科学がまだ少ししか発達していなかった古代においては、いまとは比較にならない程に、足元や先の見えない不安が人々の生活の上に重く、広くのしかかっていたに違いない。それゆえ、人々の意識や生活は神話や占い、そして原始的で自然発生的な多神教を拠り所にすることが多くあった。その中での代表格はエジプトの太陽神であったろう。そこでの神々は、各々の来歴は種々雑多、姿も由来もさまざまながらも、いずれの神も母なるナイルの大河がもたらす農耕文明、人々の暮らしと分かちがたく結び付いているのであった。
紀元前400年代から紀元7世紀頃にかけては、今日「世界の3大宗教」と呼ばれる宗派が特色のある教祖たちによって生み出された。旧い順から、釈迦の生まれた年は不詳で、2説がある。一説には紀元前463年~同383年、もう一つは紀元前565年~同485年)とされている。イエス・キリストの生まれは紀元前8年から4年頃、その死は紀元後28年頃とされる。そしてムハンマド・イブンの生まれは570年頃、その没年は632年のことであった。もちろん、かれら以外にも多くの宗教創始者が出現したに違いないのだが、今日の世界の主要な宗教としてはこの三つが代表できなものだろう。
およそ2500年前の時代を生きた釈迦の故郷は、現在のネパールを流れるガンダク川西岸ルンビニである。当時のネパールは部族による小国家が乱立していて、彼はその一つ釈迦族の王の長男として生まれた。彼は、この地で結婚して子供もいたが、29歳の時、思うところあって出家した。当時のインドには、「沙門」という道を求めながら庶民に托鉢して暮らす生き方があって、インドでは今でも、宗派を問わず、出家者のことを「サドゥ」(善き人)と呼ぶ習慣が残っているらしい。一家の主であるにもかかわらず、家族はおろか、親戚縁者に相談することもなく、自らの意思で出家を断行した釈尊には、妻と実子のラーフラとがいたのであるから、現代風にいうと「家族を捨てた」ことになるのだろうか。それからはその頃の沙門がやっていた、ありとあらゆる苦行が彼の日課となっていくのだが、体が痛むばかりで、それが原因で心も苦しく、思うような成果が上がらなかった。あるとき、彼はそれまでの苦行を変えて自らの体をいたわりながら修行を続けていたところ、35歳で涅槃(ねはん)、日本の仏教風に言うと「悟り」を開いて「ブッダ」(目覚めた人)となることができた。こうして森をを出た釈尊は、五人の修業者たちがまだ苦行を続けていたのに出会い、彼らを相手に布教活動に入ったのであった。
その時の有様は「転法輪経」によると、「道を修めるものとして、避けなければならない二つの偏った生活がある。その一つは、欲望に負けて翼にふける卑しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。この二つの偏った生活を離れて、心眼を拓き智慧を勧め涅槃に導く中道の生活がある」と説いて、初めての弟子を得たことになっている。
彼の教義は、人生を生労病死(しょうろうびょうし)という苦しみの連続であると考えた。当時のインドでは、此の世に生ある者は、天(神の世界)、人(人の世界)、畜生(動物の世界)、餓鬼(飢えて苦しむ世界)そして地獄(苦しみの世界)という五つの世界を生まれ代わり、死に代わりし、これらの世界をゆきつ戻りつして、その輪廻転生(りんねてんしょう)から永遠に逃れられない。そのため、人はいわば未来永劫にわたって苦しみ続けなければならないと考えられていた。
釈迦にとっては、その生死のサイクルから逃れる(解脱する)のが「涅槃」(ねはん)であり、それこそが人生の究極の目標なのであると。その成就のためには、輪廻の原動力となっている人々の煩悩を打ち消さなければならないというのが、彼の教えの根本精神であった。そのための処方箋の基本に仏法僧があり、そのための修行の体系が設けられた。これらのうち「サンガ」(僧団)というのは、僧侶(比丘)集団を意味しており、戒律を末永く、ひたすら守り、維持することで自己鍛錬を長い間積み重ねていくことが求められた。一般の人々は、この専門家集団である僧団(サンガ)のまわりに集まってもらい、そのことで仏陀の教えは社会に浸透していくことを考えていた。ここまでの彼の教義には、神秘的なところはなく、人間の上に君臨する神をも必要としていない。これらをして、「釈迦の仏教」が無神論であるというのも、頷ける。
釈尊はその後、定住の家というものを持たずに布教活動にいそしむのだった。そして50年を経て、齢80にして病気で亡くなった。その行動と教義には一貫して神がかったところがまるでなく、また彼のつくった僧団という組織には階級というものがなかったといってよい。彼の死後、弟子達は方々から集まってきて、会議を大きいもので2回開いて、そこで法と僧の解釈の統一を試みた。そして、今日までその伝統をより忠実に守っているのは、実は中国、朝鮮、そして日本に伝わった大乗仏教の側にはなくて、大乗仏教側から「小乗仏教」と呼ばれている人々なのである。
日本のような大乗仏教のみが栄えてきた土地にいると、このような仏教の有神論化の動きが見えなくなってしまう。例えば、浄土系の場合、中国から伝わったのは、念仏を唱えることにより極楽浄土に再生するというものであり、それを具現化したものが「西方浄土」にいる「阿弥陀仏」なのである。それは、キリスト教やイスラム教でいうような「絶対神」ではなく、人々をひれ伏させる力を持ったというよりは、もっと人々に優しく、無条件に包み込んで極楽浄土に誘ってくれるありがたいばかりの存在なのである。
イエス・キリストは、ローマに隷属していたユダヤの国に生まれ、そこで長じて布教の旅に出ていた。行く先々で人々に対し説法を行い、しだいに信徒を増やしていくのだが、それにつれてユダヤ教の聖職者(特に『旧約聖書』における戒律に忠実で、日々の生活の中でこれを厳格に守っていこうというバリサイ派)たちと事あるごとに対立するようになっていく。中でも厳格なユダヤ教の立法に執着するパリサイ派の聖職者たちによる追求は執拗であった。
例えば、囚われの女を連れてきて「この女は罪を犯している時につかまえられたので、モーセの律法によって石を撃ち殺すことにしたいが、どう思うか」と問い、「出エジプトの」の立役者であるモーセの定めたれる律法に違背しようものなら、彼の反対者達は、彼のことを愛国心なしの不心得者として公衆の面前にて断罪するつもりであった。対応に困ったであろうキリストは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言って、この罠にかかるのを避けた。あるいは、「カエサルに税金をおさめてよいだろうか、いけないだろうか」と問うた。これだと、もしイエスが「おさめた方がよい」と答えるのであれば、ユダヤの「庇護者」としてのローマに税金を納めることを国辱と考えていたユダヤの群衆を欺くことになる。この時、イエスは結局「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言って、ユダヤの大衆にも、ローマの官憲、そしてユダヤ穏健派にも反発を受けないように返答をした。
さらに、安息日を巡っても騒動が持ち上がった。『旧約聖書』においては、安息日に労働をしてはならないことになっていると言い張る人々に対しては、それほどこだわる必要はないんだということを述べている。これについては、次のように、キリストはパリサイ派らと意見を異にしたことになっている。
「2の23:ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。2の24:すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。2の25:そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。2の26:すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。2の27:また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。2の28:それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」(『マルコによる福音書』の第2章)。
こうして、人々にとっての安息日というのは、単に労働を休む日ということではなく、その日をもって神を崇め、それを行動であらわすことに通じているのであった。
いま一つ、この福音書は、キリストの人となりをこう伝えている。
「3の9:イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。3の10:それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。3の11:また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。3の12:イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。ー中略ーイエスが家にはいられると、3の20:群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。3の21:身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。3の22:また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。3の23:そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。3の24:もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。3の25:また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。3の26:もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。3の27:だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。3の28:よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。3の29:しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。3の30そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」(『マルコによる福音書』の第3章)。
それでも、当時のユダヤ社会の中で屈せずに布教を続けていたが、とうとう、キリストの反対者たちは「ユダヤ人の王」とイエスが自称しているとの噂をでっち上げ、これをネタにかれをユダヤ国家の反逆者に仕立て上げた。ユダヤ議会はイエスに死刑を判決し、事の政治的本質を知らない一般民衆の大方もそれに呼応して「イエスに死刑を」と声高に叫ぶのであった。ローマ総督の審判に際しては「カエサルのほかに、王はありません。・・・・・もし総督がこの者をゆるすなら、あなたはカエサルを愛さないことになりますぞ」との暗示で圧力をかけ、イエスを十字架にかけて処刑することを是認させたのだ、ともいわれている。
こうしてキリストが無実の罪を着せられて死んだのを、かれの後継者たちは、キリストが全人類の罪を背負ったのたという教義にまとめあげた。ここにキリストは人類愛を貫いたのであり、その恩恵を受けた人々は、諸国民とは別の次元の、全知全能の神に自分たちの「原罪」の許しを乞う存在になったのではないだろうか。
だからこそ、キリスト教のような一神教では、人々の現実が厳しければ厳しいほどに、「なぜ神は私たちを助けてくれないのですか」という声に対して、神の側からはこたえなくていい。というのは、やがて人々は、「このような苦難が続くのは、神が自分たちを試練に置かれているのだ。なんとなれば、自分達が神に対していまだに至らない存在であることに、あらゆる苦難の根源があるのだ」との結論に落ち着くのだから。
イスラム教の始祖ムハンマドは、570年頃、アラビア半島の町のメッカで豊かな交易商人の子として生まれた。当時のメッカは、南アラビアと地中海を結ぶ交易路の中継地として栄えていた。誕生前に父を亡くしており、幼くして母も失い、孤児として祖父や叔父に育てられた。25歳になった頃、富裕な未亡人ハディージャと結婚した。その後は、中年になる頃までは安定した普通の生活をしていたようである。そんな彼は、ある時から洞窟にこもって瞑想にふけるようになった。40歳を過ぎた頃、彼はそこで神アッラーの使いの声を聴き、使命感に打ち震えた。布教活動で、彼は大商人たちによる富の独占を批判し、メッカ社会のあり方を民衆を大事にする方向へと変革する道に歩み出していた。そのため、彼と信徒への迫害は日増しに厳しいものになっていく。
622年、ムハンマドは70余名の信徒とともにメッカの地を出て、メディナに移住し、た。以後、この地で死までの11年余りをイスラム教団の確立に専念した。メディナに彼を招いたのはアラブ人たちで、世俗の問題の調停にも長けていたムハンマドを部族間の内戦の調停者として迎えたことがある。当時のメディナにはユダヤ教徒もいて、ムハンマドを最後の預言者として認めなかったため、彼はしだいにユダヤ教徒と距離をとって独自の道を進んでいく。彼と彼の信徒が生き延びてゆくためには、一つの勢力をなしていくことが必要であった。当時のアラブでのその行動はきれいごとではすまされなかった。隊商を襲って斬り殺し、金品を略奪することでその力を蓄えることも度々あった、といわれる。この点については、いろいろな立場からさまざまに批評されてきており、その真意について未だに定説というものはない。ここでは、さしあたり次の引用を掲げておく。
「信徒らとともに故郷メッカを追われたムハンマドは、信徒らを食べさせる手段としてメッカの隊商を襲う決意をし、同郷人に刃を向けねばならなかった。苦渋の心境を救う意味でか、この啓示がムハンマドに下った。テロ奨励とは違う。問題になるのはジハード。「神のために奮闘努力する」が元来の意味。当初は教徒の義務とされ、征服戦争に向かったが、後世にまとまる教徒の義務「五行」からは外れた。11世紀後半以降になると、「ジハードは自我との戦い」と断言する神学者も現れ、大きな影響を与えた。イスラム圏は一般的には温厚な教徒の住む世界になった」(東大寺長老・森本公誠「」:「読売新聞」2015年2月20日付け、「一神教は不寛容なのか」より引用させていただいた)。
同じアラブ人であっても、偶像を崇拝するメッカのクライシュ族とは3度に渡り戦い、一時停戦に持ち込み、和議を結んだ。こうして、戦っては和議を行い、また戦っては勢力圏を徐々に広げるという構図で、彼の教団はこの地域の有力な政治勢力としても成長していくのであった(平凡社刊「イスラム辞典」などより)。
630年、ムハンマドは条約違反を理由にかれらを攻め、メッカを占領した。その時、彼は「カーバ」と呼ばれる立法形の囲いの周りに置かれていた偶像の目を弓の先で打った後に、撤去させ破壊させた逸話が残っている。いまでも、メッカへの信者の巡礼の最終局面では、そのカーバが人々の渦の中心にあることになっている。その教義によると、アッラーの他に神はなく、アッラーは神そのものである。ムハンマドはアッラーの使徒であること、また他のものを神と同等に崇拝してはならないと偶像崇拝を禁じていて、「神の唯一性」が全面に押し出されている。その神の啓示は、かれが632年に死ぬまでの二十数年間続いたことになっている。
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