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敵兵を救助せよ!英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長

2021年01月10日 11時28分13秒 | 読書・戦争兵器


1942年3月、スラバヤ沖海戦のあと、危険をおかして英兵422名を救出した工藤俊作少佐の生涯と救助の一部始終を描く。存命の日英関係者を執念で探し出し、歴史の帳の中に埋もれようとしていた数々の事実を明るみに出す。

一九四二年三月、スラバヤ沖海戦の後、日本海軍は多数の敵国将兵を救助した。 これを決断実行した駆逐艦「雷」艦長工藤俊作の生涯と救助の一部始終を描きます。 戦史にのることもなく、ほとんど語られることがなかった感動の事実が、いま甦る。この世界海戦史上でも稀で感動的な出来事の中に、本物の武士道を見つけてください

序章 日英海軍のきずな
第1章 工藤俊作の生い立ち
第2章 海軍兵学校
第3章 日米間に暗雲起きる
第4章 日・米英戦争の序曲
第5章 開戦
第6章 スラバヤ沖海戦
第7章 駆逐艦「雷」の最期
終章 敗戦後の工藤

スラバヤ沖で撃沈された英巡洋艦「エグゼター」、英駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名は漂流を続け、彼らは限界に達していた。「日本人は非情」という先入観をもっていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟した。
ところが、駆逐艦「雷」艦長海軍中佐・工藤俊作(乗組員220名)は、即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げて漂流者422名を救助したのである。
そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。

工藤がこれから進学する米沢興譲館中学について述べる。
この興譲館中学からは、海軍大将3名、中将16名、少将12名を輩出している。
この数は戦前の旧制中学では群を抜いている。
なでこれほどまでに興譲館から将官が輩出したのであろうか。

興譲館は第9代藩主鷹山・上杉治憲が明和8年(1771年)に藩校として設立したものである。
「興譲館」と正式に命名されたのは、創立から5年後の安永5年(1776年)9月19日である。
明治に入り、興譲館は山形県立米沢中学校となり、軍人のみならず多くの人材を輩出した。

ところで米沢藩は危機を二回迎えた。
1回目は明和4年(1767年)、藩の財政が破綻寸前になったときで、2回目は戊辰戦争の敗北で藩閥政府から「賊軍」のレッテルを貼られ、弾圧されたときである。
1回目の危機は、鷹山の藩政改革と人材育成で切り抜けた。
2回目は、士族の次男三男を興譲館から兵学校に進学させ、海軍中央に人材を送ることによって起死回生を果たした。

米沢藩は、戊辰戦争の直後から興譲館教育を改革する。
漢学教育中心から理数教育に重点を移し、英国人教師を招いて英語教育を開始した。
海軍将校昇進の資質は、陸軍と異なって理数系の頭脳と語学力が要求されたからである。

山下源太郎大将
山下はその後、大正7年7月、海軍大将に昇進、9月には連合艦隊司令長官に就任する。

次に興譲館出身で有名な提督は、左近司政三である。
3人目は、春秋湾奇襲攻撃で有名な第一航空艦隊司令長官を務め、サイパン島玉砕の際、同島で自決した南雲忠一大将である。

余談になるが、開戦時の連合艦隊司令官・山本五十六大将夫人は、興譲館出身の山下源太郎大将と親戚関係にあった。

工藤は、興譲館合格の発表の日、掲示板を確認するために出向いているが、当時、合格者は一番から成績順に氏名が公表されていた。興譲館は米沢士族の学校で、ステイタス・シンボル的な存在であった。合格順位3位にはっきり工藤俊作と名前が書かれていた。

戦前、海軍兵学校は難関中の難関で、有名進学校でもトップクラスに入っていなければ合格は難しいとされていた。当時は、各県のトップ中学で生徒を海軍兵学校と陸軍士官学校にそれぞれ何名合格させるかで、そのレベルが問われていた時代である。

大正9年、工藤は兵学校を受験する。
この年、300名の採用予定に対し全国4,000人以上の青年が受験した。
兵学校の入学試験は、山形県庁で行われた。
当時山形には、山形中学、米沢中学(興譲館)、新庄中学、鶴岡中学の4校があった。

工藤は平民出身で初めて興譲館から兵学校に合格した。
この合格の知らせは高畠のみか。全置賜地区の農民を喜ばせた。

鉄道で呉・江田島へ向かった。

海軍士官は佐官になると、専門域に進む。
課目は、砲術、水雷、航海、通信、航空等があるが、尉官時代にそれぞれの希望と身体検査で決定された。砲術が最もエリートコースとされていた。航空は軽視されており、とくにクラスで優秀な者は航空に行かせないという空気さえあった。

「当時、兵学校には300人クラスが2クラスあり、生徒の数は800に及び、山形県人も50人を超えていた」

日本でラジオ放送が開始されたのは大正14年、日本放送協会のラジオの全国放送網が完成したのは、昭和3年11月5日であった。

大正5年には米国人でブロンド美人のキャサリン・スチンソンという女性飛行士(25歳)が来日、青山練兵場の上空で宙返りを平然とこなしている。
当時、わが国では、宙返りは陸軍航空隊は禁止、海軍は自粛とされていた。
日本海軍航空隊が、いかに遅れていたか理解できよう。
このようなレベルの集団に、教導団は、急降下爆撃、空母着艦等を指導していった。
当時神業とされていた、宙返り反転射撃等のアクロバット飛行は、英国海軍航空隊パイロットにとっては必要最低限度のスキルとされていたのである。

海軍では、この兵学校の卒業序列(ハンモックナンバー)がその後の昇進に大きく影響した。

第一水雷戦隊旗艦「夕張」は大正12年7月に竣工したばかりの新鋭艦で、造船の鬼才といわれ、後に「戦艦大和」建造時の総括技術責任者を務めた造船中将・平賀譲博士の設計によるものである。
最大速力は35.5ノットを誇り、当時、世界が注目した艦である。

昭和4年10月24日、ニューヨーク株式市場が大暴落、世界恐慌が始まる。
一方、わが国には深刻な人口問題も生じていた。
明治30年頃まで日本の人口は4,000万人で、当時の米の生産量は約4,000万石で、国民一人当たりの年間の米の平均消費量は約一石一斗とされていたから、需給バランスはとれていた。
ところが、昭和10年代に入ると、人口は約6,860万人に達するが、米の生産量は5,750万石と、ほぼ限界に達しつつあった。少なくとも650万石を国外から調達しなければならなくなる。
残された道は、満州の開拓と、中国市場への進出であった。

終戦まで、海軍士官は婚姻に際して海軍大臣に申請し、憲兵が身元確認するという規定があった。この時代、こんな煩瑣な手続きを要するにもかかわらず、海軍士官と結婚することは若い女性たちの夢だったのである。
海軍士官は陸軍の将校と違って長髪が認められており、「女泣かせの海軍士官」と、揶揄されたほどだった。

1:補助艦艇保有率対米6割9分7厘5毛
2:大型巡洋艦保有率対米6割
3:潜水艦保有量52,700屯

昭和15年11月1日、海軍少佐・工藤俊作は駆逐艦「雷」の艦長として着任する。
身長185cm、体重95キロ、年齢39歳。
艦長としては珍しく眼鏡をかけており、柔和で愛嬌のある細い眼をしていた。
とても猛禽類のような目をした駆逐艦長のイメージではないのだ。
着任の訓示も「本日より、本艦は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。乗務員は目を白黒させる。

工藤は日頃、士官や下士官に「兵の失敗はやる気のあってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていた。しかも、酒豪で、何かにつけて宴会を催し、士官兵の区別なく酒を酌み交わす。柔道は三段で、得意技は跳ね腰。

「雷」は特型駆逐艦または吹雪型と呼ばれた。

昭和16年10月8月1日、米国は発動機燃料、航空機用潤滑油の対日輸出禁止措置を発表。
このとき、わが国の石油備蓄量は、海軍650万トン、陸軍120万トン、民間70万トン。
備蓄は半年分に過ぎなかった。
海軍は訓練だけで、一日最低1万トンを消費していた。
すべて米英の圧力を受けて、一滴もわが国に売ることはなかったのである。

その海軍も、こうなっては「開戦やむなし」に傾いていった。
「坐して滅びるより、いでて戦え」

哨戒中、見張りが流木を敵潜水艦の潜望鏡と誤って報告することがあった。
艦長はこの時、決して怒ることなく、「その注意力は立派だ」と、報告した見張りを呼んで誉めていたのだ。このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。艦長の指導の結果、見張りには、4,000m先の潜望鏡を識別できるベテランが続々と誕生する。当時、これほどの識別能力を確保していれば潜水艦の雷撃を充分回避できた。
「雷」の乗務員は、工藤を慈父のように慕い、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」と公言するようになっていた。

「艦長の好物は魚の光り物(サンマ・イワシ等)でした。ある時は、自ら兵員食堂に士官室の皿を持って来られ、『誰か、交換せんか』と言われるときもありました」

ライスシャワーの著書に
「日本人は視覚にある不思議な欠陥があって、そのためにヘタくそな飛行士になってしまうという。彼らはイギリスからもらった偶然に欠陥のある飛行機の原型を忠実に真似したので、その型の飛行機は一機も飛ばなかったようだ」

米航空専門誌『エビエイション』(1941年9月号)には、「日本のパイロットは、世界一の事故率を示し、日中戦争では中国のパイロットに劣り、航空産業は小規模で、航空技術はこれまた模倣一点張り」とさえ書かれている。
②パイロットに関しては、疑いもなく皆勇敢であるが、彼らの思考力は鈍く、かつイニシアティブに欠ける。

開戦にあたって、日本への脅威は3つあった。
その第一がハワイ真珠湾を根拠地とする米太平洋艦隊で、戦艦9隻、空母2隻、軽巡以下補助艦艇24隻を含む70隻の兵力である。米海軍は日米戦争が勃発すれば、内南洋マーシャル群島を経て日本本土に侵攻することを第一としていた。

第二がフィリピンのクラークフィールド、イバを基地とする米空軍で、新鋭戦闘機P40を175機、爆撃機(うちB17、35機)を擁していた。
当時、フィリピン、マレー方面で使用可能な零戦は約117機、しかもそれに搭載する20ミリ機銃弾の生産が遅れていた。零戦の左右の翼にはそれぞれ一つの20ミリ機銃と、胴体のエンジンの上に2つの7.7ミリ機銃が搭載され、20ミリ機銃には各45発の機銃弾が装填されていた。
とくに20ミリ機銃の威力は絶大で、一発でも敵機主翼に命中すると翼は吹っ飛んだという。

3つ目の脅威であるこの艦隊は、日本との開戦に備えて10月25日に英国を出港した。
いずれを撃ち洩らしても、オランダ領インド、ボルネオ方面からの日本への石油輸送ルートが遮断されるのだ。

「雷」の魚雷発射管3連装3基に装填されている90式61cm魚雷合計9発
特型は燃料タンクが小さく、燃料補給がネックであった。
「雷」の重油タンクの容量は481トン。
戦闘に備えて240トンは残しておかなくてはいけない。
14ノットの連続走行で5,000海里が限度であった。
特型は装甲が薄く、魚雷攻撃を受けると舷側を突き破り、反対舷の内側で爆発するというエピソードさえあった。

当時の93式酸素魚雷は性能では世界最強といわれ、速力50ノットで、射程2万m、炸薬量500キロといわれていたが、弾頭が鋭敏すぎて自爆するケースが多かった。
当時、列国の魚雷は速力20ノットで射程8,000m程度であった。

ところで、ほんの一部の最新鋭艦にしか冷房のなかった当時、赤道下の海戦では、太陽光で艦体が焼け、さらに戦闘行為で緊張するため、乗務員にかかる精神的負担は筆舌に尽くしがたいものがあった。「那智」では機関科の水兵が発狂し、奇声を発しながら前甲板から後甲板に向かって走り抜け、海に飛び込んで死んだ。

陸軍大臣・東條英機の名においてび「戦陣訓」
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」
米国では捕虜になって帰還した場合には、一階級昇進するのが普通。

ガダルカナル島での損失・・・
パイロット2,362人
航空機893機
艦艇、空母1隻
戦艦2隻
重巡3隻
軽巡2隻
駆逐艦12隻
潜水艦24隻

4月12日、米国ルーズベルト大統領が脳溢血で急死する。
鈴木貫太郎首相は、同盟通信を通じてその死を悼む談話を発表した。
当時、米国でこれを伝え聞いた亡命中のドイツ人作家トーマス・マンは、
「あの東方の国には、騎士道精神と人間の品位に対する感覚が、死と偉大性に対する畏敬が、まだ存在する」と、感動している。
早速、陸軍の青年将校がこれに抗議するため官邸を訪れたが、鈴木は、
「古代より、日本精神の一つに敵を愛するということがある。
私もその精神に則したまでです」と答えている。

鈴木首相は、突然起立して、こう発言した。
「これ以上、会議を繰り返しても、意見は二つに分かれるだけで何ら進展はない。この間、戦争犠牲者は増えるだけである。この際、恐れ多いことであるが、陛下のご意見を仰ぎたい」
そして、鈴木は、天皇に向かって深々と頭を下げた。
御前会議において、天皇から直接ご意見を賜るという、前代未聞のことである。

天皇はポツダム宣言を受諾する案を支持した後、統師部、とくに陸軍を批判し、また諭した。










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