神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

キリストが真理、道、そしていのちであることをどのように理解するべきか

2020-08-26 20:54:14 | 天の国の福音

キリストが真理、道、そしていのちであることをどのように理解するべきか

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」(ヨハネによる福音書 1:1-2)

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。…めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネによる福音書 1:14)

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれ

キリストが真理、道、そしていのちであることをどのように理解するべきか

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」(ヨハネによる福音書 1:1-2)

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。…めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネによる福音書 1:14)

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書 14:6)

「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネによる福音書 6:63)

 

関連する神の言葉

真理とは、人の世から出るが、人の世の真理は、キリストによって伝えられるのである。真理とはキリスト、すなわち神自身から来るものであって、人には達成できないものなのだ。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった。」このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より

今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような神の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。終わりの日の神の働きは、天の神が地上で人々の間で生きていることを人に見せることであり、また人が神を知り、神に従い、神を畏敬し、神を愛することができるようにすることである。これが神が再び肉に戻った理由である。 …

…今日あなた方が持っているすべてはこの肉のおかげである。神が肉の中で生きている故に、あなた方にも生きる機会がある。このすべての恩恵はこの普通の人の故に獲得されたのである。それだけではない。最後にはすべての国々はこの普通の人を礼拝し、この取るに足りない人に感謝し、従うだろう。全ての人類を救い、神と人の間の対立を和らげ、神と人を近づけ、神と人の考えをつなげるための真理、いのち、道をもたらしたのは、この人だからである。一層大きな栄光を神にもたらしたのもこの人である。このような普通の人は、あなたの信頼や敬愛を受けるに値しないだろうか。このような普通の肉はキリストと呼ばれるに相応しくはないだろうか。このような普通の人が人々の間で神の表出となれないことなどあろうか。人類が災難を免れる手助けをするこのような人は、あなた方に愛され、あなた方が抱きしめる価値がないなどということがあろうか。あなた方がこの人の口から発せられる真理を拒み、あなた方の間に彼が存在することを忌み嫌うならば、あなた方の運命はどうなるであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは知っていたか。神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを」より

それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。…

私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。 …

神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

神の国の時代に神は言葉を使い、新たな時代の到来を知らせ、神の働きの方法を変え、その時代全体の働きを行なう。これが言葉の時代において神が働く原則である。神は異なる視点から語るために肉となり、肉に現れる言葉である神、神の知恵と驚くべき素晴らしさを人間が本当に見ることができるようにした。このような働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰する目的をよりよく達成するために行なわれる。これが言葉の時代において働くために言葉を使うことの真の意味である。言葉をとおして、神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何に入っていくべきかを人間は知るようになる。言葉をとおして、言葉の時代に神が行ないたい働きはその全体が結実される。言葉をとおして、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在に気づいた。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、また神の人間への愛と人間を救う願望を信じる。「言葉」という語句は単純でごく普通であるが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがせる。それは人間の心、観念、古い性質、世界全体が以前にはどのように表れていたかを変革する。時代をとおして、今日の神だけがこのような働き方をし、今日の神だけがそのように語り、そのように人間を救いに来る。それ以降は、人間は言葉の導きの下に生き、言葉により牧され、施しを受ける。全人類は言葉の世界に、神の言葉の呪いと祝福の内に生きるようになった。そして言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになったさらに多くの人間がいる。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、過去の創造における世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、宇宙の人間を言葉をもって導き、言葉をもって征服し救う。ついに、神は言葉を使って古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画がくまなく完了する。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より

最も重要な事は、言葉が受肉したこと、真理の霊が肉として具現化したこと、全ての真理、いのち、道が、肉となって来たこと、霊が肉にあって真に地に到来したことを、この正常な人間性から発見できるかどうかである。表層的には、それは聖霊による受胎と異なるように思われるが、この業において、霊は既に肉において具現化したこと、更には言葉が受肉したこと、言葉が肉に現れたことが分かり、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という言葉の真意を理解できる。さらに、あなたは今日の言葉が神であり、言葉が受肉するのを目の当たりにしなければならない。これが、あなたがなし得る最高の証である。このことは、あなたが肉にある神に関する真の認識を備えていること、つまりあなたは神を知り、分析出来るだけでなく、自分が歩む道がいのちの道であり、真理の道であることを認識していることを示す。イエスは、「言は神と共にあった。」の実体のみを満たす業の段階を行った。神の真理は神と共にあり、神の霊は肉と共にあり、神と不可分であった。つまり、受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが最初の受肉した神であったことの大いなる証拠である。この段階の業は「言葉が受肉した」の内面的意味を満たし、「言は神と共にあった。言は神であった。」に一層深い意味を加え、「初めに言があった。」という言葉を、あなたが堅く信じることを可能とした。つまり、神は創造の時に言葉を備え、神の言葉は神と共にあって神と不可分であった。そして、最後の時代には、神の言葉の力と権威は一層明瞭となり、人間は神の言葉すべてを理解できるようになり、言葉全てを聞くことができるようになった。それが最後の時代の業である。あなたは、こうした事柄を完全に知り尽くす必要がある。それは肉を知る問題ではなく、肉と言葉を知る問題である。これは、あなたが証に立つ必要があり、全ての人が知る必要がある物事である。

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より

わたしの言葉は永遠に変わらない真理である。わたしは人間にとっては、いのちを与える者であり、人類の唯一の案内人である。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているかどうか、受け入れられているかどうかではなく、言葉自体の本質によって決定される。たとえこの地上でだれひとりわたしの言葉を受け入れることができないとしても、わたしの言葉の価値と、どれだけそれが人類の助けになるかは、人には計り知れない。だから、わたしの言葉に逆らい、反論し、あるいはわたしの言葉を全く軽蔑している人たちに直面するとき、わたしの変わらない姿勢はこうである。時と事実をわたしの証人とし、わたしの言葉が確かに真理であり、道であり、いのちであることを示させよう。そして、わたしが言ったことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに人はそれを受け入れるべきであることを、時と事実に実証させよう。わたしはわたしに従うすべての者たちに次の事実を知らせる。わたしの言葉を完全に受け入れることができない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉によって救いを受け入れることができない人たちは、わたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらには、わたしの救いを失った人たちである。そして、わたしのむちは決して彼らから離れることはない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より
(一篇の御言葉)

 

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる

いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

もしかしたら今、あなたはいのちを受け取りたいと望んでいたり、真理を得たいと望んでいたりするかもしれない。いずれの場合にも、あなたは神を見つけだし、あなたが頼れてあなたに永遠のいのちを与える神を見つけたいということだ。永遠のいのちを得たいと望むなら、あなたはまず永遠のいのちの源を理解せねばならず、神がどこにいるのかを知らねばならない。わたしは、神のみが永久不変のいのちで、神のみがいのちの道を持っていると既に言った。神のいのちは永久不変なので、それは永遠のいのちである。神のみがいのちの道なので、神自身が永遠のいのちの道である。それだから、あなたはまず神がどこにいるのか、そして永遠のいのちの道を得るにはどうしたらよいかを理解しなければならない。では、この二つの点について、それぞれ話そう。

あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか?おそらくあなたは、神は天にいると答えるだろう。もちろん、あなたの家に住みはしないだろう。あなたは、神は明らかに万物の中にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中に住んでいると言うかもしれないし、神は霊的世界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのは全く正しいわけではないが、かと言って全く間違っているわけでもない。すなわち、神を信ずる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、また神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからだ。だから神は一握りの人の心にのみ住んでいるとわたしは言う。この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれていて、既に神の永遠のいのちの道を見聞きしている。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たち――彼らは神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかに関しては無知なままでいるしかない。対照的に、心に神が住んでいる者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を与える者たちで、神に従う者たちだ。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍の両方にいる。神は霊的世界にいて、全てのものの上にいるだけでなく、人が存在する地上に、それ以上にいる。だから、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだ。神は万物に対して支配権を持っており、人の心に根幹として存在し、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらすことができ、人をいのちの道へと導く。人がいのちの道を得ることができ、生存できるように、神は地上に来て、人の間に住む。同時に、人の間での自分の計画に沿うように、神は万物を支配する。だから、あなたが神は天と人の心にいるという教義のみを認め、人の間での神の存在の真理を認めないのなら、あなたは決していのちを得ることはないし、真理の道を得ることもない。

神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、あなたはまず、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということを認め、そして神が人にいのちの道を与えるために地上に来るのは終わりの日なのだと認めなくてはならない。これは過去のことではない。今起こっていることなのだ。

終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。

キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。

『言葉は肉において現れる』より

脚注

a.「一片の枯れ木」は「救いようがない」という意味の中国の諺。

 

 

でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書 14:6)

「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネによる福音書 6:63)

 

関連する神の言葉

真理とは、人の世から出るが、人の世の真理は、キリストによって伝えられるのである。真理とはキリスト、すなわち神自身から来るものであって、人には達成できないものなのだ。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった。」このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より

今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような神の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。終わりの日の神の働きは、天の神が地上で人々の間で生きていることを人に見せることであり、また人が神を知り、神に従い、神を畏敬し、神を愛することができるようにすることである。これが神が再び肉に戻った理由である。 …

…今日あなた方が持っているすべてはこの肉のおかげである。神が肉の中で生きている故に、あなた方にも生きる機会がある。このすべての恩恵はこの普通の人の故に獲得されたのである。それだけではない。最後にはすべての国々はこの普通の人を礼拝し、この取るに足りない人に感謝し、従うだろう。全ての人類を救い、神と人の間の対立を和らげ、神と人を近づけ、神と人の考えをつなげるための真理、いのち、道をもたらしたのは、この人だからである。一層大きな栄光を神にもたらしたのもこの人である。このような普通の人は、あなたの信頼や敬愛を受けるに値しないだろうか。このような普通の肉はキリストと呼ばれるに相応しくはないだろうか。このような普通の人が人々の間で神の表出となれないことなどあろうか。人類が災難を免れる手助けをするこのような人は、あなた方に愛され、あなた方が抱きしめる価値がないなどということがあろうか。あなた方がこの人の口から発せられる真理を拒み、あなた方の間に彼が存在することを忌み嫌うならば、あなた方の運命はどうなるであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは知っていたか。神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを」より

それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。…

私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。 …

神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

神の国の時代に神は言葉を使い、新たな時代の到来を知らせ、神の働きの方法を変え、その時代全体の働きを行なう。これが言葉の時代において神が働く原則である。神は異なる視点から語るために肉となり、肉に現れる言葉である神、神の知恵と驚くべき素晴らしさを人間が本当に見ることができるようにした。このような働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰する目的をよりよく達成するために行なわれる。これが言葉の時代において働くために言葉を使うことの真の意味である。言葉をとおして、神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何に入っていくべきかを人間は知るようになる。言葉をとおして、言葉の時代に神が行ないたい働きはその全体が結実される。言葉をとおして、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在に気づいた。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、また神の人間への愛と人間を救う願望を信じる。「言葉」という語句は単純でごく普通であるが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがせる。それは人間の心、観念、古い性質、世界全体が以前にはどのように表れていたかを変革する。時代をとおして、今日の神だけがこのような働き方をし、今日の神だけがそのように語り、そのように人間を救いに来る。それ以降は、人間は言葉の導きの下に生き、言葉により牧され、施しを受ける。全人類は言葉の世界に、神の言葉の呪いと祝福の内に生きるようになった。そして言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになったさらに多くの人間がいる。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、過去の創造における世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、宇宙の人間を言葉をもって導き、言葉をもって征服し救う。ついに、神は言葉を使って古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画がくまなく完了する。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より

最も重要な事は、言葉が受肉したこと、真理の霊が肉として具現化したこと、全ての真理、いのち、道が、肉となって来たこと、霊が肉にあって真に地に到来したことを、この正常な人間性から発見できるかどうかである。表層的には、それは聖霊による受胎と異なるように思われるが、この業において、霊は既に肉において具現化したこと、更には言葉が受肉したこと、言葉が肉に現れたことが分かり、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という言葉の真意を理解できる。さらに、あなたは今日の言葉が神であり、言葉が受肉するのを目の当たりにしなければならない。これが、あなたがなし得る最高の証である。このことは、あなたが肉にある神に関する真の認識を備えていること、つまりあなたは神を知り、分析出来るだけでなく、自分が歩む道がいのちの道であり、真理の道であることを認識していることを示す。イエスは、「言は神と共にあった。」の実体のみを満たす業の段階を行った。神の真理は神と共にあり、神の霊は肉と共にあり、神と不可分であった。つまり、受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが最初の受肉した神であったことの大いなる証拠である。この段階の業は「言葉が受肉した」の内面的意味を満たし、「言は神と共にあった。言は神であった。」に一層深い意味を加え、「初めに言があった。」という言葉を、あなたが堅く信じることを可能とした。つまり、神は創造の時に言葉を備え、神の言葉は神と共にあって神と不可分であった。そして、最後の時代には、神の言葉の力と権威は一層明瞭となり、人間は神の言葉すべてを理解できるようになり、言葉全てを聞くことができるようになった。それが最後の時代の業である。あなたは、こうした事柄を完全に知り尽くす必要がある。それは肉を知る問題ではなく、肉と言葉を知る問題である。これは、あなたが証に立つ必要があり、全ての人が知る必要がある物事である。

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より

わたしの言葉は永遠に変わらない真理である。わたしは人間にとっては、いのちを与える者であり、人類の唯一の案内人である。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているかどうか、受け入れられているかどうかではなく、言葉自体の本質によって決定される。たとえこの地上でだれひとりわたしの言葉を受け入れることができないとしても、わたしの言葉の価値と、どれだけそれが人類の助けになるかは、人には計り知れない。だから、わたしの言葉に逆らい、反論し、あるいはわたしの言葉を全く軽蔑している人たちに直面するとき、わたしの変わらない姿勢はこうである。時と事実をわたしの証人とし、わたしの言葉が確かに真理であり、道であり、いのちであることを示させよう。そして、わたしが言ったことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに人はそれを受け入れるべきであることを、時と事実に実証させよう。わたしはわたしに従うすべての者たちに次の事実を知らせる。わたしの言葉を完全に受け入れることができない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉によって救いを受け入れることができない人たちは、わたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらには、わたしの救いを失った人たちである。そして、わたしのむちは決して彼らから離れることはない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」より
(一篇の御言葉)

 

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる

いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

もしかしたら今、あなたはいのちを受け取りたいと望んでいたり、真理を得たいと望んでいたりするかもしれない。いずれの場合にも、あなたは神を見つけだし、あなたが頼れてあなたに永遠のいのちを与える神を見つけたいということだ。永遠のいのちを得たいと望むなら、あなたはまず永遠のいのちの源を理解せねばならず、神がどこにいるのかを知らねばならない。わたしは、神のみが永久不変のいのちで、神のみがいのちの道を持っていると既に言った。神のいのちは永久不変なので、それは永遠のいのちである。神のみがいのちの道なので、神自身が永遠のいのちの道である。それだから、あなたはまず神がどこにいるのか、そして永遠のいのちの道を得るにはどうしたらよいかを理解しなければならない。では、この二つの点について、それぞれ話そう。

あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか?おそらくあなたは、神は天にいると答えるだろう。もちろん、あなたの家に住みはしないだろう。あなたは、神は明らかに万物の中にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中に住んでいると言うかもしれないし、神は霊的世界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのは全く正しいわけではないが、かと言って全く間違っているわけでもない。すなわち、神を信ずる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、また神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからだ。だから神は一握りの人の心にのみ住んでいるとわたしは言う。この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれていて、既に神の永遠のいのちの道を見聞きしている。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たち――彼らは神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかに関しては無知なままでいるしかない。対照的に、心に神が住んでいる者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を与える者たちで、神に従う者たちだ。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍の両方にいる。神は霊的世界にいて、全てのものの上にいるだけでなく、人が存在する地上に、それ以上にいる。だから、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだ。神は万物に対して支配権を持っており、人の心に根幹として存在し、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらすことができ、人をいのちの道へと導く。人がいのちの道を得ることができ、生存できるように、神は地上に来て、人の間に住む。同時に、人の間での自分の計画に沿うように、神は万物を支配する。だから、あなたが神は天と人の心にいるという教義のみを認め、人の間での神の存在の真理を認めないのなら、あなたは決していのちを得ることはないし、真理の道を得ることもない。

神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、あなたはまず、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということを認め、そして神が人にいのちの道を与えるために地上に来るのは終わりの日なのだと認めなくてはならない。これは過去のことではない。今起こっていることなのだ。

終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。

キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。

『言葉は肉において現れる』より

脚注

a.「一片の枯れ木」は「救いようがない」という意味の中国の諺。

 

 


日々の神の御言葉「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」抜粋255

2020-08-25 22:43:47 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」抜粋255

あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか?おそらくあなたは、神は天にいると答えるだろう。もちろん、あなたの家に住みはしないだろう。あなたは、神は明らかに万物の中にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中に住んでいると言うかもしれないし、神は霊的世界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのは全く正しいわけではないが、かと言って全く間違っているわけでもない。すなわち、神を信ずる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、また神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからだ。だから神は一握りの人の心にのみ住んでいるとわたしは言う。この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれていて、既に神の永遠のいのちの道を見聞きしている。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たち――彼らは神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかに関しては無知なままでいるしかない。対照的に、心に神が住んでいる者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を与える者たちで、神に従う者たちだ。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍の両方にいる。神は霊的世界にいて、全てのものの上にいるだけでなく、人が存在する地上に、それ以上にいる。だから、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだ。神は万物に対して支配権を持っており、人の心に根幹として存在し、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらすことができ、人をいのちの道へと導く。人がいのちの道を得ることができ、生存できるように、神は地上に来て、人の間に住む。同時に、人の間での自分の計画に沿うように、神は万物を支配する。だから、あなたが神は天と人の心にいるという教義のみを認め、人の間での神の存在の真理を認めないのなら、あなたは決していのちを得ることはないし、真理の道を得ることもない。

神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

『言葉は肉において現れる』より引用

 

 

神の声を聞き分ける方法 3 質問

2020-08-24 21:55:23 | 天の国の福音

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」と主は言いました。主が戻られ、羊を集めていると分かりました。主を待つとは主の声を探し求めることですが、問題は主の声をどうやって聞くのか知らないことです。神の声と人間の声の区別がつきません。絶対に主の声だと分かるにはどうしたらいいですか?

 


解答: 神の声を聞くのに、人としての資質や経験の長さは関係ありません。信仰において、主イエスの言葉を聞いた時どう感じるでしょう?主の言葉について経験も認識もないのに、聞いた瞬間に、それは真理であると感じて、権威と力があると分かるでしょう。その感覚というのは経験から来るものでしょうか?霊感と直感から来るのです。その証拠に、心と霊がある人は神の言葉が持つ力と権威を感じられます。これが神の声を聞くということです。さらに、神の声と人間の声の最大の違いは、神の声は真理で、力と権威があり、すぐに分かるということです。言葉にできるかどうかはともかく、気持ちははっきりしている。人間の声はもっと簡単です。聞いた瞬間理解できると感じるのです。その言葉には力や権威が全くなく、真理があるとも思えません。これが神と人間の言葉の違いです。例を挙げましょう。主イエスの言葉には力と権威があり、聞いた瞬間真理だと分かります。しかも言葉は奥深く、謎めいていて、人間の計り知れない意味があることは間違いありませんね?それでは聖書にある使徒の言葉はどうでしょうか。大半が聖霊の啓示を受けていますが、権威も力もありません。正しくて、人の役に立つだけです。お聞きしますが、主イエスのような言葉を話せる人はいますか?誰も話すことはできません。つまり主の言葉は神の声だという証拠です。こうして比較すれば、神と人間の声を聞き分けることができますね?

全能神の言葉を読んで、全能神の言葉が真理であり、神の声か確かめてみてください。全能神は言われます。「宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々や宗派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。『贖い主』が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、『ユダヤ人の息子』ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた『赤児』である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。」(『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より)

 「わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは『聖なる方が白い雲の上に乗って』降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

 ……わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、天地創造当初の状態を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。わたしの計画の最後の段階が終わろうとしている。ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。今、あなたがたには主がいるのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。もはや沈黙するな。わたしは勝利の内に帰ってきた。創造の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの約束をどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、塔のようにまっすぐに、この世に、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。ああ、忌まわしいエジプトよ。まことに、もうわたしに敵対はしないだろう。どうしてわたしの憐れみを利用してわたしの刑罰を免れようとするのか。どうしてわたしの刑罰の内に存在できないのか。わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より)

 全能神の言葉を読むと同じ感情になり、神が人類に語られていると分かります。神以外に誰が人類に語ってくれるのでしょうか?人類を救うという神の意向を他の誰が示すのでしょうか?終わりの日の働きの計画を明かし、人類の果てと終着点を誰が示せますか?神の行政を誰が世界中に宣言できますか?神以外誰にもできません。全能神は全人類に向けて話し、神の言葉の持つ力と権威を見せました。全能神の言葉は神の表現であり、声なのです。全能神が発する言葉は、神が第三の天に立ち、全人類に語られているかのようです。全能神は人類の創造主としてみんなに語りかけています。神の義、威厳、傷つかない性質を人類に明らかにしているのです。全能神の言葉を聞けば、たとえ真理がまだよく理解できず、経験のない神の羊であっても、全能神の言葉には力と権威があり、神の声に間違いないこと、そして神の霊が直に発していることがはっきりと分かるのです。神に選ばれた人は言葉を聞くだけで神の声だと分かるのに、なぜ牧師や長老は全能神を非難するのでしょうか?反キリストは神の受肉を認めず、神が真理を示すことを認めません。それが真理であることを認識できて、神の言葉の持つ力と権威を感じるのにです。神が肉体から言葉を発することも、語られたことが全て真理であるということも認めようとしません。なぜか分かりますか?終わりの日に、受肉した全能神が全人類に語られる言葉をいったいどれくらいの人が気づくでしょうか?全能神が語っても、宗教界の多くの人が神の声だと分かっていません。人間が語った言葉のように扱い、自分の観念だけで全能神を決め付け非難しています。神を畏れる心があるのでしょうか?彼らは真理を嫌い神を非難した、昔のパリサイ人と同じでは?神の言葉には権威と力があるのに、それが神の声だと分からないのです。それで神の羊と言えますか?聞いても心は空っぽ、目にしても分からず、結局理解できません。それで天に招かれますか?終わりの日に受肉した神は真理を示し、宗教界の人々の本性を暴きます。真の信者と偽者、真理を愛する者と嫌う者、賢いおとめと愚かなおとめのように全員が振り分けられ、それぞれ分類されるのです。全能神が言っています。「悪者はすべて神の口から語られる言葉によって罰せられ、義人はすべて神の口から語られる言葉によって祝福される……」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より) 神の声を聞く者は主の再臨を迎え、玉座に引き上げられて、子羊の婚宴に招かれることになります。それは賢いおとめで、恵まれた人類です。

 神の声は心と霊で聞く必要があり、心が同じなら分かり合えます。神の言葉は真理であり、力と権威があるので、心と霊があれば分かります。全能神の言葉を少し読んだだけで、多くの人が神の声であると確信できます。神は受肉のたびにその段階の働きをします。神の指示で特定の言葉を少し伝えるだけの預言者とは全く違います。受肉した神が働きをする時、多くの言葉を語り、多くの真理を伝え、奥義をあきらかにして預言します。終わるまでに何十年も必要な場合があります。例えば、贖いの働きでは、主はまず「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)と言い、どのように悔い改め、赦し、苦しみや苦難に耐えるかを諭しました。そして恵みの時代に従うべき道を開き、神の愛と慈悲の性質を見せました。また天国の奥義と天国に入る条件も明らかにしたのです。主が磔にされ復活し、昇天した時、神の贖いの働きが終わりました。主の言葉は真理で、贖いの働きで神が人類に与えた物です。終わりの日に全能神が現れ、人類を清め救う真理を示しました。神の家から始まる裁きの働きで、義を主とする神の性質を人類に明らかにしました。六千年にわたる経営(救いの)計画にまつわる奥義を明かし、神の国の時代を開き恵みの時代を終わらせました。全能神の言葉はその命の本質が湧き出たもので、神の性質を表します。今は人類を清め救うために、神が終わりの日に働いている段階なのです。全能神の言葉を読んで、それが真理を語り神の声であるか確認しましょう。

 全能神は言われます。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)

 「終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。……終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて行くことができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)

 「これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを汚れた霊の中に放り込む。その結果、彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)

 終わりの日、全能神は真理を示し裁きの働きをされ、その御言葉は人類の堕落を明らかにします。神に抗い悪に傾く、人間の堕落した心が暴かれます。聖であり義なる神の性質を人類に示されました。そのお姿と働きを見た人々は次々と救いを受け入れています。全能神はすべての信者に御言葉による裁きと刑罰を与え真理を示します。信仰心があるようで実は逆らっている人々の本質を明らかにします。全能神の御言葉を聞きましょう。全能神は言われます。「人間は天のわたしを見上げ、天にいるわたしについて、とりわけの関心を向けるが、肉におけるわたしを心にかける者は誰一人いない。人間の間で生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の言葉に合致するものだけを求める人々、漠然とした神に合致することだけを求める人々は、わたしには哀れに見える。それは、その人たちが崇めているのは死んだ言葉と、計り知れない宝を与えられる神だからである。その人々が崇めているのは、人間の思いのままになる神なのだが、それは存在しない。では、そうした人々はわたしから何を得られるのか。人間はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する人々、わたしに限りない要求をする人々、真理を愛さない人々、わたしに反抗心をもつ人々──どうしてそんな人々がわたしと融和できるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より)

 「あなたがたの心は悪、裏切り、欺きで満ちている。そのような状態であるならば、あなたがたの愛には幾つの不純物があるのか。あなたがたは、自分はわたしのためにすでに十分あきらめてきたと思っている。自分のわたしへの愛はすでに十分だと考えている。しかし、それならば、あなたがたの言葉と行動にはなぜいつも反抗と欺きがあるのか。あなたがたはわたしに従うものの、わたしの言葉を認めない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを脇へ置く。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしに疑いをもっている。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしの存在を受け入れられない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしが誰であるかに相応しくわたしを扱わず、あらゆる機会にわたしにとって物事を困難にする。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、あらゆる事柄においてわたしをからかい欺こうとする。これを愛とみなすのか。わたしに仕えるものの、わたしを恐れない。これを愛とみなすのか。あなたがたはあらゆる面で、あらゆる事柄においてわたしに反対する。これをすべて愛とみなすのか。あなたがたはかなりの犠牲を捧げてきたのは確かである。しかし、わたしがあなたがたに要求することを実践したことが全くない。これを愛とみなすことができるだろうか。注意深く検討すると、あなたがたの中にはわたしへの愛のほんの少しのほのめかしもないことがわかる。これほど長年の働きとあれだけ多くの言葉を与えてきた後、あなたがたは実際にどれほどのことを得てきたのか。このことは注意深く振り返り検討する価値がないだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」より)

 「あなた方の神への信仰の目的は、神を利用して自分の目的を果たすことである。それも神の性質に敵対していることの現れではないのか。あなた方は天の神の存在を信じるが、地上の神の存在を否定している。しかし、わたしはそのような見方を認めない。わたしは足を地に着けて地上の神に仕えるものだけを賞賛し、地上のキリストを認識しないものは絶対に認めないのである。そのような人たちが天にいる神にどれほど忠実であっても、結局、邪悪な者を罰するわたしの手を逃れることはないのである。そのような人は邪悪な者である。彼らは神に逆らい、喜んでキリストに服従したことのない邪悪な者である。もちろん、これにはキリストを知らないもの、およびキリストを認めないものも含まれる。」(『言葉は肉において現れる』の「どのように地上の神を知るか」より)

 「堕落した人々は、みなサタンの罠に囚われている。彼らは肉に生き、利己的な欲求をもって生きていて、彼らの中には、わたしと融和する者は、ただの一人もいない。わたしと融和すると言う者もいるが、みな漠然とした偶像を拝んでいる。彼らはわたしの名を聖いものとしているが、わたしに反する道を歩んでいる。そして、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。心の底では、みなわたしに敵対しており、わたしと融和していないからである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より)

 私たちは全能神の裁きによって、自己中心や偽り、思いあがりに気が付くのです。悪魔的な性質です。たとえ神を思い、苦難に耐えても、それが本当の服従や愛だと言うことはできません。苦難に直面すると、私たちは神に疑いや否定の気持ちを抱きます。これは私たちがサタンの性質を持っていることの現れなのです。私たちのこうした悪の性質が清められなければ、神への真の服従や愛はありません。今まで私たちは思い違いをしていました。何かを犠牲にして熱心に働けば良い人間になれると、神を愛する人間になれると。でも全能神の裁きで明らかになるのです。表向きは熱心に尽くしているようでも、実際には神に嘘をつき欺いています。自分の利益や顕示欲を優先しているのです。努力したり犠牲を払ったりするのは祝福を受け、天国に招かれたいからで、それでは神との取引です。神への服従や愛を語ることはできません。なのに、自分が誰よりも神に忠実だと主張する者がいます。全く無知で、神を知らない者です。そのお裁きから分かるように、神はすべてお見通しです。神の素晴らしい聖さ、義、その背くことのできない性質を感じる時、畏れに震えます。私たちは内なるサタンに気付き、神の前で生きる価値もないと感じます。打ちひしがれ後悔して嘆き叫び、自分の存在を呪い、ののしるのです。私達は悪に支配され日々を生き、人間らしさを見失っていることに気づくのです。多くの裁きや刑罰、試練や精錬、取り扱いやかりこみを経験し、ようやく真理が見え始めます。自分に潜む堕落をしっかり見つめ、それと同時に、神に対する真の認識を得ます。心から崇拝し服従するのです。これが正しい信仰の姿で神の裁きと刑罰を経験した結果です。神様の裁きと刑罰がなければ、私たちはサタンに堕落させられたことに気づかなかったでしょう。無意識のうちに、なぜ罪を犯し神に逆らうのかわからなかったでしょう。それだけでなく、悪から逃れ真に服従する方法も知ることはなかったでしょう。神の言葉による裁きがなければ、神の義、威厳、背くことのできない性質を知ることはない。神を畏れる心を養うことも、悪をさけるものにもなれない。これは真実です。神が受肉されなかったら、誰が終わりの日の裁きをできるでしょうか?誰が神の義で聖なる傷つかない性質を示せるでしょうか?神様が受肉されなかったら、一体誰が罪深い私たちを裁き、心を清め救うのでしょう。その力や権威を持ち合わせる方は他にいるでしょうか。全能神の御言葉は神としての地位を明らかにするもので、全能神こそが創造主で、唯一の神だと示します。私たちは全能神の御言葉に神の声を聞くことができました。なぜ今、多くの人が全てを賭け全能神の言葉を広めているのでしょう。なぜこんなに多くの人が中国政府の迫害や弾圧による命の危険を冒してまで、全能神の働きを伝えようとしているのでしょう?なぜ多くの人が宗教界の人々から見放され、非難や辱めに遭いながらも、一軒一軒の家の門を叩き、活動するのでしょう。それは彼らが神の声を聴き、その出現を確信し、人々に広める決意をしたからです。「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」(マタイによる福音書 25:6)と。これこそ、主が扉を叩いておられるのでは?主は皆さんの扉を叩いてます。皆さんは主を迎え入れますか。主が人を遣わして扉を叩いた時、真の道を学び、主の声を聞くべきですよね?

『戸をたたく』の映画台本から


質問14

2020-08-23 11:53:15 | 書籍

質問14:「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10:10)と聖書にあります。主イエスが私たちの罪を赦し、私たちを信仰によって義なるものにしてくださったと私たちは信じています。さらに、一度救われれば永遠に救われ、主が再来なさると私たちはすぐに携挙され天国に入ると私たちは信じています。ではなぜ救われ天国に導かれる前に終わりの日の神の裁きの働きを受け入れなければならないとあなたがたは証を立てているのですか。

 

回答

      主が十字架の上で亡くなったとき、私達を贖われたので、罪は全部赦されていると信者は考えています。私達はもう罪人ではないと。信仰を通して義になり、最後まで耐えていれば、救われ、主が戻られた時、直に天国に招かれると信じていますが、それは真実でしょうか?神はその主張の根拠になる発言をされていますか?もしこれが真理にそぐわない見方だとしたら、どうなります?主を信じる者として何事も主の御言葉をもとに判断すべきです。特に主の再来をどう受け止めるかは、何があろうと、自分の思い込みや想像で判断してはいけません。さもないとどうなるか考えただけでも恐ろしいです。パリサイ人がメシアを待っていると言いながら主イエスを磔にしたのと同じで、どのような結果になることか。主イエスは人類の贖いを完了しましたが、救いの働きは完了したのでしょうか?主イエスの信者は誰でも、天国へ招かれる資格があるのでしょうか?答えは誰にもわかりません。神は言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記11:45) 神の言葉によると、天国に入る者は罪から自由で、清められており、神の御心に沿って従い、神を愛し崇敬する者で、神は聖なる方で、天国に入る者は神と共にいますから、清められないままでは、神の国へ入る資格はないでしょう?罪が赦されたので天国へ招かれるという考えは、神の御心を完全に誤解していて人間の想像と思い込みからきています。私達の罪を赦してくださったのは本当です。でも主イエスは一言も、罪を赦されたことで完全に清められ、天国に入れるとは、おっしゃっていないのです。なぜ誰もが罪を赦されたら、天国に入れると信じているのでしょう?何を証拠にそう主張できるのでしょう?多くの人が、聖書の中でパウロや他の弟子たちがそう言っているからだと論じますが、パウロや弟子達の言葉は、主イエスの言葉を代弁できますか?聖霊の言葉に取って代われますか?聖書の中の人の言葉は、神の言葉なのでしょうか?聖書から明確にわかることは、神に称えられた者は、御言葉を聞いて御働きに従うことができ、神の道を歩み、神の約束されたものを受けられる、これは誰にも否定できない事実です。信仰することで、罪は赦されているとしても清められていないので、まだ罪を犯し神に逆らってしまいます。神もはっきり言われました。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記 11:45)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)この言葉から、罪を赦されても、天国に入れるわけではないという事がわかります。人には清めが必要で神の御心を実行する者にならなければ、天国には入れないのです。神の御心を理解する事は簡単ではないですが、罪を赦されても、清められてはいないのです。まず真理を知って、神に褒めていただければ、天国に入る権利を得るでしょう。真理を愛さないどころか、憎みさえして、報酬や冠だけを求め、御心を実行どころか配慮もしなければ、悪質な行為をしていることになります。そのような者を主がお褒めになりますか?まるであの偽善的なパリサイ人のように罪は赦されていても、天国には入れないのです。これは明白な事実です。

      主イエスは罪を赦してくださいましたが、それはどのような罪で、主の信者となって告白する罪とは、どのようなものでしょう?神の律法や戒律や御言葉を犯すことが主な罪です。神の律法や戒律を犯した人間は、神の律法によって裁かれ罰せられます。だから主イエスが贖いの働きをされ、主イエスに祈り罪を告白して悔い改めれば赦してくださり、律法により責めたてられ罰せられることもなく、罪人として扱われることはありません。神様に祈りお願いすれば、豊かなお恵みを受け真理を知ることができます。これが恵みの時代によく語られた「救い」でしょう。救われることは、清められ天国に入れることとは関係なく、全く別の話なのです。主イエスは、救われ罪を赦された者は天国に入るとは言われていません。御言葉を少し読んでみましょう。「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。……人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)全能神の言葉は明確に答えを示し、聴いてすぐに理解できます。主イエスは恵みの時代に、贖いの働きだけをされて人類の罪を赦し、人は信仰によって義となり、救われるのです。主イエスは、罪を赦された者が天国に入れるとは言われてません。主イエスは私達の罪を赦しましたが、サタンの本性は消えていません。傲慢でわがままな、悪質で堕落した性質はそのままで、罪そのものより深く、消し去ることは非常に難しい、神に反抗するサタンの本性と堕落した性質が消えてなくならないと、何度でも罪を犯してしまい。律法に違反するよりもっと大きな罪を犯してしまいます。パリサイ人はなぜ主イエスを非難し逆らったのです?まして十字架に付けるなど?サタンの本性があるから、罪を犯し、神に逆らい、裏切るという証拠なのです。

      私達は罪を赦され、何年も主を信仰していても、日常的に罪を犯してしまうことには抵抗できずにいます。名声と地位のために、うそをつき、騙しこじつけを言っては、責任を回避し、他人に問題を押し付けて、自然災害や人災など試練や苦難に陥ると神を責めて、神の働きが自分の思い通りでないと、神を否定し逆らうのです。神を信じると言いながら、人間を崇拝し従っています。社会的地位があると、祭司長や律法学者やパリサイ人のように自分を持ち上げ褒めたたえ、神になったかのように、崇敬や称賛を受けたがります。神への捧げ物を盗み、嫉妬を抱き自分勝手になり、欲望のままにに振る舞います。自分の旗を立て人を集め、国を作ろうとするのは、これは紛れもない事実です。サタンの本質や性質が消えないままであれば、何度罪が赦されたとしても、天国に入る権利はありません。罪を犯して神に逆らうのは、神の敵であるサタンに属しているからであり、間違いなく神に非難され、罰せられるでしょう。聖書にも書かれています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙10:26-27)全能神の言葉を少し読みましょう。「あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)主イエスの贖いを受けても、サタンの性質があるため罪を犯し続け神に逆らうのです。終わりの日に神の裁きと清めを受ければ、罪から解放され、神の御心に叶う者となり天国に入る権利を得るでしょう。主イエスも言われました。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書14:2-3)主は私達の場所を用意され、またお見えになります。「迎える」とは終わりの日に私達が生まれ変わる計画を指します。主が現れて私達を御座の前に連れて行き、神の言葉で裁き清め、完全な者にして災害の前に私達を勝利者にします。私達を清め、完全な者にする過程がお迎えであり、終わりの日に裁きの働きをするため、主が地上に現われ、御座の前に私達を引き上げ、一緒に住まれます。主が見えて私達を迎えるという預言を完全に成就しませんか?大災害の後に、キリストの御国が地に造られ、大災害の精錬から生き延びた者は天国に住む場所があるのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

      主を信じることで罪が赦されても、神の目にはまだ汚れて堕落しており、罪から清められていないのです。罪を赦されたとは律法で裁かれず、恵みに救われた」ということ。神に罪を赦され祝福をどれだけ授かり、罪を赦された事で安心して過ごし神に祈り、会話することができても、人は罪を犯し続け、神に逆らい、聖なるものには程遠いのです。だから終わりの日に神が戻られ、人類を清め救うのです。主イエスの贖いの働きは終わりの日の神の働きの準備に過ぎず、神の人類の救いはまだ終わっていなかったと、そう認識すべきです。主を信じることで罪が赦されたにもかかわらず、なぜ人は罪を犯し続け、罪深い生き方から抜け出せないのでしょう?サタンによる堕落があまりにも深いので、サタンの本性を持ち、その性質に満ちてしまったのです。だから私たちは罪を犯してしまうのです。サタンの本性が潜んでいるから、罪が赦されてもまた罪を犯して、神様に逆らってしまうのです。神に認めてもらうには程遠いのです。だから主イエスは「またきて」と言われ、終わりの日に裁きの働きをし、人類を清め救うのです。全能神は言われます。「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

      「人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。…だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

      全能神の言葉はわかりやすいです。主イエスは贖いの働きだけをされ、主を信仰することで罪は赦されましたが、罪深い本性はそのままです。人の罪深い本性はサタンの本性なのです。人に奥深く根付き、人の命となったので、罪を犯し、神に逆らってしまうのです。サタンの本性こそ、神に抵抗する原因です。罪が赦されたからと言って、サタンの本性は赦されるでしょうか?サタンの本性は神と真理に真っ向から反するので、神は赦されません。ですから、人類をサタンの本性の束縛から救い、裁き、罰せねばならないのです。終わりの日の神の御働きは人に潜むサタンの本性と性質が対象です。サタンの本性は裁きと刑罰でしか取り除くことができないのでしょうか?苦しんで肉欲を克服し、強い意志で自らを律すれば、サタンの本性を除去できるのか?できないのです。歴史上の聖徒達は、体を苦しめ抑制してまで罪の束縛から解放され、肉を超越しようとしましたが、サタンに勝ち、真に神に服従できた者がいますか?ほとんどいません。いたとしたら、神に完全にされた人です。そう多くはないでしょう?神の裁きと刑罰がなければ、人が持つサタン的な性質は清められず、人のいのちの性質は変わらないままです。サタンの本性は人間の手では消せないことがわかります。真理と永遠のいのちを得るには神様の裁きと刑罰、刈り込み、取り扱い、試練と精錬を受けるしかありません。そこで初めてサタンの本性は消えてなくなります。主イエスの贖いの働きをもとに全能神は終わりの日に裁きの働きをされ、サタンの本性による束縛や支配から人類を完全に清めて救い神のものにされるのです。終わりの日の神の裁きと刑罰こそが、人類を清め救うのです。これが事実です。

      神様はなぜ、堕落した人類を裁いて罰する働きを終わりの日になさるのですか。この問題を理解するには、神様が一、二段階の働きだけで人類を完全に救われるわけではないことを知らなければなりません。むしろ、それは三段階の働き、つまり律法の時代、恵みの時代、神の国の時代それぞれの働きを通じて行なわれます。人類をサタンの支配から完全に救えるのはこれら三段階の働きだけであり、人類を救う神様の働き全体を構成するのもこれら三段階の働きだけです。律法の時代、ヤーウェ神は人間の地上での生活を導くために律法と戒律を布告なされ、人類はそれらを通じて神様がどのような人を祝福なさるか、どのような人を呪われるか、そして何が義で何が罪かを知ることができました。しかし律法の時代の後期、人類はサタンによってますます堕落させられてしまったため、すべての人は罪の中で生きていました。彼らは律法を守ることができず、律法によって断罪され呪われる危険に直面しました。そのため、恵みの時代の主イエスがおいでになって贖いの働きをなさり、人間が自分の罪を告白し、悔い改めることで、赦されるようになさり、かくして人間が律法によって断罪され呪われることがなくなり、神様の御前に出て祈り、神様と交わり、神様の豊富なお恵みと真理を享受する資格を得たのです。これが「救われる」ことの本当の意味です。しかし主イエスは私たちの罪をお赦しになっただけであり、私たちの罪深い本性やサタン的な性質をお赦しになったわけではありません。私たちのサタン的な本性はいまなお存在しています。私たちは自分の罪深い本性の束縛と支配から自由になる術を持たないまま、罪を犯してはそれを告白し、そして再び罪を犯すという悪循環の中に存在し続けました。私たちは苦しみの中で神様に叫びました。「私は本当に苦しんでいます。どうすれば罪の束縛と支配から自由になれますか」これは主の信者である私たちの誰もが共有している経験であり認識です。しかし、私たちは自分の罪深い本性を自分で解決することができません。人間の誰一人として人類を救う働きはできないのです。創造主である神様だけが人類を救い、サタンと罪から解放することがおできになります。神様だけが私たちをサタンの支配からお救いになれるのです。全能神はこうおっしゃっています。「彼は人を造ったからには、人を導く。彼は人を救ったからには、完全に救い、完全に人を獲得する。彼は人を導くからには、人を適切な終着点に連れて行く。そして、神は人を創造し、経営するからには、人の運命と前途のために責任を負わなければならない。これこそが造り主によってなされる働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より)神様は誠実でいらっしゃいます。人間をお救いになるのですから、徹底的になさいます。途中でお止めになることは絶対にありません。そのために全能神は人類を完全に救うべく、すべての真理を表現なさり、終わりの日に人類を清めてお救いになるのです。全能神は人類のサタン的な本性とサタン的な性質という問題を完全に解決すべく、神様の家から始まる裁きの働きをなさいます。そうなさることで、人類は罪から自由になり、救いを獲得し、神様に得られることができるのです。終わりの日の全能神がなさる裁きの働きは、まさに堕落した人類が必要とするものであり、また神様が人類を救うためになさらねばならない働きの鍵となる段階でもあります。それは主イエスによる次の預言を成就します。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「真理の御霊」とは、終わりの日に受肉して人間の身体になられ、真理を表現なさり、裁きの働きを行なわれる神様を指しています。私たちがしなければならないのは、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れ、それに従うことだけで、そうすることで救いを獲得して神様に得られることができます。これは神様による終わりの日の裁きの働きを真に経験した人がみな立証できることです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

 


神の羊は神の声を聞く:真の道を究めるには神の言葉を聞くべきです

2020-08-22 20:24:07 | 書籍

神の羊は神の声を聞く:真の道を究めるには神の言葉を聞くべきです


      ここ数か月間、パンデミックが広がり、感染確認者数と死亡数がどんどん増えつつあります。世界中に昆虫の大量発生、洪水、火事、戦争の脅威など、災が蔓延しています。クリスチャンの多くは、主が既に再臨されていることに気づいており、今やその出現を求めつつあります。現在、全能神の教会だけが主は再臨されていると証ししており、今や多くの人が全能神の出現と働きを求め究めつつあります。全能神の言葉を聞いて、それが神の声であると確信し、終わりの日における全能神の働きを受け入れている人が、だんだん増えてきています。とはいえ全能神の働きが中国共産党政府や宗教界の牧師や長老たちによって中傷・非難されているのを見て、彼らに従う決心をする人もいます。その人たちは、これが真の道であると信じず、それを求め究めようともしません。真の道を究める際は注意が必要ですが、中国共産党政府や牧師や長老の言葉を、真の道か偽りの道かを判断する基準として引合いに出すことが、真理にかなっているでしょうか? 私たちが主のご再臨をお迎えできるようになるには、真の道を究めようとするとき、誰に耳を傾けるべきでしょうか? ここでは、その問題について分かち合い探求していきたいと思います。
目次
     ● 中国共産党政府の非難を信じることはサタンの言葉を信じること
     ● 真の道を究めるとき、牧師や長老が言う事を信じて神の言葉を聞かないというのは正しいことだろうか?
      ● 真の道を究めるなら神の声を聞くべき
      中国共産党政府の非難を信じることはサタンの言葉を信じること
中国共産党政府が無神論の政府であることは誰でも知っています。権力を握って以来、中国共産党は無神論、唯物論、進化論を宣伝してきました。常に神の存在を否定し、「我々に救いを与える者は誰もいない」、「運命は己の手中にあり」、「人は自分の手で楽しい故郷を作ることができる」などとサタン的な欺瞞を唱道しています。また中国共産党はキリスト教を「邪教」、聖書を「邪教」の本だと公然と非難しています。非常に多くの教会を破壊し、無数の聖書を焼き払い、クリスチャンとカトリック教徒を不当に逮捕し迫害しています。キリスト教やカトリック主義に対する荒れ狂った迫害からわかることは、中国共産党が真理と神をひどく嫌っているということです。神に反対するサタン的な政権がどうして神の出現や働きを認識できるでしょうか。中国共産党は単に真理の道などというものがあることさえ認めようとしません、ましてや神の存在はなおさらのことです。一つの道が真の道であるかどうか判断するにあたって、中国共産党が流すうわさや偽りを信じることと、悪魔であるサタンの言葉を信じることと何の違いがあるでしょうか?
さらにいえば、はるか昔から真の道が、迫害を受けてきたことは誰もが知っています。サタン的な政権はすべて神や真理に対して最大の嫌悪を示し、何かが神のものであればあるほど、それだけ熱狂的に反発します。だから神がやってきて働きを行うたびに、必ずサタン的政権によって迫害や非難を受けるのです。これは否定できない事実です。昔、主イエスが説教をし、働きを成したとき、ユダヤ教の祭司長やパリサイ人たちがローマの役人たちと共謀してイエスを十字架にかけました。では統治政権による非難、迫害、虚言、中傷を受けているからといって、主イエスがキリストであるという事実を否定できるでしょうか。同様に、神は働きを行うために再臨され、中国共産党は神の出現と働きに対する荒れ狂った非難と冒涜の度合いを増しています。キリスト教徒を不当に逮捕し迫害し、国内外でオンラインメディアを通じて、神の働きを中傷し、真実を知らない人たちを誤った方向に導くようないつわりを広めています。神が出現し、人類を救うために働きつつあり、人類すべてが真理を受け入れて神に立ち返るようになるのを党は恐れているので、恐れからこのようなことをするのです。さらに神の言葉が地上に伝えられるようになり、神の国が地上に表れ、人類すべてが中国共産党を拒否するのではないかと恐れているので、なおさら強硬になります。だから中国政府は全能神の教会を熱狂的に抑圧し、残酷に迫害するのです。これが、中国政府が神の働きを中傷・非難する根本的な理由です。私たちが真に識別力を持つならば、このサタン的な政権に最も反対され嫌われているものによって、何が真の道なのか判断すべきです。逆に、終わりの日における全能神の働きが中国政府の反対と非難を受けているからといって、それを究めることを諦めてしまうなら、私たちはまさに大馬鹿者となってしまいます。
真の道を究めるとき、牧師や長老が言う事を信じて神の言葉を聞かないというのは正しいことだろうか?
     中国共産党政府は常に神に抵抗しており、党がオンラインに掲載していることは何も信頼できないけれども、牧師や長老たちは聖書に精通していて理解しているから、真の道を究めようとするなら、彼らの言う事を聞けば間違いない、と思う人もいます。けれども誰かが聖書に精通しているということが、真理を理解しているということになるのか、考えたことがありますか。ユダヤ教の祭司長、聖書学者やパリサイ人を考えてみれば、彼らは聖書に精通していて、たびたび人に聖書の解説をしていました。けれども主イエスが現れて働きを行われたとき、彼らはイエスをメシアと認めたでしょうか。イエスの言葉を、真理、神の声と認識したでしょうか。彼らは主を認識しなかっただけでなく、自分の立場や暮しを守るために、聖書の文字面の意味を引合いに出して主に逆らい、イエスについて噂をでっちあげ、イエスの信用を傷つけたのです。彼らはイエスを猛烈に非難し冒涜し、最後はローマの役人たちと共謀して主イエスを十字架にかけました。これらの事実が十分に示すことは、誰かが聖書に精通していてたびたび聖書を解説していたとしても、その人が真理を理解していることにはならず、ましてや神を知っていることにもならないということです。これは当時のユダヤ教に忠実な者がよく理解できなかったことであり、パリサイ人についていえば、まったく識別力がありませんでした。主をお迎えするということにおいて、彼らは宗教指導者の言うことを盲目的に信じ、一部の人は主イエスの言葉と働きに権威と力があることを良く知っていながら、なお宗教的パリサイ人たちが流した噂や中傷を信じたのです。そのため、彼らは騙され宗教指導者たちと一緒になって主イエスを非難し拒みました。彼らは主の救いを得られなかったばかりか、神に罰せられてしまいました。
    まったく同様に、今の牧師や長老たちは聖書に精通していますが、それが真理を理解し神を知っているという証拠にはなりません。通常、その説教のほとんどが聖書知識や神学理論であり、彼らが主イエスの言葉を伝えたり証したりすることは極まれです。その聖書知識や神学理論は、人にいのちの糧を与えることができず、彼らがいかに多くを知っていても、それが真理を理解し、あるいは主を知っているということにはまったくなりません。私たちにとって今何よりも必要なことは、なぜ宗教界がこんなに荒廃しているか、いかに教会の荒廃の根本原因を解決するか、いかに神の足跡をたどるか、いかに主をお迎えするか、いかに神の御旨を行い主に従うか、いかに罪の束縛から解放され清められてキリストと共に生きることができるかなど、真理をいくつか理解することです。牧師や長老たちは、自分がわからないので、そのような真理を説いたことがありません。彼らが真理を理解したなら、信者たちは潤され励まされることでしょう。牧師や長老たち自身が真理を理解せず主を知らなくて、どうして主のご再臨をお迎えするよう私たちを導くことができるでしょうか。聖書ではこう言っています。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(マタイによる福音書 4:10)。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」(マタイによる福音書 15:8-9)。「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心がヤーウェを離れている人は、のろわれる」(エレミヤ書 17:5)。信仰において神を偉大なものと賛美し、真心をもって神を拝むよう、主は私たちに勧めておられます。私たちは他人の目を気にしたり、他者のいう事を簡単に信じたりしてはなりません。そうでなければ私たちがいかに主に従っていようと、決して主にほめられることはないでしょう。神への信仰において、真の道を究めるという重要な問題について牧師や長老たちを盲目的に信じ、自分の運命や終着点を彼らの手に委ねるとしたら、これはどのような問題となるでしょうか? 神を信じるのでしょうか、それとも人を信じるのでしょうか。真の道を究めるとき、神が言われることを聞くべきでしょうか、それとも牧師や長老たちが言うことでしょうか。真の道を究めながら、自分自身の考え方を持たずに他者の言葉をただ盲目的に信じるなら、自分の人生に責任を持っていないことになりませんか。そうなればかつて一般のユダヤ人が犯したと同様の間違いを犯しがちになり、主に見捨てられ排除されてしまうでしょう。
真の道を究めるなら神の声を聞くべき
    真の道を究めようとするなら、牧師や長老あるいは中国政府の言うことを盲目的に信じるのではなくて、自分自身の考えを持つべきです。私たちは主の言葉に従って実践しなければなりません。その時初めて、主の出現をお迎えすることができるでしょう。主イエスは言われました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」 (ヨハネの黙示録 3:20)。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)。黙示録の2章と3章はたびたびこう予言しています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」全能神は言われます。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちである』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか」。(「神の現れによる新時代の到来」『言葉は肉において現れる』)。これからわかることは、神が終わりの日に再臨なさるときは、より多くの言葉を発せられるため、私たちは神の声を聞くことに集中する思慮深いおとめのようになるべきだということです。思慮深いおとめは資質を持ち霊的感覚が鋭く、キリストの発する声からその言葉が真理、いのちの道であると認識することができ、そのため神の声に気がついて神の出現をお迎えすることができるのです。恵みの時代に主イエスが現れ、ご自分の働きをされたとき、このように表現されました。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)。ペテロ、ヨハネおよび主イエスに従った他の弟子たちはみな、神の声を通して主を認識しました。主が表されていることが真理だということを彼らは聞くことができ、そのため躊躇せずに両親も家も捨てて主に従い、じきじきに主に潤され導かれました。彼らは、主イエスに従っているあいだ、あらゆる方法でパリサイ人による嫌がらせや妨害を受け、ローマの役人の中傷や非難を受けました。それでも彼らは神の言葉に耳を傾け、神に従うだけで、統治権力や宗教的パリサイ人に妨げられ騙されるのを拒みました。キリストを認め最後までキリストに従い、キリストに祈り、その言葉を体験しました。彼らはいのちにおいてしだいに成熟し、神についての知識をいくらか持つようになりました。けれども、ユダヤ教に忠実な者たちは、頑なで無知で頑固であって、権威と力に満ちた主イエスの言葉を聞いて、このようなことを言える人間はいないとわかっていても、主イエスを信じることも彼に従うこともできなかったのです。彼らはパリサイ人たちに嫌がらせを受け騙されるという兆しが少し見えただけでぐらつきました。彼らは神を信じていましたが、神の言葉を聞くことができず、識別力も自分自身の考えも持たず、サタンの側に立って神に逆らうまでになりました。結局、そのような人たちは神に捨てられ排除され、地獄に落ちて永遠に罰せられるだけでした。ですから、私たちが真の道を究めるとき、他者の言うことを盲目的に信じてはならず、神の声を聞くこととキリストが真理、道、いのちであると認識することに集中せねばなりません。それが最も重要なことです。
    全能神による終わりの日の福音は、今や全世界に広がっており、全能神が表現された古典的な言葉の本『言葉は肉において現れる』は20以上の言語に翻訳され、求め究める全人類に向けてオンラインで公開されています。神への真の信仰とは、神への服従と愛とは、いかにして神を恐れ悪を避けられるか、いかにしてキリストと共に生きることがきるか、いかにして意義ある人生を実現できるかなど、全能神は人類を救うためにすべての真理を表しています。神の出現を待望する全世界の人々が、全能神の言葉の中に神の声を認めています。彼らは、これらの言葉は神が人間を清め救うために表わされた真理であると確信しており、次々と神の家に立ち返ってきています。いかに牧師や長老たちが邪魔しようとしても、中国政府がどんな非難や冒涜を広めようと、彼らは揺らぐことなく神に従います。このような人たちが、思慮深いおとめたちであり、神の御座に引き上げられている者であり、神に清められ完成され、終わりの日に神によって勝利者とされるチャンスがある者たちです。そのほかに、全能神の表される言葉はすべて真理であり、それは神の声だとわかるのに、なおも牧師や長老たちが語る禁止令を聞いて騙され抑制され、神の働きを究めようともしない人たちもいます。彼らは真の道と神の働きを疑うまでになります。これが思慮深いおとめのふるまい方でしょうか。神が百の言葉を語っても、彼らはそれを完全に信じることができないのに、堕落した人類の一人がたった一言話すだけで、心からそれを受け入れてしまいます。この人たちは思慮の浅いおとめではありませんか? 真の道を究めるとき、愚かなおとめたちは神の声を聞かない代わりに、人の声を聞きます。彼らは常にサタンの嫌がらせと欺きを受け、ついにはサタンの餌食となるのです。彼らは神の救いを失い、神に捨てられ排除され、災いによって一掃されるでしょう。これはまさに聖書のこの言葉の成就です。「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」(ホセア書 4:6)。「愚かな者は知恵がなくて死ぬ」(箴言 10:21)。
    さて、終わりの日における全能神の働きは、まもなく終わりを迎えようとしています。私たちはペテロのように、神の声を聞き主を迎える人になりたいでしょうか。それともユダヤ教に忠実な人のように、牧師や長老たちやサタン的な政権の言うことに盲目的に従って、神の救いを失いたいでしょうか。真の道を究めようとするとき、神の言葉を聞くか人の言葉を聞くかによって、私たちの運命や最後の結末が決まります!全能神は言われます。「神の働きは強い波のように打ち寄せる。誰も神を引き留めることはできず、誰も神の前進を停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め渇望する人々だけが神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然受けるべき罰を受ける」(「神は全人類の運命を支配する」『言葉は肉において現れる』)。