神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

終わりの日における神の裁きの働き 11 質問

2020-06-15 21:36:37 | 天の国の福音
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十字架にかけられた主イエスは、私たちの罪を背負ってそれを赦した。それゆえ、私たちはすでに聖いものとして選り分けられ、もはや罪がなく、終わりの日における神の裁きと清めの働きを受け入れずとも天国に入ることができる――このように信じるのは正しいか。

 

 


参考聖書箇所

「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」(ヘブル人への手紙 9:28)

「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書 8:34-35)

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14)

「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネの黙示録 21:27)

関連する神の言葉

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

…終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。たとえば、自分たちがモアブの血統であることを知った人々は、愚痴をこぼすと、いのちを探求することをやめ、すっかり消極的になってしまった。これは、人々がいまだに神の支配に完全に服従できないでいることを示していないだろうか。これこそが、まさに堕落した悪魔的な性質ではないだろうか。刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも、イエスすら超えて、高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神の親密なものとなりたまえ。サタンに服従するなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。赤い大きな竜が完全に権力から落ちるようにしたまえ。神によりわたしたちを完全にしたまえ」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰のときが訪れ、再び人々の堕落した性質が明らかになった。人々の叫びは途絶え、彼らは決意を失ってしまった。これが人間の堕落である。それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。…悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

 

 

 


なんと一度救われたことが永遠に救われたことに等しくなかったんだ

2020-06-14 11:49:43 | 福音を証しするシリーズ

 

なんと一度救われたことが永遠に救われたことに等しくなかったんだ

 

太陽が西の空に沈みかけ、夕焼けが広がる中、私は牧師が集会で言った言葉を考えながら家に向かっていました。「一度救われれば、私たちは永遠に救われているのです。聖書はこう言っているからです。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10章9-10節) 私たちが主イエス様を信じ、心の中で主を信じて認め、言葉でそう告白するならば、私たちは救われます。一度救われたならば、永遠に救われているのです。終わりまで主のために働き、尽くし、耐えるならば、主が戻られるときに、私たちはすぐに天国に引き上げられます。」私は牧師の言葉にアーメンと答えました。「その通りだ。主イエス様は十字架にかけられた。それゆえに私たちは贖われたんだ。私たちが主の御名を呼び求め、罪を告白して主の前に悔い改めるならば、主の恵みによって罪は赦され、救われるんだ。そして一旦救われたならば、それはずっと続くことであり、後の日には天国へと引き上げられるんだ。」長年の信仰の中で、私はいつもそれが正しいと堅く信じ、疑ったことは一度もありませんでした。
けれどもある日、私が聖書を学んでいると、次のような主イエス様の御言葉が目に入りました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書8章31節) 私は注意深くこの御言葉を思い巡らしました。そして、主イエス様が言われていることは、神様の御心を行い、実践する人だけが、天国へ入ることができるということだと理解しました。信仰を持てばそれで救われると言っているのでも、一度救われればそれがずっと続くと言っているのでもなく、主が戻られた時にその人々はすぐに天に引き上げられると言っているのでもないのです。自分の考え方は主の言葉と一致していないのではないかと感じ始めました。これまでの長い年月、ずっと間違っていたということなどあるだろうか。ずっと主を信じてきて、主イエス様によって贖われたということを微塵も疑ったことはなかった。けれど、主の教えを実践しないことも多くあった。神様の御心を実践しないのに、どうやって天国に入れるのだろう。そう考えると不安も感じたけれど、こうも考えた。「主イエス様が私たちの罪のいけにえとなってくださり、全ての罪を赦してくださったのだから、私たちは恵みにより救われているんだ。それなら天国に入れないことなどあるだろうか。恵みによって救われるとは、永遠の救いを意味するのではないだろうか。」私はひどく困惑し、このことを追い求め、主の御前で繰り返し祈りました。何冊もの霊に関する本も読みましたが、答えは見つかりませんでした。

後日、同労者との会議に出席した私は、ずっと会っていなかったヂャン兄にばったり会いました。ヂャン兄は説教師で、聖書をまっすぐに理解していました。どの集会でも、ヂャン兄から新たな光を与えられ、多くを得ることが出来ました。久しぶりにヂャン兄に会った私は、挨拶を交わすと、しばらく話し込みました。そうするうちに、私は自分がずっと引きずっている問題を彼に話しました。ヂャン兄は微笑んで言いました。「ヤンさん、あなたが今言われた問題は、私たちが天国へ入ることができるかどうかに関する重要な問題と関連しています。私も以前悩みましたが、主の導きを与えられました。そして追い求める中で、真の救いが何かを明確に理解できるようになりました。」私は待ちきれずに言いました。「それを今すぐ教えてください!」ヂャン兄は微笑みながら次のように言いました。「すでに知っているように、ヨエル書2章32節にはこうあります。「すべてヤーウェの名を呼ぶ者は救われる。」当時、ヤーウェである神様は律法を定め、イスラエルの人々がそれに従うように命じられました。イスラエルの人々は、自分達が律法に従って罪に定められることがなければ、救われると信じていました。だが律法の時代の末期、人類はサタンによって益々堕落させられ、イスラエルの人々は律法を守ることができず、益々罪深くなっていきました。もはや彼らの罪を償うに相応しいいけにえはなく、彼らは罪に定められて、律法により死刑に処せられる危機にさらされたのです。だが神様は人間を憐れまれ、人類が救われて律法により罪に定められることのないように、イエスという名で肉となられ、贖いの業をされ、罪のない肉として十字架にかけられ、私たち人間を律法から贖ってくださった。その時以来、私たちが主イエス様の名を受け入れ、呼び求め、主の前で罪を告白して悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、罪に定めされることも律法により罰せられることもなくなったのです。主イエス様が私たちを贖ってくださったので、私たちは救いを得たのです。

ヂャン兄の話を聞いた私は、突然啓きを与えられたように感じ、驚きの中でこう言いました。「そうであれば、律法の時代には、人々がヤーウェである神の律法を守っている限り人々は救われ、恵みの時代には、人々が主イエスを信じて罪を告白し、悔い改めるならば、人々は救われるのですね。」

ヂャン兄は言いました。「そうです。神様が新たな段階の働きをされる時はいつでも、神様の働きについて行くことができ、新たな時代で神様の要求に沿うことができ、神様の御言葉に従って実践することができ、そうすることで救われ、神様から罪に定められることはないのです。実は、主イエス様を信じ、主イエス様の恵みによって救われるということは、罪が赦され、律法により罪に定められたり死刑に処せられたりすることがなくなるということであって、私たちが神様の道を歩んでいて罪をすべて捨て去ったということではないのです。一旦救われればずっと救われているということなど、なおさらないのです。我たちは主イエス様を信じ、イエス様によって贖われ、罪赦されていますが、それでも私たちは罪を何度も犯して神様に逆らってしまい、昼間犯した罪を夜になると悔い改めるといった悪のスパイラルの中を生きており、罪のかせと束縛から自分を解放することができないのです。例えば、何か問題が起きれば、私たちは自分の外見と地位を守り、周りの人々から良く見られよう、尊敬されようとして自分を良く装い、偽りを言い、ごまかします。何かするときは目立ちたがり、高い地位のために周りの人々に対して策略を企てて競い合います。兄弟姉妹の誰かが消極的になって弱ってしまい、信仰を失っている時、私たちはしばしばその人のところに行って助け、支えようとします。けれどもその効果が見られない時は、憐れみや忍耐を失い、相手を避けるようになり、自分を愛するように相手を愛することが出来なくなります。特に、私たち自身に試練が臨むとき、私たちは不平を言って主のせいにして批判し、主に背く思いや考えを抱くほどになるのです。私たちはどうしても主の言葉を実践することができず、主に対する真の信仰はなく、真に従順ではなくなるのです。この世の流れに従って罪の快楽を求め、未信者と同じように食べたり飲んだり騒いだりといった事に浸ってしまう兄弟姉妹も多いのです。神様は言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」(ヨハネによる福音書8章34-35節)。「…わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記11章45節)神様の言葉は明確です。神様は聖く、その性質は義であり神聖です。天国に入りたいのであれば、罪の性質を除いて清められ、罪を犯したり神に反抗したりすることを止めなくてはなりません。そのような人だけが、神様の約束を受け継ぐ資格があります。昼間罪を犯しては夜それを悔い改め、罪から逃れることができずにいるような人間に、どうして天国に入る資格があるでしょうか。もし私たちが罪の問題を元から解決しなければ、たとえ千回赦されたとしても、1万回赦されたとしても、やはりサタンに属しており、神に反抗しているのです。考えてみてください。もし神様が、私たちのような、サタンによる堕落した性質に満ち、神様に逆らい、背くことができる人間が神の御国に入ることをお許しになるのであれば、どうして神の御国が聖なる御国と呼ばれることができるでしょうか。そのようなことはあり得ません。」

私はヂャン兄の言うことに大いに共感しました。彼の言うとおり、日々罪の中に生き、分かっていながら罪を犯してしまう私たちに、天の御国に入る資格などあるでしょうか。そう思った途端、私は自分の信仰が酷く曖昧なものだと感じました。主の言葉が明確に語られているにも関わらず、私はそれを追求しようと思いませんでした。それどころか、自分の概念と想像の中に生き、神様の御心をすっかり誤解し、自分が心で信じて言葉でそれを表現していれば救われ、主が戻って来られる時に天の御国に入れられるなどとおかしな信じ方をしていたのです。何と愚かだったのでしょう。ただ夢を見ていたのです。もしそのまま自分の概念と想像に頼り続けていたならば、最終的に主に嫌われ、拒絶され、排除されていたに違いありません。私はヂャン兄に尋ねました。「本当の救いとは何なのですか?」

ヂャン兄は鞄から一冊の本を取り出し、その本にその答えが書かれていると言うと、読み始めました。「人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。」(「実践(2)」より)「人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)

ヂャン兄は続けてこう言いました。「主に感謝します。これらの言葉により、真の救いが何であるかが明確にされました。人が真理を得て、神により清くされ完全にされ、完全に罪を捨ててサタンの闇の影響を捨てるなら、もう罪を犯したり神に逆らったりしなくなります。主イエス様のされた働きは贖いの働きであり、私たちはもう罪には属しません。けれども私たちの中のサタンの性質は根深く、罪の赦しは受けたけれども、問題に直面すれば、サタンの性質、つまり、傲慢やうぬぼれ、不正や欺瞞、利己主義や卑劣さ、陰湿さや悪意と言ったものが優勢になり、罪を犯して神を否定せずにはいられなくなり、主の御言葉を実践することが出来なくなるのです。あたかも窃盗の罪で警察に捕まった泥棒のようです。両親は自分の息子が拘置所で失意の中にいるのに耐えられず、多額の保釈金を支払って息子を解放しますが、窃盗の性質は息子の中から抜けず、チャンスがあればまた窃盗を働く性質が働いて盗んでしまうのです。ですから、もし私たちが真理の全ての側面を理解し、サタンの支配から完全に解放され、サタンによる堕落した性質を清められ、罪の束縛から解かれて神の御心を求め、神様の御言葉を実践して何があろうとも神様を畏れて従うのであれば、私たちは常に救われているのであり、そうなって初めて、私たちは完全に神様のものとされるのです。」

私は喜びを感じながら次のように言いました。「神様の啓きと導きにより、『一度救われれば救いはずっと続き、天の御国に入れる』という考えが間違っていることが分かりました。永遠の救いは私たちの罪の性質を取り除かれて清められることであり、それは一度救われて罪赦されることとは全く別のことだということも分かりました。この本は真の救いが何であるかを明確にしてくれますが、私たちが罪から解放されて救われる方法も書かれていますか?もし罪から解放されてその道を歩むことができるのであれば、真の救いを得て天の御国に入れるのではありませんか?

ヂャン兄は喜んで、こう答えました。「ヤンさん、あなたの言う通りです。主に感謝します。罪から解放されて罪の性質の問題が解決できるならば、私たちは真の救いを得て天の御国に入ることができるのです。この本はそのことを実に明確に語っています。続けて読みましょう…。」

 

 


私たちの罪が赦された今、私たちは天国に入れるのか?

2020-06-13 10:26:48 | 福音を証しするシリーズ

私たちの罪が赦された今、私たちは天国に入れるのか?


2018年8月5日(日)曇り
今日、集会の後、ある兄弟が心配そうな顔で私の所にやってきた。彼は「神は人々に聖なる人となることを求められますが、私は無意識のうちに罪を犯してしまいます。いつもこのように罪を犯しながら生きていたら、私は主が来られる時に天国に入れるのでしょうか?」と言った。私は「主イエス様は十字架に磔られ、私たち全員の罪を負って、その命を犠牲にされ、私たちの罪は、私たちの主イエス様への信仰によって許され、主はもはや私たちのことを罪人としては見ておられず、私たちは主のために全てを捨て、労力を費やし、一生懸命に働き、最後まで耐えしのいでさえいれば、主が再臨される時に天国に携挙される」と彼に伝えた。私がこう言うのを聞いた後、兄弟はまるで私の言葉が期待外れだったような表情で、少しがっかりして去って行った。彼が歩き去る様子を見て、私はとても複雑な気分になった。正直なところ、私もこの兄弟と同じことを心配していたんじゃないのか? 長年に渡って主を信仰していながら、頻繁に罪に束縛され、昼に罪を犯して夜にそれを告白するという状態の中で生きてきたことを考えて、そのような生活を続けたくはないと思った。しかし、私には本当に罪を打破することができなかった。それで、頻繁に主に祈りを捧げ、もっと熱心に聖書を読むようにした。でも、罪の問題を本当に解決することはできなかった。主は聖なる御方なのに、罪で満ちた私のような人を褒めてくださるのだろうか?

2018年8月7日 (火) 曇り
今日は妻とつまらない事で喧嘩をして、自責の念にかられ、苦しんでいる。どうして過去と同じ過ちを繰り返してしまうんだろう?今晩、主に祈りを捧げながら涙を流し自分の罪を告白したが、祈りの後もまだ動揺していた。主のこの教えについて考えた。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。(マタイ福音書22章37―39)この御言葉は第一に心と精神をつくして神を愛するよう私たちに教えており、第二に私たちは自分を愛するように他人を愛するべきだと言っている。兄弟姉妹たちはお互いに励まし合い、寛容で忍耐強くあり、安楽と慰めを与え合わなければならない。これは私たちがクリスチャンとして行うべきことであり、こうしてのみ、私たちは主を讃えて主の証を立てる生活を送ることができる。でも今まで主を信仰してきた年月において、私はこのいずれの要件も満たせていない。家にいる時、妻と私は些細なことでときどき喧嘩をしてしまう。教会にいる時、兄弟姉妹たちに恥じをかくような事を言われると、彼らに対して偏見をもってしまい、無視してしまうことすらある。大抵の場合、主を愛したいと言って祈りを捧げてはいるものの、家で何か不愉快なことが起ったり、何かのアクシデントが起こると「主のために労力を費やしているのに、どうして主は私を守ってくれないんだ?」と思って、やっぱり主を誤解し、非難してしまう。あぁ、私がすることで主の御要求を満たすことや、主の御心に適うものは何もない。頻繁に主に祈りを捧げるものの、依然としてしょっちゅう罪を犯し、どれだけコントロールしたいと思ってもそうできない。よくこう考える。「主への信仰によって私の罪は許されたものの、未だに罪を犯して神を怒らせてしまう。こんなことを続けていて、私は主が来られる時に天国に入れるのだろうか?どうすれば、罪を犯すことを止められるんだ?」

最近、頻繁に聖書を読み、何度も牧師と長老の意見を求めたが、満足のいく答えは全く得られなかった。この問題は私が天国に入れるかどうかという重大な事柄に直接関連しており、どうしても忘れてしまうわけにはいかない。主はこう仰った。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ福音書7:7)探求する心を持っている限り、主が必ず私をお啓きくださると信じている。

2018年8月12日 (日)本曇り
今朝、熱心に主に祈りを捧げた後、普段通りに聖書を開いてディボーションを始めた。その時、ヨハネの黙示録のこの節を読んで心を動かされた。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネ黙示録21:27)聖書は、清められていない人たちはその中に入れないと聖書は明確に言っている。この「その」というのは天国のことではないのか?次にマタイによる福音書7:21を読んだ。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」また、ヨハネによる福音書8:34-35にはこうある。「イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」これらの聖句について熟慮しながら、自分は長年における主への信仰生活において、毎日のように主に祈り、聖書を読み、そして頻繁に福音を伝道し、働き、主のために物事をあきらめて自身を捧げてきたにも関わらず、依然として承知の上で罪を犯し、罪を犯してはそれを告白し、さらに主の教えを守ることも、主の求めることを実践することもできていないと思った。私は明らかに天の父の御心を行う人ではないし、まして清められた人でもない。それでも私は天国に入れるんだろうか?天国は神の御国であり、神は聖なる御方だ。そうなら、汚れにまみれて罪を犯してばかりいる人がどうやって天国に入って神と共に生きる資格を得られるというんだ?天国に入るのは想像していたほど単純なことではないようだ!

2018年8月13日 (月) 曇りのち晴れ
今日、ヂェン兄弟にばったり会った。彼とは長い間顔を合わせていなかったので、会えてとても嬉しかった。彼と話している最中、ずっと頭を悩ませている事柄を持ち出した。話の後、ヂェン兄弟はこんなふうに話してくれた。「人間の罪は主イエス様が十字架に磔られた時に許されており、私たちが主を信仰すると、私たちの罪は許され、私たちは救われます。しかし、罪が許されるとは正確にはどういう意味なのでしょうか?これについて理解できれば、私たちが主への信仰を始めて、罪を許された後も罪を犯し続けてしまう理由が分かると思います。私たちが天国に入れるかどうかということについては、先ず初めに主イエスの出現と働きの背景を見る必要があります。律法の時代末期に、人間はサタンによってどんどん堕落させられ、さらに罪を犯すようになっていました。その状態はあまりにも酷く、もはや彼らの罪を償うに十分な罪の捧げものは残っておらず、彼らは当時の律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。これを背景に、神は主イエスとして受肉され、人間のために罪の捧げものとして十字架に磔にされました。こうして、人間の罪は永久に許されたのです。それ以降、人々は主の御名によって祈り、罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪を許され、律法により有罪とされ処罰を受けることはなくなったのです。神は人間を罪深い者として見ることをお止めになり、人々は神に直接祈り、神に呼び掛け、神の豊かな恵みと真理の備えを授かることができるようになったのです。これより、私たちの罪は主への信仰によって許され、『私たちの罪は許された』というのは、私たちが神の律法と戒めを破り、神の御言葉に逆らうという罪を犯したことを、神がお許しくださったということに過ぎないことが分かります。すなわち、主は、神の律法に違反し、それを侵したという私たちの罪深い行いは心に留めてはおられないということです。しかし、私たちに罪を犯させるサタンの性質と罪深い本性は神から許されてはおらず、私たちが依然として頻繁に罪を犯すことができてしまう明確な理由は、神に逆らう罪深い本性とサタンの性質が私たちの内に存在し続けているということです。従って、私たちの罪深い本性は神に対して最も反抗的で、真理に反するものであり、私たちが自分たちの罪深い本性を直さなければ、人間の罪の問題を解決するのは不可能であり、私たちは律法に違反することよりも深刻な罪さえ犯すようになり、天国に入ることなど完全に論外となってしまうということが分かります。聖書には明確にこう書かれています。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」(ペテロの第一の手紙1:15−16)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙10:26−27)「罪の支払う報酬は死である。……」(ローマ人への手紙6:23)これらの聖句から、もし私たちの罪深い本性が直らず、いまだに昼に罪を犯し、夜にそれを告白するという状態の中で生きていたら、たとえ最後まで主を信仰したとしても、結局は滅びることになり、それは神は聖なる御方であり、汚れて堕落した人類は神の祝福と約束を受けるにふさわしくなく、天国に入れないからである、ということを知りました。」

今、心は少し明るくなった。私たちの罪が赦されたというのは、神の律法を違反したという私たちの罪深い行いを主がお許しくださったということしか意味していないことを理解した。しかし、私たちは依然として神に逆らう罪深い本性を改善していないため、昼に罪を犯し夜にそれを告白するという状態の中で毎日を生きながら、どれだけ望んでもそれを改善できないのは当然のことだ。主に感謝!今日受けた交流はとても明確で、曇り空が晴れてやっと青空が見えるような気がする。帰りがけに、ヂェン兄弟がある書籍をくれて、彼の理解は全てその書籍から得たものだと教えてくれた。私はとても嬉しかった。

 

 


キリスト教映画「足枷を解いて走れ」抜粋シーン(3)聖書の先へ:主と共に神の国の宴に集いなさい 日本語吹き替え

2020-06-12 12:06:18 | キリスト教映画

キリスト教映画「足枷を解いて走れ」抜粋シーン(3)聖書の先へ:主と共に神の国の宴に集いなさい 日本語吹き替え

 

主を信仰する多くの人はこう考えています。神の御言葉と御働きはすべて聖書に書かれていて、聖書に書かれている神の救いは、それがすべてである、と。そして、神への信仰は聖書に基づいたものであるべきであり、信仰が聖書に基づいたものであれば、私たちは必ず神の国に招き入れられる、と。 こうした宗教的な概念は、私たちの心を縛り抑制する見えない縄のように作用し、そのため聖霊の御働きを探し求めることもせず、今行われている神様の御働きに服することができなくなります。それではどうやって、聖書と神様、あるいは聖書と神様の御働きとのつながりを理解することができるのでしょうか?「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。 」(ヨハネによる福音書5:39-40)全能神が言われます。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。」(『言葉は肉において現れる』より)神の御前に立ち、主の救いを受け、主と共に神の国の宴に集うためには、聖書から離れるよりほかにありません。


東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


救いを得るためにはどのように神の裁きと刑罰を経験するべきか。

2020-06-11 21:29:29 | 書籍

救いを得るためにはどのように神の裁きと刑罰を経験するべきか。

 


関連する神の言葉

要約すると、神への信仰においてペテロの道を歩むとは、真理を追い求める道を歩むことであり、その道はまた真に自分自身を知り、自らの性質を変える道でもあります。ペテロの道を歩むことでのみ、人は神によって完全にされる道を進むのです。ペテロの道を正確に言ってどのように歩むのか、またそれをどのように実践に移すかをはっきり知らなければなりません。第一に、自分自身の意図や不適切な追求だけでなく、自分の家族や肉体にかかわるすべてのことさえも脇へのける必要があります。心から献身的であらねばなりません。つまり、神の御言葉に自分自身を完全に捧げ、神の御言葉を飲み食いすること、真理を探求すること、そして神の御言葉の中にある神の意図を探し求めることに集中し、すべてにおいて神の心を把握しようと努めなければなりません。それが最も根本的にして極めて重要な実践の方法です。ペテロが主イエスを見たあとに行なったのもそれであり、そのように実践することでのみ、人は最高の結果を得られます。神の御言葉への心からの献身はおもに、真理を探し求めること、神の御言葉の中にある神の心を探し求めること、神の心を把握することに集中すること、神の御言葉からさらなる真理を理解し獲得することです。神の御言葉を読むとき、ペテロは教義を理解することにも、さらには神学的な知識を得ることにさえ集中していませんでした。その代わりに真理を理解すること、神の心を把握すること、そして神の性質と愛らしさを認識することに心を砕いたのです。ペテロはまた、神の御言葉から人間の様々な堕落した状態を、また人間の堕落した本性や実際の欠点を認識しようと努め、それにより神が人間に課す要求のすべての側面を満たし、神を満足させました。ペテロは神の御言葉において数多くの正しい実践を行ないました。それは神の心にもっともかなっており、また神の働きを経験しつつ人が行なうことのできる最高の協力方法です。神から来る数百もの試練を経験するとき、ペテロは人間に対する神の裁き、暴露、および要求の言葉の一つひとつを鏡として自分自身を厳しく吟味し、これらの言葉の意味を理解しようと努めました。また主イエスが彼に言ったあらゆる言葉を真摯に考え、心にとどめようとし、極めて優れた結果を残しました。このような実践の方法を通じて、ペテロは神の御言葉から自分自身を認識するにいたり、人間の様々な堕落した状態だけでなく、人間の本質、本性、様々な欠点をも理解するようになったのです。これが本当に自己を理解するということの意味です。ペテロは神の御言葉から、自身を本当に理解しただけでなく、神の御言葉において表現されるもの、すなわち神の義なる性質、神が所有するものと神そのもの、働きに関する神の心、神の人間への要求といったことの御言葉から、神を完全に知るようになりました。ペテロは神の性質と本質を知り、神が所有するものと神そのものに加え、神の愛らしさ、そして神の人間への要求を知り理解するようになったのです。当時、神は今日ほど多くを話しませんでしたが、これらの側面においてペテロに成果がそれでも達成されたのです。これは希にして貴重なことです。

キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より

神の言葉の裁きを受けるとき、苦しみを恐れたり、痛みを心配したりしてはいけません。まして、神の言葉が自分の心を刺し通すのではないかと恐れてはいけません。神が私たちをどのように裁いて罰するか、私たちの堕落した本質をどのように暴くかについて、私たちは神の発する言葉をもっと読むべきであり、神の言葉を読みながら、もっと頻繁に自分とそれらを比べなければなりません。私たちにはこれらの堕落がどれもありますが、私たちは誰しもそれらと自分を比較することができます。…私たちは信仰の中で、神の言葉が真理であることを固く保たなければなりません。それは実際に真理なのですから、理知的に受け入れなければなりません。それを認識したり認めたりすることができようとできまいと、神の言葉に対する私たちの態度はまず絶対的な受容の態度でなければなりません。神の言葉の各文はある特定の状態に関するものです。つまり、神の発言の各文はみな外面的な現象に関するものではなく、ましてや外面的な規則に関するものでも、人々の単純な行動形態を暴くものでもありません。神の発言の各文を、人間の単純な行動あるいは外面的な現象を暴くものとして見るならば、あなたには霊的理解が一切なく、真理とは何かを理解していません。神が露わにするのはひとえに人の堕落した性質と、人のいのちの中にある、根深く本質的な要素に関することなのです。それらは外面的な現象ではなく、外面的な振る舞いでは特にありません。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求する重要性とその道」より

神の支配を信じるなら、毎日起きる物事はよいことであれ悪いことであれ、偶然の出来事ではないことを信じなければなりません。誰かがわざとあなたにつらく当たったり、あなたを標的にしたりしているのではなく、実はすべて神が采配し、指揮しているのです。神は何のためにこれらの物事を指揮するのですか。あなたの短所を暴くためでも、あなたを露わにするためでもありません。あなたを露わにすることは最終目標ではないのです。最終目標はあなたを完全にして救うことです。神はどのようにそれを行ないますか。まず、神はあなたの堕落した性質、本性と本質、短所、そして欠けているものをあなたに気づかせます。これらのことを心の中で理解して初めて、真理を追い求めて堕落した性質を徐々に捨て去ることができます。これは神が機会を与えているのです。あなたはこの機会をどのように掴むべきかを知らなければならず、神と角突き合わせてはいけません。とりわけ、神があなたの周りに配した人や出来事や物事に向き合うとき、自分の望み通りでないと考えたり、逃れようと思ったり、神を責めて誤解したりするばかりではいけません。それは神の働きを経験することではなく、真理の現実に入るのを非常に難しくします。完全には理解できない物事が何であっても、困難を抱えたときは服従することを学ばなければなりません。まずは神の前に出向いてもっと祈るべきです。そうすれば、知らないうちに自分の内なる状態が変わり、真理を求めて問題を解決できます。あなたは神の働きを体験できるのです。その間にあなたの中で真理の現実が生じ、そのようにしてあなたは前進し、いのちの状態が変化します。いったんこの変化を経験して、そのような真理の現実を得たならば、あなたは霊的背丈を有するようになり、霊的背丈とともにいのちが生じます。いつも堕落したサタン的な性質を基に生きるなら、熱意や活力がどれほどあっても、その人は霊的背丈やいのちを有しているとはやはり考えられません。神は一人ひとりの中で働きを行ないますが、その方法が何であれ、働きの形がどのようなものであれ、言葉の調子がどういったものであれ、神の最終目標は一つしかありません。それはあなたを救うことです。あなたを救うとは、あなたを変えることを意味しますが、どうして少しばかりの苦しみを受けないでいられるでしょうか。あなたは苦しまなければなりません。この苦しみには多くのことが含まれます。神はあなたの周囲に人や物事を配し、あなたを露わにし、あなたが自分自身を知るようにします。さもなければ直接あなたを取り扱い、刈り込み、露わにします。手術台の上の人と同じく、よい結末を迎えるにはいくらかの苦しみを経験しなければならないのです。神があなたを刈り込んだり取り扱ったりするたびに、人や物事を配するたびに、あなたの感情がかき立てられ、士気が高められるなら、そのような経験は正しく、あなたは霊的背丈を得て真理の現実に入ってゆきます。

『キリストの言葉の記録』の「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」より

ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではないだろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、純粋な神への愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物として相応しいということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な滋養であり、栄養であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。神の言葉を実践する時、あなたがたが理解できない多くの真理も明らかになるであろう。ほとんどの人々が神の言葉の文面を理解するだけで満足し、その深さを実際に体験せずに、教義を身に付けることに重点を置くが、それはパリサイ人のやり方ではなかろうか。ならば、彼らにとって、どうして「神の言葉はいのちである」という言葉が本当でありえようか。人間が神の言葉を実践する時のみ、いのちが真に花開くのであり、単に神の言葉を読むだけでは、それは成長できない。神の言葉を理解しさえすれば、いのちと霊的成長を得ることができる、というのがあなたの信仰ならば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。あなたは「真理は、実践して初めて理解できる。」ということが解からなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より

自らの本分を尽くしながら神を満足させることができ、言動において原則をしっかりともち、真理のあらゆる側面の現実に入ることができるなら、その人は神により完全にされる人間です。神の働きと御言葉は、そのような人にとって完全に有効であり、神の御言葉はその人のいのちとなり、その人は真理を得て、神の御言葉に沿って生きることができる、と言うことができます。その後、その人の肉体の本性、つまり、根源的存在の基礎そのものが、震えてばらばらになり崩壊します。神の御言葉を自らのいのちとして有するようになると、人は新しい人となります。神の御言葉が人のいのちとなり、神の働きのビジョン、人類への神の要求、人への神による暴露、神が人に達することを要求する真のいのちのための基準が人のいのちとなり、これらの御言葉と真理に従って生きるならば、人は神の御言葉によって完全にされます。そのような人は生まれ変わり、神の御言葉をとおして新しい人となったのです。

『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より

説教と交わりの参考箇所

終わりの日の神様の働きは言葉で裁くこと。ですから、もし私達が堕落した性質を清めて救われたいと思うのなら、まず神様の御言葉に集中しなければなりません。そして御言葉を真剣に読み、神様の御言葉による裁きを受け入れねばならないのです。神様の言葉がどんなに辛らつに響いて苦々しく感じられても、その言葉は全てが真理であり、私達が生きるべきいのちなのですから。神様の語りかけは全て私達を清めて変えます。私達の堕落した性質を捨てさせて救い、真理を理解し、神様について知ることができるようにします。ですから、御言葉の裁きと刑罰、刈り込みと取り扱いを受けなくてはなりません。御言葉における真理を得たいと思うなら、私達は苦労してでも真理と御言葉に従わなければなりません。私たちは御言葉の真理を深く求め、御心を感じ、自分を見つめ直して、神様の御言葉によって自分たちの横柄さや欺瞞、わがままや卑しさを自覚すべきです。神様と取引し、利用し、騙し、真理を弄ぶといったサタン的性質や、信仰の不純さや祝福を狙う裏心を自覚すべきです。そうすれば、徐々に堕落の真実と自分の本性と本質が見えてくるでしょう。真理を理解すればするほど、神様への認識はより深くなります。神様がどんな人を愛し嫌うのか分かるようになるでしょう。どんな人を救い、逆に排除し、どんな人を使い、祝福するかもです。その結果私達は神様の性質を理解できるようになります。全ては御言葉による裁きと刑罰を経験してできることです。真理を追求したければ、御言葉による裁きと刑罰を経験し、全てにおいて真理や御言葉を実践して、神様に従うことが重要です。それができる人は神の御言葉を経験することによって真理を徐々に理解して現実に入り、救われて完全になるでしょう。神様の示した真理により、神様の出現と働きを認識はしていながら、真理を愛さない者は、神様のために全てを犠牲にして本分を尽くしさえすれば救われると思っています。彼らはたとえ長年信じても真理と命は得られません。言葉や教義を少し知っているだけで、真理も現実も分かっていると思い込み、自分に嘘をついてるので、確実に神様に見捨てられます。

今日、私たちが神の御言葉を読むとき最も重要なことは、神の裁きと刑罰を受け入れることです。最重要点は神の裁きと刑罰を受け入れることであり、これが最も基本的なことです。…あなたがたは皆、「私は裁きと刑罰の苦しみに喜んで耐える」と言います。この苦しみに喜んで耐えるつもりならば、どのように服従しますか。どのように受け入れますか。神の裁きと刑罰の御言葉を目にすれば、それを神の自分に対する裁きとして受け入れますか。それとも、その言葉は他人を裁いているのであり自分とは関係ないと主張して、神の裁きと刑罰を避けますか。どちらの道をたどりますか。もし神の裁きと刑罰を喜んで受け入れるならば、神の御言葉を読んでいるとき、これらを避けるべきではありません。どんなに痛烈で厳しい言葉でもすべて受け入れるべきです。神にこう祈るのです。「神よ、私はあなたの裁きと刑罰を喜んで受け入れます。あなたの裁きの御言葉は私に向けられています。私はこのように堕落した人です。こうした堕落の問題を抱えていますから、あなたの裁きと刑罰を受け入れるべきです。これが私へのあなたの愛で、あなたによる高揚だからです。私はそれらを完全に受け入れ、従います。あなたの愛に感謝します。」このように祈れば、あなたはすぐにそれらを容易に受け入れ、難しいと思うことはありません。それから神の御言葉を自分自身の状態と比較して、理解を深めるのです。このようにすればできます。これが神の裁きと刑罰への服従の表現です。しかし、かなり厳しい神の御言葉を見て、「神よ、この言葉は私への裁きではありません。他の人たちへの裁きです。サタンへの裁きです。私とは何の関係もありません。ですから私には読む必要がありません」と言うならば、これでは神の裁きと刑罰を避けることになります。兄弟姉妹があなたを刈り込み、取り扱うならば、何をすべきでしょうか。すぐに神に祈るべきです。「神よ、感謝します。これは私に向けられたあなたの愛です。あなたは私への愛ゆえに、兄弟姉妹を動かし、私を刈り込み取り扱うようになさいました。私は服従します。」あなたは祈らなければなりません。祈らなければ、簡単に拒み、肉が簡単に反抗し、簡単に他人と衝突し、簡単に不平を言うようになり、さらに簡単に否定的になってしまいます。ですから、すぐに祈りに行かなければなりません。祈った後は心が落ち着いて、服従できます。本当に服従できるようになれば、心に喜びがあり、こう言うでしょう。「あの時私は癇癪を起こさず、受け入れた。それは祈ったからだ。今やっと神に服従できる」あなたは希望のかすかな光を見、霊的背丈が伸びます。人はこうして成長するのです。

『いのちに入ることに関する交わりと説教(1)』の「成果を遂げるには、いかに神の言葉を飲み食いすべきか」より