95『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の分裂と衰退
293年、ディオクレティアヌス帝が、それまでの広大無辺なローマ帝国を4分割する。300年、ローマ帝国の影響下にある古代ギリシアにおいて、ギリシアの神々への信仰が禁止され、人々はキリスト教に改宗となってゆく。
313年、ミラノ勅令で、ローマがキリスト教を公認する。330年、コンスタンティヌス帝が、都をコンスタンティノープルに移す。391年、テオドシウス帝が、キリスト教を国教にすえる。なお、ローマ帝国の治世は、ディオクレティアヌス帝が帝国を東西に別けてそれぞれに正帝と副帝を立てて以降、途中でコンスタンティヌス帝やテオドシウス帝が東西を統一し単独皇帝となっていた時期を除くと、殆どの期間は西と東に皇帝がいる状態となってきていた。
376年には、大きな試練がやって来た。西に向かって大移動してくるフン族の圧力から逃れようと、ゲルマン人の一派である西ゴート族が、フリティゲルンに率いられドナウ川を渡ってヨーロッパに侵入してくる。
アラン族など他のゲルマン人も合流していく。これに始まる波状的な動きを「ゲルマン民族の大移動」と呼ぶ。
378年8月には、ファレンス(東の正帝)の率いる東ローマ部隊はアドリアノープの近郊にさしかかっていた。ティアヌス(西の副帝)に率いられた西ローマ軍も、援助のため東進してきていた。
そんなおり、かれらは西ゴートの軍隊と遭遇し、迎え撃ったものの敗れ、ウァレンスは戦死した。これを「アドリアノープルの戦い」という。これにより、トラキア地方(バルカン半島東部)はゴート族の支配領域になる。
これ以後のギリシアは、東ローマ帝国の辺境の地位に甘んじることになっていく。393年、それまでギリシア人の心を結びつける絆の一つであったオリュンピア競技は、ローマ帝国皇帝のテオドシウスによって廃止された。
東ローマについては、首都コンスタンティヌポリス(現在のイスタンブール)の古名にちなんでビザンチン帝国と呼ばれ、広い意味でのギリシア世界の後継者となっていく。
395年、ローマ帝国そのものが東西に分裂する。402年には、西ローマ帝国のホノリウス帝は、首都をローマからラヴェンナに移した。
410年には、ローマはアラリック率いる西ゴート族にあ日間にわたり略奪され、455年にはヴァンダル王ガイセリックがこの地を占拠する。
529~533年になると、「ローマ法大全」が編纂される。797年、初の女帝エイレーネが即位する。フランク王のカールが、西ローマ帝国の皇帝になる。
参考までに、それから数百年後の姿に敷衍(ふえん)するならば、1204年、十字軍によりコンスタンティノープルが占領され、東ローマ帝国が滅亡する。1261年、コンスタンティノープルが奪回され、東ローマ帝国が復活する。1453年、オスマン帝国に敗北を喫し、ローマ帝国という名のかぶせられている国のすべてが滅亡するに至る。
(続く)
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94『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの五賢帝
紀元後になってからのネルヴァ(在位96~98)齢60を過ぎてから皇帝になった。この時代には、貴族たちがその面目を取り戻す。皇帝は、5人の貴族による経済委員会を設ける。そこで国家財政の赤字の縮減に取り組む。貧民救済にも乗り出す。ローマに穀物倉庫を造ったり、水道建設に努力した。
後継者には、人物本位を貫く。自分と血縁関係のない、スペイン出の将軍トラヤヌスを養子にして、後事を託す。
そのトラヤヌス(在位98~117)は、ローマの領土の拡大に執着した。101年には、タキア(現在のルーマニアあたり)を征服する。114年、トラヤヌス帝が東方に遠征を開始する。これのきっかけとなったのは、アルメニアがその西のパルティア王国に攻められたことだった。これを「パルティア戦争」という。
これに勝利したローマは、116年には、メソポタミア全土をローマ帝国の支配下におく。彼の治世においては、地方の発言は増大し、元老院の構成にも、ギリシア人やアフリカの市民の実力者が入っている。派手な出費は少なく、商業や土木事業を進めた。その治世を通じて、財政は概ね健全であった。
ローマの領土を最大にしたトラヤヌスの後は、親戚筋のハドリアヌス(在位117~138)が継ぐ。彼は、財政の強化に努めた。それまで国境は地帯をなしていたのを、砦を築いて線にしていく。領土拡張路線をやめ、帝国の中により多くの目を向けていく。ローマに巨大な建築パンテノンを造らせた。貴族との関係は、あまりよろしいものではなかったという。
ハドリアヌスの後は、アントニヌス・ピウス(在位138~161)が継ぐ。彼こそは、「賢帝」の名をほしいままにした。派手好みではなく、堅実なやり方で国を導こうとした。倹約と貯蓄に努める。自身の財産を国庫に寄付したのでも知られる。さらに、法制面での仕事につき、近山金次氏はこう評価される。
「法制を強化し、奴隷を殺せば主人も罪に問われた。また奴隷を虐待した主人はその奴隷を解放せねばならなくされたりした。もちろん、被放民は保護され、解放撤回のごときは無効とされた。この時こそ帝国の勢威が最高潮の時代であったと見られている。」(近山金次「西洋史概説Ⅰ」慶応義塾大学通信教育教材、1972)
その後に登場したのが、マルクス・アウレリウス・アントニウス(在位161~180)であった。その時代は、軍事遠征続きであった。163~166年には、東方遠征の指揮を弟に行わせる。ローマ軍は凱旋したものの、どうやら伝染病のペストを持ち帰った。167~171年の間も多民族との戦いが続く。弟が命を落としたりの苦労続きであった。戦争172~175年には、ドナウ流域で彼自身が指揮をとって転戦する。
この時、彼は有名な「瞑想録」を書いた。彼自身は、その前からストア学派の哲人としても知られていた。昼間は戦いの指揮を、そして野営してからは著述にいそしんだねものであろうか。その語りは、独特に違いない。その文面からも、なかなかの禁欲主義で、ともすれば憂いを秘めているかのようだ。例えば「この世において君の肉体が力尽きないのに魂が先に力尽きるというのは、恥ずべきことではないか」と考えた。
(続く)
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92『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(カエサルの暗殺まで)
紀元前60年には、カエサル、ポンペイウス、クラッススによる第一回三頭政治が成立する。紀元前58年、カエサルがガリアに遠征し、紀元前50年にこの地をローマが征服する。
紀元前44年、カエサルがガリアから反転してローマに向かう。元老院からは、カエサルの後任のガリア総督を任命し、コンスルに立候補したければローマに帰り届けるよう通告されるにいたる。
この時、カエサルは大いなる決断を下す。「もはや賽は投げられた」と言って、ガリアとイタリアの境、ルビコン河を渡ってローマ市街に帰り、首都を手中に収め、マケドニアに走ったポンペイウスを追ってこの軍をファルサロスの戦いで下し、元老院により終身独裁官になるも、独裁政治に反対する勢力により暗殺される。
紀元前43年、カエサル派のオクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる二回目の三頭政治が成立する。アクティウムの海で、アントニウスとエジプト女王クレオパトラの連合軍とオクタヴィアヌスの率いるローマ軍との戦いがあり、オクタヴィアヌスが勝利する。
紀元前27年のオクタヴィアヌスは、元老院により「アウグストゥス」の称号を得、事実上の帝政が始まる。アウグストゥスがヤヌス神殿の扉を閉める。紀元前27年、ローマがヒスパニアを征服する。紀元前6年、ローマがスカンブリ族以外のゲルマニアの征服にこぎつける。
紀元前の4年、ユダヤのヘロデ王が死ぬと、ユダヤ人の居留地で反戦が勃発した。当時のこの地域はすでにローマの支配下にあって、シリア総督のクィンクティリアス・ウァルスにより鎮圧される。
紀元後に移っての6年、ローマはこのユダヤを直接統治下におく。66年にも、ユダヤで反乱が起こる。79年、ウェスウィウス火山が噴火し、ポンペイなどが炎上した。火山灰などに埋もれていたこの都市は、現代に至って発掘作業が行われ、当時のこの都市の全貌が明らかにされつつある。
(続く)
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90『自然と人間の歴史・世界篇』奴隷反乱の頻発(スパルタクスの反乱など)
宿敵カルタゴを3度の戦役で下してからの古代ローマの外国制覇の夢には、果てしというものがなかった。破竹の勢いで侵略を行い、勝利すれば、多くの奴隷を得ることができた。
参考までに、第一次ポエニ戦争(紀元前264~同241)でのローマは、地中海西部の雄カルタゴと初めての武力衝突でシチリアを獲得する。ここで「ポエニ」とは、ローマからみたフェニキア人の呼び名から名付けられた。第二次ポエニ戦争(紀元前218~同201)でも、ローマはチュニジアのザマの戦いで勝利する。そして迎えた第一次ポエニ戦争(紀元前149~同146)において、ローマはカルタゴを滅ぼす。
その戦争奴隷達を取り込んで、ローマは古代奴隷制の最盛期を迎えていた。そんな中で、ローマの体制を揺るがす奴隷の反乱が起こってくる。
シチリア地方での奴隷反乱は、紀元前135~同132年に1回目のものが勃発する。その時、7万人もの奴隷たちが、いわば「奴隷王国」をつくろうとした。一時は、ミントゥルナエ・シヌエッサなどイタリア諸都市にも迫る勢いだった。第二次の反乱は、紀元前135~同132年であったが、その少し前の紀元前104年にも、ヌケリアとカプアでも大規模な奴隷反乱が起きたが、いずれも鎮圧される。
そして迎えた紀元前73年の春、歴史に一際名高い奴隷反乱が起こる。その主役は、なんと剣闘士奴隷であった。これのリーダー格を任じたのが、トラキア、すなわち、バルカン半島の南東部、現在のブルガリア、そこでは小王たちが乱立している、ギリシャ・ローマの都市の世界とは異質な、部族社会であった、そこの出身のスパルタクスであって、自由の身になろうと、200人くらいの仲間と一緒に脱走を試みる。
記録によると、そのうち74人が脱出に成功し、足を伸ばしてヴェスヴィオス山に立てこもる。そこをめがけて、イタリア半島の各地から自由を求める奴隷が集まってくる。
ローマは、これを潰そうと軍団を派遣するものの、撃退される。当時のローマ軍団の主力は、征服戦争なりで他国や国境に出掛けていて、手薄であったため、その虚をつかれた格好であった。
そもそも、「当面の時代については、序章でも述べたように、スペインの奥地といい、小アジアの奥地といい、バルカン半島北部といい、都市化の進んでいない多様な世界でローマ権力に対する反抗がもりあがったのが、ローマの直面した危機の一つの特徴だった。」(吉村忠典「古代ローマ帝国ーその支配の実像」岩波新書、1997)
それからの奴隷反戦軍は、一説には7000人ともいわれるまでに力を増しながら、ノラ、ヌケリア、トゥリイ、メタボンドを占領した。6月のこのあたりは収穫の時期であって、多くの奴隷が収穫物を持って駆けつけた。兵力は2万人にも増える。それでも、彼らは自力で必需品の多くを、周囲の村落から略奪しなければならなかった。
その最盛期には、6万人もの兵力に達したという。ルカリアを中心に勢力を維持しつつ、キリキアの海賊と連絡をとったりしていたが、やがてイタリア半島を南下していく。
そこへようやく態勢を整えたクラッスス(貴族)率いるローマ正規軍が迫ってくる。それからの間を「めくるめくストーリイ展開」というのは、あながち間違ってはいまい。両軍は、ついに相まえ、決戦の時を迎えるのであった。
だがしかし、奴隷軍は何故かゲリラ線に徹することをしなかった。正面から立ち会っては、奴隷軍にもはや勝ち目はなかった。奴隷軍は総崩れとなり、乱戦の中スパルタクスは戦死を遂げる。捕虜となった6000人余は、後にアッピア街道沿いにはり付けられて息絶えたという、かくも凄絶(せいぜつ)な結末であった。
(続く)
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278『自然人間の歴史・世界篇』空想的社会主義
「空想的社会主義」という言葉は、なかなかの命名だといえよう。かれらの説に批判的検討を加えたのはフリードリヒ・エンゲルスとマルクスであり、例えば、こうある。
「三、批判的・空想的社会主義および共産主義。(中略)本来の社会主義的および共産主義的諸体系、すなわち、サン・シモン、フーリエ、オーウェン等々の体系は、われわれがまえに述べた、プロレタリフ階級とブルジョア階級との闘争の最初の未発達な時期にあらわれる。
これらの体系の創始者たちは、なるほど階級の対立を、また支配階級自身のなかにある解体的要素の活動を見る。しかしかれらは、プロレタリア階級の側に、歴史的独立性を、独自の政治的運動を、まったく認めない。
階級対立の発展は工業の発展と歩調を一にするであるから、そのため、かれらは、プロレタリア階級解放のための物質的諸条件をほとんどまったく見出すことができなかった。そしてかれらは、この諸条件を作り出すために、一つの社会科学をさがしもとめた。
社会的活動の代わりに、かれら個人の発明的活動があらわれざるをえない。解放の歴史的諸条件の代わりに空想的諸条件が、次第に行われる階級へのプロレタリア階級の組織の代わりに、自分で案出した社会の組織があらわれざるをえない。」(マルクスとエンゲルス著、大内兵衛と向坂逸郎訳「共産党宣言」岩波文庫、1946)
サン・シモン(1760~1825)は、フランスでも高位の貴族の家庭に生まれる。16歳の時、ラファイエットの義勇軍の士官として、アメリカ独立戦争に参加する。同時に、合衆国の産業階級の勃興に感銘を受けたらしい。フランスに帰国してからは、社会の基礎は産業であり、資本家と労働者は対立する関係ではなく、愛し合うべきだ、などと唱える。彼のいう「疎外された労働」を、「自由な労働」に転化することだけが先走りし、社会の物質的生産関係の根本的変革に結びつける認識が希薄であった。
またシャルル・フーリエ(1772~1837)は、フランスの裕福な商人の家に生まれる。幼年時代には家業になじめなかったが、9歳の時に父を亡くし、彼は家業を継ぐ。やがては、ブルジョア社会の悪弊を厳しく攻撃し、思想家として身を立てようとなっていく。
フーリエは、農業を重視するのが持論であった。そこでの「ファランジュ」という自給自足の共同社会を描いた。すでに資本主義の足音が高まりつつある中、独特の社会発展論を唱えた。
さらにロバート・オーエン(1771~1858)は、イギリスの生まれ。実業家として当時のイギリス社会に広く知られる。具体的には、スコットランドのニューラナークにおいて、紡績工場を経営する経営者であり、労働者に労働させる側の立場にあったが、労働者の労働条件の向上を目指して色々な事を試みる。
協同組合を作るなどの拾い視野での事業も提案するのであった。さらにオーウェンは、労働者の理想的な共同体(ニューハーモニー村)をアメリカで作ろうとした。しかし、新たな試みは、成功するには至らなかった。
そのオーエンには、「社会変革と教育」と題される一連の論文集があり、たとえばこの中の「ラナーク州への報告」では、「人的利益中心原理は、巨大なおもしのように、このうえなく貴重な能力と性質をおさえつけ、人間がどんな力を発揮しようとするさいにも、誤った方向を指示するものであります」とした上、新しい社会をこう提唱している。
「現在の制度のもとでは、労働者階級の諸個人の精神的能力と肉体労働とは、とてもはっきりと分割されております。(中略)ところで、私がいま述べようとする細目の案は、それとは反対のことをやらせることを考え方にもとづいて工夫されています。
その考え方というのは、労働者階級の諸個人の広い範囲にわたる精神力と肉体力を結合し、私的利益と公共的利益を完全に一致させ、それからまた、諸国民を教育し、自分の国との国力と幸福が平等に増大しなくては十分に本来の姿で発展することができないものだと納得させていく、そのような原理なのであります。」(ロバート・オーエン著、渡辺義晴訳「社会変革と教育」明治図書出版、1963)
さらに、ピエール・ジョゼフ・プルードン、1809~1865)は、私有財産をめぐっての不平等を問題にした。しかし、人間労働の疎外を克服するには、私有財産の積極的止揚が必要だという脈絡が明確ではなかった。そのため、まかり間違えば、富裕者へのねたみから、すべてを均等化しようとし、人格や能力差すら否定されかねないのであった。
(続く)
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87『自然と人間の歴史・日本篇』鎮護国家(行基と土木事業)
こうした仏教を精神的中核とする鎮護国家の体制づくりに関わった者に、行基(ぎょうき)がいる。彼は、この時代の朝廷と民衆との間を行き来しつつ、それまでの日本史で比類のないような土木事業に才能を発揮した。その行基は、668年(天智大王7年)に河内国(現在の大阪府堺市)に生まれた。父母に両方とも百済からの渡来の士族であって、特に、父は高志氏(和泉の国)は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族であったという。
15歳にして出家し、道昭を師として法相宗に帰依する。24歳のときに受戒し、はじめ法興寺に住し、のち薬師寺に移る。それでも飽きたらずやがて山林修行に入り、一般の僧とは別の道を歩んでいく。37歳の時、思うところあったのか、山を出て民間布教を始めたとことになっている。どこぞの寺にこもって修行したり、檀家の人達へ仏事を与えたりするよりも、弟子たちを率いて、諸所の要害の地に橋を造り、場防を築くなどの社会事業にこそいそしんだ。人々は、進んで彼の元にやってきて仕事に協力したので、大いに事業が進んだらしく、人心掌握は並外れていたらしい。
けれども仏教界の中では異端視され、長らく不遇の時を過ごした。710年(和銅3年)の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発した。行基はこれら逃亡民に救済の手をさしのべ、行基の下で私度僧となることで食べていけることになっていたらしい。
717年(霊亀3年)になると、元正天皇の時の朝廷から、「小僧行基」と名指しで非難され、その布教活動を禁圧される。この時の詔は、こう伝わる。
「いま小僧の行基とその弟子たちは、道路に散らばって、みだりに罪業と福徳のこと(輪廻説に基づく因果応報の説)を説き、徒党を組んで、よくないことを構え、(中略)家々をめぐり、いい加減なことを説き(中略)人民を惑わしている。(中略)今後このようなことがあってはならない。このことを村里に布告し、つとめてこれを禁止せよ」(『続日本紀』)。
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は、主として畿内の人民大衆と結びつきを強めることで、生き延びていく。723年(養老7年)に三世一身法に発布されると、彼とその技術集団は、各地の土豪や農民などによって招かれるようになっていく。731年(天平3年)、朝廷は61歳以上の優婆塞と55歳以上の優婆夷の得度を許す。
続いての740年(天平12年)頃までに、行基は薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認められる。それからの彼らは、恭仁京の造営から東大寺の大仏建立に至るまでの、数多くの政府事業の担い手となっていく。
745年(天平17年)には、聖武天皇が紫香楽宮において行基を大僧正に任じた。747年(天平19年)には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに新薬師寺の建立を命じる(『東大寺要録』)。その2年後の749年(天平21年・天平勝宝元年)旧暦1月、行基は聖武天皇に戒を授けるのだった。その2月、菅原寺(喜光寺)東南院で世を去る。釈迦死去の時と同じく右脇を下にしながら、眠るが如き平凡な様子で逝ったと伝わっている。鎌倉時代に、行基の骨壺が発見され、これを保護した胴筒の側面に一代記が記されてあったことが伝わっている。
そのことが『大僧正舎利瓶紀』(唐招提寺蔵)にまとめられていて、当該の全文も収録されているのだ。奇遇というべきだろうか、この胴筒の破片のみが現存している。この部分は「行基墓誌残欠」(749年(天平21年))として、旧法の「重要美術品」のままで伝わっている。
その形が不自然なことから((朝日新聞、2015年2月28日付けに写真が掲載)、原文本来の当該箇所である「聖朝崇敬法侶歸服天平十七【年別】授大僧正之任竝施百戸之封于【時僧綱已備特居其上雖】然不以在懐勤苦彌【まだれに萬】寿八十二廿【一年二月二日丁】酉之夜右脇而臥正念如常奄終」のうち、「年別」、「時僧綱已備特居其上雖」そして「一年二月二日丁」のみしか読み取れない。ちなみに、行基の没した年は東大寺大仏の開眼会の3年前のことで、鋳造の佳境を迎えていたことだろう。
(続く)
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85の2『自然と人間の歴史・日本篇』鎮護国家(大仏の造営、743)
そして迎えた743年(天平15年)、聖武天皇が『盧舎那仏造顕の詔』を発布した。
「朕(ちん)薄徳(はくとく)を以(もち)て、恭(うやうや)しく大位を承(う)く。志(こころざし)兼済に存して勤(つと)めて人物を撫(ぶ)す。率土(そつと)の濱(ひん)、既に仁恕(じんじょ)に霑(うるお)うと雖(いえど)も、而(しか)も普天(ふてん)之下(もと)未だ法恩に洽(あまね)からず。
誠(まこと)に三寶之威霊に頼りて、乾坤(けんこん)相泰(やすら)かに、萬代之福業を修めて、動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。粤(ここ)に天平十五年歳次癸(みずのえ)未十月十五日を以て、菩薩の大願を發(おこ)して、盧舎那佛金銅の像一躯(いっく)を造り奉(たてまつ)る。國銅を盡(つく)して象(かた)を鎔(と)かし、大山を削りて以て堂を構え、廣く法界に及(およぼ)して、朕が知識と為し、遂に同じく利益(りやく)を蒙(こうむ)りて、共に菩提を到さしめん。夫れ天下の富(とみ)を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢(いきおい)を有つ者は朕なり。此の富勢を以て、此の尊像を造ること、事の成り易(やす)くして、心は至り難し。
但し恐らくは徒(いたずら)に人を労(つから)することありて、能く聖を感(かまく)ること無く、或いは誹謗(ひぼう)を生(おこ)して、反(かえ)って罪辜(ざいこ)に堕せんことを。是の故に、知識に預(あずか)かる者は、懇(ねんご)ろに至誠を發っして、各(おのおの)介福(おおいなるふく)を招き、宜(よろ)しく日毎に盧舎那佛を三拝し、自(おのずか)ら當(まさ)に念を存し、各(おのおの)盧舎那佛を造るべし。
如(も)し更(さら)に、人の、一枝(ひとえだ)の草(くさ)、一把(ひとにぎり)の土(ひじ)を持(もち)て、像を助け造らんことを請願するものあらば、恣(ほしいまま)に之を聴(ゆる)せ。国郡等の司、此の事に因(よ)って、百姓(ひゃくせい)を侵(おか)し擾(みだ)して、強(し)いて収斂(しゅうれん)せしむること莫(なか)れ。遐迩(かに)に布告して、朕が意(こころ)を知らしめよ。」
彼がこれを発表した地は、当時都であった山背国の恭仁宮(くにきょう)ではなく、紫香楽宮(しがらきのみや)であった。当時は天変地異による凶作や伝染病の蔓延などが相次いでいた。これらが天皇を憂えさせ、大仏造営を決意させる。とはいえ、詔の後段に「夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕(われ)なり。天下の勢(せい)を有(たも)つ者も朕なり」とあるのは、いかにも傲慢に過ぎる。
7世紀まで重きをなしていたであろう「和を以て尊しとなす」の政治方針からも、大きく乖離している。文字通り、権力者の上から目線の言葉と受け取れる。むろん、処々の工事を請負い、また労働に従事させられたのは臣民に他ならなかった。大仏が完成したのは752年、孝謙天皇の治世のことであった。
造立されたのは盧舎那仏(るしゃなぶつ)といい、大乗仏教経典『華厳経』に出てくる、あの太陽の化身にして、宇宙大のスケールを持つ。一説には、座った高さが釈尊の身長の10倍することを見込んでいたことから、15メートルもの巨人に仕立て上げられたのだとも伝えられる。
国家の事業面では、752年(天平勝宝4年)、聖武天皇の発願(ほつがん)から約9年の後、東大寺の大仏が出来上がる。大仏に塗るための黄金が陸奥国(むつのくに)から朝廷に貢納され、これを施して光り輝いたことだろう。この「盧舎那大仏の開眼供養」、つまり開眼会(かいがんえ)の模様が、『続日本紀』の「天平勝宝四年夏四月乙酉」の条に、こう見える。
「盧舎那大仏の像も成りて始て開眼す。この日東大寺に行幸す。天皇みずから文武百官を率い、斎を設けておおいに会せしむ。その儀もはら元日に同じ。(中略)僧一万を請ず。すでにして雅楽寮及び諸寺より種々の音楽並びにことごとく来集す。また王臣諸氏の五節、久米舞、楯伏、踏歌、袍袴等の歌舞、東西より声を発し、庭を分ちて奏す。作す所の奇偉あげて記すべからず。仏法東帰より、斎会の儀いまだかって批の如くの盛なること有らざるなり。」
(続く)
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48の1『自然と人間の歴史・日本篇』鎮護国家と地方(国分寺・国分尼寺建立へ)
さて、美作から歩いて2泊程度旅したところに出雲があるのではないか。『出雲風土記』には、出雲の土地とか川とか、産物とかが詳しく述べられている。その出雲の、八雲山(やぐもやま、同記には「須賀山、御室山」として登場する)を背にした辺りには出雲大社が建てられている。
『古事記』のすさのおの命の歌「八雲立つ出雲八重垣つくるその八重垣を」の最初の和歌を詠んだ、という伝承にあやかり、『古今集』の仮名序にこうある。
「ちはやぶる神世には歌の文字も定まらず、すなほにして、言の心わきがたかりけらし。人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字余り一文字は詠みける。」
(大意)神代には歌の字数も一定せず、心のままに歌ったので、歌の意味も理解しにくいものであったらしい。人の世になって、スサノオの命から短歌は三一文字に詠むようになったのである」(織田正吉『「古今和歌集」の謎を解く』講談社選書メチエ、2000)と。なお、『万葉集』や『古事記』など当時の大和朝廷肝いりの文書が漢文で書かれたのは、今日の日本語の骨格がこの頃までに基本的に定まったことを示唆している。
733年(天平5年)には『出雲風土記』の編纂がなり、朝廷に提出された。大和朝廷から命じられたのは713年(和銅6年)とされる)であった。この時点では、新羅や唐との緊迫した外交関係の成行きが定まっておらず、その後の成り行き次第では本土に攻め込まれることをも視野に入れなければならず、ついては朝鮮半島と対峙する北九州や山陰諸国の地勢、各地との里程などを正確に把握しておくことが求められたのではなかったのか。
こうした時代背景からは、一度完成した『出雲風土記』が手直しを要求され、姑息ながら、軍事目的を満たすよう編纂し直した可能性も出てくる。その風土記が733年(天平5年)に提出され、その写本が現代に残ったということも、あり得ないことではないように思われる。ともかくも、ヤマト政権にとって、新羅が油断ならざる敵国であったと考えれば、出雲の勢力としては、中央政府に配慮して一字一句を慎重に吟味しながらの編纂であったことが想像できる。
おりしも、720年(養老4年)、元正天皇の治世において、朝廷の大立て者の藤原不比等が死ぬと、長屋王が政治の空白に乗じて政権の中心に座る。これに、不比等の遺児である藤原四兄弟らは不満を露わにする。729年(神亀6年)、宮廷に長屋王が国家転覆を謀っているとの密告があった。これに乗じた藤原一門の一部が長屋王の館を取り囲み、彼を自殺に追い込んだ。この事件は、後にえん罪であったことの記述が『続日本紀』にある。
このような中央政界の不安定な中、政権にとって地方の豪族の懐柔は、統治への組み込みに欠かせない。稲作と鉄製器具の力をもってやがて東へ西へ、そして北へと、その支配の網を広げていく。
741年(天平13年)、聖武天皇の詔(みことのり)により「国分寺・国分尼寺建立の詔」が出された。『続日本書紀』に、こう紹介される。
「・・・・・宜(よろ)しく天下諸国をして各敬(おのおのつつし)みて七重塔一区(ななじゅうとういっく)を造り、あわせて金光明最勝勝王経(こんこうめいさいしょうおうきょう)、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)各一部を写さしむべし。・・・・・僧寺には必ず廿僧有(にじゅうそうあ)らしめ、其の寺の名を金光明四天王護国之寺(こんこうしてんのうごこくのてら)と為し、尼寺(にじ)には一十尼(いちじゅうに)ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)・・・・・」(『続日本紀』)
この「金光明四天王護国之寺」は国分寺のことで、僧を20名入れる。本尊は、『華厳経』に出てくる毘盧遮那仏(るびしゃなぶつ)とされる。奈良東大寺に総本山をおく。この寺はその後二度焼け落ちた。現在の建物は、1709年(宝永6年)に再建された三代目のものだ。
一方、国分尼寺(こくくぶんにじ)は、「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)と称し、10名の僧をおく。こちらの総本山は法華寺である。寺建立発願の理由は、仏教神の加護による五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家の繁栄なのであった。
かかる詔が全国に下された後の744年(天平16年)には、国分寺・国分尼寺建立の督促、756年(天平勝宝8年)には同天皇の一周忌に間に合にあわせるため再度の督促が行われた。759年(天平宝字3年)にも、寺図面の配布を行うなどして、諸国の国司に建立の念押しがなされた。
こうした朝廷からの度重なる命令を受け、地方も重い腰を上げざるを得なくなっていく。8世紀後半、旧吉備の国のうち備中において国分寺と国分尼寺が建立される。それは、現在のJR伯備線総社駅から徒歩で約30分のところに立てられた。これらの建物は、鎌倉末期から南北朝時代の初めにかけて、兵火または落雷による火災で焼失した。その後、江戸期の1710年(宝永7年)になって、日照山国分寺として再興され、現在に至っている。2014年現在、数在った伽藍の中でも、五重塔が再建されており、国の重要文化財となっており、往時を偲ばせている。
(続く)
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84『自然と人間の歴史・日本篇』奈良・天平の政治(対外政策)
対外政策では、相変わらず不安定な政治状況の中の754年(天平勝宝6年)、朝廷は全国の国司の監察を名目に、諸国に巡察使(じゅんさつし)を派遣した。『続日本紀』の同年の条には、「従五位下阿部朝臣毛人を山陽道使となす」との記述が見える。朝廷は又、海の向こうからの勢力に対しても、朝廷は警戒を怠らなかった。
755年(天平勝宝7年)の朝廷は、太宰府管内の諸国の郡家に対し、兵衛一人と采女(うねめ)一人を供出するよう命じている。これは、孝謙天皇が唐や新羅からの侵略を意識しての防備固めであったのではないか。757年(天平宝字(ほうじ)元年)になると、太宰府の防人に板東に代え、西海道から派遣された兵士を充てる兵制改革を行っている。
おりしも、百済の滅亡から数十年の後、新羅の金相貞の使節が、平城京にやってきていた。新羅とは、かつて敵対していた我が国であったが、この頃には、中国の唐との国交とともに、朝鮮との交通復活していたのだと考えられる。この時代の大陸との窓口は、九州の太宰府であった。遣唐使は、702年(大宝2年)に再開されていた。
その後も、717年(養老元年)、733年(天平5年)と続けられる。8世紀前半の遣唐使は、太宰府から五島列島を経て東シナ海を横断するルートがとられていたと伝えられる。加えるに、養老年代に入ってからの日本と渤海(ぼっかい)との間で、交易や交流が盛んに行われていく。
この時代の日本は、現在よりもっともっと朝鮮半島との関係が密であった。現在の天皇家も朝鮮半島の当時の王朝や豪族たちとの関係も、戦後の韓国側の発掘によっても徐々に明らかになってきている。だから、天皇家の系譜は何らかの形で「朝鮮とゆかりがある」と考えるのが自然である。天皇陵の造営には、当時の人民がこれらの造営に労役にかり出されている。
それらのことは、メソポタミア、エジプト、インダス及び中国の四大文明の古さと人類史に与えた影響には遠く及ばない。それでも、私たち日本人にとっての古代史、その国家設立のルーツを正しく伝えることが重要である。
(続く)
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83『自然と人間の歴史・日本篇』奈良・天平の政治(相次ぐ争乱、722~764)
奈良・天平の頃の国内は、律令制度の下ではあったが体制は安定しておらず、そのため何かと政情が不安であった。主な政治上の変事だけでも、かなりを数える。まずは722年(養老6年)の多治比三宅麻呂謀反誣告事件が起こる。天皇に対する謀反を誣告したとして斬刑に処せられることになったものの、首皇子(のち聖武天皇)の奏請によって減刑されて伊豆への流罪で済んだ。
続く729年(神亀6年、8月5日に改元して天平元年)旧暦2月に起こったのが、「長屋王の変(ながやおうのへん)」である。これは、聖武天皇への謀反の疑いあるとして当時政権を牛耳っていた皇族の長屋王(天武天皇の子である高市皇子の子、彼は天武天皇と後の持統天皇との子である草壁皇子の娘・吉備内親王を妻としていた。
なお、草壁皇子が28歳で亡くなったため、草壁の母が即位して持統天皇となり、やがて孫の文武天皇の即位を実現することになっていく)が訴えられた。同夜には、藤原氏の息のかかった兵が長屋王の館を囲んだ。
不意を突かれた格好の長屋王は、なすすべがなかったのだろうか。翌11日には、舎人(とねり)・新田部の両親王、大納言の多治比真人池守(たじひのまひといけもり)、中納言の藤原朝臣武智麻呂らの面々が王を糾問し、12日には自刃が勧告されるという慌ただしさであった。内室の吉備内親王や、その腹に生まれた嫡子の膳夫王(かしわでおう)も、本人に殉じた。これは、藤原氏の四人の兄弟が自分達の手に権力を奪う目的で計画した陰謀事件であるというのが定説となっている。
ここに藤原四兄弟とは、藤原不比等(ふじわらのふひと、729年(養老4年)に死去)の息子の藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ)、藤原房前、藤原宇合(ふじわらうまかい)及び藤原麻呂(ふじわらまろ)のことをいい、朝廷の政道を担う9人の公卿の内の4人を占め、藤原四子政権を確立した。
彼らが推した藤原宮子(ふじわらみやこ))なる女性は藤原不比等の娘にして、後に天皇になる文武(もんむ)に嫁ぎ、この二人の間に生まれたのが首(おびと)皇子こと、後の聖武天皇である。そしてこの天武・草壁系の聖武が天皇に即位するまでは、病弱であった文武の跡、文武の母である元明天皇、次いで文武の姉の元正天皇と、女帝が続くのであった。
さて政治経済面で、彼らが取り組んだものにいわゆる「班田再分割」があるが、これは、従前全戸毎に前回の班田合計額との差額だけを国家財政に収受していたのを止め、全ての口分田を全て収納の後に改めて全人民には配給し直すことが目指された。ところが、彼らが主導する朝廷立て直しを目指した政治の道半ばにして、737年(天平9年)に相次いで病死してしまった。
その4人ともに、当時流行していた天然痘にかかり、命を失ったものと見られる。この藤原四兄弟の突然の死後は、737年(天平10年)に藤原氏に敵対する皇族の橘諸兄(たちばなのもろえ、732~779)が右大臣に就任して国政を担うに至る。
740年(天平12年)旧暦9月には、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ、藤原宇合の長子)が九州の太宰府(だざいふ)で挙兵する。彼が立ち上がったのは、橘諸兄の下で吉備真備(きびのまきび)や僧の玄○(げんぼう)などの新興勢力が台頭しつつあったのを取り除こうとした。兵を挙げたのはまだしも、その先をよく考えていなかったのが災いしたのか、大した戦果がないまま追い詰められて敗死した。その乱が終息に向かうのを見越した聖武天皇は、740年(天平12年)に東国への「行幸(ぎょうこう)」に出る。ところが、帰還の際は平城京に戻ることなく、都を恭仁京(くにきょう、現在の奈良県木津川市加茂町付近)に移してしまうのだった。
とはいえ、742年(天平14年)の塩焼王配流事件、744年(天平16年)の安積親王暗殺事件と続く、暗い世相であった。あるいは国家の災いをそこで絶とうとしたのかも知れないが、こうして聖武天皇が政治向きから遠ざかっている間に光明皇后の甥である藤原仲麻呂(ふじわらなかまろ)が、橘諸兄(たちばなのもろえ)にかわり権勢をふるうようになる。仲麻呂は、橘諸兄が死んだ後の757年(天平宝字元年)には橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱を平定、淳仁(じゅんにん)天皇(天武天皇の子舎人(とねり)親王の子)を擁立するに至る。
この仲麻呂は朝廷から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を貰い受け藤原恵美朝臣押勝となるのだが、孝謙(太上)天皇(女帝、のち再び即位して称德天皇となる人物)の下、僧の道鏡(どうきょう)が彼女の寵愛をほしいままにするに及んで、藤原仲麻呂の支援で孝謙天皇(女帝)の後継者となりえた淳仁天皇・仲麻呂ラインとの間で政治的対立が生まれていた。仲麻呂はこれに対抗して764年(天平宝寺8年)に挙兵(藤原仲麻呂の乱)するも、敗走して死んだ。
(続く)
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840『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ経済(2009~2017、広がる経済格差、1%VS99%)
2013年9月、カリフォルニア大学バークレー校のエマヌエル・サエス教授が報告書「突然金持ちに――アメリカにおける高額所得者の誕生」を発表した。この報告書は、1913~2012年の米内国歳入庁(IRS)のデータを分析し、拡大する一方の所得格差について考察を行ったものだ。
この報告書によれば、アメリカのいわゆる「1%の金持ち」の所得は2008年9月のリーマン・ショック(金融危機)当時からほぼ完全に回復しているのに比べ、残り99%の人たちの所得には、回復はほとんど見られない。
昨年のアメリカでは、上位10%の世帯の所得が総所得の50.4%を占めた。これは、1917年以降で最大の割合となっている。上位1%の人々の所得が総世帯所得に占める割合は過去最大で、19.3%であった。
それから所得の伸び率ですが、アメリカの2009~2012年でみた上位1%の人々の所得伸び率は31.4%だった。ちなみに、2007~2009年にはマイナス36.3%の伸びであったから、今回はそれをほぼカバーする内容となっている。これは2009~2012年のアメリカ全体の所得伸び率のじつに95%に当たる。これに対し、同時期に、下位99%の人たちの所得の伸び率はわずか0.4%でしかない。
同教授の論文についてはもう一つ、「米国におけるトップ富裕層の研究」(2016年9月3日付け発表「Striking it Richer:The Evolution of Top Incomes in the United States
(Updated with 2012 preliminary estimates))からもその一部を紹介しよう。
“What’s new for recent years?
2009-2012: Uneven recovery from the Great Recession From 2009 to 2012, average real income per family grew modestly by 6.0% (Table 1). Most of the gains happened in the last year when average incomes grew by 4.6% from 2011 to 2012.
However, the gains were very uneven. Top 1% incomes grew by 31.4% while bottom 99% incomes grew only by 0.4% from 2009 to 2012.
Hence, the top 1% captured 95% of the income gains in the first three years of the recovery. From 2009 to 2010, top 1% grew fast and then stagnated from 2010 to 2011. Bottom 99% stagnated both from 2009 to 2010 and from 2010 to 2011. In 2012, top 1% incomes increased sharply by 19.6% while bottom 99% incomes grew only by 1.0%. In sum, top 1% incomes are close to full recovery while bottom 99% incomes have hardly started to recover.
Note that 2012 statistics are based on preliminary projections and will be updated in January 2014 when more complete statistics become available.
Note also that part of the surge of top 1% incomes in 2012 could be due to income retiming to take advantage of the lower top tax rates in 2012 relative to 2013 and after 1
Retiming should be most prevalent for realized capital gains as individuals have great flexibility in the timing of capital gains realizations. However, series for income excluding realized capital gains also show a very sharp increase (Figure 1), suggesting that retiming likely explains only part of the surge in top 1% incomes in 2012. Retiming of income should produce a dip in top reported incomes in 2013. Hence, statistics for 2013 will show how important retiming was in the surge in top incomes from 2011 to 2012.”
エマニュエル・サエズ教授のこの論文によると、「要約すれば、上位1%の所得は(金融危機後に)ほぼ完全に回復し、下位99%はほとんど回復し始めてもいない状況だ」とされる。
具体的には、2009年から2012年までの3年間で、上位1%の人の所得が31%増える一方、残りの人たちは0.4%しか増えなかった。また、所得上位10%の富裕層が12年に稼いだ所得が全体に占める割合は、1917年以降で最大となった。所得上位10%の富裕層が2012年に得た所得は14万6千ドル超で、所得下層10%の所得の約12倍に相当する。
さて、かくも大きな経済格差に反対してのウォール街占拠運動は、2011年9月17日から、ニューヨークのウォール街で始まり、2012年3月24日まで続き、アメリカ国内のみならず、全世界で注目を浴びた。ウォール街に続く通りやズコッティ公園に何週間もテントを張っていた人びとの多くはは、社会のたった1%が多くの富を占有していることに疑問を呈していた。こうした1%対99%の構図は、単なる語呂合わせのものではなく、現実の分析に基づいたものであったので、人々はその訴えに耳を傾けざるをえなかったのだろう。
(続く)
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843『自然と人間の歴史・世界篇』南アメリカではびこる麻薬
2013年時点での中南米などで広がる麻薬合法化の動き(朝日新聞2014年2月6日付けなど新聞報道による)は、概ね次のような展開を見せた。
2002年8月、コロンビアでウリベ大統領が就任した。米軍と協力して麻薬撲滅作戦を行うことを表明した。2009年8月、メキシコが大麻、コカインなど、麻薬の少量での所持を合法化した。
2012年4月、米州サミットでグアテマラのペレス大統領が「国際的な麻薬市場は根絶できないが、酒やたばこのように規制できる」と発言し、麻薬の合法化を提案した、と伝えられる。2013年2月、メキシコのチョン内相が、麻薬組織の構想などによる犠牲者が7万人に上ることを公表した。2013年5月、エクアドルが大麻、コカインなど、麻薬の少量での所持を合法化した。
2013月12月10日、ウルグアイで大麻の合法化(上院で可決)が行われた。「治安改善のため大麻の売買や栽培を合法化」というもので、はたしてこの理由づけが正当なものであるか疑問を持たざるをえない。
この法律は、大麻の購入や栽培を一定条件で認めるものであり、12月24日公布されたことから、2014年下半期の施行予定に向けて内外の注目を集めているところだ。
それによると、事前登録された18歳以上の国内居住者は、一人につき40グラムまで薬局で大麻を購入できることになった。また、自家栽培も6株(収穫量は年480グラム)まで認められることになっている。施行の際は、これらの上限が守られるかどうかは何によるのかは判然としない。
2014年1月、米国のコロラド州が大麻の販売を解禁した。2006年以降、米国がメキシコとの国境で麻薬密輸阻止の取り締まりを強化すると、行き場を失った麻薬がメキシコ国内にそれだけ多く流通することになり、治安が悪化することが起きている。そして迎えた2014年1月、グアテマラで麻薬対策特別委員会を設置して、合法化を含め検討する動きになっている。
(続く)
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902『自然と人間の歴史・世界篇』二つの超大国の現況(アメリカと中国、その経済力)
2017年GDP(国内総生産、ドル表示)比較では、日本が4.88兆ドルなのに対し、中国は11.94兆ドル(出典は、IMF(国際通貨基金、World Economic Outlook Databases)。その一方で、アメリカは世界一位を保っている。
2016年一人当たりのGDP比較(2010年に対する成長率)は、日本が38,882ドル(マイナス12.9%)、中国が8,123ドル(プラス79.5%)(出典は、IMF(国際通貨基金、World Economic Outlook Databases)だという。
ざっと振り返ると、2016年の日本のGDPは、1994年、2009年の値よりやや小さい。それに対し、中国のGDPは2009年に日本とほぼ同額に、2016年になると2.9倍になる。さらにアメリカの2016年GDPは、2009年の2.6倍に膨らんだ。
こうしたGDPでの経済力比較には、多くの問題点があるだろうが、残念ながら、現下ではこれに代わるものとてない。
(続く)
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667『自然と人間の歴史・世界篇』中国の改革・開放政策(1976~1980)
1966年5月に開始した文化大革命は1976年10月に収束し、それから約3年間は政治の混乱が続く。そして迎えた1978年12月の共産党中央委員会(第11期三中全会)において、鄧小平(deng4xiao3ping2)体制が確立する。同会の決議に、「生産能力の発展に適応できない生産関係、上部構造及び管理方式、行動方式、思想方式」を改革し、「権限を地方と企業に移譲し、地方と企業の管理自主権を拡大する」とある。ここに、中国の世界に門戸をひらくことでの「改革・開放」路線が敷かれる。
同時に、「世界各国との経済工作に積極的に参加し、世界の先進的技術と設備を採用する」ことを目標に掲げたのだか、「大躍進」のスローガンの下、足元を固めないうちに多くのことをしようとするあまりか、飢餓の招来を始め、実に多くの経済建設上の誤りを犯した。しかしながら、これをもってそれまでの経済路線の大方を、否定することはできないのではないか。
それというのも、中国は毛沢東(mao2ze1dong1)の時代(1952年-1978年)の間にいわゆる「資本の原始的蓄積」に匹敵する強蓄積の時代を経験した。建国当初は農業国一色であった中国経済がいわゆる「大躍進期」を含む疾風怒濤の強蓄積時代をくぐり抜けることで、資本ストックの急速な増加を実現する。
この経済「成果」があったおかげて、1978年末からの改革・開放を開始することができたという歴史的事実のあることまで無視すべきでない。それゆえこの国の改革・開放(gai3ge2kai1fan4)路線への切替えとは、それに先立つ基礎固めの上にレールを敷いていったものであると位置づけるのが正しい これ以降、中国共産党の活動の重点が国の近代化、改革開放政策(gai3ge2kai1fan4)へと転換していく。 1979年3月、政府は4つの基本原則の堅持を指示する。同年4月には、党中央工作会議にて、経済の「調整・改革・整頓・向上」の方針が決定される。
1979年5月、企業の自主管理の拡大にかかる「実験」が北京(bei3jing1)、上海(shang4hai3)、天津(tian1jin1)の3直轄都市にある8企業に拡大される。こうした「実験」は1980年はじめまでに100の企業が参加するまでに広がっていく。
続く1979年6月から7月にかけて、第5期全人代第2回会議が開催される。そこでは「中華人民共和国外合資経営企業法」がその場で批准され、7月8日より施行される。1979年7月、中共中央が広東省(guang3dong1sheng3)と福建省(fu2jian4sheng3)に開放化政策の「実験」を指示。経済活動の自主権を認め、経済特区を設ける。
1979年8月、国務院が対外貿易経営権の地方及び企業への委譲、外貨留保の制度の導入を発表する。外貨留保制度については1984年以降の実施となる。この制度において、輸出企業が貿易取引により獲得した外貨を指定銀行にて公定レートにより人民元に交換する際に、その獲得した外貨の使用権を一定比率で獲得できるように目論む。また、これにより、当該企業はこの割当額をいつでも公定レートで外貨に換えることができるところの特別口座に預金するか、それとも外貨を現金として保有するかを選択できるようにしたい。
そして、これらの割当額や外貨を「外貨調節市場」において自由に売買することが可能となっていく。のちに、「1993年時点では、およそ80%の外貨需要が外貨調節市場で取引され、交換レートは需給関係によって決まった」(杜進「江沢民、朱鎔基体制下の経済運営」:渡辺利夫・小島朋之・杜進・高原明生「毛沢東、鄧小平、そして江沢民」東洋経済新報社、第5章)と言われているところだ。
1980年2月の中国共産党第11期第5回全体会議では、劉少奇の名誉回復が決定される。国家主席だった劉少奇は、1966年からの文化大革命中に資本主義への道を歩んでいるとの批判を受け一切の職務を罷免され、1969年11月に失意のうちに河南省開封市で亡くなっていた。
1980年5月、中国はBIS(世界銀行)に加盟を果たす。また、この年、IMF(国際通貨基金)にも加盟するのであった。
そして迎えた1980年8月、第5期全人代常務委員会第15回会議において、深せん(shen1shen4)、珠海(zhu1hai3)、汕頭(shan4tou2)、夏門(xia4men2)の4つの区での経済特区設置を認可する。併せて、「中華人民共和国個人所得税法」を批准、同年9月10日より実施される。
さらに、この同じ1980年、華国鋒(hua1guo2feng1)が首相を辞任する。顧みて、彼は1976年党第一副主席兼首相に昇進。同年毛沢東(mao2ze1dong1)の死後、党主席と中央軍事委員会主席を兼任していた。1981年には党副主席に、1982年中央委員に降格されてしまう。
1980年11月(開廷)から1981年1月(判決)まで、林彪・江青反革命集団裁判(特別法廷)が行われる。林彪グループは全員が死亡していたため不起訴となり、また江青と長春橋は死刑判決となるのだが、後に無期懲役に減刑されたと伝えられる。
(続く)
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