九死に一生を得た福子は津波から助けた少年と、乳飲み子を抱えた遠乃は舅や義兄と、息子とはぐれたシングルマザーの渚は一人、避難所へ向かった。だがそこは、“絆”を盾に段ボールの仕切りも使わせない監視社会。男尊女卑が蔓延り、美しい遠乃は好奇の目の中、授乳もままならなかった。やがて虐げられた女たちは静かに怒り、立ち上がる。憤りで読む手が止まらぬ衝撃の震災小説
なして助がった? 流されちまえば良がったのに-。東日本大震災で露わになった家族の実像。段ボールの仕切りすらない体育館で「絆」を強要される3人の妻たちの胸中に迫り、震災の真実を描く。
九死に一生を得た福子は津波から助けた少年と、乳飲み子を抱えた遠乃は舅や義兄と、息子とはぐれたシングルマザーの渚は一人、避難所へ向かった。だがそこは、“絆”を盾に段ボールの仕切りも使わせない監視社会。男尊女卑が蔓延り、美しい遠乃は好奇の目の中、授乳もままならなかった。やがて虐げられた女たちは静かに怒り、立ち上がる。憤りで読む手が止まらぬ衝撃の震災小説。
きっと夫は死んだ。今日も朝からしごとにも行かず、ぐだぐだとテレビを見ながら酒を飲んでいた。避難するなら徒歩か自転車で遠くの高台に逃げるしかない。
_____夫が死んでくれたら・・・・嬉しい。
偽らざる本心に、自分でも唖然とした。
「ああ生き返っだ」マスノはそう言うと、大きく息を吐いた。
「頑張っぺし、なっ」
福子も言葉に詰まった。頑張るという言葉が昔から嫌いだった。
あれこれ努力してみても、夫の怠け癖も浮気癖もマザコンもなにひとつ治らなかった。
スーパーの屋上に、大きな船がちょこんと載っていた。まるでマンガだった。
津波はスーパーの屋上を越えたのか。車ごと流されて漂流していたとき、スーパーの屋上に避難しなかったことを深く後悔したが、それは間違いだったらしい。
所詮、人生は金だ。
お金さえあれば、もっと早くに離婚できたはずだ。
夫の暴力に耐えかねて離婚を切り出すと、驚いたことに夫は親権を主張しだした。それまで一度だって息子と遊んでやったことのない男が、だ。しかし、夫に突き飛ばされて肋骨が折れた際の診断書を家裁に提出すると、すんなり親権は自分のものになった。
周りの家も浮いていた。みんな同じように山側に凪がされて行く。窓から顔を出し、口々に「助けてえ」と叫んでいる。誰に向かって叫んでいるのか。助けてくれるような人がいるのかと周りを見渡してみたが、助けを求める側の人間ばかりだった。
前回の地震のときも「津波なんで来るわげねえ」と言い、避難した人間がすごすごと帰ってくるのを捕まえては、勝ち誇ったように嗤った。夫が大嫌いだった。死んでくれればいいと思ったことは1度や2度ではない。
水たまりを避けながら近づくと、おばさんの顔の周りを小さな何かがたくさん動いている。メガネをかけていないからよく見えない。更に顔を近づけて目を凝らしたときだった。小さなものは無数の魚だった。顔の肉をつついて食べていた。あまりの気味悪さに、思わず目を逸らしてしまった。
毛布の端からは脚や腕がはみ出していた。死後硬直が始めっているのか、腕を前に突き出したままの遺体や、斜め上を見上げるように首を曲げている遺体がある。犬のように四つん這いになった姿勢に見えるのは、車を運転中に亡くなった人だろうか。
この中から夫をどうやって探しだすのか。端から順に顔を確認していけと言うのか。死人の顔をひとりひとり丹念に見ていくなんて、想像しただけで頭がヘンになりそうだった。しかし、仮に亡くなったのが夫ではなく、幼い日の息子であったなら、なりふりかまわず、すぐさま端から端まで確認しただろう。だがあの夫ではそんな気力が湧いてこなかった。
「申しわけありません」
美鈴先生は床に膝をついて土下座した。
「ほかの子供たちは・・・みんな教室にいます。お母さん、私・・・・」
美鈴先生は鼻を真っ赤にして、涙を滲ませた。
その横顔に殺意を覚えた。
気づいたときには、美鈴先生の頬を力いっぱい張っていた。
「お母さん、本当に申し訳ありません。山野君を引きとめられなくて・・・それなのに担任の私が生きて・・・ごめんなさい。」
美鈴先生の目から大粒の涙がぽたぽたとこぼれ落ちた。
「ほんとにそう思っでるなら、あんたも死ねば?」
「お母さん、そういう言い方はいくらなんでも」
若い男性教師が怒りで顔を真っ赤にしている。
いつの世も、どんな状況でも、男というものは若い美人の味方である。
「教師ひとりで30人もの子供の面倒を見るなんて、そもそも無理なんです。」
美鈴先生は手の甲で涙を拭きながら、話し出した。
「あんだ、なに開き直ってんの?人の子供を見殺しにしておいて」
自分で言った言葉に息を呑んだ。見殺しってことは・・・あの子は死んだってこと?
「母さん、違うんだってば。美鈴先生を責めないでよ。あの先生はいい人だよ。
美鈴先生はね、すんごく鈍感な人なのっさ」
「えっ?」
「母さん、あの人は教師に向いていないと僕は思う」
自分が思っている以上に息子はしっかりしているらしい。
頼もしく育っていると、単純に喜んでいいのだろうか。
「あどね、生理用品が必要な人は遠慮なく俺さひと声かげてね。たくさんあるがらね」
秀島リーダーは笑顔で言い放った。
女子高校生二人がまた顔を見合わせている。
とぼとぼと自分の陣地に引き返す途中で、突然、素晴らしい捨て台詞を思いついた。
____あんだ、骨の髄まで事なかれ主義に染まっでるっさ。人間が腐っでる。
またも遅きに失してしまった。その場で言い返せたら、どんなに気持ちがよかったか。ああ、悔しくてたまらない。
「だからね、『津波てんでこ』っでいうのはさ」
老人は説明し始めた。本人は親切のつもりで言っているのかもしれないが、「ものを知らない女子どもに教えてやっている大人の男」といった自慢げな口調が、上機嫌のときの元夫と重なってゾッとした。
「母さん、父さんはどこ?」
「それが、まだ見つからないんだよ」
悲しい顔をして見せた。せめてもの教育的配慮だ。
夫が亡くなっても、ちっとも悲しんでいない母親の姿を子供に見せるわけにはいかない。
マンションには清潔なトイレも風呂もあるし暖房もある。本音を言えば、晃一のマンションの台所の隅っこでも廊下でもいいから寝泊りさせてもらいたかった。
「私は田舎ものだからね。マンションの12階に住むなんて無理だよ。やっぱり慣れ親しんだ土地で生活したいがらね」
無理して笑ってみせると、晃一は納得した様子だった。自分の育て方が良かったのかもしれないが、素直に育ちすぎるのも考えものだ。
「あんだ、生きでたの?」
「生きてちゃ悪いか?」
そっと溜め息をついた。
夫が生きていたという事実に、心底落胆している自分の気持ちを持て余していた。
あっ、仮設で暮らすって・・・夫と一緒に?
こんなどうしようもない男と差し向かいで暮らせるのか、自分。
今度こそひとり暮らしができると思っていた。
自分に限って言えば、夫のいない生活は独身以来の天国だった。
夫に対する嫌悪感は、今まで認めるのが怖かった。
添い遂げるしか生きていく方法がないと知っているからだ。
夫が早死にするのを待っていた。
誰も口には出さないが、そういう妻はかなりの数にのぼると思う。
そんなに嫌なら離婚したら?
残りの人生、好きなように生きればどうだ、自分。
いや・・・やっぱり無理だ。
こんな田舎でこの歳になって離婚だなんて考えられない。
死別なら自宅のあった土地も自分のものになるし、保険金や遺族年金も受け取れる。
世間こそ同情こそすれ色眼鏡で見たりしない。
ところが離婚となると、そう簡単にはいかない。
しかし、このままではこれから先、明るい気持ちで生活していけそうにない。
人間あきらめが肝心だというでねえの。
もう55歳。
貧乏でもいい。せめて夫が真面目な人であったなら・・・。
「そろそろ帰るか」
夫が立ち上がった。
「気をづけでね」
夫が自分の目の前から消えてくれることが、こんなに嬉しいなんて・・・。
思わず笑顔が出そうになり、慌てて顔を引き締めた。
「よっこらせ」
床に手をついて立ち上がった。
夫が来るまでは身軽に動きまわっていたのに、いきなり身体が重くなった気がした。
テレビで盛んに「絆」とか「ひとつになろう」という言葉が喧伝(けんでん)され、助け合いや涙を誘う良いニュースばかり放映されている。確かにそういうこともたくさんある。だがその一方で、避難所やガレキの山を背景にピースサインをして写真を撮ったり、避難所内を遠慮なくじろじろ覗いて帰っていく物見遊山の人間も多かった。被災地を見舞った証拠をブログに載せるためだけに来ているとしか思えなかった。彼らに尋ねてみたい。もしもあなたの家に、見ず知らずの他人がずかずかと勝手にあがり込んできて写真を撮りまくっても平気ですかと。
パチンコ・・・。
いくらなんでも、夫がパチンコで義捐金をスッてしまうなんてことはない・・・と思う。
そこまで愚かな男ではないはずだ。
いや、ヤツはどこまでも愚かではなかったか。
もしかして、今まさにパチンコ台に向き合っているのではないか?
この一秒一秒の間に、義捐金がどんどん消えていっているのではないか。
想像すると、落ち着かなくなってきた。
「死ねばよがっだのに・・・」
走り去るBMWに向かって福子はつぶやいていた。
「うちの亭主ったら車に全額使ったんだよ。だからすっからかん。アイツは本当の馬鹿だ」
テレビを見ていると、やれ絆だ、思いやりだというが、今この二人を助けることができるのは現金だ。絆や思いやりでは食べていけない。
避難所は、日が経つにつれてどんどん減っていった。
そもそも金持ちは三日もいなかった。
取り残されていく感覚は、惨めさに拍車をかけた。
隣の家の物音が聞こえるとは聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。
だから、家の中にいても、他人に聞かれても構わないような内容しか話さなくなった。
福子は夫の怒鳴り声が隣に聞こえないようにするため、終始機嫌を取っていなければならなかった。天井が低いために魚を焼くたびに火災警報器が鳴るのもイライラした。考えた末に、とうとう内緒で取り外してしまった。
夫はハローワークに出かけては、「全くバカにしていやがる。まともな仕事がない」と言って帰宅する。文句をたれながら、気落ちしていないのが腹立たしかった。ガレキやで汚泥の処理なでには見向きもせず、俺は肉体労働には向かないと豪語する。
「昔はどこの会社でも55歳で定年するのが普通だったからな」
これが最近の夫の口癖だ。
自分は55歳を超えているからリタイアしてもいいということらしい。
長年に亘って真面目に会社勤めをしてきた男が言うならともかく、ずっとちゃらんぽらんな生活を送ってきた夫に、その台詞を言う資格はない。ちゃんちゃらおかしい。
夫というものは、年齢とともに妻が自分のそばを離れるのを嫌がるのはどうしてなんだろう。女にはまったく理解できない。夫といると、常に監視下に置かれているようで、何をしても楽しくない。
一刻も早く仕事を見つけたかったが、ハローワークに行っても相変わらず男性向けの肉体労働しかなかった。晶子先輩の伝手で独居老人の家事をしていたこともあったが、老衰で亡くなってしまった。
誰しもついつい自分の被害と他人の被害を比べてしまう。
「ああ、家に帰りたい。流されちまったけんども夢に出てくる」
「タイムマスンがあっだらなあ」
テレビでは連日キズナ、キズナとバカのひとつ覚えみたいに言っているが、周りを見渡せば離婚した夫婦は少なくなかった。ただ、聞いた範囲では妻の側から言い出した離婚がほとんどだった。仮設住宅で別々に住むことの快適さをいったん味わった若夫婦は、二度と親世代とは同居したがらないという。金持ちは新たに土地を買って家を建て、以前と大して変わらない生活を維持している。これほどまでに貧富の差を見せつけられたことはなかった。
「だがら、あんだだつは本当に大変だよ」
働こうとしない福子の夫のことを言っているのかと思わず身構えた。
夫を庇う気持ちは微塵もなかったが、あんな亭主を持ってかわいそうにという同情の視線には耐えられない。
私、あと何年生きるんだ?
金がなくなったら自殺するという手もあるにはあるが。
また心がザワザワしてきた。こういうのを鬱状態というのだろうか。なんとも説明しづらい心の乱れは、震災以降に現れるようになった。
いつだったか、テレビで夫原病という特集をしていた。
夫が傍にいるだけで妻はストレスを溜め、体調を崩すという。
ああいうのは都会に住んでいる神経質な妻がなるもので、田舎者の自分には関係ないと思っていた。夫には、死ぬまでずっと実家に居候してほしいと思った。
「だから、お金がないんだってばさ。モヤシと豚小間を買うのがやっとなの」
夫はひょいと手を伸ばすと、茹でたモヤシを数本つまんで口に入れた。
咀嚼する音を聞くと、全身に鳥肌が立った。もう生理的嫌悪感をごまかせなくなっている。一緒に食事をするのは、これ以上は無理だ。明日からなんとか理由をつけて、夫とは食事の時間をずらすしかない。
「あんた、スロットで全額スッたなんでことはないよね?」
そのとき、心の中で何かがパチンと断ち切れた。
堪忍袋の緒が切れるときに、パチンと音がするなんて、知らなかった。
____死に別れならいいけんども離婚は損だ。
もう損得なんて言っていられない。
こういう輩とこれ以上一緒にいたら、そのうち自分は腐ってくる。
いつか修復できないほどに心が壊れてしまう。
憎しみが殺意に変わる瞬間があるかもしれないと思うと怖くなる。
「死ねばいいのに」と、「殺してやる」との間には、かなりの距離があると思っていた。
こんなやつのために、自分が刑務所に入るなんてとんでもないことだ。
生活保護が受けられるかどうかは、審査があり、ギリギリのところでは役所の担当者の胸先三寸で決まるという噂がある。胸先三寸で決まるということは、どれだけ担当者の同情を買うことができるかにかかっている。子供の頃から、そういった「可愛げ」には自信がない。
福子が夫に離婚を切り出した。
食べていくあてがないと正直に答えると、いきなり疑いの色が濃くなった。
「男がいるんだべ、正直に言え」
「こんなブスでデブのオバサンに男なんているわけねえべ」と言ったら、「それもそうだな」と納得したのにも腹が立った。
なして助がった? 流されちまえば良がったのに-。東日本大震災で露わになった家族の実像。段ボールの仕切りすらない体育館で「絆」を強要される3人の妻たちの胸中に迫り、震災の真実を描く。
九死に一生を得た福子は津波から助けた少年と、乳飲み子を抱えた遠乃は舅や義兄と、息子とはぐれたシングルマザーの渚は一人、避難所へ向かった。だがそこは、“絆”を盾に段ボールの仕切りも使わせない監視社会。男尊女卑が蔓延り、美しい遠乃は好奇の目の中、授乳もままならなかった。やがて虐げられた女たちは静かに怒り、立ち上がる。憤りで読む手が止まらぬ衝撃の震災小説。
きっと夫は死んだ。今日も朝からしごとにも行かず、ぐだぐだとテレビを見ながら酒を飲んでいた。避難するなら徒歩か自転車で遠くの高台に逃げるしかない。
_____夫が死んでくれたら・・・・嬉しい。
偽らざる本心に、自分でも唖然とした。
「ああ生き返っだ」マスノはそう言うと、大きく息を吐いた。
「頑張っぺし、なっ」
福子も言葉に詰まった。頑張るという言葉が昔から嫌いだった。
あれこれ努力してみても、夫の怠け癖も浮気癖もマザコンもなにひとつ治らなかった。
スーパーの屋上に、大きな船がちょこんと載っていた。まるでマンガだった。
津波はスーパーの屋上を越えたのか。車ごと流されて漂流していたとき、スーパーの屋上に避難しなかったことを深く後悔したが、それは間違いだったらしい。
所詮、人生は金だ。
お金さえあれば、もっと早くに離婚できたはずだ。
夫の暴力に耐えかねて離婚を切り出すと、驚いたことに夫は親権を主張しだした。それまで一度だって息子と遊んでやったことのない男が、だ。しかし、夫に突き飛ばされて肋骨が折れた際の診断書を家裁に提出すると、すんなり親権は自分のものになった。
周りの家も浮いていた。みんな同じように山側に凪がされて行く。窓から顔を出し、口々に「助けてえ」と叫んでいる。誰に向かって叫んでいるのか。助けてくれるような人がいるのかと周りを見渡してみたが、助けを求める側の人間ばかりだった。
前回の地震のときも「津波なんで来るわげねえ」と言い、避難した人間がすごすごと帰ってくるのを捕まえては、勝ち誇ったように嗤った。夫が大嫌いだった。死んでくれればいいと思ったことは1度や2度ではない。
水たまりを避けながら近づくと、おばさんの顔の周りを小さな何かがたくさん動いている。メガネをかけていないからよく見えない。更に顔を近づけて目を凝らしたときだった。小さなものは無数の魚だった。顔の肉をつついて食べていた。あまりの気味悪さに、思わず目を逸らしてしまった。
毛布の端からは脚や腕がはみ出していた。死後硬直が始めっているのか、腕を前に突き出したままの遺体や、斜め上を見上げるように首を曲げている遺体がある。犬のように四つん這いになった姿勢に見えるのは、車を運転中に亡くなった人だろうか。
この中から夫をどうやって探しだすのか。端から順に顔を確認していけと言うのか。死人の顔をひとりひとり丹念に見ていくなんて、想像しただけで頭がヘンになりそうだった。しかし、仮に亡くなったのが夫ではなく、幼い日の息子であったなら、なりふりかまわず、すぐさま端から端まで確認しただろう。だがあの夫ではそんな気力が湧いてこなかった。
「申しわけありません」
美鈴先生は床に膝をついて土下座した。
「ほかの子供たちは・・・みんな教室にいます。お母さん、私・・・・」
美鈴先生は鼻を真っ赤にして、涙を滲ませた。
その横顔に殺意を覚えた。
気づいたときには、美鈴先生の頬を力いっぱい張っていた。
「お母さん、本当に申し訳ありません。山野君を引きとめられなくて・・・それなのに担任の私が生きて・・・ごめんなさい。」
美鈴先生の目から大粒の涙がぽたぽたとこぼれ落ちた。
「ほんとにそう思っでるなら、あんたも死ねば?」
「お母さん、そういう言い方はいくらなんでも」
若い男性教師が怒りで顔を真っ赤にしている。
いつの世も、どんな状況でも、男というものは若い美人の味方である。
「教師ひとりで30人もの子供の面倒を見るなんて、そもそも無理なんです。」
美鈴先生は手の甲で涙を拭きながら、話し出した。
「あんだ、なに開き直ってんの?人の子供を見殺しにしておいて」
自分で言った言葉に息を呑んだ。見殺しってことは・・・あの子は死んだってこと?
「母さん、違うんだってば。美鈴先生を責めないでよ。あの先生はいい人だよ。
美鈴先生はね、すんごく鈍感な人なのっさ」
「えっ?」
「母さん、あの人は教師に向いていないと僕は思う」
自分が思っている以上に息子はしっかりしているらしい。
頼もしく育っていると、単純に喜んでいいのだろうか。
「あどね、生理用品が必要な人は遠慮なく俺さひと声かげてね。たくさんあるがらね」
秀島リーダーは笑顔で言い放った。
女子高校生二人がまた顔を見合わせている。
とぼとぼと自分の陣地に引き返す途中で、突然、素晴らしい捨て台詞を思いついた。
____あんだ、骨の髄まで事なかれ主義に染まっでるっさ。人間が腐っでる。
またも遅きに失してしまった。その場で言い返せたら、どんなに気持ちがよかったか。ああ、悔しくてたまらない。
「だからね、『津波てんでこ』っでいうのはさ」
老人は説明し始めた。本人は親切のつもりで言っているのかもしれないが、「ものを知らない女子どもに教えてやっている大人の男」といった自慢げな口調が、上機嫌のときの元夫と重なってゾッとした。
「母さん、父さんはどこ?」
「それが、まだ見つからないんだよ」
悲しい顔をして見せた。せめてもの教育的配慮だ。
夫が亡くなっても、ちっとも悲しんでいない母親の姿を子供に見せるわけにはいかない。
マンションには清潔なトイレも風呂もあるし暖房もある。本音を言えば、晃一のマンションの台所の隅っこでも廊下でもいいから寝泊りさせてもらいたかった。
「私は田舎ものだからね。マンションの12階に住むなんて無理だよ。やっぱり慣れ親しんだ土地で生活したいがらね」
無理して笑ってみせると、晃一は納得した様子だった。自分の育て方が良かったのかもしれないが、素直に育ちすぎるのも考えものだ。
「あんだ、生きでたの?」
「生きてちゃ悪いか?」
そっと溜め息をついた。
夫が生きていたという事実に、心底落胆している自分の気持ちを持て余していた。
あっ、仮設で暮らすって・・・夫と一緒に?
こんなどうしようもない男と差し向かいで暮らせるのか、自分。
今度こそひとり暮らしができると思っていた。
自分に限って言えば、夫のいない生活は独身以来の天国だった。
夫に対する嫌悪感は、今まで認めるのが怖かった。
添い遂げるしか生きていく方法がないと知っているからだ。
夫が早死にするのを待っていた。
誰も口には出さないが、そういう妻はかなりの数にのぼると思う。
そんなに嫌なら離婚したら?
残りの人生、好きなように生きればどうだ、自分。
いや・・・やっぱり無理だ。
こんな田舎でこの歳になって離婚だなんて考えられない。
死別なら自宅のあった土地も自分のものになるし、保険金や遺族年金も受け取れる。
世間こそ同情こそすれ色眼鏡で見たりしない。
ところが離婚となると、そう簡単にはいかない。
しかし、このままではこれから先、明るい気持ちで生活していけそうにない。
人間あきらめが肝心だというでねえの。
もう55歳。
貧乏でもいい。せめて夫が真面目な人であったなら・・・。
「そろそろ帰るか」
夫が立ち上がった。
「気をづけでね」
夫が自分の目の前から消えてくれることが、こんなに嬉しいなんて・・・。
思わず笑顔が出そうになり、慌てて顔を引き締めた。
「よっこらせ」
床に手をついて立ち上がった。
夫が来るまでは身軽に動きまわっていたのに、いきなり身体が重くなった気がした。
テレビで盛んに「絆」とか「ひとつになろう」という言葉が喧伝(けんでん)され、助け合いや涙を誘う良いニュースばかり放映されている。確かにそういうこともたくさんある。だがその一方で、避難所やガレキの山を背景にピースサインをして写真を撮ったり、避難所内を遠慮なくじろじろ覗いて帰っていく物見遊山の人間も多かった。被災地を見舞った証拠をブログに載せるためだけに来ているとしか思えなかった。彼らに尋ねてみたい。もしもあなたの家に、見ず知らずの他人がずかずかと勝手にあがり込んできて写真を撮りまくっても平気ですかと。
パチンコ・・・。
いくらなんでも、夫がパチンコで義捐金をスッてしまうなんてことはない・・・と思う。
そこまで愚かな男ではないはずだ。
いや、ヤツはどこまでも愚かではなかったか。
もしかして、今まさにパチンコ台に向き合っているのではないか?
この一秒一秒の間に、義捐金がどんどん消えていっているのではないか。
想像すると、落ち着かなくなってきた。
「死ねばよがっだのに・・・」
走り去るBMWに向かって福子はつぶやいていた。
「うちの亭主ったら車に全額使ったんだよ。だからすっからかん。アイツは本当の馬鹿だ」
テレビを見ていると、やれ絆だ、思いやりだというが、今この二人を助けることができるのは現金だ。絆や思いやりでは食べていけない。
避難所は、日が経つにつれてどんどん減っていった。
そもそも金持ちは三日もいなかった。
取り残されていく感覚は、惨めさに拍車をかけた。
隣の家の物音が聞こえるとは聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。
だから、家の中にいても、他人に聞かれても構わないような内容しか話さなくなった。
福子は夫の怒鳴り声が隣に聞こえないようにするため、終始機嫌を取っていなければならなかった。天井が低いために魚を焼くたびに火災警報器が鳴るのもイライラした。考えた末に、とうとう内緒で取り外してしまった。
夫はハローワークに出かけては、「全くバカにしていやがる。まともな仕事がない」と言って帰宅する。文句をたれながら、気落ちしていないのが腹立たしかった。ガレキやで汚泥の処理なでには見向きもせず、俺は肉体労働には向かないと豪語する。
「昔はどこの会社でも55歳で定年するのが普通だったからな」
これが最近の夫の口癖だ。
自分は55歳を超えているからリタイアしてもいいということらしい。
長年に亘って真面目に会社勤めをしてきた男が言うならともかく、ずっとちゃらんぽらんな生活を送ってきた夫に、その台詞を言う資格はない。ちゃんちゃらおかしい。
夫というものは、年齢とともに妻が自分のそばを離れるのを嫌がるのはどうしてなんだろう。女にはまったく理解できない。夫といると、常に監視下に置かれているようで、何をしても楽しくない。
一刻も早く仕事を見つけたかったが、ハローワークに行っても相変わらず男性向けの肉体労働しかなかった。晶子先輩の伝手で独居老人の家事をしていたこともあったが、老衰で亡くなってしまった。
誰しもついつい自分の被害と他人の被害を比べてしまう。
「ああ、家に帰りたい。流されちまったけんども夢に出てくる」
「タイムマスンがあっだらなあ」
テレビでは連日キズナ、キズナとバカのひとつ覚えみたいに言っているが、周りを見渡せば離婚した夫婦は少なくなかった。ただ、聞いた範囲では妻の側から言い出した離婚がほとんどだった。仮設住宅で別々に住むことの快適さをいったん味わった若夫婦は、二度と親世代とは同居したがらないという。金持ちは新たに土地を買って家を建て、以前と大して変わらない生活を維持している。これほどまでに貧富の差を見せつけられたことはなかった。
「だがら、あんだだつは本当に大変だよ」
働こうとしない福子の夫のことを言っているのかと思わず身構えた。
夫を庇う気持ちは微塵もなかったが、あんな亭主を持ってかわいそうにという同情の視線には耐えられない。
私、あと何年生きるんだ?
金がなくなったら自殺するという手もあるにはあるが。
また心がザワザワしてきた。こういうのを鬱状態というのだろうか。なんとも説明しづらい心の乱れは、震災以降に現れるようになった。
いつだったか、テレビで夫原病という特集をしていた。
夫が傍にいるだけで妻はストレスを溜め、体調を崩すという。
ああいうのは都会に住んでいる神経質な妻がなるもので、田舎者の自分には関係ないと思っていた。夫には、死ぬまでずっと実家に居候してほしいと思った。
「だから、お金がないんだってばさ。モヤシと豚小間を買うのがやっとなの」
夫はひょいと手を伸ばすと、茹でたモヤシを数本つまんで口に入れた。
咀嚼する音を聞くと、全身に鳥肌が立った。もう生理的嫌悪感をごまかせなくなっている。一緒に食事をするのは、これ以上は無理だ。明日からなんとか理由をつけて、夫とは食事の時間をずらすしかない。
「あんた、スロットで全額スッたなんでことはないよね?」
そのとき、心の中で何かがパチンと断ち切れた。
堪忍袋の緒が切れるときに、パチンと音がするなんて、知らなかった。
____死に別れならいいけんども離婚は損だ。
もう損得なんて言っていられない。
こういう輩とこれ以上一緒にいたら、そのうち自分は腐ってくる。
いつか修復できないほどに心が壊れてしまう。
憎しみが殺意に変わる瞬間があるかもしれないと思うと怖くなる。
「死ねばいいのに」と、「殺してやる」との間には、かなりの距離があると思っていた。
こんなやつのために、自分が刑務所に入るなんてとんでもないことだ。
生活保護が受けられるかどうかは、審査があり、ギリギリのところでは役所の担当者の胸先三寸で決まるという噂がある。胸先三寸で決まるということは、どれだけ担当者の同情を買うことができるかにかかっている。子供の頃から、そういった「可愛げ」には自信がない。
福子が夫に離婚を切り出した。
食べていくあてがないと正直に答えると、いきなり疑いの色が濃くなった。
「男がいるんだべ、正直に言え」
「こんなブスでデブのオバサンに男なんているわけねえべ」と言ったら、「それもそうだな」と納得したのにも腹が立った。