新69『美作の野は晴れて』第一部、新たな出発3

2015-11-25 11:32:43 | Weblog
69『美作の野は晴れて』第一部、新たな出発3

 科学がまだ少ししか発達していなかった古代においては、いまとは比較にならない程に、足元や先の見えない不安が人々の生活の上に重く、広くのしかかっていたに違いない。それゆえ、人々の意識や生活は神話や占い、そして原始的で自然発生的な多神教を拠り所にすることが多くあった。その中での代表格はエジプトの太陽神であったろう。そこでの神々は、各々の来歴は種々雑多、姿も由来もさまざまながらも、いずれの神も母なるナイルの大河がもたらす農耕文明、人々の暮らしと分かちがたく結び付いているのであった。
 紀元前400年代から紀元7世紀頃にかけては、今日「世界の3大宗教」と呼ばれる宗派が特色のある教祖たちによって生み出された。旧い順から、釈迦の生まれた年は不詳で、2説がある。一説には紀元前463年~同383年、もう一つは紀元前565年~同485年)とされている。イエス・キリストの生まれは紀元前8年から4年頃、その死は紀元後28年頃とされる。そしてムハンマド・イブンの生まれは570年頃、その没年は632年のことであった。もちろん、かれら以外にも多くの宗教創始者が出現したに違いないのだが、今日の世界の主要な宗教としてはこの三つが代表できなものだろう。
 およそ2500年前の時代を生きた釈迦の故郷は、現在のネパールを流れるガンダク川西岸ルンビニである。当時のネパールは部族による小国家が乱立していて、彼はその一つ釈迦族の王の長男として生まれた。彼は、この地で結婚して子供もいたが、29歳の時、思うところあって出家した。当時のインドには、「沙門」という道を求めながら庶民に托鉢して暮らす生き方があって、インドでは今でも、宗派を問わず、出家者のことを「サドゥ」(善き人)と呼ぶ習慣が残っているらしい。一家の主であるにもかかわらず、家族はおろか、親戚縁者に相談することもなく、自らの意思で出家を断行した釈尊には、妻と実子のラーフラとがいたのであるから、現代風にいうと「家族を捨てた」ことになるのだろうか。それからはその頃の沙門がやっていた、ありとあらゆる苦行が彼の日課となっていくのだが、体が痛むばかりで、それが原因で心も苦しく、思うような成果が上がらなかった。あるとき、彼はそれまでの苦行を変えて自らの体をいたわりながら修行を続けていたところ、35歳で涅槃(ねはん)、日本の仏教風に言うと「悟り」を開いて「ブッダ」(目覚めた人)となることができた。こうして森をを出た釈尊は、五人の修業者たちがまだ苦行を続けていたのに出会い、彼らを相手に布教活動に入ったのであった。
 その時の有様は「転法輪経」によると、「道を修めるものとして、避けなければならない二つの偏った生活がある。その一つは、欲望に負けて翼にふける卑しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。この二つの偏った生活を離れて、心眼を拓き智慧を勧め涅槃に導く中道の生活がある」と説いて、初めての弟子を得たことになっている。
 彼の教義は、人生を生労病死(しょうろうびょうし)という苦しみの連続であると考えた。当時のインドでは、此の世に生ある者は、天(神の世界)、人(人の世界)、畜生(動物の世界)、餓鬼(飢えて苦しむ世界)そして地獄(苦しみの世界)という五つの世界を生まれ代わり、死に代わりし、これらの世界をゆきつ戻りつして、その輪廻転生(りんねてんしょう)から永遠に逃れられない。そのため、人はいわば未来永劫にわたって苦しみ続けなければならないと考えられていた。
 釈迦にとっては、その生死のサイクルから逃れる(解脱する)のが「涅槃」(ねはん)であり、それこそが人生の究極の目標なのであると。その成就のためには、輪廻の原動力となっている人々の煩悩を打ち消さなければならないというのが、彼の教えの根本精神であった。そのための処方箋の基本に仏法僧があり、そのための修行の体系が設けられた。これらのうち「サンガ」(僧団)というのは、僧侶(比丘)集団を意味しており、戒律を末永く、ひたすら守り、維持することで自己鍛錬を長い間積み重ねていくことが求められた。一般の人々は、この専門家集団である僧団(サンガ)のまわりに集まってもらい、そのことで仏陀の教えは社会に浸透していくことを考えていた。ここまでの彼の教義には、神秘的なところはなく、人間の上に君臨する神をも必要としていない。これらをして、「釈迦の仏教」が無神論であるというのも、頷ける。
 釈尊はその後、定住の家というものを持たずに布教活動にいそしむのだった。そして50年を経て、齢80にして病気で亡くなった。その行動と教義には一貫して神がかったところがまるでなく、また彼のつくった僧団という組織には階級というものがなかったといってよい。彼の死後、弟子達は方々から集まってきて、会議を大きいもので2回開いて、そこで法と僧の解釈の統一を試みた。そして、今日までその伝統をより忠実に守っているのは、実は中国、朝鮮、そして日本に伝わった大乗仏教の側にはなくて、大乗仏教側から「小乗仏教」と呼ばれている人々なのである。
 日本のような大乗仏教のみが栄えてきた土地にいると、このような仏教の有神論化の動きが見えなくなってしまう。例えば、浄土系の場合、中国から伝わったのは、念仏を唱えることにより極楽浄土に再生するというものであり、それを具現化したものが「西方浄土」にいる「阿弥陀仏」なのである。それは、キリスト教やイスラム教でいうような「絶対神」ではなく、人々をひれ伏させる力を持ったというよりは、もっと人々に優しく、無条件に包み込んで極楽浄土に誘ってくれるありがたいばかりの存在なのである。
 イエス・キリストは、ローマに隷属していたユダヤの国に生まれ、そこで長じて布教の旅に出ていた。行く先々で人々に対し説法を行い、しだいに信徒を増やしていくのだが、それにつれてユダヤ教の聖職者(特に『旧約聖書』における戒律に忠実で、日々の生活の中でこれを厳格に守っていこうというバリサイ派)たちと事あるごとに対立するようになっていく。中でも厳格なユダヤ教の立法に執着するパリサイ派の聖職者たちによる追求は執拗であった。
 例えば、囚われの女を連れてきて「この女は罪を犯している時につかまえられたので、モーセの律法によって石を撃ち殺すことにしたいが、どう思うか」と問い、「出エジプトの」の立役者であるモーセの定めたれる律法に違背しようものなら、彼の反対者達は、彼のことを愛国心なしの不心得者として公衆の面前にて断罪するつもりであった。対応に困ったであろうキリストは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言って、この罠にかかるのを避けた。あるいは、「カエサルに税金をおさめてよいだろうか、いけないだろうか」と問うた。これだと、もしイエスが「おさめた方がよい」と答えるのであれば、ユダヤの「庇護者」としてのローマに税金を納めることを国辱と考えていたユダヤの群衆を欺くことになる。この時、イエスは結局「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言って、ユダヤの大衆にも、ローマの官憲、そしてユダヤ穏健派にも反発を受けないように返答をした。
 さらに、安息日を巡っても騒動が持ち上がった。『旧約聖書』においては、安息日に労働をしてはならないことになっていると言い張る人々に対しては、それほどこだわる必要はないんだということを述べている。これについては、次のように、キリストはパリサイ派らと意見を異にしたことになっている。
 「2の23:ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。2の24:すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。2の25:そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。2の26:すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。2の27:また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。2の28:それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」(『マルコによる福音書』の第2章)。
 こうして、人々にとっての安息日というのは、単に労働を休む日ということではなく、その日をもって神を崇め、それを行動であらわすことに通じているのであった。
 いま一つ、この福音書は、キリストの人となりをこう伝えている。
 「3の9:イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。3の10:それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。3の11:また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。3の12:イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。ー中略ーイエスが家にはいられると、3の20:群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。3の21:身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。3の22:また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。3の23:そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。3の24:もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。3の25:また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。3の26:もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。3の27:だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。3の28:よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。3の29:しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。3の30そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」(『マルコによる福音書』の第3章)。
 それでも、当時のユダヤ社会の中で屈せずに布教を続けていたが、とうとう、キリストの反対者たちは「ユダヤ人の王」とイエスが自称しているとの噂をでっち上げ、これをネタにかれをユダヤ国家の反逆者に仕立て上げた。ユダヤ議会はイエスに死刑を判決し、事の政治的本質を知らない一般民衆の大方もそれに呼応して「イエスに死刑を」と声高に叫ぶのであった。ローマ総督の審判に際しては「カエサルのほかに、王はありません。・・・・・もし総督がこの者をゆるすなら、あなたはカエサルを愛さないことになりますぞ」との暗示で圧力をかけ、イエスを十字架にかけて処刑することを是認させたのだ、ともいわれている。
 こうしてキリストが無実の罪を着せられて死んだのを、かれの後継者たちは、キリストが全人類の罪を背負ったのたという教義にまとめあげた。ここにキリストは人類愛を貫いたのであり、その恩恵を受けた人々は、諸国民とは別の次元の、全知全能の神に自分たちの「原罪」の許しを乞う存在になったのではないだろうか。
 だからこそ、キリスト教のような一神教では、人々の現実が厳しければ厳しいほどに、「なぜ神は私たちを助けてくれないのですか」という声に対して、神の側からはこたえなくていい。というのは、やがて人々は、「このような苦難が続くのは、神が自分たちを試練に置かれているのだ。なんとなれば、自分達が神に対していまだに至らない存在であることに、あらゆる苦難の根源があるのだ」との結論に落ち着くのだから。
 イスラム教の始祖ムハンマドは、570年頃、アラビア半島の町のメッカで豊かな交易商人の子として生まれた。当時のメッカは、南アラビアと地中海を結ぶ交易路の中継地として栄えていた。誕生前に父を亡くしており、幼くして母も失い、孤児として祖父や叔父に育てられた。25歳になった頃、富裕な未亡人ハディージャと結婚した。その後は、中年になる頃までは安定した普通の生活をしていたようである。そんな彼は、ある時から洞窟にこもって瞑想にふけるようになった。40歳を過ぎた頃、彼はそこで神アッラーの使いの声を聴き、使命感に打ち震えた。布教活動で、彼は大商人たちによる富の独占を批判し、メッカ社会のあり方を民衆を大事にする方向へと変革する道に歩み出していた。そのため、彼と信徒への迫害は日増しに厳しいものになっていく。
 622年、ムハンマドは70余名の信徒とともにメッカの地を出て、メディナに移住し、た。以後、この地で死までの11年余りをイスラム教団の確立に専念した。メディナに彼を招いたのはアラブ人たちで、世俗の問題の調停にも長けていたムハンマドを部族間の内戦の調停者として迎えたことがある。当時のメディナにはユダヤ教徒もいて、ムハンマドを最後の預言者として認めなかったため、彼はしだいにユダヤ教徒と距離をとって独自の道を進んでいく。彼と彼の信徒が生き延びてゆくためには、一つの勢力をなしていくことが必要であった。当時のアラブでのその行動はきれいごとではすまされなかった。隊商を襲って斬り殺し、金品を略奪することでその力を蓄えることも度々あった、といわれる。この点については、いろいろな立場からさまざまに批評されてきており、その真意について未だに定説というものはない。ここでは、さしあたり次の引用を掲げておく。
「信徒らとともに故郷メッカを追われたムハンマドは、信徒らを食べさせる手段としてメッカの隊商を襲う決意をし、同郷人に刃を向けねばならなかった。苦渋の心境を救う意味でか、この啓示がムハンマドに下った。テロ奨励とは違う。問題になるのはジハード。「神のために奮闘努力する」が元来の意味。当初は教徒の義務とされ、征服戦争に向かったが、後世にまとまる教徒の義務「五行」からは外れた。11世紀後半以降になると、「ジハードは自我との戦い」と断言する神学者も現れ、大きな影響を与えた。イスラム圏は一般的には温厚な教徒の住む世界になった」(東大寺長老・森本公誠「」:「読売新聞」2015年2月20日付け、「一神教は不寛容なのか」より引用させていただいた)。
 同じアラブ人であっても、偶像を崇拝するメッカのクライシュ族とは3度に渡り戦い、一時停戦に持ち込み、和議を結んだ。こうして、戦っては和議を行い、また戦っては勢力圏を徐々に広げるという構図で、彼の教団はこの地域の有力な政治勢力としても成長していくのであった(平凡社刊「イスラム辞典」などより)。
 630年、ムハンマドは条約違反を理由にかれらを攻め、メッカを占領した。その時、彼は「カーバ」と呼ばれる立法形の囲いの周りに置かれていた偶像の目を弓の先で打った後に、撤去させ破壊させた逸話が残っている。いまでも、メッカへの信者の巡礼の最終局面では、そのカーバが人々の渦の中心にあることになっている。その教義によると、アッラーの他に神はなく、アッラーは神そのものである。ムハンマドはアッラーの使徒であること、また他のものを神と同等に崇拝してはならないと偶像崇拝を禁じていて、「神の唯一性」が全面に押し出されている。その神の啓示は、かれが632年に死ぬまでの二十数年間続いたことになっている。

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○○155『自然と人間の歴史・日本篇』室町政治の混乱(1392~1467)

2015-11-18 08:55:18 | Weblog

155『自然と人間の歴史・日本篇』室町政治の混乱(1392~1467)

 1392年(明徳3年にして元中9年)の明徳の乱後、山名氏の後釜には、赤松教政が美作守護に任じられ、赤松氏が美作を実質支配することになる。その9年後の1441年(嘉吉(かきつ)元年)には、播磨を本拠地とし、美作守護であった赤松満祐(あかまつみつすけ)が足利幕府の6代将軍足利義教(あしかがよしのり)を殺害する。その時のことを記した後崇高院伏見宮貞成親王の日記にこうある。
 「(嘉吉)元年六月、○(にじゅう)五日、晴。昨日の儀粗(あらため)聞く。一献両三献、猿楽初時分(はじまりじふん)、内方ど々めく、。何事ぞと御尋ね有るに、雷鳴かなど三条(実雅)申さるるの処、御後(おうしろ)の障子引あけて、武士数輩出て則ち公方を討ち申す。・・・・・赤松(満祐)落ち行き、追懸けで討つ人無し。・・・・・将軍書此の如き犬死、古来其の例を聞かざる事なり。」(後崇高院伏見宮貞成親王『看聞御記』より抜粋)
 この将軍誘殺事件の遠因だが、1427年(応永34年)、赤松義村の死後、当時の将軍足利義持が、嫡子の満祐から播磨の所領を召し上げて赤松一門の赤松持貞に預け置こうと画策した。持貞は間もなく別件で死罪に遭うという事件を引き起こす。そのため、赤松の力を削ごうとする話は頓挫した。足利義教が将軍になってからも、満祐の弟、赤松義雅(よしまさ)が義教の不興を買って所領を没収される。 

 これで赤松本家も、再度将軍家に所領を召し上げられそうな気配を感じた満祐が、先手を取って義教を手にかけたものである。なんとか京都を脱出し、領国の播磨に逃れた赤松満祐と総領家一門であるが、追討に熱心な山名氏によって激戦の末に滅ぼされる。山名は、明徳の乱で所領の美作を奪われた経緯があって、これの奪回と勢力拡張に向けて、一門が結束していた。幕府による赤松勢力の一掃はその後も全国で展開され、満祐の弟・則繁(のりしげ)に至ってはなんと朝鮮に渡って「倭寇(わこう)」として猛威を誇ったりしていたものの、帰国したところを幕府軍によって河内に滅ぼされた。一族の中には、追求を免れるため赤木姓を名乗る者も出る始末で、赤松の残党は全国に散り散りとなって、落ち延びたそれぞれの地域で土着していくのであった。
 将軍家が足利義勝へ代代わりとなってからまだ日の浅い1441年(嘉吉(かきつ)元年)旧暦9月、京の都の周辺に大挙して起こったのが「嘉吉の徳政一揆」と呼ばれる。その模様については、武伝奏万里小路時房が記した『建内記』に、こうある。
 「嘉吉元年九月三日・・・・・近日、向辺(しへん)の土民蜂起す。土一揆と号し、御(徳政)と称して、借物(しゃくもつ)を破り、少分(しょうぶん)を以て押して質物を請(う)く。・・・・・(侍所(さむらいどころ))多勢を以て防戦するも猶承引せず。・・・・・今土民等、代始めに此の沙汰は先例と称すと云々。言語道断の事なり。・・・・・(同十日)・・・・・今度土一揆蜂起の事、土蔵一衆(どぞういっしょう)先(まず)管領(かんれい)に訴え、千貫の賄賂を出す。」(武伝奏万里小路時房『建内記』より抜粋)
 この徳政、つまり「借金などの棒引き」を掲げる「土民一揆」が収拾される過程において、足利幕府としての、初めての徳政令が出されるのであった。なお、この時の管領は細川持之(ほそかわもちゆき)が務めていた。こうして幕府の権威は、いやが上にも衰亡の一途を辿り始める。
 同年、山名教清(やまなのりきよ)が久米郡に岩屋城(現在の久米町中北上)を築く。翌1442年、伯耆・因幡を本拠としていた、山名氏の一族である守護大名の山名忠政が津山の地に「鶴山城」を築いて、山名氏による支配が強まっていく。1467年(応仁元年)に応仁の乱が起こると、全国の武士の多くは東西の陣営に分かれて、その中にも群雄割拠の有様となり、赤松氏方の将・中村五郎左右衛門尉が、山名氏が上京した後をねらい、院庄に入る。以来、11年間の大乱が収まる頃の美作においても、族長たちは赤松方、山名方に分かれてひしめき合う状況となっていく。

(続く)

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新3『美作の野は晴れて』第一部、早春2 

2015-11-10 08:59:00 | Weblog
3『美作の野は晴れて』第一部、早春2

 3月下旬にもなると、美作の野は急に色あでやか、かつ賑やかになる。野や山麓に経っていると、若葉が風にそよいでいるところもある。ところどころの田圃には蓮華の花が咲いた。畑には、菜の花の黄色が広がる。菜の花は、とてもいいにおいがする。それらの花蜜を蝶や蜜蜂やテントウムシが吸いにくる。彼らは花にとりついては前足と口とをせわしなく動かしている。その蝶や蜜蜂やテントウムシを狙うカマキリや蜘蛛もやってくる。空高くからは、もっとも蜜蜂と同じ属の雀蜂がかれらの巣を狙ってくることもある。
 トカゲや雀は、土の中のミミズやダニの類をほじくり出して食べる。カマキリや蜘蛛を狙う時もある。なかなかどう猛な小動物だ。けれども、彼らには天敵がいて、それは『我が輩は猫である』のあの猫である。猫はトカゲや蜘蛛や鼠を食べる。猫がヘビやトカゲを口にぶら下げているのを何度か見たことがある。猫という動物は、どこか独立独歩の雰囲気を醸し出しつつ、生きているようだ。あくまでも「万物の霊長だ」と威張る人間に媚びへつらうことをしない。さすが、猫君である。ところが、今時のペットとしての猫君は、どうも違う野ではないかとも見える。我が家で飼ったことはないのでどういう挙動をするのか知らないが、その頃の田舎で目にいた猫はすべてが「放し飼い」なのであった。したがって、かれらはいろいろな獲物を狩りしていた。
 ところで、学校の砂場の中や土の中に隠した生き物を咀嚼した後の残骸をはき出しているのがよく見つかる。猫たちの糞はどうなるのか。それは、自分の縄張りのある区域の、その猫にとってのトイレに未消化のまま吐き出されていることが多い。我が家にいた大きな猫はたまに鼠やへびを加えていることはあっても、それを家に持ち込むことはできないように仕付け躾けていた。大きなお腹を上にして、天気のいいときは縁側で昼寝をしたり、冬の寒いときはこたつの上で丸くなったりしていた。いつも、ゆったりしていて、時折大きく口を開けてあけ、長いあくびをしている。彼の頭の中を覗いたことはないが、何を考えているのだろうか。朝晩の餌をやっていたので、『我が輩は猫である』ではないが、「飢え死にすることはない」と特別の心配はなかったものと見える。
 生物たちが死ぬと、自然の中のちっぽけな小さな死骸となる。すると、放っておくと彼らよりさらに小さい微生物たちが蝟集してきて、分解してしまう。微生物たちは、樹木や草花の落葉についても分解する。自然の循環は人間の目(肉眼)には見えない部分が多い。分解されなかったものは、その場所とか、川とかによって流された場所に堆積していったのだろう。生物たちが活動する場所もまた自然の連鎖の中にある。山や草むら、水田内や周辺の水路、沼や池、川などが生物を育んでいる。あるものは水の中に飛び込み、あるものは水の中から出て草むらに分け入り、またあるものは水にこだわって泳ぎ回っている。そこには、彼らのそれぞれの営みがあるのだ。この辺りの村に生まれた子供は、自然の営みを垣間見ながら育つ。大自然で生き残るためには、自らも強くならざるをえない。
 あれは小学校1~3年生くらいだった、早春の頃であったろうか。ある日のこと、学校で交通安全の講習会が開催されたことがあった。勝北町の交通安全協会の人たちだったのではないか。何人かで学校のグラウンドに来て、消石灰を引いてコースがつくられ、そこかしこに交通信号が並んだ。勝央警察署のお巡りさんも来ていて、その人の指示で「てきぱき」と準備が進んだ。
 交通安全教習が始まると、歩いていて死角のあることや、「右左右」の確認の必要性を学んだ。耳には、交通安全の歌が響いてくる。
「わたろわたろ 何見てわたろ
信号見てわたろ
赤青黄色 青になったらわたろ
赤はいけない 黄色はまーだだよ」 (作者を知らず)
 それを眺めながら、先生たちの表情が心なしか緩んでいるようだった。
 その頃の学級編成では、学年で2クラスが基本であった。それでも、「特殊学級」と呼ばれていた学級のあることが、なんとはなしに知られていた。少なくとも、欧米のような「挑戦者」(チャレンジャー)との呼称にはなっていなかった。
 あれは、小学5年生か、6年生のある日のこと、どなたかの先生が私に連いて来るように仰った。学校で一番大きな建物の中、講堂を挟んだ廊下の向こう側にある、その建物の2階に上るのは初めてだったので、「おおっ、こんな場所があるのか」と気持ちになって、なんだか胸が圧迫されるようなというか、何かしら緊張を覚えた。
 先生が私をそこへ案内する理由については、前もってこれといって伝えてもらっていない。ただ「ついて来なさい」ということではなかったか。先生からすると、たぶん、前もって説明するより、行ってみればわかる、とのことであったかもしれない。いまでも、その広い階段の様子を覚えている。分厚く広い板の階段であった。それまで登ったことはなかったようでもあるし、掃除当番で掃除したときに上がっていった気もする。こんなところに何があるのという、驚きの気分であった。
 広い階段を登りきると、直ぐのところにやや大きめの部屋があった。先生が扉を開けて入られ、私はその後ろから、先生にくっつくようにして中に入った。驚いた。教室の中には、普段見られない人たちがいた。何人かと目が合った。中にはほほえんでくれている人もいる。あちらも何人かの人はめずらしそうな視線に出会った。低学年まではクラスで一緒だった山中君(仮の名)の姿も見えた。
 知っている人を見つけたことで、私の頭の歯車がゆっくりと動き出した。平たく言えば、「ああここが...あの場所か。なるほど、そういうことだったのか」と合点がいった。そこで何をしたのか。しばらく居て、なにやら話しをして、それから、どのくらいその部屋に居て何をしたのかはわからない。いまじっと目を閉じると、あの頃はまだ自分の極々周りのことしか見えていなかった。病気で通常の授業についていけない人もいる。これは、自分のことを「一般」グループに数えているだけの者にはわからない。それからは、残念ながら心の奥底にしまい込んでしまった。

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