22『自然と人間の歴史・日本篇』稲作の伝搬
さて、縄文期においては、その後の弥生期と時代区分を分かつメルクマールとして、採集経済から抜け出したかどうかを分水嶺と考えてきた。縄文末期には、西日本の一部の地域で原始的な水稲農耕も始まっていたのではないか、という研究が進められていたものの、決め手が見つからなかった。むしろその成果としては、縄文時代に、コメ以外の食料では、日本列島の様々な地域において、あまたの栽培の痕跡なりが発見された。備前の前池遺跡(現在の赤磐(おかいわ)郡山陽町)からは、ドングリなどの痕跡の残る貯蔵庫が発掘されているのも、その一つであろう。この辺りでは栗や粟(粟)や稗(ひえ)などの栽培も始まっていたことが知られる。縄文期の稲作は手掛かりが見つからない、そのことが長い間上代の歴史を語る上での「イロハ」になってきた。
さらにこれらに付随して、水産資源利用の増大など、新石器時代と共通する技術も育ってきていた。そうなると、縄文文化とは、自然環境の相違とそれによる適応形態の相違によって、打製による「旧石器」と、磨製による「新石器」が中期以降は重なり合っている。そのところでは、「「新石器文化」と呼んで差し支えないのではないか」とも言われ始めた。その頃はまだ、農耕を中心にした文明社会らしいものが形成されていなかった。
そこでの人々の暮しは、その日限りの原始的な生活が果てしなく続いていた時代であったのではないだろうか。その最終局面では、狩猟や採集を主な生業(なりわい)とする生活から、定住して穀物を栽培する方向へ歩み入れていく。現在までに、縄文期に入ってからとされる、最古の遺跡とされるのは、「太平山元1号遺跡(おおだいらやまもといちいせき)」(青森県外ヶ浜町、蟹田川左岸の河岸段丘上に立地する)であり、ここから出土した土器に付着した炭化物の年代測定を行ったところ、約1万6500万年前との結果を得たことになっている。これは、その時代に定住が始まっていたことの証になりうるのではないだろうか。
ところが、20世紀後半からの発掘で、縄文期に稲の部分的な栽培が行われていたことがわかってきた。かつ、水田や乾田での作物栽培が始まっていたことが分かり始めた。これまでのところ、この南北に細長い列島にコメがどこから、いつ、どのような形で伝わったのかは、必ずしも明確となっていない。そこでまず「古代日本米」のルーツから尋ねることにしよう。約9000年前の中国南部、揚子江流域では、イネの栽培が開始された事実に思い至る。一方、東南アジアでは陸稲の栽培があるので、ここちらからも、栽培の流入が伝わっているかも知れないと考えられるのではないか。この稲という植物は日本列島に自生していたものではない。稲作のルーツがどこにあるのかについて、ルース・ドフリース氏はこう説明している。
「今日、何十億人もの食生活を支える稲(米)はもともと、中国の揚子江流域の峡谷に自生しいた野草だった。稲の親戚にあたるこの野生種を、人間は時間をかけて遺伝的に種子が大きく、剛毛が少なく、収穫まで種子が茎から落ちない品種へと変えていった。黍(きび)や粟(あわ)などの雑穀類、大豆、モモも、遠い昔には中国の採集生活者たちが野生種を栽培化し、いまでは数多くの品種がそろっている。」(ルース・ドフリース著・小川敏子訳「食糧と人類ー飢餓を克服した大増産の文明史」日本経済新聞社、2016)
こちら側の発掘史料によれば、早くも紀元前2世紀くらいには、早くも九州北部で部分的にであれ、稲作が始まっていたであろうと主張する発掘があり、その話で賑わうきっかけになった新聞記事に、次のものがある。
「稲作の起源は東南アジアとする新説を、独立行政法人「農業生物資源研究所」(茨城県つくば市)のチームが発表した。人類がイネを改良してきた歴史を遺伝子で探り、最も原始的なイネを東南アジアに見つけだした。
同研究所の井沢毅主任研究員らは、ジャポニカ米「日本晴」の遺伝子を分析。2006年,稲穂が実っても米粒が落ちない性質を生む変異を見つけた。今月には米粒が幅広になる遺伝子変異を発表した。モチモチした食感を生む変異も1998年に複数のチームが報告している。井沢さんらは今回、これら3つの変異がアジア各地で栽培されてきたジャポニカ107品種で起きているかどうかを調べ起源に迫った。その結果、3つとも変異がない最も原始的なタイプがインドネシアなどで見つかった。日本では、3遺伝子のうち2つかすべてが変異していた。
ただ、こうした成果を支える遺跡は発見されていない。約1万年前の中国 ・長江流域の遺跡から大量の籾(もみ)が見つかり、稲作の起源として有力視されている。90年代初め、「ジャポニカ長江起源説」なるものを提唱した総合地球環境学研究所(京都市)の佐藤洋一郎教授は「東南アジアでは中国よりも古い稲作の遺跡はなく、考古学との整合性が今後の課題になる」と話している。」(2008年7月27日付け読売新聞、「稲作の起源 東南アジア説、農業生物資源研、選抜の歴史、遺伝子で追う)」より引用させていただいた)
次の関心事は、日本列島での稲作のルーツが主に中国で展開していた稲作であったとして、それがどのようにして伝わったである。こちらについては、中国大陸の北部、つまり華北の方から伝わったとする「北方説」が、華中方面から直接に伝わったとする「直接説」や、華南から伝わったとする「南方説」よりも伝わり方が自然である見られている。例えば、設楽博己氏の論考「縄文時代から弥生時代へ」岩波講座「日本歴史第1巻ー原始・古代1」は、この3説中の北方説においても、華北から朝鮮そして日本に至るルートと、山東半島から遼東半島(リヤオトンはんとう)を経て朝鮮半島そして日本に至るルートを採り上げ、後者が最も可能性が高いと推測した宮本一夫の所説を肯定し、次のように同説の根拠付けを試みておられる。
「・・・・・山東省棲霞県揚家圏遺跡のボーリング調査によって紀元前2500年ころの龍山文化の地層からイネの組織であるプラントオパールを多量に検出した。ほぼ同時に山東省謬州市趙家荘遺跡からは水田跡も発掘され、この説の正しさが裏付けられた。
重要なのは、もともと華北型のアワ・キビ農耕を主体とした多角的生業体系の地域に水田稲作が取り込まれていった点である。つまり、生業体系の華北・華中コンプレックスが山東半島南岸で形成され、それが朝鮮半島、さらに日本列島の農耕文化を規定していった可能性が考えられるのである。」(設楽博己氏の論考「縄文時代から弥生時代へ」岩波講座「日本歴史第1巻ー原始・古代1」)
以上が積み出し側からの史料だとすれば、受け入れ側にはどんな形跡が遺っているだろうか。幾つか紹介することにしたいが、まず2005年の岡山からの報告にこうある。
「縄文時代前期とされる岡山県灘崎町彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。
調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」(2005年2月19日付け『読売オンライン』より引用)云々。
ここにいうイネのプラントオパールは、イネ科植物の葉などの細胞成分ということで、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をさらに約3000年遡る可能性を示唆しているというのだが、この列島の稲の栽培に適した地域の所々において、あくまで数ある食料の一つとしてのイネの栽培が入ってきているということであろう。
もう一つ紹介しておこう。
「熊本県本渡市の大矢遺跡から出土した縄文時代中期(約5000~4000年前)の土器に稲もみの圧痕(あっこん)を確認したと19日、福岡市教委の山崎純男・文化財部長が明らかにした。全国最古のもので、縄文中期に稲作があったことを示す貴重な資料という。圧痕は、土器の製作中に稲もみなどが混ざって出来た小さなくぼみ。
作物が栽培された時期を特定する有効な資料で稲もみとしてはこれまで、岡山県の南溝手遺跡など縄文後期(約4000~3000年前)の圧痕が最も古かった。
九州の縄文土器を調査していた山崎部長は、大矢遺跡の土器群を電子顕微鏡で解析した結果、縄文中期の土器から1点、縄文後期の土器から1点の圧痕を確認した。ともに長さ約3ミリ、幅約1ミリだった。 水田稲作は長く、弥生時代に朝鮮半島から伝わったとされてきた。しかし、近年は縄文時代に陸稲を含む農耕があったとする説が認められつつあり、稲作の起源に注目が集まっている。
山崎部長はこれまで、熊本市の石の本遺跡など約10遺跡の縄文後期以降の土器からも稲もみやコクゾウムシなどの圧痕を見つけており「縄文中期以降に稲作があったことは確実。今後も縄文農耕の解明に努めたい」と話している。
西谷正・伊都国歴史博物館長(九州大名誉教授=考古学)の話
「縄文中期に稲作があったことを示す確定的な証拠。稲もみの圧痕という実物で確認しており、貴重な発見だ。」 (2005年7月20日付け読売オンラインより引用)
ここで発見された圧痕が、土器の製作中に稲もみなどが混ざって出来た小さなくぼみだと断定できるなら、稲もみとしてはこれまで、岡山県の南溝手遺跡など縄文後期(約4000~3000年前)の圧痕が最も古かったのを更新する発見ともいえ、これまたこれまでの縄文時代のイメージ(大まかに農耕は無かったとする)に何らかの変更を迫るものと
なっていくのかもしれない。いずれにしても、これらだけをもって、これまでの縄文時代の中期や前期に稲作が成立した、というまでには至っていないのではないか。ともあれ、これまでの理解が、考古学上の新たな発見によって全体的に混沌としてきているようである。
(続く)
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