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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

潮待ちの宿  伊東 潤/著

2020年12月30日 13時31分07秒 | 読書・文学


口減らしのため備中の港町・笠岡の「真なべ屋」に連れてこられた志鶴。懸命に働きながら己の人生を見つめる志鶴の成長と、彼女の目を通して幕末から明治にかけての時代を描く連作集。『オール讀物』掲載を書籍化。

笠岡の春は、瀬戸内海の潮風と共にやってくる。
潮の香りが町中にまで漂ってくると、はるか沖合いに真鯛の群れが到来する。
それを狙って「鯛しばり網漁」の漁船が漕ぎ出し、一度の漁で千尾以上の真鯛を獲ってくることもある。

志鶴がそれを教えると、継之助は「志を持った鶴か。美しい名だ。きっとよき伴侶にめぐり会える」などと言いながら、先に立って歩いていく。

「そうだ。経世済民(けいせいさいみん)とは、民のため政治を行うという謂だが、具体的に言うと、その土地の特産品を流通させ、それによって生みだされた富を、民に再配分する仕組みを構築することだ」

「今、諸藩では、長年にわたる苛斂誅求(かれんゆうきゅう)によって農村が疲弊し、欠落逃散(かけおちちょうさん)が相次いでいる。越後国でも農地は荒れ果て、人買いが横行している始末だ。こうしたことから脱するには、その地でしか穫れない、または作れない特産品を藩外に売り出すしかsない。それによって藩財政を立て直し、貢租率を軽減することで民に報いるのだ。

海の見える墓所に卒塔婆(そうとうば)だけの墓を建てると、じっと手を合わせ、「戻って来た時には、必ず立派な墓を建ててやる」と言って頭を下げた。

笠岡には、唯一と言ってもいい名産品がある。
石だ。
北木島の産する御影石は「北木御影」と呼ばれ、御影石の中でも最高品種とされている。産出量が少なく「石の真珠」とまで言われていた。

「そうさ。かつてこの島の石は、太閤殿下や家康の大坂城の石垣にも使われていたんだ」
秀吉の大坂城が夏の陣で焼け落ちた後、家康と二代将軍秀忠は、新たに土盛りをして石垣を積むことで豊臣政権の威光を消し去ることに力を入れた。そのため大坂城の石垣は、秀吉時代のものの上に徳川時代のものがかぶさる形になった。その二つの大坂城の石垣の主要な部分を担ったのが、北木島の石だった。

笠岡は山に囲まれた港町である。
西に竜王山、東に石鎚山・・・

細々と続いてきた笠岡の遊女街にも、明治政府の「芸娼妓(げいしょうぎ)解放令」が及んできた。

「それに針魚(さより)に鰆(さわら)が獲れたのね」






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