理について話をすると、意味不明である。あなたは全くの役立たずではなかろうか。あなたは何の役に立つというのか。あなた方は、神の働きの多くを経験しながら、よくもまだ神に関して少しも認識がないままでいられるものだ。神に関してあなたがどんな真の認識を持っているのか他の人が尋ねると、あなたは言葉を失うか、あるいは──神には大いなる力があり、あなたが授かった大きな祝福は、真に神により高められることであり、その目で神を見ることができること以上の特権はない──などと関係のないことを答える。こんなことを言って、何の価値があるであろうか。それは役に立たない空虚な言葉である。神の働きを非常にたくさん経験してきたにもかかわらず、あなたが知っているのは、神に高められることが真理であるということだけなのか。あなたは、神の働きを知るべきであり、そうして初めて本当に神を証しするようになるであろう。真理を得ていない者が、どうして神を証しできようか。

これほど多くの働きや言葉が、あなたには全く効果がないのであれば、神の働きを広める時が来ると、あなたは自分の本分を尽くすことができずに辱められ、屈辱を感じるであろう。この時、あなたは神に対して多大な負い目があり、神に関する自分の認識が極めて表面的であると感じるであろう。神が働きを行っている間に、現在あなたが神に関する認識を求めないのであれば、後では手遅れとなるであろう。最終的に、あなたには話すべき認識がなくなるだろう──あなたには何もなく、空虚なままとなるであろう。あなたは何を用いて神に申し開きをするであろうか。あなたは厚かましくも神を見上げるであろうか。あなたは最終的に自分がペテロのように、神の刑罰と裁きがいかに有益であるかを知り、神の刑罰と裁きがなければ、人間は救われることがなく、けがれた地の汚泥の中に一層深く沈むしかないということを知るために、今この時に懸命に追求しなければならない。人間はサタンにより堕落させられ、互いに陰謀を企て合い、互いを踏みつけ、神に対する畏れを失っており、彼らの不従順はひど過ぎ、人間の観念は多過ぎ、皆サタンに属している。神の刑罰と裁きなくしては、人間の堕落した性質を清めることはできず、人間は救われることがない。受肉の神の働きにより肉の中に表されたことは、まさに霊により表されたことであり、神が行う働きは霊により行われたことに従って行われる。現在、この働きに関する認識が、あなたにないのであれば、あなたは極めて愚かであり、たいへん多くを失ったのである。あなたが神の救いを得ていないのであれば、あなたの信仰は宗教的信仰であり、あなたは宗教によるクリスチャンである。あなたは死んだ教義に固執しているので、聖霊の新たな働きを失った。神の愛を追求する他の者たちは、真理といのちを得ることができるが、一方あなたの信仰は神の承認を得ることができない。その代わりに、あなたは悪を行う者となり、破滅的で忌むべき行動を取る者となり、サタンの悪戯の標的となり、サタンの虜となってしまった。神は、人間が信じるべき存在ではなく、人間が愛し、求め、礼拝すべき存在である。今日、あなたが追い求めないならば、いつかあなたがこう言う日が来るであろう。「私はあの時どうして神に適切に従い、ちゃんと神を満足させなかったのだろう。自分のいのちの性質の変化を追求しなかったのだろう。あの時、神に服従することができなかった事、神の御言葉に関する認識を追求しなかった事を、私はどれほど後悔していることか。あの時、神は多くの事を言われた。私はなぜ追求できなかったのだろうか。私はほんとうに愚かだった」。あなたは、ある程度自己嫌悪に陥るであろう。現在、あなたはわたしが語る言葉を信じず、わたしの言葉を全く気にかけない。この働きが広まる日が来て、あなたがその全てを目にする時、あなたは後悔し、唖然とするであろう。祝福はあるが、あなたはそれを享受することを知らない。また真理はあるが、あなたはそれを追い求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではなかろうか。現在、神の働きの次の段階はまだ始まっていないが、あなたに対する要求や、あなたが実際に生きるよう求められている事には、何も例外的な事はない。極めて多くの働きと多くの真理があるのだが、それらには、あなたに知られる価値があるのではなかろうか。神の刑罰と裁きは、あなたの霊を目覚めさせることができないのであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたに自分を憎ませることができないのであろうか。あなたは、サタンの影響の下で、平安と悦楽と、少しばかりの肉の享楽と共に暮らすことに満足しているのであろうか。あなたは全ての人々のうちで最も卑しい者ではなかろうか。救いをその目で見たことがあるが、それを得るよう追求しない者よりも愚かな者はいない。そのような者は、肉を貪り食い、サタンを堪能する人々である。あなたは、神への自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいは僅かの苦難も招かないことを望む。あなたは、常にそれらの価値の無いものを追い求め、いのちの価値を全く認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値も無い。あなたは豚のように生きている──あなたと、豚と犬の間には、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちは皆、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちは皆、生ける屍ではなかろうか。あなた方の間で語られた言葉は、一体いくつあるであろうか。あなた方の間で行われた働きは、ほんの少しだろうか。わたしは、あなた方の間で、どれくらい与えたであろうか。それなのに、あなたがそれを得ていないのは何故だろうか。あなたが不平を言うべきことは、何かあるだろうか。あなたが肉を愛しすぎているので、何も得られなかったということではなかろうか。また、その原因は、あなたの考えが突飛すぎるからではなかろうか。また、それはあなたが愚か過ぎるからではないか。あなたは、これらの祝福を得られない場合、自分が救われなかったことを、神のせいにするのか。あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平和を得ることができるようになること──つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が良い職に就くこと、自分の息子が良い妻を見つけること、自分の娘がしっかりした夫を見つけること、自分の牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地の良い住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真理の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者たちのひとりであろうか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と違わないのではないか。豚は人生も清められることも追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真理の道を与えたが、あなたは未だにそれを得ていない。あなたは手ぶらである。あなたは、このような生活、つまり豚の生活を続けることを望んでいるのであろうか。このような人々が生きていることの意味は何であろうか。あなたの生活は軽蔑すべきものであり、恥ずべきものであり、あなたはけがれと放蕩の中で暮らし、何も目指す目標がない。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるのであろうか。あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真理の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた個人の追求によって決まる。人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も正しいから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な条件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。あなたに真理が欠けており、あなたがわたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意や配慮なく、ただついて来るだけであれば、わたしはその時あなたの悪のためにあなたを打ち倒し、罰するであろう。その時、あなたは何と言うであろうか。あなたは、神は義ではないと言えるであろうか。現在、あなたがわたしが語った言葉に従うならば、あなたはわたしが認めるような人である。あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神のために奔り回ることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。またあなたはこう言う。「とにかく私は神が義であると信じている。私は神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたのだ。――神は必ず私のことを覚えているはずだ」。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。「今日、私はあなたのために走り回っていますが、終わりが来たとき、あなたは私に少しばかりの祝福を与えて下さるでしょうか」と言う人たちもいる。そこで、わたしはあなたに尋ねる。「あなたはわたしの言葉に従ったであろうか」。あなたの言う義は、取引に基づいている。あなたは、わたしが義であり、全ての者に公平であり、最後までわたしに従う者は、確実に救われてわたしの祝福を得るとただ考えている。「最後までわたしに従う者は、確実に救われる」というわたしの言葉には内なる意味がある。つまり、最後までわたしに従う者は、完全にわたしのものとなる人たちであり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされた者である。あなたが満たした条件とは何であろうか。あなたが満たしたのは、最後までわたしに従うことのみであるが、その他に何があるだろうか。あなたはわたしの言葉に従っただろうか。あなたは、五つあるわたしの要求のうち、一つを満たしたが、残り四つを満たすつもりは全くない。あなたは、単に最も簡単で容易な道を見いだし、それを追求しつつ、自分が幸運だと思っている。あなたのような者に対するわたしの義なる性質は、刑罰と裁きであり、それは義なる報いであり、悪を行う者全員への義なる罰である。わたしの道を歩まない者は、たとえ最後まで従ったとしても、みな必ず懲罰を受けるであろう。これこそが神の義である。この義なる性質が人間の罰において表される時、人間は唖然とし、神に従いつつも神の道を歩まなかったことを悔いるだろう。「その時、私は神に従いつつ少しだけ苦しんだが、神の道を歩まなかった。そこでどのような言い訳ができるだろうか。刑罰を受ける以外選択はない」。しかし、その人は心の中でこう考えるだろう。「いずれにせよ私は最後まで従ったのだから、あなたが私に刑罰を与えられたとしても、それは厳しすぎる刑罰ではあり得ないでしょう。そしてその刑罰を与えた後も、あなたは私を欲されるでしょう。私は、あなたが義であられ、私を永遠にそのようには扱われないことは知っています。結局、私は一掃されるような者ではありません。一掃される者は厳罰を受けますが、私の刑罰はそれよりも軽いでしょう」。神の義なる性質は、あなたの言うようなものではない。自分の罪を告白することが上手な者が寛容に取り扱われるということはない。義とは聖さであり、人間の侵害を容赦しない性質であり、したがってけがれたことや変化していないことはすべて、神の嫌悪の対象となる。神の義なる性質は、法ではなく、行政命令である。それは神の国の中の行政命令であり、その行政命令は、真理を持っておらず、変化していない全ての者への義なる罰であり、そこには救いの余地はない。人間がひとりずつ種類ごとに分類される時、善良な者は報酬を受け、邪悪な者は罰を受ける。この時、人間の終着点が明確にされ、救いの働きが終わり、人間を救う働きはそれ以後行われず、悪を行った者全てに報復がもたらされる。ある人たちは言う。「神は、自身の傍らにいつもいる者を皆覚えている。神は私たちをひとりとして忘れることはない。私達は神により完全にされることを保証されている。下にいる者達のことを、神は覚えておらず、彼らのうちで完全にされる者の数は、いつも神と顔を合わせている私達よりも少ないことが保証されている。私達のうち、神が忘れられた者は一人もおらず、全員が神に認められており、神により完全にされると保証されている」。あなた方には皆そのような観念がある。これは義であろうか。あなたは、真理を実行に移したであろうか、それともしなかったであろうか。実のところ、あなたはそのような噂を広め、何も恥じることがない。

現在、神に用いられることを追求する人々もいるが、彼らは、征服された後に直接用いられることはない。現在において語られている言葉については、神が人々を用いる時、あなたがそうした言葉をいまだに達成することができなければ、あなたは完全にされていないのだ。言い換えると、人間が神に排除されるか、用いられるかは、人間が完全にされる期間の終わる時に決められる。征服された者たちは消極性と否定性の実例に過ぎない。彼らは見本であり模範であるが、一つの対比に過ぎない。人のいのちの性質が変化し、その人が内面にも外面にも変化を達成した時に初めて、その人は完全に完成されたことになる。現在、あなたは、征服されることと、完全にされることのうち、どちらを求めるであろうか。どちらを達成したいのであろうか。あなたは完全にされるための条件を満たしたのか。あなたにまだ欠けているのは、どれであろうか。あなたは、どのように自分を装備し、不足を補うべきであろうか。あなたは、完全にされる道に、どのように入るべきであろうか。あなたは、どのようにして完全に服従すべきであろうか。あなたは完全にされることを求めているが、それなら、あなたは聖さを追求しているであろうか。あなたは、神に清めてもらうために、刑罰と裁きを経験することを求めている人であろうか。あなたが清められることを追求しているならば、あなたは刑罰と裁きを喜んで受け入れるであろうか。あなたは神を知ることを求めているが、あなたには神の刑罰と裁きに関する認識があるだろうか。現在、神があなたに対して行う働きのほとんどは刑罰と裁きである。あなたに対して行なわれたこの働きに関するあなたの認識はどのようであろうか。あなたが経験した刑罰と裁きにより、あなたは清められたであろうか。あなたは、それにより変化したであろうか。それにより何か効果があっただろうか。あなたは、呪い、裁き、暴露などの、現在の多くの働きに疲れはてているであろうか。それとも、そうした働きはあなたにとって大きな恩恵であると感じているであろうか。あなたは神を愛しているが、その理由は何だろうか。あなたが神を愛しているのは、自分が多少の恵みを受けたからであろうか。それとも平安と喜びを得た後に、神を愛しているであろうか。あるいは、神の刑罰と裁きによって清められた後に、神を愛しているのであろうか。あなたが神を愛する正確な理由は何であろうか。ペテロが完全にされるために満たした条件とは、何であろうか。ペテロが完全にされた後、そのことが表現された要となる状態は、何であっただろうか。ペテロが主イエスを愛していたのは、ペテロが主を切望したからであろうか。それとも彼が主に会えなかったからであろうか、あるいはペテロが責められたからであろうか。それとも、ペテロは、患難の苦しみを受け入れ、自分のけがれと不服従を知り、主の聖さを知るようになったから、主イエスを一層愛したのであろうか。神に対するペテロの愛が一層清くなったのは、神の刑罰と裁きの故であろうか、それとも別の理由のためであろうか。それはどちらであろうか。あなたが神を愛するのは、神の恵みの故であり、現在あなたに神が僅かばかりの祝福を与えたからである。これが真の愛であろうか。あなたは、どのように神を愛するべきか。神の刑罰と裁きを受け入れ、神の義なる性質を目の当たりにした後、完全に確信して神についての認識を有するようになるほど、真に神を愛せるようになるべきか。ペテロのように、神をどれほど愛しても十分ではないと言えるだろうか。あなたが追求するのは、刑罰と裁きの後に征服されることであろうか、それとも、刑罰と裁きの後に清められ、守られ、世話されることであろうか。あなたが追求しているのは、どちらであろうか。あなたの人生は有意義なものであろうか、それとも意味も価値もないものであろうか。あなたが欲するのは、肉であろうか、それとも真理であろうか。あなたが望むのは、裁きであろうか、快楽であろうか。神の働きを非常にたくさん経験し、神の聖さと義を目の当たりにしてきたあなたは、どのように追求すべきであろうか。あなたは、どのようにしてこの道を歩むべきであろうか。神への愛を、どのように実践すべきであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたの中で何らかの効果を達成したであろうか。あなたに神の刑罰や裁きに関する認識があるかどうかは、あなたが何を実際に生き、どの程度神を愛しているかに拠る。あなたの唇は、神を愛していると言うが、実際に生きていることは、古い堕落した性質である。あなたには神への畏れがなく、いわんや良心などない。そのような人々は、神を愛しているであろうか。そのような人々は、神に対して忠実であろうか。彼らは、神の刑罰や裁きを受け入れる者であろうか。あなたは神を愛し、信じていると言うが、自分の観念を捨てない。あなたの働き、成長、あなたが述べる言葉や生活において、神へのあなたの愛は全く表されておらず、神への畏敬が全くない。これが刑罰と裁きを得た者であろうか。このような者がペテロのようになれるであろうか。ペテロのような者たちが、認識を持っているだけで、それを実際に生きないということがあろうか。現在、人間が真の人生を生きるために要求される条件は何であろうか。ペテロの祈りは、単にペテロの口から出ただけのものであっただろうか。それは、ペテロの心の奥底から出た言葉ではなかっただろうか。ペテロは祈るだけで、真理を実践しなかったであろうか。あなたの追求は、誰のためであろうか。神の刑罰と裁きの期間に、あなたはどのようにして守りを得て、清められるべきであろうか。神の刑罰と裁きは、人間にとって全く無益なものであろうか。全ての裁きは懲罰であろうか。人間のいのちに有益なのは、平安と喜び、物質的な祝福、一時的な快楽だけであろうか。人間が快適で楽な環境で、裁きの生活なしに生きるのであれば、その人は清められるであろうか。変化することと清められることを望むなら、人は、完全にされることを、どのように受け入れるべきであろうか。現在、あなたはどちらの道を選ぶべきであろうか。

 

キリスト教会歌と踊り「キリストの御国は温かい家」 ミュージックビデオ

2020-06-17 00:00:02 | 書籍

 

キリスト教会歌と踊り「キリストの御国は温かい家」 ミュージックビデオ

キリストの御国は温かい我が家
それは神のすべての民のもの
キリストは教会で歩み語られ
神の民と生活を共にされる
聖霊の働き同様、神の言葉の裁きと刑罰もここにある
神の言葉は私たちを潤し、満たし、導く
そして私たちの命は成長する
これはキリストが支配される御国
それは公平と正義の世界

キリストの御国は温かい我が家
それは神の民が慕う所
神の言葉が教会を治め
私たちは真理によって行動し、心の中でキリストを崇める
もはや内輪もめも企みも無く
自分を守る必要も恐れることもない
キリストは人の魂が帰るところ
私はもう彷徨う必要はない
これは人々が切望する神の御国
それは人類の平和の家

キリストの御国は温かい我が家
神の民は皆それを大切にする
ここで私は神の裁きと試練を経験し
私の堕落した性質は清められ変えられる
私の歓喜と笑い
私の成長のストーリーがここにある
私がひそかに神に語った言葉もここにある
私の忘れられない思い出がここにある
それは神が払われた代価の記録
ここにあるすべては私を感動させ
言葉ではここにある誠実な献身を言い表すことはできない
終わりの日のキリスト、私の愛するお方
あなたは私たちにこの温かい我が家を与えてくださった
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

 

 

[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。