
~先陣を切ったアメリカ陸軍空挺師団~
6月6日火曜日、Dデイ当日である。
午前1時半過ぎ、真っ先に降下したのがアイゼンハワーが直接激励したアメリカ陸軍第101空挺師団だった。約6,600名の隊員がいた。
安全に降下させるため、C47輸送機は時速150~175kmに減速しなければならなかったが、降下してパラシュートが開いた瞬間、降下兵たちは訓練時の数倍もの強い力で引っ張られた。
空挺部隊の多くがそれらを避けて海へ降りた。水を大量に吸ったパラシュートが自身に覆いかぶさって溺死する者が続出した。あるいは氾濫した川に落ち、同じく溺死する者もいた。
樹木や屋根に激突し命を落とす者もいた。なかにはパラシュートが制御できず、ドイツ軍陣地の真ん中に降りてしまい、地上からの銃火を浴び、絶命する者もいた。
無事に降下できた隊員も大半が道に迷って途方に暮れた。
彼らの間ではあまり人気がなかったが、お互いが味方であることを確認するため、指で押すとコオロギの鳴き声のような音を立てるクリケットと呼ばれた金属製玩具を持たされていた。
アメリカ第82空挺師団は「デトロイト作戦」を担った。
グライダーを曳航する輸送機に対空砲を撃ち込み、多数が撃墜された。それでも4分の3はどうにか着陸できたが、着地の際の衝撃によって、機内後方に積み込んであった火砲やジープが蔽いを突き破って前方に飛び、そこにいた乗組員から多数の死傷者が出た。
敵をさらに混乱させるため、イギリス空軍が「タイタニック作戦」を実行した。
40機の爆撃機を使い、接地すると爆発する案山子に似た布製のダミー降下兵にパラシュートを付けて降下させたり、アルミ箔を空にまいて敵のレーダーを霍乱させたりした。
ノルマンディーにおけるこうした動きは大規模な陽動作戦であり、上陸部隊の目標はパ=ド=カレーだ、と大半の指揮官に信じ込ませることに成功した。
~橋を確保した英空挺部隊の活躍~
イギリス陸軍第6空挺師団「トンガ作戦」
ジョン・ハワード少佐
「ペガサス橋」「ホルサ橋」の確保、「ハム・アンド・ジャム」
~海岸への上陸開始「Hアワー(攻撃開始時間)」
第一報は午前6時過ぎにやってきた。アイゼンハワーはベットに横になりながらも眠れず、お気に入りのキャメルをふかしていた。すでに4箱目だった。
報告によると、空挺部隊を運んだアメリカ軍輸送機850機のうち、撃墜されたのはわずか21機だった。イギリス軍の被害はもっと軽く、400機のうち行方不明は8機にすぎなかった。
「ネプチューン作戦」
使われた艦船は6,939隻。
内訳は戦闘艦船が1,213隻、上陸用舟艇が4,126隻、補助艦艇が736隻、商船864隻だった。
イギリス空軍第19沿岸防衛軍が活躍をみせ、Uボートをイギリス海峡に1隻たりとも侵入させなかった。
~最高司令官からのメッセージ~
出港してしばらくすると、各艦の艦長が艦内放送で何かを読み上げ始めた。
それこそ「上陸作戦を敢行する将兵に向けたアイゼンハワー最高司令官のメッセージ」であった。最高司令官が何度も推敲したに違いない、勇気を鼓舞するような直載な言葉に将兵たちは奮い立った。それから「最後の晩餐」になるかもしれない、ステーキやソーセージ、ドーナツ食べ放題の豪華な朝食に兵士たちが舌鼓をうった。
上陸用舟艇に乗り込みはじめたのは午前4時過ぎである。
上陸用舟艇が次々と海に下ろされた。
兵士たちは自分が乗っていた揚陸艇からはネットを伝って降りなければならなかった。
火炎放射器や無線機を持たされた兵士たちは、それだけで45キロもあったため、ネットを伝うのにも一苦労だった。
5つの海岸への攻撃開始時間(Hアワー)は潮の干満に合わせてそれぞれ決められていた。
アメリカ軍が担当するユタとオハマは午前6時30分
イギリス軍担当のソードとゴールドが午前7時20分
イギリス軍とカナダ軍担当のジュノーは右翼が7時20分、左翼がその10分後。
上陸援護の艦砲射撃開始時間はアメリカ軍が5時50分、イギリス軍が5時30分だった。
~血まみれのオマハ海岸~
5つの海岸のうち、最も激しい戦闘が繰り広げられたのがオハマ海岸である。
アメリカ第5軍隷下の第1歩兵団と第29歩兵師団の34,000名が割り当てられていた。
海岸から4.5キロ沖合いで、32両の水陸両用DD戦車が発進された。
激しい波にさらされ、27両がすぐに浸水して沈没、乗組員33名も溺死してしまった。残り5両のうち、3両は開閉扉が動かず戦車揚陸艇(LCT)ごと海岸に乗り上げてしまった。無事辿り着けたのはわずが2両だった。
上陸用舟艇が燃えさかる中、後ろから新たな舟艇がいくつも突っ込んでくる。
海岸には犠牲者が溢れていた。死体は潮の満ち引きで波打ち際を移動し、大波がくると丸太のように回転した。「われわれの武器の少なくとも80%は砂と海水のせいで役にたたなかった」
なぜオマハ海岸において、こんなにもアメリカ軍兵士の被害が多かったのだろうか。
真っ先に挙げられる理由は、その地形である。実は5つある海岸のうち、オマハがその対象に選ばれたのは最後だった。選ばれた時点で、その地形や地盤が弱いことなどから相当数の犠牲者が確実視されていた。少数の専門家が各海岸に夜間上陸を行い、車両の荷重に絶えられるかどうかを確認するため、砂地のサンプルを採取していたからである。
運の悪いことに、ドイツ第352歩兵師団の一部が、当日演習に向かうためこの海岸付近に偶然いたことも被害の大きさに拍車をかけた。
丘陵の最後部の高さはビーチから30mほどだ。視界は確かに非常によく、そこからやられたらひとたまりもないはずだ。浜辺を見下ろす草地には、「ビック・レッド・ワン」の記念碑や戦死者を追悼する白い石の記念碑が立っている。さらに奥には、アメリカ軍の墓地が広がっている。
ノルマンディー米軍英霊墓地
オマハ海岸
アメリカ第1歩兵師団第16連隊:連隊長・ジョージ・テイラー大佐
L中隊・I中隊・F中隊・E中隊
アメリカ第29歩兵師団第116連隊:連隊長・チャールズ・キャナム大佐
E中隊・F中隊・G中隊・A中隊・C中隊・レンジャー
テイラー大佐:「この海岸に残るものは既に死んだ者か、死にゆく者のみだ。
さあ、さっさとここから脱出するのだ」
「上にいるドイツ兵が顔が出せないよう、自動小銃で撃ち続けろ」
と命じると、別の兵士らを呼び寄せて、目の前の鉄条網の下に爆薬筒を何本も突っ込み、頃合いを見計らって点火させた。
艦砲射撃も奏功し始めていた。
海岸すれすれまで迫った駆逐艦の大砲によるものだった。
ドイツ軍陣地は壊滅的な打撃を被りつつあった。
~レンジャ部隊が死守したオック岬~
海岸からの高さが54mにもなるその断崖上にはコンクリート製の砲台があり、6基の155mm砲が格納されると見られていた。そこでジェイムズ・ラダー中佐率いるアメリカ第2レンジャー大隊の3個中隊計255名が海上から近づき、切り立った断崖をよじ登って砲台を制圧することになっていた。
上陸した255名のうち135名が命を落とした。
このオック岬の上には、ドイツ軍のトーチカ跡とともに、今でも艦砲射撃によって生じた無数の巨大な穴が残されている。
~夜には軍団司令部を設置~
12時30分までにオマハ海岸に上陸した人数は18,722名だった。
この日、オマハ海岸で上陸を果たそうとした兵士は34,250名いたが、うち2,000名強が師匠した。ドイツ側の死傷者は1,200名前後とされている。
この日、上陸部隊の中には、写真家ロバート・キャパの姿もあった。
作家アーネスト・ヘミングウェイもこれに続いた。
オマハ海岸とは対照的に、上陸が最もスムーズに進んだのが、隣のユタ海岸である。
ルーズベルトjr准将(じゅんしょう)
「改めて想定した地点に戻るなんて馬鹿げたことだ。我々はここから戦争を始めるんだ」
Dデイ当日における戦死・行方不明者は23,000名のうち200名に止まった。
実にオマハの10分の1であった。
◆急降下爆撃機による低空からの攻撃を防ぐため、ケーブルで係留された阻塞気球
==イギリス・カナダ軍の苦悶==
~新規開発された特殊戦車の活躍~
ゴールド海岸の攻撃を担当したのは、イギリス第30軍団傘下、グラハム少将率いる第50歩兵師団の25,000名だった。
ここでもDD戦車が使われたが、機甲連隊の咄嗟の判断は素晴らしかった。
「海岸からの距離が4,500mになったら投入せよ」という指示をあえて無視し、戦車揚陸艦の指揮官を説得して、海岸まで900mという近距離まで艦を近づけてから、発進させたのである。そのおかげで、溺死するDD戦車は非常に少なかった。
ゴールド海岸から上陸したイギリス将兵の死傷者は約400名だった。
ラヴァット卿ことサイモン・フレイザー准将というスコットランド貴族の末裔で、その傍らにはいつもビル・ミリンというお抱えのバグパイプ奏者が控えていた。ビルは海の中でもパイプを鳴らし、味方を鼓舞した。
第一特務任務旅団は内陸部へ進み、橋を守り続けている空挺部隊に合流すべく出発した。定刻の2分遅れで、ラヴァット卿はジョン・ハワード中佐と固い握手を交わしたのだった。
ソード海岸から上陸した将兵は29,000名であり、死傷者は600名だった。
多数のレジスタン組織の活動を総括していたのが、ロンドンにあったイギリス特殊作戦実行部(SOE)である。44年春の時点で、フランスにおけるレジスタンス運動の参加者は35万人にも上回るようになっていた。破壊工作といえば大掛かりなものを想像しがちだが、例えばドイツ軍がコンクリートをこねているミキサーの中に角砂糖をいくつか入れてしまうのも立派な破壊工作だった。カルシウムが酸素を吸って砂糖と化合すると、溶けやすいカルシウム糖酸塩が生じてコンクリートの粘着力を奪ってしまうのだ。見た目には変わらない、そうした「弱化コンクリート」が砲台やトーチカに使用され、そこに砲弾が命中すれば、いとも簡単に破壊されてしまうというわけだ。
Dデイにあたっては、特別な計画が準備されていた。
「緑計画」:フランス国内の駅舎や線路のポイントを破壊して鉄道を不通にさせる。
「亀計画」:ドイツ軍の補給車両が通る道に尖った鋲やガラスを撒いてタイヤをパンクさせる。
「紫計画」:ドイツ軍の地下ケーブルを切断する。
「青計画」:同じく高圧送電線を切断する
問題はこの手の「仕事」のリーダーたちにDデイの日取りをどうやって伝えるか、ということだった。その手段として選ばれたのがラジオだ。SOEは毎月1日、2日、15日、16日に、BBCのフランス語放送を通じて暗号化されたメッセージを出すことにした。
Dデイを知らせる暗号とは、詩人ポール・ヴェルレーヌの「秋の歌《落ち葉》」の冒頭だった。
「秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し」
この詩のうち、前半の(ためいきの、まで)が他の放送を中断して流された場合、「上陸作戦が近い」という印であり、後半が放送されると「48時間以内に作戦が始まる」印という、二重の暗号になっていた。
このからくりを、レジスタンス組織に入り込んだドイツ軍のスパイが嗅ぎ付け、国防軍諜報部長のヴィルヘルム・カナリス海軍大将に報告したのだ。カナリスはこの事実を情報部に最高機密として明かし、諜報部員たちにBBC放送に片時とも怠らず耳を傾けることを命じたのである。ラジオから耳を離さないという彼らの労苦は間もなく報いられた。
ドイツ第15軍の情報班が、この歌の前半を6月1日~3日の3日間に、後半を5日に聞き取ったのである。5日の放送は21時20分、22時、22時15分の3回もあった。
遅くとも7日の22時15分までに連合軍の大反攻が実施されることが明らかになった。
その重大ニュースを各上層部に伝えたが、何も起こらなかった。
第15軍だけが警戒態勢を敷いたが、ただそれのみだった。
「何がヴェルレーヌの詩だ。アイゼンハワーがBBCで上陸作戦の開始を宣言していないじゃないか」
事態が事態なので、ヒトラーの許可がなければ装甲師団を動かせないというルールを緩和し、必要な分をこちらに派遣してほしい、と懇願したが、「最高司令部管轄化の予備兵力を西方総軍が勝手に動かすことには強く反対する」と、あっさり拒絶された。
ノルマンデーの海岸に最も近い場所に駐屯していた戦車部隊は、カーン北方にいた第21装甲師団であったが、これで連合軍は少なくともDデイ当日はこの強力な敵に対峙しなくても済んだ。第21装甲師団は再編成されたロンメルのアフリカ軍団であった。師団長のエドガー・フォイヒテンガー少将は、Dデイ当日はパリで情事にふけっていた。
戦車を持つ強力な援軍ーー第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」--を派遣していただきたい、しかしいずれもなしのつぶてだった。
決断できるのは総統閣下おひとりのみ、その総統閣下がようやく決断を下したときは午後3時をまわっていた。
史上最大の作戦の初日、「最も長い1日:ザ・ロンゲスト・デイ」はこうして幕を閉じた。
Dデイ当日に連合軍がノルマンデーに上陸させた兵力は歩兵6個師団、空挺3個師団、コマンド2個旅団、そしてレンジャー1個大隊で、その数約13万人を超えた。その陰で9000名の死傷者がいた。
「連合爆撃作戦」::ドイツ空軍をおびき出して撃滅することを狙った。
「ポイントブランク作戦」::ドイツ空軍そのものの撃滅を目標
Dデイに向けて行われた戦略爆撃により、カーンから半径約200kmの距離にある飛行場が軒並み破壊され、ドイツ軍戦闘機や爆撃機が飛び立てないようになっていたのである。
実際、ドイツ軍空軍の損耗は甚だしく、Dデイ前夜における航空機総数は各戦線の爆撃機、戦闘機合わせて3,222機だった。それに対して、連合軍がDデイのために準備した機数は、重爆撃機5,112機、戦闘機5,409機、輸送機2,316機にも上った。そのうち出撃したのは11,590機に上る。人類の歴史で、かくも大量の飛行機が同じ目的をもって1日の間に飛び立ったことはない。
上陸船団護衛の役割を果たしたのが、
双発双胴の特異な外形で知られたアメリカ陸軍のP-38ライトニング、
上陸海岸における低高度防空活動に従事したイギリス空軍のスピットファイア、
高高度防空の任にあたったのがアメリカ陸軍のP-47サンダーボルト5個飛行隊であった。
イギリス軍の狙いは中核都市カーンの攻略であり、一方のアメリカ軍はコタンタン半島突端にあるシェルブール港の陥落だった。人工港「マルベリー」も英米作戦地域にそれぞれ1ヵ所ずつ聴築港されていたが、シェルブールが確保されれば、より多くの将兵や武器、軍備品の陸揚げが確実になるからである。
アイゼンハワーがノルマンデーの地を自らの足で踏んだのは、Dデイ翌日の6月7日のことである。地上部隊総司令官のモントゴメリー、アメリカ第1軍司令官ブラッドリーらと熱心に会話を交わした。
この戦いで露呈した問題がひとつあった。
それはイギリス軍のクロムウェル戦車がドイツ軍のティーガー戦車に至近距離で命中させたのにも関わらず、相手がびくともしなかったことである。事実、クロムウェル戦車は前進速度が速いという長所を備えていたが、車体前面がまっ平らで敵の攻撃に弱く、主砲も非力という短所があった。
ドイツ軍の強力な武器がまだあった。
戦車砲にも高射砲にも使われた88mm砲である。
射程距離が長く貫通力も強い。1,500m先にある150mmの装甲を貫通できたため、連合軍の戦車が発砲する前から、攻撃を仕掛け、そして敵を撃破する破壊力を持っていた。
MG42機関銃も優秀で、1分間に1,200発の弾丸を発射でき、イギリス製のブレン軽機関銃やアメリカ製のブローニング自動小銃よりもはるかに殺傷能力が高かった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます