神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(2)どうすれば主イエスの再臨に確信が持てるのか

2020-08-21 19:51:45 | キリスト教映画

キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(2)どうすれば主イエスの再臨に確信が持てるのか


     教会が寂びれ始めてからずっと、兄弟姉妹の多くが聖霊の働きと主の臨在が無いと感じ、主の再臨を待ち望んでいる。しかし一方で、主イエスは既に再臨されたという。これについて、どうすれば確信が持てるようになるだろうか?

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神の御言葉と働きは黙示録の預言を成就する

2020-08-20 21:07:42 | 天の国の福音

全能神の御言葉と働きは黙示録の預言を成就する

康健(カン・ジエン)、中国

     私たちは今終わりの日にいます。そして主イエスはずっと前に再臨されました。それは受肉された全能神です。全能神は言葉により人を裁いて清めるという段階の働きを行われますが、この働きは独立した自己完結的な働きではありません。むしろヤーウェとイエスの働きを土台として行われる、より深い高次の働きです。しかし、このように言う人々がいます。

     「終わりの日における全能神の働きは黙示録22章18節から19節の預言に反する。すなわち、『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる』のことだ。全能神の働きは聖書の黙示録に付け加えれたものであり、全能神に付き従う者は誰であろうと天の御国に参与する機会を失う」

     これは実際には神も神の働きも理解しない人々による思い込みと憶測であり、黙示録の背景を知らない人々の言うことです。実際の事実と全く違いますし、到底議論として成り立ちません。

   聖書を理解する人々は皆、黙示録は使徒ヨハネがローマ皇帝によってパトモス島に追放された後に見たまぼろしの記述であることを知っています。それは西暦90年より少し後の頃であり、新約聖書が編纂される前、そして新約聖書と旧約聖書を両方含む聖書全体が完成する前でした。ですから、黙示録22章18節から19節で言及されている「この書」とは、現在の聖書全体のことでも、旧約聖書のことでもなく、黙示録のみを指しているのです。黙示録で言及されている「この書」が現在の聖書を意味すると解釈するならば、その理解には問題があります。更に、預言に書き加えもそこから取り除きもしてはならないと聖書で言われている対象は人であることに注意すべきです。神ご自身はその対象には含まれないのです。なぜならこれらの預言は、神が将来行われる働きに関するものであり、神ご自身が働きを行うために来られて初めて成就できるからです。そのため人はこれらの預言に恣意的に書き加えたりそこから取り除いたりしてはならないのです。聖書のこれら二節を理由に、終わりの日の神の働きを黙示録の預言に限定したり、「神には黙示録で預言されていない働きを行うことも言葉を語ることもできない」と言って神の限界を定めたりしてはならないのです。神は創造主ですから、全てを司り、預言されていることを超えて御自身の働きを行う完全なる権威を持っておられます。これは誰にも阻止できないし、誰にも制限できないことです。黙示録で人は書き加えも取り除きもしてはならないと言われているのは、神の人に対する要求でした。神が人に要求することを逆に神に当てはめたり、聖書の文字と規則を用いて神を束縛し限定したりすることも、神が聖書を超える新しい働きや事柄をなさったり語られたりするのを禁じることは人にはできないのです。そんなことをすれば自然の秩序を覆すことにならないでしょうか。旧約聖書の申命記12章32節には、「あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない」とあります。これらは人が守るべきことであり、神に対して要求をするのに用いるべきではありません。イエスは恵みの時代にご自身の働きを行われていたとき、これらのことを守らず、逆に当時の人々の必要に応じてより適切な要求を提示されました。例えば、律法の時代には、人々は「目には目を、歯には歯を」と求められていましたが、主イエスが到来されたとき、主は「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイによる福音書5:39)と仰せられました。律法では敵を憎むべきであると定められていましたが、主イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書5:44)と仰せられました。旧約聖書で述べられているように、律法の時代の人々は神殿で神を崇拝していました。主イエスが到来されると、主は神殿に入らず、荒野や村々に出て福音を説いて広め、人々に霊とまこととをもって神を礼拝することを求められました。律法は人々が安息日に働くことを禁じ、安息日を守ることを規定していましたが、それでも主イエスは安息日に病人を癒し、悪霊を追い払うといったことを行い、「人の子は安息日の主である」(マタイによる福音書12:8)と仰せられました。旧約聖書の律法では、罪人は罪のためのいけにえを捧げよと定められていましたが、主イエスは人々に罪を赦されるには告白して悔い改めよと求められました。また、旧約聖書の時代には、人々は全焼のいけにえや穀物のささげ物、和解のいけにえなどを捧げなければならず、男性は割礼が義務付けられていました。主イエスは到来されてすぐに、これらの規則を廃されました。これらは主イエスが当時人々になさった適切な要求の例のいくつかに過ぎません。イエスの働きは古い規則や規定をいくつかなくし、人に新しい要求を提示されましたし、これは全て神ご自身の働きでした。しかし、律法を遵守する者の目には、この働きは聖書を超えており、彼らにとってはそれは聖書に対する付け加えと取り除きであり、律法の外で行われていることでした。そのため、ユダヤ人はヤーウェの律法を用いて、主イエスを断罪しました(ヨハネによる福音書19:7参照)。これは人の理知の欠如の表れです。神が人に対して付け加えも減らしもするなと求められている言葉を、人が逆に神を制限したり神に要求をしたりするのに用いるべきではありません。神が過去に行われた古い働きを用いて、神が現在行われている新しい働きを限定すべきではないのです。神は全ての被造物の主です。神はご自身の経営計画とご自身の自由意志に従って働きを行なわれます。それを人と話し合ったり、人の承認を得ようとする必要はありませんし、ましてや創られた人類には干渉する権利などありません。神がどのようにご自身の働きを行われても、それは常に義なる働きなのです。なぜなら神の本質が義だからです。神がどのように働きを行われても、それは常に真理であり、常に人類の最も現実的で最も実際的な必要を満たします。神の本質が真理だからです。神がどのように働きを行われても、それは神を真摯に信じて真理を求める人々に常にいのちをもたらすことができます。神の本質がいのちの源だからです。神の働きと神の御言葉は、絶対に人や出来事、物や場所、時間によって制限できませんし、ましてや聖書の文字によって制限できるものでもありません。全能神は仰せられます。

     「新約の時代にイエスの行った働きは新たな働きを開いた。イエスは旧約の働きに沿った働きはしなかった。また、旧約のヤーウェが語った言葉に従わなかった。イエスは自分の働きをし、新たな働きをし、律法よりも上位の働きをした。そしてイエスは言った。『わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。』だから、イエスの成就したことによって、多くの教義は廃棄された。イエスは弟子たちを連れて麦畑を通り、麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、『人の子は安息日の主である』と言った。当時、イスラエル人の規則によると、誰でも安息日を守らなかった者は石で打ち殺された。しかしながら、イエスは神殿に入りも安息日を守りもしなかったし、その働きは旧約の時代にヤーウェがしなかったことだった。だから、イエスの行った働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、掟に沿ったものではなかった。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)

      神の御言葉から、神の働きが古い物事にとらわれたことがなく、それどころか神は人の現実の必要に応じて、より新しくより高次の働きを行われることが分かります。これが全ての時代における神の働きの原則です。神は信実であり、神が語られた御言葉も神の預言もそれぞれ全て実現し、成就するのです。天地が滅びても、神の御言葉は一つも滅びず、やがて全て成就します。黙示録5章1節から5節では、こう述べられています。

    「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』。」

      この聖句から、神が終わりの日に書物を開き七つの封印を解く働きを行われることが分かります。つまり、神はご自身の口で人類に話しかけ、厳めしく怒る獅子の性質を表し、裁きの働きを行われるのです。神は人類を裁く神であり、もはや他人に連れられてされる贖いの子羊ではありません。黙示録10章1節から4節ではこう述べられています。

    「わたしは、もうひとりの強い御使が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に、にじをいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。彼は、開かれた小さな巻物を手に持っていた。そして、右足を海の上に、左足を地の上に踏みおろして、ししがほえるように大声で叫んだ。彼が叫ぶと、七つの雷がおのおのその声を発した。七つの雷が声を発した時、わたしはそれを書きとめようとした。すると、天から声があって、『七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書きとめるな』と言うのを聞いた。」

     聖書のこれら数行から、七つの雷の声がヨハネによって書きとめられなかったことが分かります。言い換えれば、七つの雷の声は聖書の中には全く存在しないのです。これら二箇所の聖句をまとめると、この小さな巻物の詳細と七つの雷の声は聖書には記録されていないことになります。このことから分かるのは、もし人が書き加えと取り除きの件(くだり)に基づいて、「神には聖書を超えた新しいことを言うことはできない」と言って神の働きを限定し神を限定してしまえば、この小さな巻物がどうして開かれることができるでしょうか。それでは神はどうして終わりの日に裁きを下すことができるでしょうか。もし神がこの小さな巻物を開かれなければ、人はこの小さな巻物の内容をどうして知ることができるでしょうか。どうしてあらゆる奥義を理解できるでしょうか。七つの雷の声の詳細が何なのかをどうして知ることができるでしょうか。そして、聖書の預言はどうして成就することができるのでしょうか。終わりの日には、全能神が来られ、多くの真理を表し、人が過去何世代にわたって理解していなかった奥義を明かされ、それにより黙示録の預言を成就されました。これらが正に七つの雷の声であり、巻物を開く子羊なのです。これは既に反論の余地のない事実となっています。全能神は仰せられます。

    「真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能者の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。』(ヨハネの黙示録1:12-16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神のの時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 しかし、預言とそれらの成就の事実との間には大きな違いがあります。預言者がまだ起こっていない事柄を詳細に記録することは不可能であり、そのため預言の成就が聖書に加えられたものだとは言えません。ちょうど旧約聖書において、メシアが来ると預言されていた時と同じです。イスラエルの人々は皆心の中では、メシアが救いに来てくれることを知っていましたし、また処女が身ごもって男の子を産むこと、そしてその子がインマヌエルと命名され、罪のためのいけにえとなることなども知っていました。しかし、メシアがどのようにやって来るのか、来たときどのように罪のためのいけにえとなるのかといった詳細は知りませんでした。また、これらの預言は単なる言葉であり、既に成立した事実ではなかったのです。しかし、イエスが働きを行いに来られたとき、旧約聖書に記録されていたメシアに関する預言は全て成就したのです。それでは、新約聖書(即ちイエスの働き)は旧約聖書の預言に加えられたものだと言えるでしょうか。もちろん言えません。イエスの新しい働きは当時の人々の目には旧約聖書と合致せず、人々の観念とも合致せず、ヤーウェの働きや言葉と同じでもありませんでした。しかし、イエスがなさったのは、律法からの取り除きでも付け加えでもなく、むしろ律法の成就でした。主イエスが「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイによる福音書5:17)と仰せられたように、イエスの働きは律法の時代からの働きの土台の上に行われていた新しい段階の働きであり、それは律法を成就し、新しく実践すべき事と、神についての新しい認識を人に与えました。新約におけるイエスの働きが旧約聖書に詳しく記録されていなかったので、人々はイエスの働きが旧約の律法を超えたもので、新しい戒めを加えたと考えました。しかし、神の目から見れば、主はただ神の計画の働きを行われていたのです。イエスの働きは、律法の働きを土台として神によって行われたより新しく、より高次の段階の働きであり、預言者の預言を実現させました。同様に、終わりの日における神の働きは、新約聖書の預言を実現させるものであり、神の贖いの働きに基づく新しい段階の働きです。これが聖書に付け加えていると言えるでしょうか。主イエスは既にこの問いに答えてくださっています。

     「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)

      終わりの日の神によるこの段階の働きこそが、主の御言葉を成就しています。終わりの日における神の御言葉は、過去何世代にもわたって隠されてきた奥義を既に人に明かしています。そして、私たちが今まで聞いたことのない多くの真理をもたらしました。清められ、救われ、御国に入るための道を私たちに与えてくれました。終わりの日の全能神の働きは、ヤーウェとイエスが行った二段階の働きに基づく新しい段階の働きであり、それは前の二段階の働きよりも高次の働きです。

 全能神は仰せられます。

  「イエスが行った働きは、旧約聖書より高位にある一段階に過ぎなかった。それはひとつの時代を始めるため、その時代を先導するために使われたのである。なぜイエスは『わたしが来たのは律法を廃止するためではなく、成就するためである』と言ったのであろうか。しかしイエスの働きには、旧約聖書のイスラエルの人々が実践した律法、従った戒めとは一致しないことがかなりあった。それは、イエスが来たのは律法を守るためではなく、成就するためだったからである。律法を成就する過程には、多くの現実的な事柄が含まれていた。イエスの働きはもっと実際的で実存的であり、さらにそれは生きたものであり、教義への盲従ではなかった。イスラエルの人々は安息日を守ったのではないだろうか。イエスは来たとき安息日を守らなかった。それは、人の子は安息日の主であるとイエスが言ったように、安息日の主が来たときには、自由に振舞うものだからである。イエスが来たのは旧約聖書の律法を成就し、そしてそれを変えるためだったのである。今日なされる全てのことは現在を基にしているが、やはり律法の時代のヤーウェの働きが基盤になっており、この範囲を超えることはない。たとえば、言葉に気をつけること、姦淫を犯さないことなど――これらは旧約聖書の律法ではないだろうか。今日、あなたがたに要求されていることは十戒だけに限らず、以前のものより高められた戒めや律法であるが、これは以前のものが廃止されたという意味ではない。というのは神の働きのそれぞれの段階は以前あった段階を基盤にして実行されるからである。ヤーウェがイスラエルに伝えたこと――たとえば犠牲を捧げること、父と母を敬うこと、偶像崇拝をしないこと、他人に暴行を加えないこと、他人を呪ったり罵ったりしないこと、姦淫をしないこと、喫煙をしないこと、飲酒をしないこと、死んで放置されていた動物の肉を食べないこと、血を飲まないこと――これらは現在でもあなたがたの実践の基盤ではないのか。過去の基盤の上において、今日までの働きは行なわれてきたのである。もはや過去の律法が語られることはなく、新しい要求が課せられるようになったからといって、過去の律法は廃止されたのではない。そうではなく、高められたのである。過去の律法が廃止されたということは、前の時代が期限切れになったことを意味する。しかし、戒めには常に守らなければならないものがある。過去の戒めはすでに実践されてきており、すでに人間の在り方となっているので、いまさら喫煙をしてはならない、飲酒をしてはならない等の戒律を繰り返す必要はないのである。この基盤の上に、あなたがたの今日の必要性にしたがって、あなたがたの霊的背丈にそって、現在の働きに合わせて、新しい戒めが定められるのである。新時代の戒めを制定することは、旧時代の戒めを廃止することではなく、この基盤より高位に上げることにより人間の行動をさらに完全で現実と調和したものとすることである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(1)」より)

     神の御言葉のおかげで、神の働きの諸段階が外面的には矛盾しているように見えても、実際には一つの全体をなすものであり、各段階が前段階を土台として行われるより深い、より高次の働きであることが分かります。神の働きを分裂させることはできません。イエスの働きが旧約聖書に付け加えているとは言えませんし、ましてや終わりの日の神の働きと御言葉が聖書に付け加えているとも言えません。神を知るには、神の三段階の働きを知らなくてはなりません。三段階のうち一つか二つしか知らなければ、人類を救うという神の働きを包括的かつ完全には理解していないことになります。神の働きの三段階を全て知ることによって初めて、神の全性質、神の知恵、不思議さを私たちは知ることができるのです。

   兄弟姉妹の皆さん、聖書に記録されているのは、神が律法の時代と恵みの時代に行なわれた働きと、終わりの日の神の働きに関する預言だけですが、終わりの日のこの働きがどのように行われるか、人類がどのように救われるかは詳しく記録されていません。ですから私たちは聖書を正しく見なくてはなりません。神が来られる前は、私たちは聖書における神の御言葉の教えに従って行動し、神の御心を満足させようとしなければなりませんでした。しかし、神が新しい働きを行うために新しい時代を始められるときは、神の歩みに付き従い、神の新しい働きと御言葉を受け入れなくてはなりません。聖書に記録されている神の行われた働きを用いて、神の新しい働きを限定したり、ましてや「神の新しい働きと新しい言葉が聖書に付け加えている」などと言ったりしてはならないのです。神は新約聖書の時代には、旧約の律法を超えてご自身の働きを行うことができましたし、終わりの日にも同様に、聖書を超えて働きを行うことができるのです。全能神の働きと御言葉は、以前の二段階の働きをより高い次元に導きます。そして更に、それらは黙示録における預言の実現と成就です。現在、全能神は受肉して人のもとに来られています。そして真理を表し、神の家から始まる裁きの働きを始められました。私たちはもはや終わりの日の神の働きと言葉を頑なに拒絶することはできません。皆、心の中で神への畏敬の念を保ちながら、自分の観念を横へやり、主イエスの弟子たちに倣い、聖書を離れ、終わりの神の働きと言葉を求め学ばなくてはなりません。そうすれば神は私たちを啓き、御心を理解して神の歩みに付き従えるようにしてくださります。このようにして初めて、私たちは長い間待ち望んでいた終わりの日の救いを得られるからです!

 


聖書のヨハネの黙示録の主イエスの再臨の六つの預言は既に実現された

2020-08-19 22:05:50 | 天の国の福音

聖書のヨハネの黙示録の主イエスの再臨の六つの預言は既に実現された


2000年前、主イエスは「見よ、わたしはすぐに来る」(ヨハネの黙示録 22:12)と約束されました。今、主の再臨の兆候がありとあらゆる形で表れており、主の日が近づいていることを多くの兄弟姉妹が予感しています。主はすでに再臨されたのでしょうか?主を迎えるために私たちができることは何でしょうか?ここでは、聖書に書かれた預言を掘り下げ、考察していきます。

目次

●主の再臨の第一の兆候:地震、飢饉、伝染病、戦争

●主の再臨の第二の兆候:天変の出現

●主の再臨の第三の兆候:教会は寂れ、信者の愛は冷える

●主の再臨の第四の兆候:偽キリストの登場

● 主の再臨の第五の兆候:イスラエルの復興

●主の再臨の第六の兆候:地の果てに至る福音の流布

●私たちはどのように主の再臨を迎えるべきなのか

 

主の再臨の第一の兆候:地震、飢饉、伝染病、戦争


マタイによる福音書24:6-8には、「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」とあります。近年、アフガニスタンのタリバン政権の崩壊、インドとパキスタンの紛争、米国によるイラク侵攻、激化の一途をたどるイスラエルとパレスチナの間の戦争など、戦火が頻繁に勃発しています。また、伝染病、大規模火災、洪水、地震もあらゆるところで見られます。特に2019年に中国の武漢で発生した新型コロナウィルスは世界中に広がっています。2019年9月にはオーストラリアで甚大な森林火災が発生しましたが、地球の反対側の東アフリカではバッタが大量発生し、多く音国が飢餓に直面しています。2020年1月にはインドネシアで洪水が発生し、カナダのニューファンドランドは百年に一度の猛吹雪に襲われました。地震は、トルコのエラズーやカリブ海キューバ南部など各地で発生しています。これらの兆候から、この預言は成就したと見ることができます。

主の再臨の第二の兆候:天変の出現


黙示録6:12には、「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり」と書かれています。ヨエル書2:30~2:31には、「わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」とあります。近年、月が血のような赤色になるという現象が数多くありました。たとえば、「ブラッドムーン」は2014年から2015年の二年間で4回発生し、2018年1月31日には、150年に一回しか現れない「スーパーブルー・ブラッドムーン」が観測されました。そして、2019年1月には「スーパーブラッド・ウルフムーン」が現れました。太陽が黒くなるという預言された現象も発生し、実際に2019年12月26日にはシンガポールで、同年7月2日にはチリでなど、数多くの日食が発生したのです。こうした現象から、この預言が成就していることは明らかです。

主再來的迹象三:教會荒凉 信徒愛心冷淡


マタイによる福音書24:12には、「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。」とあります。宗教界は全体的に荒廃が拡大しています。牧師や年長者の説教は使い古された決まり文句となってしまい、信者に応えることができていません。地位を追い求めて徒党を組んで教会内に派閥を形成する牧師もいますし、中には工場を設立して事業を起こし、信者を世俗の道へと導いている牧師までいます。一方、信者は全般的に確信が弱く、この世界に別れを告げることに躊躇しており、うんざりするような揉め事に巻き込まれながら暮らしています。一部の教会は、一見、混み合って活気が あ るように見えるのですが、多くの人は商売の場所として教会を利用しており、単に人脈を広げて商品を売るために来ている過ぎません。今日の教会は、律法の時代末期に向かう頃の寺院とどこが違うのでしょうか?以上から、主の再臨に関する預言が成就していることは明らかです。

主の再臨の第四の兆候:偽キリストの登場


マタイによる福音書24:4-5には、「そこでイエスは答えて言われた、『人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。』」とあります。主の預言によれば、主が再臨する際には偽キリストが出現して人々を騙すことがわかります。中国、韓国、日本などの国では近年、偽キリストが現れて人々を騙しています。こうした偽キリストはキリストの本質を有しておらず、また、真理を宣べ伝えることもできないにもかかわらずキリストを名乗っています。ここに、この預言が成就していることがはっきり示されています。

主の再臨の第五の兆候:イスラエルの復興


マタイによる福音書24:32-33には、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」と書かれています。主を信じる者の多くは、いちじくの木の柔らかい枝と葉がイスラエルの復興を指していることを知っています。イスラエルが復興すると主の日が近くなりますが、イスラエルの復興は1948年5月14日でした。明らかに、この主の再臨に関する預言は完全に成就しています。

主の再臨の第六の兆候:地の果てに至る福音の流布


マタイによる福音書24:14には、「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」と記録されています。マルコによる福音書16:15によると、主イエスは復活後、弟子たちに向かって、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われました。イエスの復活・昇天後、聖霊は、主イエスを証しすべく主イエスの信者を導き始めました。今日、キリスト教徒は世界中に広まっており、多くの民主主義国家がキリスト教を国家宗教に指定しています。政権政党が無神論主義の中国においてさえ、何千人もの人々が主イエスの福音を受け入れていることからも、主イエスを通した人類の贖いの福音が世界中に広まっていると言えるでしょう。以上より、主の再臨の預言が成就していることは明らかです。

私たちはどのように主の再臨を迎えるべきなのか


上記に列挙した事実から、主の再臨について六つの兆候がすでに現れていることがわかります。今こそ、来るべく主を迎える決定的な時です。主の再臨を迎えられるようになる前に私たちがすべきことは何でしょうか?主イエスはずっと前にこの質問に対して答えられています。

ヨハネによる福音書16:12~13において、主イエスは、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」と言われました。黙示録3:20には、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」とあります。また、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」など、黙示録の第二章と第三章には数多くの預言も示されています。これらの節からわかるように、主は再臨に際し言葉を発して教会に語りかけ、それまで私たちが理解していなかった真理のすべてを教えてくださいます。神の御言葉を耳にし神の声を認識したことがあり、神を受け入れて服する人々は、主を迎えて子羊の祝宴に参加することができます。一方、神の声を認識しない人々は確実に神の羊ではなく、神によって暴露され、排除されます。このことから、私たちが主の再臨を待つ間、教会に向けられた聖霊の言葉を見い出し、神の声に耳を傾けることを学ぶことが、決定的に重要だということは明らかです。全能神も、「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある」と語っています。(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より)

これを聞くと、「では、神の声を見つけ出すためにはどこに行けばよいのか」と尋ねる人々がいます。マタイによる福音書25:6において、主イエスは、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」と言われました。主は発話と御言葉を介して羊を召します。ですから、主の声を最初に耳にして子羊の足跡を辿り、「花婿が来た」とあらゆる場所で叫んで主の再臨の報と言葉を拡散し、たくさんの人が神の声を聞く機会を得られるようにする、そんな人々が確実に出てくるでしょう。したがって、私たちが子羊の足跡に追いついていけるかどうかは、神を探し求めることを切望する心を持っているかどうか、神の声を認識できるかどうかにかかっていると言われています。これはちょうど、主イエスが最初に現れて働きを開始したときに、ペテロやマリアなどが主イエスの働きと言葉からメシアであることに気づき、主イエスについていって福音の証しを始めたのと同じです。主イエスの働きと御言葉を聞いて神の声を認識できるのは賢明な乙女たちですが、その一方で、真理を愛することがなかった祭司、律法学者、パリサイ人たちは、主イエスの言葉の権威と力を耳にしましたが、それを調査することをしませんでした。その代わりに彼らは頑固に自分たちの概念とイメージに固執し、「メシアと呼ばれない者は神ではない」と考えながら、メシアが自分たちの前に現れるのを待ちました。それだけでなく、彼らは主イエスの働きを非難、冒涜までし、そして最終的には神の救いを失ったのです。また、パリサイ人に追従し、主イエスの働きと言葉の内にある神の声に気づかなか福音ったユダヤ教信者もいました。彼らは祭司、律法学者、パリサイ人に盲目的に耳を傾け、主の救いを拒否したのです。このような人々は主から見捨てられる愚かな乙女たちになるのです。「ではどうやって神の声に気づくことができるのか」と尋ねる人もいるかもしれませんが、実はこれは難しいことではありません。神の発話と御言葉は、人間には語ることが不可能なものでなければなりません。格別な権威と力に満ちていなければなりません。神の国の奥義を明らかにしたり、人間の腐敗をさらけ出したりするものです。こうした言葉はすべて真理であり、すべて人間の生活にもなり得ます。神の言葉を耳にしたとき、心と霊を持つ人なら誰でもそれを感じますし、創造主が私たち人間に語りかけ発話していることを、心で確認するでしょう。神の羊は神の声に耳を傾けます。聞こえる言葉が神の声だと確信するならば、それが私たちの概念とどれだけかけ離れていたとしても、それを受け止めて従うべきです。これが、私たちが主の再臨を迎えることができる唯一の手段です。

 

今日世界において、主―受肉した全能神―がすでに再臨したことを証ししているのは全能神教会だけです。全能神はすでに何百万語にものぼる言葉を発していますが、世界各国、各方面の人々がその言葉を精査できるようインターネットで公開されています。真理を求めてやまない多くの人々が、それぞれの国から一人ずつ、神の声を聞き主を迎えたいという思いで訪れます。聖書に「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」とある通りです。それが神の声かどうかを判別するために耳を傾けつつ、単に全能神が発する言葉をどんどん読んでいけば、主が再臨したかどうかを判断することができるようになります。ヨハネによる福音書10:27の中で主イエスが「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」と語った通りです。 私たちが謙虚な気持ちで探し求める心を持っている限り、神の声に気づき、主の再臨を迎えることができると私は信じています。

クシンジェ氏


なぜ宗教界は全能神と全能神教会を罪に定め、狂気のごとく抵抗することにそれほど多くの努力を注ぐのでしょうか。

2020-08-18 20:21:06 | 天の国の福音

なぜ宗教界は全能神と全能神教会を罪に定め、狂気のごとく抵抗することにそれほど多くの努力を注ぐのでしょうか。


参照聖書箇所

「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。」(マタイによる福音書 21:33-39 )

「そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、『この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう』。…… 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。」(ヨハネによる福音書 11:47-48、53)
関連する神の言葉

「何と不思議なことだろうか。神の受肉が人間により常に拒否され、非難されるのは何故だろうか。人間が神の受肉を全く理解しないのは何故だろうか。神が来た時期が誤っていたのであろうか。神が来た場所が誤っていたのであろうか。そうなるのは、人間の『署名』なしに神が独自に行動したためであろうか。人間の許可なく神が決意したことが原因だろうか。……人々は主の口から授けられた物を食べ、主の血を飲み、主が授けた恵みを享受する一方で、主に反抗した。なぜなら人々は自分にいのちを与えたのが誰かを知らなかったからである。最終的に、人間は主を十字架に架けたが、主は騒がなかった。現在も依然として主は黙している。人々は主の肉を食べ、主が人々のために作る食べ物を食べ、主が人々のために拓いた道を歩み、主の血を飲んでいる。しかし人間は依然として主を拒もうとし、実際に、自分にいのちを授けた神を敵とみなし、自分と同様の奴隷を天の父として扱う。人間は、そうした行動を取ることで、故意に神に反抗しているのではなかろうか。……人間は、自分の命と光が何処から来たかを知らず、人間のもとで苦難を受けた二千年前のイエスを再び磔刑にするかを謀るだけである。イエスは本当にそうした敵意を喚起するというのか。イエスの行ったことは、遠い昔に全て忘れ去られたのであろうか。数千年にわたって募った敵意は、遂に爆発するであろう。あなたがたはユダヤ人と同類である。あなたがたがイエスを憎むようになる程までに、あなたがたに対して何時イエスが敵意を抱いたというのか。イエスはあれほどにも行い、語った。そのどれもが、あなたがたにとって有益では無いというのか。主は自らのいのち何も見返りを求めずに、あなたがたに授けた。主は自らの全てをあなたがたに授けた。あなたがたは本当に主を生きたまま食べたいというのか。……『ユダヤ人』が見受けられない場所は無く、彼らは現在も同様の働きを、神に反抗する働きを行っているが、自分達は神を高く掲げていると信じている。人間が自らの眼で神を知ることが、どうして出来ようか。霊に由来し受肉した神を、肉にある人間が神として扱うことが、どうして出来ようか。人間のうち、誰が神を知ることが出来るというのか。人間の真理はどこにあるのか。真の義はどこにあるのか。誰が神の性質を知り得ようか。誰が天の神と争うことが出来ようか。神が人間のもとに来た時、誰も神を知らず、神は拒まれたのも不思議では無い。人間が神の存在を容認することが、どうして出来るだろうか。光が闇を追い払うことを、どうして人間が許すことが出来ようか。これらは人間の貴ぶべき献身では無いのか。それは人間がいのちに入る正しい道では無いのではなかろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(10)」より

「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、『どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない』というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、諸教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが表した全てをはねつけることとなる。それほど混乱しているのなら、イエスから何を得られるというのか。」

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

「どの教団、教派の指導者を見ても、みな独善的で聖書を勝手に解釈しています。彼らは賜物と学識に頼って働いています。彼らが説教をすることが出来なければ、人々はそれでも付いて来るでしょうか。指導者たちはそれなりの知識を得、教義を少しは語ることができ、他の人々を勝ち取ったり策略を用いたりして自分達のところへ人を集め、欺いてきました。欺かれた人々は、名目上神を信じてはいますが、実際には神ではなく指導者に付き従っているのです。真の道を語る人に彼らが出会ったならば、「信仰について、私たちの指導者に相談する必要がありますね。」と言う者もいるでしょう。彼らには神に対する信仰に関して、誰かの承認が必要なのです。それは問題ではないでしょうか。指導者達はどのような存在になったのでしょう。パリサイ人、偽羊飼い、反キリスト、真の道を受け入れようとする人々にとっての躓きになったのではないでしょうか。」

キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰」より

「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない人はすべて神に反対する人である」より

「真理を求め、義に付き従う者は、何人いるだろうか。そうした悪魔は皆、肥やしの中のはえがたかり、ぶたや犬のような、頭を振って混乱を招く獣である。そうした悪魔は、自分達が腐敗物に群がるはえに過ぎないことには気づかず、地獄にいる自分達の王が、全ての王の中で至高の存在であると考えている。それだけではなく、自分達のぶたや犬の両親に頼り、神の存在に対して中傷的なことを述べる。そうした小ばえのような者は、自分達の両親がハクジラのように大きいものであると考えている。そうした者は、自分達は極めて小さい存在であるが、自分達の両親は自分達よりも10億倍大きく不浄なぶたや犬であることに気付かないのであろうか。そうした者は、自分の卑しさに気付かず、ぶたや犬の腐った臭いを根拠として暴れ回り、将来の世代を生み出す妄想にとらわれる。これは完全なる厚顔無恥である。そうした者は、自分の背中に緑色の羽根がある(自分が神を信仰していると主張することを指す)ことで、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するようになり、密かに自らの不浄を人間になすりつける。さらに、そうした者の自惚れは、あたかも虹色の羽根が自分の不浄を隠すことが出来るかのようであり、それゆえに真の神の存在を迫害する(これは、宗教界の内情を指す)。人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。」

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

 


噂はどこから来るのですか。また、どのようにして作られるのですか。

2020-08-17 18:47:01 | 天の国の福音

噂はどこから来るのですか。また、どのようにして作られるのですか。

 

参照聖書箇所

「さてヤーウェ神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』。女はへびに言った、『わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました』。へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。 」(創世記 3:1-5)

「どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」(ヨハネによる福音書 8:43-44)

関連する神の言葉

「地がまだ存在していなかったとき、大天使は天国の天使の中で最も偉大だった。大天使は、天国のすべての天使に対する権限を握っていた。それは神から大天使に与えられた権威だった。神を除いて、大天使は天国の天使の中で最も偉大だった。神が後に人間を創造したとき、大天使は地上において神に向けて大きな裏切りを行った。大天使は、人間を支配し、神の権威を超越したかったため、神を裏切ったとわたしは言うのである。エバを誘惑して罪に陥れたのは大天使だった。大天使が神を裏切ったのは、地上に自分の王国を建設し、人間に神を裏切らせて、代わりに自分に従わせたかったからである。大天使は自分に従う者がたくさん存在することを知った。天使たちは、地上の人々と同じく、大天使に従った。鳥と獣、木々、森、山、川、および地上のあらゆるものは、人であるアダムとエバの管理下にあり、アダムとエバは大天使に従った。大天使はそのようにして神の権威を超越し、神を裏切ろうと考えた。後に大天使は多くの天使たちに神を裏切らせ、それが汚れた霊となった。今日までの人間の発展は、大天使の堕落に影響されているではないか。人間が今日あるような状態なのは、大天使が神を裏切り、人間を堕落させたからである。」

『言葉は肉において現れる』の「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」より

「はじめに神はアダムとエバを創造し、また蛇も創造した。全ての被造物の中で、蛇は最も有毒だった。その体は毒を含み、サタンはその毒を利用した。エバを誘惑し罪に落とし入れたのは蛇だった。アダムはエバが罪を犯した後に罪を犯した。そして2人はそれから善と悪の区別ができるようになった。」

『言葉は肉において現れる』の「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」より

「サタンと悪霊の存在のために、人々は神を拒絶し、反抗的な性質があふれんばかりに満ちているため……」

『言葉は肉において現れる』の「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」より

「神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た性質を持っている理由は、サタンが人に影響を与え堕落させたからである。」

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

「人間の腐敗した本性が全てサタンに由来するからであり、また人間の本性はサタンに取り憑かれて腐敗させられていることにある。つまり、人間はサタンの邪悪と醜悪さの影響下で生きながらえている。人間は真理の世界や聖なる環境で育つのではなく、光の中で生活してもいない。ゆえに、人間それぞれの本性に真理が生来備わっていることはあり得ず、神を畏れ、神に従う本質を持って生まれることもあり得ない。逆に、人間は神を拒み、神に反抗し、真理を愛すことのない本性を備えている。……

人間の霊は、全てサタンに掌握されている。ゆえに、人間の肉もまたサタンに囚われているのは言うまでも無い。こうした肉と人間が、どうして神に反抗せず、生来神の味方であり得るだろうか。サタンがわたしにより空へと投げ出されたのは、サタンがわたしを裏切ったからであるが、それならば、どうして人間がそうした影響から解放され得るであろうか。これが、人間の本性が裏切りである理由である。」

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

「サタンは教育と国家政府の影響力、そして有名人や偉人により人間を腐敗させる。そうした者の嘘と不合理は、人間のいのちとなり、本性となっている。『自分自身のことだけを考え、落伍者への懸念は不要』は、サタンの有名な格言であり、それは人間ひとりひとりに浸透して人間のいのちとなっている。そのほかにも、これに類似する人生哲学の格言がある。サタンは、各国市民の洗練された伝統文化により人間を教育し、人間性を広大な破滅の淵へ落とし入れて、人間はサタンに仕え神を拒否したために、最終的に神により滅ぼされる。」

キリストの言葉の記録』の「 どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

「人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。 」

『言葉は肉において現れる』の「 働きと入ること(7)」より