自分の問題。
改善できるならば、改善してゆきます。
出来ないならば、その余地がないならば
自分でも、自分は信用できない。
諦めるしかありません。
信用・信頼を自己認識改善法で
考えるならばそうなります。
自分の問題。
改善できるならば、改善してゆきます。
出来ないならば、その余地がないならば
自分でも、自分は信用できない。
諦めるしかありません。
信用・信頼を自己認識改善法で
考えるならばそうなります。
日本では、弱者であっても理由は何であれ、
虐めや暴言(言葉の暴力)、示威、差別などがあり得ます。
不安や不満、怒りを弱い立場の人に
感情的にぶつけることで解消することがあります。
少し価値観や経験、抱える様々な問題が違う、
集団になると強い意見に流され、そのことが許容出来ません。
それは障がい者でなくとも、問題にしないだけであって、
普段から日常的にあること、行われていることです。
発展途上国に行く、そういうことも考えましたが、
置かれた場に問題があるならば
協力を得て、理解を広め、解決を図ろうと決意します。
私たちは、別段大きなことを望んではいません。
障がい者(広い意味で)を持ちながらも、
普通に対等な目線で関わりたい、
学びや就職や結婚など、
夢や希望も普通の人と同じ様にあると思います。
それが許されていない現状に大きな問題があります。
その解決は、一般的な普通の方にとっても
生き易い幸福な優しい社会になると思います。
松岡祐貴
変えられない事を嘆いても、
運命や自分自身を責めても
何も変えられない。
私自身、全てを恨みました。
ですが、元々写真家になりたいと
思っていた訳ではありません。
母も病気を持っていて、そういう意味では弱者ですし、
写真家は天才的な才能や一時の勢いに任せた生き方です。
フォトコミュニケーションや写真療法といった
コミュニケーションで作業所を変えてゆきたい、
関わってゆきたい、それは努力で変えられる。
不遇な恵まれない、しかし絶望だけではない、
障がい者には潜在的な可能性や価値観がある。
障がい者の現況を変えてゆきたい、
それがむしろ抑々の希望に近いお仕事だと思います。
明るい未来は作れる、そんな努力をしてゆきたい。
作業所勤務は時間が比較的あります。
それも休養や生活、準備や勉強に割けるので嬉しいです。
本当を見詰める。
必要な時に人は厳しく批判してくれる。
寄り添うはその人の人生や文化全体をみてするもの。
取り残されても、心は傍に隣にいてあげること。
静養や療養を兼ねた転居は何時でも出来ると思います。
ご批判があるならば、
評価に関係なく耐えるやるべきをやる。
地域の方もそれを望むはずです。
母はそれを望まないかも知れませんが、
これからまた引き越しなどの移動があるのではなく、
母が望む望まないにかかわらず、
一緒にいます。
臨終まで看取ります。
優しかった父もそうした方が良いと言うと思います。