『こどもたちへ』水谷修著 定価(本体1200円+税)107頁
「自分探しの旅、やめよう」帯に書かれた水谷修の言葉。私は「自分探し」という言葉、嫌いです。探してもありません。だって、そこにある。そこにあるのに、なぜ、どこかに「自分」を探そうとするのだろう。「自分探し」という言葉は、自分を見据えないための言葉だ。その昔、古舘伊知郎の話を伺う機会があり、「自分探し」に関する話に共感し盛り上がったことを記憶している。
「自分さがし」なんていうのは道なき道を行く大冒険の旅なんだろうけど、この便利な世の中で、「等身大の自分」「自分らしく生きる」は、楽に生きたい、楽しく生きたいということ。「自分に正直に生きる」「素直な自分に立ち返る」「本当の自分になれる」というのは、いじわるに言えば、わがままに生きたいという欲求の表れ。かなりの苦しさを経験し、自分のわがままを剥がしていってこそ、本当の自分が立ち上がってくると思う。
ポジティブ思考も勘違いされているように思う。お釈迦さまは、相当なネガティブな海を泳いで、生老病死から始まり、人生は苦であると思い知った果てにポジティブに死んでいったと思うんですね。そういったネガティブな海を漂流せずに、いきなりポジティブの海があると勘違いしている。それは自分に対しても感じますよ。気づけば自分も安易な方向に流れますから。
古舘の言う「安易」とは努力しないとか、逃げるとか、そういうことではない。ネガティブな経験とそこで感じるつらい感情をありのままに見据えないということだ。「寂しさは、寂しい者同士が語り合っても、癒せるものではありません。寂しい。それではいけませんか?(本文より)」と水谷は問う。愛されたいとこの世に生まれた命。思い通りに愛を与えられることがないという試練の旅を皆が歩いている。それこそネガティブな海の漂流だ。へこたれまいと平気なフリをした。そんなことは恥ずかしくいけないことだと愛想笑いで通した。平気なフリも、愛想笑いも手放して、自分の寂しさを丸ごと受け入れてあげよう。寂しい自分を放置して、どこかに本当の自分があるわけない。そんな荒唐無稽なことに時間と心のエネルギーを費やすのはやめよう。心にネガティブもポジティブもない。丸ごと自分を受け入れて、遠慮なく愛すればいい。まずは自分を幸せにしていこう。そして精一杯の笑顔を人に向けていこう。
「自分探しの旅、やめよう」帯に書かれた水谷修の言葉。私は「自分探し」という言葉、嫌いです。探してもありません。だって、そこにある。そこにあるのに、なぜ、どこかに「自分」を探そうとするのだろう。「自分探し」という言葉は、自分を見据えないための言葉だ。その昔、古舘伊知郎の話を伺う機会があり、「自分探し」に関する話に共感し盛り上がったことを記憶している。
「自分さがし」なんていうのは道なき道を行く大冒険の旅なんだろうけど、この便利な世の中で、「等身大の自分」「自分らしく生きる」は、楽に生きたい、楽しく生きたいということ。「自分に正直に生きる」「素直な自分に立ち返る」「本当の自分になれる」というのは、いじわるに言えば、わがままに生きたいという欲求の表れ。かなりの苦しさを経験し、自分のわがままを剥がしていってこそ、本当の自分が立ち上がってくると思う。
ポジティブ思考も勘違いされているように思う。お釈迦さまは、相当なネガティブな海を泳いで、生老病死から始まり、人生は苦であると思い知った果てにポジティブに死んでいったと思うんですね。そういったネガティブな海を漂流せずに、いきなりポジティブの海があると勘違いしている。それは自分に対しても感じますよ。気づけば自分も安易な方向に流れますから。
古舘の言う「安易」とは努力しないとか、逃げるとか、そういうことではない。ネガティブな経験とそこで感じるつらい感情をありのままに見据えないということだ。「寂しさは、寂しい者同士が語り合っても、癒せるものではありません。寂しい。それではいけませんか?(本文より)」と水谷は問う。愛されたいとこの世に生まれた命。思い通りに愛を与えられることがないという試練の旅を皆が歩いている。それこそネガティブな海の漂流だ。へこたれまいと平気なフリをした。そんなことは恥ずかしくいけないことだと愛想笑いで通した。平気なフリも、愛想笑いも手放して、自分の寂しさを丸ごと受け入れてあげよう。寂しい自分を放置して、どこかに本当の自分があるわけない。そんな荒唐無稽なことに時間と心のエネルギーを費やすのはやめよう。心にネガティブもポジティブもない。丸ごと自分を受け入れて、遠慮なく愛すればいい。まずは自分を幸せにしていこう。そして精一杯の笑顔を人に向けていこう。