四国は昨日梅雨に入りました。
それにピッタリ合わせたかのような雨。しかも、風強し。
ですが、朝突然に「あれを見とかんと~!!」と思い立ち、雨風を受けながらバス停に向かいました。
県立坂本龍馬記念館で開催中の
【『漂巽紀略』に見る万次郎の世界展】を見たかったんで~す。
そうです。万次郎とはジョン万次郎こと中浜万次郎のこと。
ジョン万のことを簡単に説明しますね。
1841年、万次郎と土佐市の船長たちを乗せた船が宇佐から漁に出ます。
その漁の途中で嵐に遭います。嵐で櫂などを流され、なすすべもないまま海流に流されます。
やっと陸地に辿くことができたのが、東京からずっと南にくだった断崖絶壁の鳥島でした。
万次郎はまだ14才でした。
無人島での極限生活が4カ月を過ぎた頃、沖を通る捕鯨船ジョン・ハラウンド号に奇跡的に助けられました。
漁師仲間の3人はハワイで下船することになりましたが、万次郎はアメリカに行くことを希望します。
彼の聡明さを見抜いていたホイットフィールド船長は、彼を養子にして一緒に暮らします。
そして英語、数学、造船、測量、航海術などを懸命に勉強しました。主席をるまでに。
アメリカでの生活がどんなに充実していても、日本に帰りたい思いは変わりません。
ところが当時の日本は鎖国をしていたため、遭難といえども外国人と接したとなれば、
容易に帰ることができない状況でした。
死罪覚悟で帰ることを決意した万次郎は、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコの
金鉱で数カ月間金を掘り、ハワイで別れた漁師仲間の分の資金を得ました。
ハワイ・ホノルルで懐かしい郷里の漁師仲間と再会します。
そして商船アドベンチャー号に乗り、上海経由で琉球に上陸をはかります。
薩摩藩に属していた琉球からの尋問のあと、薩摩本土での取り調べを数か月、
さらに江戸幕府の長崎奉行所での取り調べを受けた後、土佐藩からの迎えとともに土佐に向かいます。
最後に土佐藩の取り調べを受けました。帰国からトータルで、なんと1年半もの取り調べでした。
そして漂流から11年、1852年にやっと土佐清水の母や兄弟、郷里の人々に会えたのでした。
読むのも大変ですね。お疲れ様です。これでブレイクしてくださ~い。
(桂浜のお土産屋さんの柚子のソフトクリーム。美味でした♪)
そもそも11年を20行にすること自体に無理がありますよね~。
この土佐藩での取り調べの際に、記録係をしていたのが河田小龍(かわだ・しょうりょう)です。
『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』を書いた人です。
ジョン万の話をもっと聞こうと土佐藩の許しを得た小龍は、万次郎に読み書きを教え、
万次郎は小龍に英語を教えたのだそうです。そしてアメリカの情報に衝撃を受けます。
日本は鎖国、かたや異国の発展ぶり。蒸気船、巨大な軍艦、鉄道、電信…国民が選ぶ大統領。
これらの話を、画家でもある小龍が挿し絵をはさみつつ記したのが『漂巽紀略』です。
聞いたままで打ち棄てるには、あまりにもったいないと思われたということです。
それを見ることができるの!?ということで、雨の中行って来ました~
ちなみに、坂本龍馬は小龍に師事しており、小龍はこれらの話を龍馬に説いたんですね~。
船を買い、大海に出て「『貿易』によって異国に追いつく」こと。
すごいですね☆つながっているんですね。
ジョン万と龍馬は時代がちょっとズレていて、交わらないと思っていました。
ふたりが直接会ったという文献は残っていないようですが…どこかで会っていたと思いたいな。
この『漂巽紀略』は藩主に献上され、諸大名からも大変な評判となります。
貧しくて学校にいくことも叶わなかった万次郎は、階級を重んじる当時の日本では、
考えられない幕府の直参となり活躍します。
その中にフラをする私たちに関係する記述がありました。それは「カメハメハ」の文字!
ハワイのカメハメハ王に日本の政府の要人が謁見した際に、通訳として同席していたのでは
そして、そこで歓迎のフラが踊られたのではないでしょうか???
わぉ♪私たちにもつながった~!!!と(勝手に)ヒジョーに嬉しいのです
長いブログの割に最後のしめは簡単ですが、なにぶん付け焼刃なもので…すみません。
ジョン万のことは、①遭難して外国船に助けられた。②アメリカにわたった。③初めて日本に英語を伝えた。
というぐらいの浅~い認識でしたが、もうちょっと知っておこうと本を読んでみて驚きの連発でした。
みなさんにも、ジョン万のことを知っていただければと資料片手に書いてみました。
よければ坂本龍馬記念館にも行ってみてくださいね。会期は7月19日まででーす。
【付け足し】
『漂巽紀略』の「巽(そん)」は、東南の方向をあらわす。
「辰」と「巳」の間にあることから、巽は「たつみ」とも読まれるそうです。
ということで、『漂巽紀略』とは、東南で漂泊した記録ということになります。