先日のブラタモリ小樽編(11/14)は、面白かったですね。
ふたつの参道の秘密、街中に残る巨大な街づくりの痕跡、
小樽の街の魅力は街の急激な繁栄と衰退にあった!
驚きと楽しさ満載の街歩き・・・ふと4年前歩いた小樽の街並みを思い出しました。
あの時まわったルートは地図でみるとどんな感じ?
ブラタモリのルートとかぶる部分はあったかな??
ちょっと地図を見てみよう!
ってことで、4年の歳月を経て
「2011晩秋・小樽・秋のぶら歩き~坂と鉄道」を地図でたどりながらアップします。
※カシミール3Dスーパー地形使用・・・うぉぉ~迫力の地形描写!すばらしい♪
〇コース
小樽駅~小樽蕎麦屋 藪半~船見坂~手宮線跡~小樽総合博物館
公開したてのカシミール3Dスーパー地形を利用して
4年前歩いたルート(ライトグリーンのライン)と、ブラタモリ立ち寄りポイントの一部入れて
地図を描いてみました。
■明治の豪商の館の雰囲気を味わう
小樽・蕎麦屋・籔半(やぶはん) :小樽市稲穂2丁目19番14号 静屋通り
札幌からの日帰り旅、早めのお昼は小樽蕎麦屋 藪半にて。
明治期に建てられた回船問屋の豪邸の部材を移築したという内装
趣ある落ち着いた雰囲気でした。
「小樽蕎麦屋 藪半 物語」サイトによると、
弊店の現店舗は、昭和61年小樽市富岡一丁目にあった『伍楽園・旧金沢友次郎邸』
の売却・解体にともない、所有者の岡田愛子氏の御好意を得て豪邸のうち
母屋部材を移築し再利用し建てられました。
『伍楽園・旧金沢友次郎邸』は、明治37年(1904年)、函館・福島町出身の回船業・
金澤友次郎氏によって、小樽の別邸として建築されたもの。(※1)
とのこと。
富岡一丁目にあったという旧金沢友次郎邸の敷地は四百~五百坪ほどあり、
カトリック富岡教会あたりまで延びていたという。(※2)⇒富岡一丁目の範囲はこちら
〇富岡の地名の由来について
・・(当時は小樽で名をなした商人は競って、港を一望できる水天宮神社のある丘に、
そしてそこが手狭になると駅裏の小樽の街を一望できる丘を「富岡」と名付けて豪邸を建てたといわれます)・・(※3)
水天宮といえば、ブラタモリで紹介された新旧ふたつの参道の謎、
参道が物語る街の開発の歴史・・おもしろかったですね!(^-^)
〇通りを地図に入れ街の開発の歴史をみる
水天宮にあるふたつの参道、新設された参道をライトグリーン、古い参道を黄色のラインを入れ
さらにこちら(※4)を参照して、3本ほど通りを赤いラインで描き眺めてみた。
〇金曇通り(こんたんどおり)
信香会館から道道臨港線までの道路を「金曇通り」と呼ぶ。 この辺りは小樽で最も早く開けた地域で、黄金の輝きもここでは色あせて見えたほど栄えたといい、そこから金曇の名が付いたと言われている。 その賑わいも明治の中頃までで、その後、街の中心は次第に北(入船方面)へ移って行き、残されたのは往時の栄華の夢だけである。
南小樽駅東側、現在の信香町にある金曇通り辺りが最も早く開けた地域
明治中期以降、街の中心は北の入船方面へと移っていった。⇒現在の入船の範囲はこちら。
〇公園通り(こうえんどおり)
小樽公園から真っすぐに下がり、国道5号、花園第一大通りを横切り水天宮下までを結ぶ通りを「公園通り」と呼ぶ。「公園通り」は小樽公園や水天宮などの段丘と同じ小山であった。 明治末期までは火山灰を崩して造った悪路であったが、小樽港の繁栄と共に整備が進み、市内で最大の繁華街に変わっていった。 戦前までは、日暮れと共に道の両脇に露天が並び、小樽っ子の楽しみの場の一つであった。 大正の末期に小樽を訪れた北原白秋は「東京よりもにぎやかで、面白く・・・」と書き残している。 小樽が生んだ文豪 伊藤 整も、塩谷で摘んだバラを道ばたに並べ雑誌の出版資金を稼いだという。 1907(明治40)年函館から流れてきた石川啄木も、公園通りに面した煎餅屋の2階に間借りしていた。
街の中心が入船地域から花園方面へ移動、
ブラタモリでも紹介のあった、山の尾根を削ってできた新たな街の中心がこのあたり。
この通りに直結するように水天宮の参道も新設されたのだった。
〇浮世通り(うきよどおり)
公園通りと平行している1本札幌寄りの通りで、花園大通りから国道までの約200mの小路を「浮世通り」と呼ぶ。 この名前は戦前からあり、小樽の歓楽街の一つとして名を馳せたが、時代の流れと共に、一軒、また一軒と飲食店が姿を消している。 この通りを横切る通りにも飲食店が並び、この界隈一帯では200店近くの飲食店が密集しているものと思われる。 青江三奈が歌うご当地ソング「小樽の灯」の一節に「・・・生きて流れる花園あたり、浮世通りの灯にすがり・・・」とある。(※太字強調はブログ筆者によるもの)
・・・短い期間での栄枯盛衰、街の中心部が上へ(北へ)動いていく。
しかも山の尾根を削ってまで・・
なんだかものすごいエネルギーを感じます。
今後の参考に、こちらから以下ふたつの古地図のリンクをつけておきます。
・地図にある火防線という表記が気になって調べてみた。
火防線とは火災の延焼を防ぐために設けられる細長い空地をいうとのこと。
「おたる坂まち散歩 第10話 港を見つめる船見坂 前編」(※5)によると
明治37年・・・稲穂町で大火が発生しました。この大火により2000戸以上の家屋が焼失し、
火は坂のすぐ近くまで迫りました。この火事がきっかけとなって
駅前中央通りと龍宮通りとの中間に防火帯として、もう一本の道路を開削することになり
誕生した船見坂、この坂ができたことにより、三角山斜面一帯の開発が進み、
高級住宅地富岡が出現しました。(※5)とのこと。
明治37年といえば『伍楽園・旧金沢友次郎邸』が「富岡」に建てられた年、
富岡地区開発の初期に建てられたことになる。
「富岡」の表記は明治43年の「小樽港市街地圖 : 最近實測」にはなく、大正14年の「小樽港灣市街圖」に見られる。
・・・古地図を見ていると様々な発見と同時に新たな疑問がわいてきます。
当時の通りの名称も非常に興味深いものです。
次回は船見坂です♪
参考サイト:小樽蕎麦屋 藪半 物語 (※1)(※2)(※3)
・・・・金澤氏から誰に邸宅の所有が移ったのか、時期やいきさつなどの詳細は不明のようである。
あの坂あの道(※4)
おたる坂まち散歩 第10話 港を見つめる船見坂 前編 (※5)
使用ソフト:カシミール3D スーパー地形セット