エドルネ日記

散策、写真、サイクリング、バードウォッチング、神社、地形、料理、手芸、etc

アメ横周辺の古地図をみてみました。

2009-11-20 | お出かけ



にぎわうアメ横の街・・私の好きなスポットの一つ。
ぶらっとアメ横によって、買いものをしてきました。

いろいろなものが安い。魚屋の前はいつも活きのいい売り声が響く。

「そこのおねえさん」
とか
「そこのお嬢さん」

など、思わずにんまりしちゃうような声のかけられ方で、ついなにかしら買ってしまう。
(ま、安いですしね。)

ところで、このあたりって昔からにぎやかだったの??
よく来る割に、私としたことが、昔の地図を見てなかった。

早速、「明治東京重ね地図」を見てみる。



江戸時代の地図
目をひくのは、上野広小路とかかれている道が随分と広いことである。
上野広小路は、現在の中央通りでアメ横通りではない。アメ横は中央通りの東側となる。
まぁアメ横周辺の昔ということで、上野広小路を「江戸明治東京重ね地図」やネット検索などで調べてみた。

「上野寛永寺(かんえいじ)の門前町として発展した地区。明暦(めいれき)の大火(1657)以後、現在の上野公園入口から
松坂屋に至る道路を広げて火除地(ひよけち)とし、広小路とよばれた。
当時から沿道に食料品店、料理店などが並び、日本橋とともに江戸の繁華街であった。」(一部略 引用:百科事典引用




中央通りの松坂屋あたりから上が江戸時代の上野広小路、近くに銀座線の上野広小路と名のついた駅もある。

人文社の地図には上野広小路とあるが、成美堂の「江戸散歩東京散歩」には下谷広小路との異なった表記であった。
ネット検索で調べてると上野広小路は、かつて下谷広小路とも呼ばれていたらしい。

http://www.e-sampo.co.jp/column-senju1.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%BE%92%E7%94%BA%E9%A7%85

上野広小路は浅草・両国と共に三大広小路のひとつであり、露店や見世物小屋の開店が許可され、
にぎやかな繁華街であったことがわかった。

江戸時代もだみ声のにぎやかな売り口上など響いてたのかな。
で、当時の言葉で

「そこのおねえさん」とか
「そこのお嬢さん」とか

ご婦人がたには、みのもんたよろしくの声かけだったのかもしれませんね。






ちなみに今日の買ったもの。このほかに、鮭かま、ホッケ干物♪



ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2009-12-04 19:33:58
ご覧になったと思いますがブラタモリで本郷が紹介されました。私は浅野地区でロケに同行しました。斉昭の碑は出ませんでしたが、プロデュサーに書籍化の際は、碑の紹介をお願いしようと思います。
水戸藩からの景観を検討した論文書いていますので、できましたら送ります。


「ブラタモリ~本郷台地~」
> 12月3日(木)
> 22:00~22:43(総合テレビ)
> (再放送)
> 12月8日(火)
> 16:45~17:28(BS2)
> 12月10日(木)
> 16:05~16:48(総合テレビ)

返信する
コメントありがとうございます。 (エドルネ)
2009-12-05 10:04:26
先生にご案内いただいた東大浅野キャンパスの笹で覆われたが弥生二丁目遺跡出たときは「歩いた!歩いた!」とかTVの前でひとり騒いでいました。台地の歴史はほんとに面白く、実際歩く楽しさも感じました。当時はどんな景観だったのか・・水戸藩からの景観の論文楽しみです。(ただ素人の私にもわかる内容でしたらよいのですが)
返信する