○○31『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人

2017-01-29 21:00:39 | Weblog

31『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人

 縄文時代の後に続く「弥生時代」も、日本の歴史学における独特の時代区分である。その文化は、時代が明治になってから東京都文京区本郷町で最初に発見された土器にちなんで命名された。その時期としては、幅広で考えると紀元前10世紀頃に始まったとされている。それから三世紀頃に備前(現在の岡山市がその中心地域)や近畿地方で定型的な前方後円墳が造営されるまでの、少なく見積もっても約1200年間続いた。
 この列島の中だけで、縄文から弥生への生活様式の変化が熟成してきたのでは決してない。今日では、それより前に列島にやってきて住み着いていた縄文人に続き、主にユーラシア大陸から海を渡ってくるなど、新たな生活技術を携え、多様なルートを辿って日本列島にやって来た人びとがいた。

 大まかにいうならば、ロシア経由、朝鮮からは2ルート、中国から直接に、そして南方から黒潮に乗っての、あわせて4つ位のルートがあったのではないか。朝鮮半島南端からは、対馬で一休みできた筈だ。だから、家族でやってくる場合は好都合であったろう。中でも、中国大陸からやってきた人々は、古くは丸ごとにして農耕民族であった。また南の海洋諸島からの人々は、巧みな航海術を操る人々であったろう。
 このように考えると、弥生人というのは単一民族なのではない。強いて言うと、それは、東アジアのあちらこちらから、3つ以上の民族が北方から南方から、そして東方からなど集まってきた。これをして、いわば寄合い民族なのであったと言えるのではないか。かのギリシア文明も、紀元前二〇〇〇年頃のイオニア人、紀元前1400年頃のアカイア人、そして紀元前1200年頃にドーリア人がほぼ三方からやって来て、この地域のそこかしこに住み着いていったこととの比較で観ても、感慨深いものがある。
 次に注目すべきは、大挙してこちらにやって来てから短期間の間に在来住民を押しのけて覇権を打ち立て、いわば征服者のように振る舞ったという形跡は残されていない。向こうからは、日本列島に向かうのに好都合な風が吹く時を見計らって、小グループで小さな船を仕立てて、長い時間にわたり少人数ずつ、海を渡ってこちらへやって来ていたのではない。それだから、少ないチャンスをものにしないと行けない。したがって、わざわざ冬場を選んで海を渡ってくるのは稀であったのではないか。
 彼らはやがて、この細長い列島に先に定住していた縄文人とともに、倭人を構成するに至る。そして、縄文人の占めていた場所においてしだいに多数派になっていったのではないか。ちなみに、今も北海道の一部でひっそりと暮らしているアイヌの人々は、白人でなく、縄文人の末裔であると考えられている。アイヌの人々は、弥生人が次から次へと列島に渡来する前から、この列島の東北、北海道を中心に狩猟中心の小部族社会をつくっていたのである。そこでもし弥生時代にこの列島に次々と渡来してきた人をも含めて広く「倭人」というのなら、以後、日本人の原型は縄文人と弥生人との共生、その生活域が交錯するところでは混血を含めてつくられていった。今の日本では彼らこそが、「ネイティブ・ジャパニーズ」であって、しかもそのあらかたが新渡来人である弥生人と混血を繰り返しつつ、新しい世代の「倭人」を形成してきたのである。
 そんな多用なルートの中でも、大方の人々は九州北岸にたどり着いたことだろう。顧みれば、いつの頃からか、弥生期に至るまで、大陸からこの列島に次々にやってきた人々の動機とは何であったのだろうか。何か高邁(こうまい)な動機などがあって、意気込んでやってきたとは考えにくい。多分、それまでの生活の苦しさから抜け出したい一心で、家族や一族とともに海を渡って来たのではないだろうか。それならば新天地を求めてみようということで、めざすは晴れた日には海向こうに肉眼で見える日本列島への移転を人々とその部族とこれに所属する家族にに決意をさせたのだと推察される。中でも、3世紀から4世紀にかけての渡来については、特別、その頃の朝鮮南部では飢饉が多かったことがわかっている。

(続く)

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○○30『自然と人間の歴史・日本篇』弥生時代へ(定住生活と農耕)

2017-01-29 20:58:55 | Weblog

30『自然と人間の歴史・日本篇』弥生時代へ(定住生活と農耕)

 弥生時代の到来を特徴づけるものに、本格的な稲作への移行がある。この時代の前の縄文時代に伝わった稲作がどのようにして日本列島に根付いていったのだろうか。
 弥生時代の日本列島に輸入されてからの本格稲作の農耕は、おそらく、この列島の最西端の地方からかなりの時間をかけて、時には紆余曲折に見舞われながらも、東方へと拡がっていったのではないか。やがて時代は紀元後にさしかかる。その頃には、本州のかなり東方そして北方までの広い範囲で稲作と農耕が行われるようになったのではないか。これらによる農耕による生活方法の変化は、全般的なものであったろう。当然のことながら、この大変化を写して弥生期には、農具も発達した。特に、鉄製の道具の発達により土地を深く耕すことができるようになり、労働の生産性、つまり労働一単位に対し何単位の生産物量があったかの指標を引き上げるのに大きく貢献したことは想像に難くない。
 食糧(主食)・食料(副食)資源をある程度賄うことが出来たとすれば、その分極めて徐々にであったであろうが、全作物の不作とかでの飢餓に立ち向かえるようになっていったのであろう。その社会はさらに多くの土地を開墾し、耕すことが出来る。その結果、作物もより沢山できるようになるだろう。そうすれば、その社会としてはもっと多くの人口を養うことができるようになっていく。古来から、人は衣食住が足りてこそ礼節や文化などが生まれるのだ、ということになっている。人々の栄養状態が改善されると、生活の余裕というものができて、それに応じて人口も増えていく。
 彼ら、後に「弥生人」と呼ばれることになる人びとは、それまでにはなかった技術なり、文化なりをもって入った。それらは、縄文期の列島にはないか、あっても発展の度合いが低いものであったろう。その技術や文化の核心とは、新たな社会的生産の様式といっていい。弥生時代を縄文時代と分かつ生産様式の特徴としては、稲作と土器の改良、金属器の使用などがある。これらのうち稲作は、中国でのものが朝鮮半島を通じて伝わったとするのが通説だ。漢代の大豪族の墓から出土した壁画には、粘土板に型押ししたが画像があった。その上には鳥を射るさまが、そして下段には稲らしきものを刈ったり、その株を集めたり、その束を天秤棒に渡して運んだりのさまが描かれていた。また、ここに土器とは、遠賀(おんが)式土器を初めとする弥生式土器のことである。これに描かれる紋様はあっても単調であって、装飾より機能が重視されるようになっている。この種の土器は、コメなどの穀物を入れるべく、地味な赤味のある土器で綾られている。やがて、縄文期にはなかった銅や鉄などの金属器が登場してくる。この列島に青銅器が伝わったのは、紀元前1世紀頃ともいわれ、この時期までに、それまでの石斧や石矢、磨製石器など使用の石器時代から金属を使用する時代に入った。やがて何度目かの大陸から入ってきた人々によって、鉄器が伝来したのではなかろうか。やがて鉄器は、この列島での稲作の発達にはなくてはならないものになっていったと考えられる。

(続く)

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 弥生時代の到来を特徴づけるものに、本格的な稲作への移行がある。この時代の前の縄文時代に伝わった稲作がどのようにして日本列島に根付いていったのだろうか。
 弥生時代の日本列島に輸入されてからの本格稲作の農耕は、おそらく、この列島の最西端の地方からかなりの時間をかけて、時には紆余曲折に見舞われながらも、東方へと拡がっていったのではないか。やがて時代は紀元後にさしかかる。その頃には、本州のかなり東方そして北方までの広い範囲で稲作と農耕が行われるようになったのではないか。これらによる農耕による生活方法の変化は、全般的なものであったろう。当然のことながら、この大変化を写して弥生期には、農具も発達した。特に、鉄製の道具の発達により土地を深く耕すことができるようになり、労働の生産性、つまり労働一単位に対し何単位の生産物量があったかの指標を引き上げるのに大きく貢献したことは想像に難くない。
 食糧(主食)・食料(副食)資源をある程度賄うことが出来たとすれば、その分極めて徐々にであったであろうが、全作物の不作とかでの飢餓に立ち向かえるようになっていったのであろう。その社会はさらに多くの土地を開墾し、耕すことが出来る。その結果、作物もより沢山できるようになるだろう。そうすれば、その社会としてはもっと多くの人口を養うことができるようになっていく。古来から、人は衣食住が足りてこそ礼節や文化などが生まれるのだ、ということになっている。人々の栄養状態が改善されると、生活の余裕というものができて、それに応じて人口も増えていく。
 彼ら、後に「弥生人」と呼ばれることになる人びとは、それまでにはなかった技術なり、文化なりをもって入った。それらは、縄文期の列島にはないか、あっても発展の度合いが低いものであったろう。その技術や文化の核心とは、新たな社会的生産の様式といっていい。弥生時代を縄文時代と分かつ生産様式の特徴としては、稲作と土器の改良、金属器の使用などがある。これらのうち稲作は、中国でのものが朝鮮半島を通じて伝わったとするのが通説だ。漢代の大豪族の墓から出土した壁画には、粘土板に型押ししたが画像があった。その上には鳥を射るさまが、そして下段には稲らしきものを刈ったり、その株を集めたり、その束を天秤棒に渡して運んだりのさまが描かれていた。また、ここに土器とは、遠賀(おんが)式土器を初めとする弥生式土器のことである。これに描かれる紋様はあっても単調であって、装飾より機能が重視されるようになっている。この種の土器は、コメなどの穀物を入れるべく、地味な赤味のある土器で綾られている。やがて、縄文期にはなかった銅や鉄などの金属器が登場してくる。この列島に青銅器が伝わったのは、紀元前1世紀頃ともいわれ、この時期までに、それまでの石斧や石矢、磨製石器など使用の石器時代から金属を使用する時代に入った。やがて何度目かの大陸から入ってきた人々によって、鉄器が伝来したのではなかろうか。やがて鉄器は、この列島での稲作の発達にはなくてはならないものになっていったと考えられる。

(続く)

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○○190『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農民一揆(美作での元禄一揆など)

2017-01-26 21:36:14 | Weblog

190『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農民一揆(美作での元禄一揆など)

 1699年(元禄12年)、津山藩で元禄一揆(げんろくいっき)が起きる。その頃、江戸では「元禄」という爛熟の世が出現していた同じ時代に、美作の地では百姓たちが結束して強訴しないでは収まらないだけの騒憂があった。ここでいう津山藩とは、江戸時代の最初に幕府により布置された森家のことではない。百姓たちに相対峙していたのは、同家が改易となった翌年、新たに封じられた松平家のことである。その家柄は、始祖に二代将軍徳川秀忠の異母兄にして、北の庄の徳川秀康を戴く徳川将軍家親戚筋として「親藩」(しんぱん)に列せられていた。
 ついては、これより十数年前の1681年(元和元年)、越後(えちご)高田藩26万石が改易処分となる。「家国を鎮撫すること能わず。家士騒動に及ばしめし段、不行届の至り」(『廃絶録』)との理由で、所領を没収される。これを受け、藩主の松平光長は稟米(りんまい)1万石を与えられ伊予松山藩に預けられていた。その光長が1687年(貞享4年)に幕府から赦免されると、従兄弟の子に当たる陸奥白河藩松平直矩(まつだいらなおのり)の三男を養子に迎えたのが、この宣富(矩栄(のりよし)改め)にほかならない。
 この松平氏が美作の新領主となって封に就き、領主として初めて年貢を徴収しようとした際、領民が幕府天領時代の「五公五民」への年貢減免を求め、強訴を起こした。この事件は、江戸期の美作において最初の大がかりな惣百姓一揆である。その背景には、年貢の変更による増徴があった。森藩が断絶してから松平氏が入封する1698年(元禄11年)、旧暦正月14日までおよそ10か月の間に幕府の天領扱い、代官支配下での年貢収納は「五公五民」の扱いになっていた。それが松平氏の支配となるや、その年貢率が反古にされ、森藩自体と比べても厳しめの「六公四民」になったことがある。具体的には、美作の歴史を知る会編『みまさかの歴史絵物語(6)元禄一揆物語』1990年刊行に収録の「作州元禄百姓一揆関係史料」に、こう解説されている。
 「一六九八年(元禄一一年)旧暦八月、領内に出された年貢免状によると、年貢量は森藩時代と同じような重税の上、森藩の時認められていた災害時の「見直し」や、「奥引米制」という値引き等が、全く認められない厳しいものでした。」
 この一揆では、大庄屋の責任で百姓たちが藩に嘆願する形式をとる。百姓の代表格の
東北条郡高倉村の四郎右衛門、佐右衛門、東南条郡高野本郷村の作右衛門らは、郡代の畑(?)田次郎右衛門、山田仙右衛門に、年貢を幕制時代に戻すよう主張する。これに対し郡代は、諸藩は独自の税法を有する。だから、願いの筋を聞き届けることはできないと突っぱねた。代表は、これを村に持ち帰った後、大衆の力をもって要求を通すしかないと衆議一決してから、1698年(元禄11年)旧暦11月11日大挙して津山城下に侵入した。
 これはてごわいとみた藩は、同旧暦11月12日、いったん農民たちの要求を受け入れる。これにより、百姓達の強訴はかわされて鎮静に向かい始める。その後の津山松平藩は、すでに足並みが乱れて始めていた庄屋の団結を破壊し、百姓たちから完全離反させようと画策を重ねる。そして、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで百姓に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。翌1699年(元禄12年)旧暦3月27日、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束を見た。彼らは、「幕藩体制」という封建社会において、その与えられた人生を力強く生き抜いて死んでいった。そうした彼らの志の高さに比べ、正義のため立ち上がった百姓達に対抗するため、藩側が一貫してとったのは武士の名分をかなぐり捨てた騙しの戦法であった、と言われても仕方がない。
 この元禄一揆により、さしもの年貢率にも修正が加えられ、「翌元禄十三年よりは、森家時代の年貢より弐割下げにして定められる」(『三間作一覧記』)とある。その水準がいかほどであったかは、『鏡野の歴史・鏡野町山城村年貢免定』の事例が明らかにされている。これによると、元禄九年(森)の毛付け高が三一八石に対し、年貢高は一八五石にして、年貢率は五八・二%。元禄十年(幕府)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一五八石にして、年貢率は四六・三%。元禄一一年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二五一石にして、年貢率は七三・二%。元禄一一年(松平、しゃ免引き)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二〇二石にして、年貢率は五九・二%。そして元禄12年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一七七石にして、年貢率は五一・五%であったと見積もられる。

(続く)

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○○193『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農村・農民

2017-01-26 21:34:02 | Weblog

193『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農村・農民

 江戸時代の前半期、農民たちはどんな生活を送っていたのだろうか。宮崎安貞は、畿内の農村を歩き回って、肥料の選び方、そのやり方、農具の選択、耕作の作法、播種(はしゅ)など、農事全般にわたる広範なノウハウをまとめ、1697年(元禄10年)、これを出版した。
 「惣じて農具をゑらび、それぞれの土地に随つて宜きを用ゆべし。凡農器の刄はやきとにぶきとにより其功をなす所遅速甚だ違ふ事なれども、おろかなる農人は大形其考なく、纔の費をいとひて能き農具を用ゆることなし。さて日々にいとなむ仕事の心よくてはか行くと骨おり苦勞してもはかのゆかざると、一年を積り一生の間をはからんには、まことに大なるちがひなるべし。」(宮崎安貞『農業全書』農事総論・耕作(かうさく)・第一28節)
 「殊に土地多く餘りありて人すくなく、其人力及びがたき所にては、取分け牛馬農具に至るまで勝れてよきを用ゆべし。されば古き詞にもたくみ其事をよくせんと欲する時は、先づ其器をとくすとみえたり。」(同)
 「但右の内牛馬は其あたひおもき物なれば、貧民心にまかせぬ事多かるべし。只をのをの其分限にしたがひて力のをよびよきを用ゆべし。」(同)
 ここにあるのは、「農具を選ぶ事」、「効率を上げるの為の道具」そして「分限に合った道具の選択」へのきめ細かな案内であって、畿内の農業の発展にさぞかし貢献したのではないか。
 さらに農学者の大蔵永常(おおくらながつね)が、1842年(天保13年)~1858年(安政5年)に刊行した、農村における商品作物の栽培について紹介した農学書には、こうある。
 「公室を富ましめんとて、其の城下の町人等の商売に仕来るものを領主より、役所あるひは会所をたて其の所にて売買の沙汰を致し、農家より商家へ直うりを禁じなど仕り給ふ事あり。其の益つもりては大ひなれば、忽ち御勝手向よくなり、かゝるにしたがひ、部下の智恵あるもの其の元締がたにかやうかあああやうに成られなば、つもりては是ほどの益と相成り候など申出づれば、其の趣きを取用ひぬれば其の益又少からず。
 然るに又別人よりかやうかやう成られ候へば御益となり候など申出づる故、又取用ひ候まゝ、いつとなく御益すぢと号する事多く出来るものなり。是等は多く部下の商人の利益と相成るべきを領主にて奪ひ上げ給ふなれば、ひそかに恨むといへども威勢に恐れ誰ありて申立てるものなく、変あるを待ちて元のごとくならん事を願ふもの夥しくして、終には騒動を引出す基となりたる事まゝ聞及びぬ。全く御勝手を早くよくせんとて斯く行はせらるゝ事なれば、悪法とは云がたけれど、元来天理に戻り、先ず下民を安富せしむる事を勤めざるゆゑに、却りて手もどりするを見及ぶ事多し。
 部下にて取扱ふべきものを領主より売買し給ふ事は勘弁のあるべき事なり。前にも云ふごとく国の益筋を取扱ふ人なれば、此の位の事は弁へなくして人も帰伏せざれども、右いふごとく脇より追々御益筋と号しすゝむるを一ツ用ひ二ツ用ひ、終に種々に手を廻し行ふやうになり行くものと見ゆれば、努々おろそかに見はず計り、つらつら考ふべき事ぞかし」(大蔵永常『広益国産考』)
 ここに木綿の元となる綿花の栽培が行われていたことが、わかる。それまでも各地で綿、麻などが栽培されていたものが、この史料では、綿花の生産がはっきりした商品生産として始まった。収穫した綿花の流通から、商人などの媒介から織物生産、販売に至るまで、地域経済の発展へと繋がって行った。
 さらに加えて、当時の大衆文学の巨匠・井原西鶴(いはらさいかく)は、こんな話を載せている。
 「鉱(あらがね)の土割(つちわり)、手づからに畑うち、女は麻布を織延(おりのべ)、足引(あしびき)の大和機を立、東あかりの朝日の里に、川ばたの九助(くすけ)とて小百姓ありしが、牛さへ持たずして角屋(つのや)作りの浅ましく住みなし、幾秋か一石二斗の御年貢をはかり、五十余迄同じ額にて、年越の夜に入りてちひさき窓も世間並に鰯(いわし)の首(かしら)柊(ひいらぎ)をさして、目に見えぬ鬼に恐れて、心祝ひの豆うちはやしける。夜明けて是を拾ひ集め、其中の一粒を野に埋みて、もし煎豆に花の咲く事もやと待ちしに、物は諍(あらそ)ふまじき事ぞかし。
 其の夏青々と枝茂りて、秋は自から実入りて、手一合にあまるを溝川に蒔捨て、毎年かり時を忘れず、次第にかさみて、十年も過ぎて八十八石になりぬ。是にて大きなる灯篭を作らせ、初瀬海道の闇を照らし、今に豆灯篭とて光を残せり。諸事の物つもれば、大願も成就する也。此九助此心から次第に家栄え、田畠を買ひ求め、程なく大百姓となれり。折ふしの作り物に肥汁を仕掛け、間の草取り水を掻きければ、自から稲に実のりの房振りよく木綿に蝶の数見えて、人より徳を取る事、是天性にはあらず。
 朝暮油断なく鍬鍬の禿る程はたらくが故ぞかし。万に工夫のふかき男にて、世の重宝を仕出しける。鉄の爪をならべ、細攫(こまざらえ)といふ物を拵(こしら)へ、土をくだくに是程人の助けになる物はなし。此外、唐箕(とうみ)・千石通し、麦こく手業をとけしなかりしに、鉾竹(とがりたて)をならべ、是を後家倒(ごけだお)しと名付け、古代は二人して穂先を扱きけるに、力も入れずして、しかも一人して、手廻りよく是をはじめける。
 其後女の綿仕事まだるく、殊更打綿の弓、やうやう一日に五斤ならでは粉馴ぬ事を思ひめぐらし、もろこし人の仕業と尋ね、唐弓といふ物ははじめて作り出し、世の人に秘して横槌にして打ちける程に、一日に三貫目づゝ雪山のごとく繰綿を買込み、あまたの人を抱へ、打綿、幾丸か江戸に廻し、四五年のうちに大分限になりて、大和に隠れなき綿商人となり、平野村・大坂の京橋富田屋・銭屋・天王寺屋、いづれも綿問屋に毎日何百貫目と言ふ限りもなく、摂河両国の木綿買取り、秋冬少しの間に毎年利を得て、三十年余りに千貫目の書置して、其の身一代は楽といふ事もなく、子孫の為によき事をして、八十八にて空しくなりぬ。」(『日本永代蔵』)
 ここに「朝日の里」は、畿内(現在の奈良県天理市)を指す。この地域では、農具の発達があったものと見える。新たな生産手段を手に入れた農民を、「新興農民」と呼ぶことにしたい。「大和機」は、麻布を織る械(はた)のことだ。「唐箕」とは、羽の入った送風機の外側にハンドルが付いている器械であって、上から玄米と籾殻と埃などの入り交じったものを落とし、そのハンドルを回して羽を動かし風を起こす。その勢いで玄米を選別する。「千石通し」とあるのは、斜め上から金網が下までかかっており、上からごみ混じりの米を流して、いい、悪いを餞別していた。以上の二つは、日本の高度成長期までは使っていた。また「後家倒」は「千歯こき」の異名であって、櫛歯状の鉄串に稲束を通すことにより籾(もみ)を落とす器械。そちらの専門家では無いはずの西鶴は、どの筋から一地方の、こんな最先端な話を仕入れることができたのだろうか。
 器械ばかりでなく、肥料の方も一大劃期を迎えつつあった。江戸中期の民政家で、荒川や酒匂川(さかわがわ)の治水に功績のあった田中兵隅(たなかきゅうぐ)が、8代将軍の徳川吉宗に提出した農政に関する著作(1721年(享保6年))の中に、次の下りがある。
 「夫れ田地を作るの糞(こや)し、山により原に重る所は、秣(まぐさ)を専ら苅(かり)用ひて田地を作るなれば、郷村第一秣場(まきば)の次第を以て其の地の善悪を弁べし。近年段々新田新発に成尽して、草一本をば毛を抜ごとく大切にしても、年中田地へ入るゝ程の秣たくはへ兼る村々これ有り。古しへより秣の馬屋ごへにて耕作を済したるが、段々金を出して色々の糞(こや)しを買事世上に専ら多し。仍て国々に秣場(まきば)の公事絶えず、又海を請たる郷村は、人を抱へ舟を造りて色々の海草を、又は種々の貝類を取てこやしとす。
 其外里中の村々は山をもはなれ海への遠く、一草を苅求むべきはなく、皆以て田耕地の中なれば、始終金を出して糞しを買ふ。古へは干鰯金一両分を買ふて粉にして斗り見るに、魚油の〆から抔は四斗五六升より漸く五斗位にあたりて、いかやうの悪敷も六斗にはあたらず。是享保子年まで五六年の間の相場なり。是を一反三百歩の田の中へふりて見れば、大桶の水へ香薫散を一ぷくふりたるにひとし。よって能入るゝと言者は、一反へ金弐両の内外入ざれば其しるしなし。惣て一切の糞しは皆干鰯(ほしか)を以て直段の目あてとす。」(田中兵隅(たなかきゅうぐ)(田中兵隅『民間省要』)
 これにあるように、従来の刈敷や堆肥といった有機肥料に変えて、金肥といって、干鰯(あぶらかす)、油粕(ほしか)といった現代農業にも通じる、地力を大きく肥やす肥料を使うようになっていく。彼はその後、代官に取り立てられたとか。

(続く)

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○196『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の江戸と大坂

2017-01-26 19:04:24 | Weblog

196『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の江戸と大坂

 世に言う「明暦の大火」は、江戸(東京)を襲った史上最大規模の火災であった。おりしも、1657年3月3日(明暦3年旧暦1月18日~20日)の冬は乾燥していた。そこに立て続けに3件の火事が起こった。まずは本郷丸山の本妙寺から出火した。翌日小石川から出火。さらに翌日、麹町から出火した。
 「扨(さて)も明暦三年丁酉、正月十八日辰の刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出し、しきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て、空にたなびきわたる有さま、雲かあらぬか、煙のうずまくか、春のかすみのたな引かと、あやしむほどに、江戸中の貴賎門戸をひらきえず、夜は明けながらまだくらやみのごとく、人の往来もさらになし。やうやう未のこくのおしうつる時分に本郷の四丁目西口に、本妙寺とて日蓮宗の寺より、俄に火もえ出で、くろ煙天をかすめ、寺中一同に焼あがる。折ふし魔風十方にふきまはし、即時に、湯島へ焼出たり。はたごや町より、はるかにへだてし堀をとびこえ、駿河台永井しなのの守・戸田うねめのかみ・内藤ひだのかみ・松平しもふさの守・津軽殿・そのほか数ケ所、佐竹よしのぶをひじめまいらせ、鷹匠町の大名小路数百の屋形、たちまちに灰燼となりたり。(中略)
 扨又、右のするがだいの火、しきりに須田町へもえ出て、一筋は真直に通りて、町屋をさして焼ゆく。今一筋は、請願寺より追まはして、押来る間、江戸中町の老若。こはそもいかなる事ぞやとて、おめきさけび、我も我もと家財雑具をもち運び、西本願寺の門前におろしをきて、休みけるに、辻風おびただしく吹きまきて、当寺の本堂より始めて、数か所の寺々,同時に鬨と焼たち、山のごとく積あげたる道具に火もえ付しかば、集りゐたりし諸人、あはてふためき、命をたすからんとて井のもとに飛び入、溝の中に逃入ける程に、下なるは水におぼれ、中なるは友におされ、上なるは火にやかれ、ここにて死するもの四百五十余人なり。
 さて又はじめ通り町の火は、伝馬町に焼きたる。数万の貴賎、此よしを見て、退あしよしとて、車長持を引つれて、浅草をさしてゆくもの、いく千万とも数しらず。人のなくこゑ、くるまの軸音、焼くずるる音にうちそへて、さながら百千のいかづちの鳴おつるもかくやと覚へて、おびただしともいふばかりなし。親は子をうしなひ、子はまたおやにをくれて、おしあひ、もみあひ、せきあふ程に、あるひは人にふみころされ、あるひは車にしかれ、きずをかうぶり、半死半生になりて、おめきさけぶもの、又そのかずをしらず」(『むさしあぶみ』)
 この火事による被害がいかほどであったかには、諸説があって数ははっきりしていない。
「今度焼失の覚
一、万石以上類火、百六十軒。但し、万石以上焼失の残りは五十四軒。
一、物頭・組頭・番頭類火、二百十五軒。
一、新番組火、二百十軒。
一、小十人組類火、六十三軒。
一、御書院番組類火、百九十軒。
一、大御番衆、百四十軒。
一、町屋の類火は両町にして四百町、片町にして八百町、但し道程二十二里八町三十六町壱里にしてなり。間数四万八千間。但し六尺一間積。
一、家主知らざる町屋八百三十軒余。
一、橋残りたるは呉服町丁の一石橋、浅草橋ばかり、此の外は皆焼失す。
一、焼死者三万七千余人、此の外数知らず、牛馬犬猫をや」(『明暦炎上記』)
 当時の江戸には町家に約28万人、武家に約50万人の人々が暮らしていたとの推定があり、当時の欧州諸都市と比べても「ダントツ」の人口規模であった。人々は風に煽られて燃えさかる炎に追われて逃げ惑ったらしい。江戸城の天守閣も焼け落ちた。そんな中でも東へ逃げた人々の前には、隅田川があった。当時は橋が架かっていなかったので、そこまで来て多くの人が焼かれたり、煙に巻かれたりして死んでいったらしい。死者数には諸説あるも、数万人は下らなかったのではないかと言われている。
 その当時の大坂については、江戸のような大災害は伝わっていない。江戸と異なり、「天下の台所」として、物資が集散する賑わいを増しつつあった。井原西鶴は、北浜の米市の模様をこう伝える。
 「惣じて北浜の米市は、日本第一の津なればこそ、一刻の間に、五万貫目のたてり商も有事なり。その米は、蔵々にやまをかさね、夕の嵐朝の雨、日和を見合、雲の立所をかんがへ、夜のうちの思ひ入れにて、売人有買人有、壱分弐分をあらそひ、人の山をなし、互に面を見しりたる人には、千石万石の米をも売買せしに、両人手を打て後は、少しも是に相違なかりき。世上に金銀の取やりには預り手形に請判慥に『何時なりとも御用次第』と相定し…契約をたがへず、其日切に、損得をかまわず売買せしは、扶桑第一の大商。人の心も大服中にして、それ程の世をわたるなる。
 難波橋より西、見渡しの百景。数千軒の問丸、甍をならべ、白土、雪の曙をうばふ。杉ばへの俵物、山もさながら動きて、人馬に付おくれば、大道轟き地雷のごとし。上荷・茶船、かぎりもなく川浪に浮びしは、秋の柳にことならず、米さしの先をあらそひ、若い者の勢、虎臥竹の林と見へ、大帳、雲を翻し、十露盤、丸雪をはしらせ。天秤、二六時中の鐘にひゞきまさって、其家の風、暖簾吹きかへしぬ。 商人あまた有が、中の嶋に、岡・肥前屋・木屋・深江屋・肥後屋・塩屋・大塚屋・桑名屋・鴻池屋・紙屋・備前屋・宇和嶋屋・塚口屋・淀屋など、此所久しき分限にして商売やめて多く人を過しぬ。昔こゝかしこのわたりにて纔なる人なども、その時にあふて旦那様とよばれて置頭巾、鐘木杖、替草履取るも、是皆、大和・河内・津の国・和泉近在の物つくりせし人の子供。惣領残してすゑずゑをでっち奉公に遣し置、(以下、略)」(『日本永代蔵』)

(続く)

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○○208『自然と人間の歴史・日本篇』17~18世紀での藩政改革(肥後熊本藩、岡山藩)

2017-01-17 10:27:39 | Weblog

208『自然と人間の歴史・日本篇』17~18世紀での藩政改革(肥後熊本藩、岡山藩)

 儒学者の荻生徂徠(おぎうそらい、?~1728)の政談に、こうある。
 「昔ハ在々ニ殊ノ外銭払底ニテ、一切ノ物ヲ銭ニテハ買ハズ、・・・・・元禄ノ比ヨリ田舎ヘモ銭行渡テ、銭ニテ者ヲ買事ニナリタリ。(中略)
 当時ハ旅宿ノ境界ナル故、金無テハナラヌ故、米ヲウリテ金ニシテ、商人ヨリ物ヲ買ヒテ日々ヲ送ルコトナレバ、商人主ト成ッテ、武家ハ客也。」(『政談』)
 これによると、元禄期も18世紀に入ってからは、おしなべて商品経済が社会に浸透していった。「商人主ト成ッテ、武家ハ客也」と言い切っているのは、少し誇張なのかも知れないが、当時の世の変化を鋭敏に感じたものとみえる。
 その弟子である太宰春臺(1680~1747)は、特に経世済民の学に興味を抱いていた。彼は、当時母広く行われていた「町人の大名貸」を、こう評している。
 「近来諸侯大小となく、国用不足にして貧困する事甚し。家臣の俸禄を借る事、少なきは十分の一多きは十分の五六なり。それにて足らざれば、国民より金を出さしめて急を救ふ、猶足らざれば、江戸、京、大坂の富商大賈の金を借る事、年々に巳まず。借るのみにて返すこと罕なれば、子亦子を生みて、宿債増多すること幾倍といふことを知らず。昔熊沢了介が海内諸侯の借金の嵩は、日本に在らゆる金の数に百倍なるべしといへるは、寛文・延宝の年の事なり。其れより七十年を経ぬれば、今は千倍なるべし。今諸侯の借金を如く償はんとせば、有名無実の金何れの処より出んや、然れば只如何にもして、当前の急を救ひて、其の日その時を過ごすより外の計なし。」(『経済録拾遺』(けいざいろくしゅうい、1741~48年頃成立)
 のみならず、当時の経済全般の成立ち、そこから何が帰結されるかについても、丁寧に解説している。
 「今若し領主より金を出して、国内の物産を買ひ取り、民の従来私に売るよりも利多きやうにせば、民必ず之を便利と思ひて喜ぶへし。貨物を悉(ことごと)く買取りて、近傍の国と交易すべき物をば、交易もすべし。大方は江戸、大坂の両所に送りて、・・・・・他の商○(しょうこ)より○標(いれふだ)を取りて貴(たか)き価に売るべし。(中略)凡(およ)そ今の諸侯は、金なくては国用足らず、職責もなりがたければ、唯(ただ)如何(いか)にもして金を豊饒(ほうじょう)にする計(はかりごと)を行ふべし。金を豊饒にする術(すべ)は、市○(しこ)の利より近きはなし。諸侯として市価の利を求むるは、国家を治むる上策にはあらねども、当時の急を救ふ一術なり。」(『経済録拾遺』)
 要するに、できることなら国として藩として商品経済へ参加するのを推奨している。「諸侯として市価の利を求むるは、国家を治むる上策にはあらねども、当時の急を救ふ一術なり」とあるので、なかなか回りくどい気もする。封建制を堀崩しかねない商品経済に身を染めよ、という訳だ。これには、「藩専売制」(はんせんばいせい)への処方箋が付いてあって、「貨物を悉く買取りて、近傍の国と交易すべき物をば、交易もすべし」といぅのである。
 さて、17世紀から18世紀に行われ、後の世代に大きな影響を与えた藩政改革の一つに、肥後熊本藩6代藩主の細川重賢(ほそかわしげかた)の施策(「肥後の宝暦の改革」)があった。彼が藩主に就任したのは1747年(延享4年)年のことで、27歳の青年であった。当時の熊本県の財政は、大いに傾いていた。城下からも、「新しき鍋釜に細川と書き付け置けば金気は出ず」と揶揄(やゆ)されていたらしい。重賢(しげかた)はさっそく、これの改革を目指すことにした。
 改革をうまく進めるには、現場で実行するための有能な人材がいなければならない。斬新であったのはその登用する仕方であって、門閥(もんばつ、家柄)や世襲(親族の縁のある)を第一の尺度としなかった。これらの大概は、石高にも比例している。五百取り用人の堀平太左衛門勝名(かつな)を総奉行に大抜擢し、彼の下に6人の奉行をつけた。大任をまかされた勝名は、12種の職種に分けての家臣団のチームワークで財政再建に当たらせる。勝名は、中下級藩士から志ある者を要職に就け、分権と責任を明確にしたのである。
 当時、積み上がった借金のため、藩の財政は火の車になっていた。まずは勝名自身が、わざわざ大坂にまで出向いて借金の交渉に当たる。その間に重賢は、質素倹約を打ち出して、藩邸の費用を最低限に抑えるなどで支えていく。封建領主としては、「地引合」という検地を実施した事で、「陰田」を減らそうと試みる、これで、税収の確保を目指す時の当時の常道であって、ここまでは多くの藩がやっている。それだけでは足りようがないので、さらに、米に依存する収入減を見直すことで智慧を出した。主なところでは、櫨蝋(はぜろう、ろうそくの原料)の製造や紙漉(かみすき)などの殖産興業にも着手し、それらを藩の専売にすべく努力していく。
 重賢は、人材育成にも智慧を搾ったことが窺える。時習館では、身分に関係なく入校を許したと伝わる。また、薬草栽培園「蕃滋園(ばんじえん)」や医者の養成機関「再春館」を設立したことは、封建制下ではなかなかにできることではない。変わったところでは、「刑法局」を設置し行政と司法を分離するとともに、『刑法叢(草)書』を編纂させた。いわゆる罪刑法定主義の走りだといえよう。刑については、それまでの追放刑を笞刑(ちけい、むち打ち刑)と徒刑(とけい、懲役刑)に分けた。これだと、再犯を防ぐ効果があるうえに、懲役刑の罪人を無償で働かせる事ができると考えた。
 ところで、1764年(明和元年)、1697年の森氏改易後に幕府天領(ばくふてんりょう)となっていた勝山の地に、三浦明次(みうらあきつぐ)の三浦氏が三河国(みかわのくに)西尾藩からこの地に転封(国替え)して立藩した。この間に、備前の岡山藩では、やや異なった展開をたどっていた。1672年(寛文12年)、才人で知られる池田光政が隠居すると、嫡子綱政が二代藩主になった。彼は父と違って目立ったところはなく、凡庸な人であったと伝えられる。ところが、これが幸いしたのが、家老の日置猪右右衛門や、郡代の服部図書と津田永忠、学校奉行の市浦毅斎といった有能な家臣に多くを任せた。特に、津田永忠らが中心となって手掛けた新田では、米と麦の伝統的産物だけでなく、木綿や藺草(いぐさ)の栽培を行うようになる。
 そうした逸材達による藩政への参画、藩主の補佐の御陰で、藩の財政運営、新田開発、百間川の整備、そして後楽園(当時は「御茶屋敷」とか「後園」)の造営など、治世の実を上げたことになっている(「柴田一「岡山の歴史」岡山文庫57、1974」など)。
 1714年(正徳4年)にその綱政が死ぬと継政がこのあとを継ぎ、さらに宗政へと受け継がれる。この間、藩内では引き続き、温暖な山陽道の気候にも助けられてか、比較的穏やかな治世が続く。それを物語るのが、次の珍しい文章といえる。なぜなら、1729年(享保14年)といえば、諸国、とりわけ隣国では百姓一揆が頻発していた。そのとき、岡山藩でも、そうした一揆が起きたらどうしようか、どう鎮めるべきかを、郡代の加世八兵衛、長谷川九郎太に諮問した、といわれる。その二人が差し出した答申の内容がふるっている。
 「近年御近国の御大名様方は、藩の財政が収支相つぐわぬところから、御知行所の百姓ども騒動仕り候、(中略)総じて御無理なる義を下方へ仰付けられ候ては、兼々申しあげ候通り百姓どもうけつけ申さず候、御領内百姓の儀は何の御気遣いなることは御座なく候。」(池田家文書法令集)」
 さらに、治世が継政の孫、治政の代になってからも、郡代が大庄屋に申し渡した、いわゆる「お達し」に、こう書いてあった。
 「この節、所々他領がた百姓騒しく、右につき御郡代より各方へ仰せ聞かされ候は、御領分の儀式は兼て厳重に仰せつけられ置き候ゆえ、申し出し候儀もこれ無きことには候えども、大庄屋、名主ども兼々御取締り念入れ取り向け宜しき所より、何の不埒も相聞き申さず、御満足に思召し候、此後も随分御締り念入れ、名主どもより下方へも得と相移り申すべき旨仰せ渡され候。」(岡山大学「荻野家文書ー諸御用留帳」)。
 これによると、当時の岡山藩内の様子は静謐さを保っていた。そうだとすれば、それは藩当局による農民への封建的搾取の体制が滞りなく行われていることを意味する。これは、治世を行う側としては「概ね結構」ということになるのであろう。そのことを下の方から支えていたものとしては、1704年(宝永元年)に、「在方下役人」がおかれたり、1707年(宝永4年)に大庄屋制が復活して、藩の農民支配が強められていたことも見逃すべきでない。そればかりではない。同藩においては、18世紀に入った1705年(宝永2年)、「ざるふり商人」に販売を公認する31品目をきめた。1707年(宝永4年)頃の岡山城下の賑わいを示すものとして、城下の町人総数はおよそ3万人であった。
 それらに加え、備中と隣あわせの備中の南部においても、この時期、農業の多角化と、それに触発されての商業の発達があったことが知られる。柴田一氏の論考には、こう記されている。
 「備中南部でも、水谷勝隆・勝宗のころ開発された新田地帯を中心に木綿・藺草の栽培が盛んになった。とくに浅口郡玉島湊は、背後の新田地帯の木綿(繰綿・綿実)を大漁に扱う著名な集散地であり、また、都宇郡連島村は多くの藺草問屋・廻船問屋があって、集荷し藺草を大坂に運んだ。自給的な農業から商業的な農業に脱皮すると、百姓たちは肥料問屋・仲買から、干鰯(ほしか)・油粕(あぶらかす)を買い入れ、また、鋤、鍬、鎌のほか、役牛・すきを購入し、唐箕の・唐臼・千歯扱ぎ(せんばこぎ)などをもとめ、農業収益を高めていった。」(柴田一氏の論考には「岡山の歴史」(岡山文庫、1974)。

(続く)

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□26『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(文化)

2017-01-16 09:53:22 | Weblog

26『岡山(美作・備前・備中)の今昔』建武新政・室町時代の三国(文化)

 一方、この時期の仏教界は、武家との関わりを深める中で、様々な方向性が明らかになっていく。その一つの流れに隠遁があった。例えば、寂室元光(じゃくしつげんこう)は、1290年(正応3年)、美作国の高田(現在の勝山町)に、俗姓は藤原として生まれた。早熟の天才肌で、少年の頃から大人も一目おくほどの才気活発であったと伝わる。1302年(正安4年)には出家とある。本人が望んだのだろうかは、明らかでない。その脚であろうか、京都東福寺の無為昭元(むいしょうげん)禅師に師事した。それから臨済宗鎌倉禅興寺の約翁徳倹(やくおうとっけん)禅師の門に入り、そこで「元光」の名を与えられる。1320年(元応2年)には、どのような「つて」であろうか、中国の元(げん)にわたる。その地で中峰明本(ちゅうほうみんぽん)らに師事する。「寂室」の名前は明本から与えられた法号である。
 1377年(嘉暦元年)、37歳で中国から帰国した。変わっているのはその後で、京都へ帰ればそれなりの栄達が予想できた筈だ。ところが、あくまで清貧による思想の深化を極めようとしたものか、それとも民衆とともにありたいと願ってのことだろうか、隠棲(いんせい)を通じての修行の継続を選ぶ。中国地方を遍歴して、市井の人々とも交わったと伝わる。すなわち、中国地方遍歴では、西祖寺、 明禅寺、安国寺、滋光寺、菩提寺、備前金剛寺、八塔寺、金山寺などの諸寺のほか、美作の田原村、備前の吉備中山などへも色々巡ったことがわかっている。さらに、美濃、摂津、山城、近江、伊勢、尾張、甲斐、上野などの国々を遍歴した。これらから、かなりの健脚であったのだろう。
 1360年(延文5年)には、近江(おうみ)守護の近江守護佐々木氏頼からの招聘を断り切れず、近江の愛知川上流の地に一寺の寄進を受け、永源寺(滋賀県永源寺町)の開山(かいさん)となった。その後も後光厳天皇からは京都天龍寺、将軍足利義詮からは鎌倉建長寺に招聘されたがいずれも断り、永源寺から離れようとはしなかった。およそ名誉欲とからは縁遠いところで、生きていたと言える。1367年(貞治6年)、死を悟った彼は、遺偈 (ゆいげ)(永源寺蔵・重要文化財)として後世に遺すのを希望し、「屋後の青山、檻前(らんぜん)の流水、鶴林(かくりん)の双趺(そうふ)、熊耳(ゆうじ)の隻履(せきり)、又是れ空華(くうげ)空子を結ぶ」と書いた。

(続く)

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○○103『自然と人間の歴史・日本篇』平氏と源氏

2017-01-15 21:30:35 | Weblog

103『自然と人間の歴史・日本篇』平氏と源氏

 平安後期になると、力を伸ばしてきた武士の中で、より大きな集団となる者たちが現れる。朝廷を守る実力となり、そのいじらしいほどの朝廷への忠勤、切磋琢磨の中で、しだいに桓武平氏と清和源氏が2大勢力となっていく。1051年(永承6年)、奥州の安部氏が反乱を起こした。朝廷からこれの鎮圧に向かったのが、源頼義(みなもとよりよし)であって、1062年(康平5年)までの12年の間に安部氏の軍と戦った。これを「前九年の役」と呼ぶ。それからややおいた1083年()、今度は、奥州の安部氏の旧領を領有していた清原氏と、陸奥守、源義家(みまもとよしいえ)との間で、戦端がひらかれた。1089年(寛政治元年)までの5年間にわたる戦いで、源氏の勢力の台頭が明らかになった。これを「後三年の役」と呼ぶ。彼らは、東国を中心に、地味ながらも堅い主従の絆を広げていく。
 これに対する平家は、桓武天皇の流れを汲む平氏は、世渡りがうまかった。平正盛(たいらのまさもり)は、1097年(承徳元年)、所領の伊賀国の鞆田村(ともだむら)、山田村の田畑・屋敷地都合二〇町ばかりを時の白河上皇(天皇在は1072年~86年)に関係する六条院という寺に寄進するなどで院に取り入り、院北面のの武士として白河法王の近臣になる。それからの正盛は、法王の御願寺の造営を請け負うなど、股肱の働きをもって法王に使えるのだった。その忠勤の過程で、伊勢を基盤とした平氏台頭の基礎固めが進んでいく。その子の平忠盛(たいらのただもり)の代になると、平氏の勢力は西国の、特に海道筋を中心に勢力を広げていく。彼は、父に継いで白河上皇の寵愛を得て、播磨、伊勢、備前などの国主を歴任するに至った。また、海賊討伐にも功があり、平氏は瀬戸内海の交通の要衝及びその周辺国において確固たる地位を築くに至る。鳥羽上皇にも取り入り、院別当の官職を得る。そして1132年(長承元年)には、鳥羽上皇の御願による得長寿院を造営、その功により、内裏(だいり)の清涼殿(せいりょうでん)への昇殿を許されるまでに出世する。

(続く)

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○○106『自然と人間の歴史・日本篇』平安文化の中の女性と民衆(絵巻など)

2017-01-15 20:30:21 | Weblog

106『自然と人間の歴史・日本篇』平安文化の中の女性と民衆(絵巻など)

 国宝『伴大納言絵巻(ばんだいなごんえことば、とものだいなごんえことば)』上巻・中巻・下巻」は、出光美術館に所蔵されている。『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『鳥獣人物戯画』と並んで四大絵巻物の中でも、当時の世情のやるせない、策略と陰謀に包まれる雰囲気を伝える傑作とされる。この絵巻の構図が珍しいのは、平安時代の貴族など体制側に属する人々と、市井に生きる人々、つまり人民大衆とを一つの連続的に登場させ、その対比でもって画面を際立たせていることにある。

 時は、866年(貞観8年)旧暦閏3月10日の夜、応天門(おうてんもん)が炎上したのが発端だ。原因は放火とされる。公では、大宅首鷹取(おおやのおびとたかとり)の告発をきっかけとして、事件は大納言・伴善男(とものよしお)らの犯行ということで決着した。絵巻の終わりの部分である、彼が逮捕・連行される場面から考えると、ライバルに罪をなすりつけて、左大臣の地位を手にいれようとの企てだとみられたようでもある。しかし、伴大納言の犯行の動機が不明であるなどがあり、その真偽(しんぎ)は藪の中にあった。

 一説には、当時の天皇を取り巻く太政大臣の藤原良房(ふじわらのよしふさ)、右大臣、左大臣で政敵の源信(みなもとのまこと)、大納言の政治的な対立の構図が背後にあったらしい。つまり、いわくつきの、フレームアップ(でっち上げ)であった可能性が高いと見られる。
 絵巻は事件から約300年を経過した平安時代末期に制作されたらしい。図鑑の説明によると、絵の詞書は上巻からは失われている。それでも、中巻・下巻の詞書と同じ文章が説話集『宇治拾遺物語』巻十の冒頭の「伴大納言焼応天門事」にあるとのことだ。どうやら、絵巻物で表されるストーリーは史実どおりに描かれていない、多くの脚色も含まれる。だとすると、人々に語り継がれてきた説話をもとに、作者が半ば空想で創りあげたのであろうか。中身に分け入ると、史実の一部を誇張したり、場面の創作数々あるやに伝えられる。そうとわかってはいても、いままさに朱雀門を駆けぬける人々の切迫した姿が描かれている。紅蓮の炎の状況描写とともに、朱雀門近辺と思しきところでの、風下で逃げ惑う群衆と風上で火事場見物を決め込んでいる貴族や役人との対比が観てきたようにリアルに描かれていて、当時の世の中の縮図がさらけ出されているかのような印象を与えている。

(続く)

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○○115『自然と人間の歴史・日本篇』寺社と荘園と僧兵(10~12世紀)

2017-01-15 10:41:49 | Weblog

115『自然と人間の歴史・日本篇』寺社と荘園と僧兵(10~12世紀)

 寺社と荘園の関わりについては、寄進を受けるのが常套とされていた。寄進地系荘園としての山城国上桂荘(かみかつらのしょう)の事例には、こうある。
 「寄進し奉る、所領の事。合わせて一所は山城国上桂に在り。
  四至(東西南北の境界)。東は桂河東堤の樹の東を限る。南は他領の堺(入り交わる)を限る。西は五本松の下路を限る。北は○河の北、梅津堺の大榎を限る。 
 右当所は、桂津守(かつらつもり)。桂川の船着場の管理者}建立の地なり。津守津公(つぎみ)・兼枝・則光(のりみつ)と次第知行相違なし。○(ここに)御威勢を募り奉らんが為、当荘をもって永代を限り、院の女房(にょうぼう)大納言殿御局に寄進し奉るところなり。中司職にいたりては、則光の子々孫々相伝すべきなり。後日のため寄進の状、件の如し。
  長徳三年(997年)年九月十日。玉手(たまて)則光判、玉手則安判」(出典:東寺百合文書)
 これに「桂津守」とは、代々この地を知行してきた人物をいい、また「院の女房」とは東三条藤原詮子に仕える者をいう。開発によって領主となったものの、庇護を求めてこの大納言殿御局(だいなごんおつぼね)に当地を寄進の上、自らは預所職(あづかりどころしき)なり下司職(げししき)といった現地の荘官(しょうかん)に任ぜられることによりそれまで通りの実質支配を行った。
 もう一つの寄進地系荘園として、肥後国鹿子木荘(ひごのくにかのこぎのしょう)を取り上げよう。
 「鹿子木の事。
 一、当寺の相承は、開発領主沙弥(しゃみ)寿妙(じゅみょう)嫡々相伝の次第なり。
 一、寿妙の末流高方(中原高方。寿妙の孫)の時、権威を借らんがために、実政卿をもって領家と号し、年貢四百石をもって割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職(あずかりどころしき)となる。
 一、実政の末流願西(がんさい。実政の曾孫)微力の間、国衙の乱妨(らんぼう)を防がず(防ぎきれなくなった)。このゆえに願西、領家の得分二百石をもって、高陽院内親王(かやのいんないしんのう、鳥羽天皇の娘)に寄進す。件の宮薨去の後、御菩提の為め・・・・・勝功徳院(しょうくどくいん)を立てられ、かの二百石を寄せらる。その後、美福門院(びふくもんいん)の御計(おんはからい)として御室(おむろ、仁和寺)に進付せらる。これ則ち本家の始めなり。」(出典:東寺百合文書)
 この文中「開発領主沙弥」とあるのは、在俗の僧のこと。未開墾地、つまり荒地を開発して領主になった者。「実政卿」とは、前参議大宰大弐(だざいざいに)藤原実政をす指す。この人物が当地の寄進を受けた「領家」となったのは、1086年のことであった。ところが、彼の後代が国衙(国司、朝廷の役人)からの圧力に抗し得なかったことから、
「領家の得分二百石をもって、高陽院内親王」に寄進する。この人物が死んだ後は、今度はこの200石は勝功徳院へと寄進先を変える。さらにその後には、より大きな寄る辺としての美福門院(内親王の母、得子)のはからいを頼って、御室(仁和寺、にんなじ)へまた寄進先を変える。「これ則ち本家の始めなり」ということで、東寺のものとなったという経緯が語られる。

(続く)

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○○113『自然と人間の歴史・日本篇』院政

2017-01-14 20:07:23 | Weblog

113『自然と人間の歴史・日本篇』院政


 それより前の摂関政治と、それより後の院政とのはざまにあったのが、後三条天皇による親政(1068~72)であった。
いわゆる「延久の荘園整理令」に、こうある。
 「延久元年(1069)二月廿三日、寛徳二年以後新立荘園を停止すべし。縦ひ彼の年以往と雖も、立券分明ならず、国務に妨げ有る者同じく停止の由宣下(せんげ)す。(同年)閏二月十一日、始めて記録庄園券契所を置き、寄人(よりうど)等を定む。」(『百練抄』)
 このことは、後代に書かれた『愚管抄』にも、こうある。
 「コノ後三条位ノ御時、・・・・・延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官符モナクテ公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿ノ時、一ノ所ノ御領御領トノミ云テ、庄園諸国ニミチテ受領ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコシメシモチタリケルニコソ。
 サテ宣旨ヲ下サレテ、諸人領知ノ庄園ノ文書ヲメサレケルニ、宇治殿ヘ仰ラレタリケル御返事ニ、「皆サ心エラレタリケルニヤ、五十余年君ノ御ウシロミヲツカウマツリテ候シ間、所領モチテ候者ノ強縁ニセンナド思ツヽヨセタビ候ヒシカバ、サニコソナンド申タルバカリニテマカリスギ候キ。ナンデウ文書カハ候ベキ。…」ト、サハヤカニ申サレタリケレバ、・・・・・。」(『愚管抄』)
 これに「延久の記録所」とあるのは、延久の荘園整理の時に設置された記録荘園券契所のことで、荘園の証拠文書(巻契)を記録する役所を指していた。当時、藤原頼通が権勢を振るっていて、「ここは摂関家の御領だ」などといって諸国に藤原氏を始めとする荘園があふれ、国司の受領の業務が滞っていた。これに気づいた後三条天皇が宣旨を下し、藤原氏においても同記録所に文書を提出するようにと、牽制したもの。
次に院政期に移ろう。1106年(嘉承元年)、白河法王の治世、紀伊の国の在庁官人により作成された土地事情に関する報告書には、こうある。
 「当国(紀伊国)は七箇郡を管する也。この七箇郡のうち、牟ろ(むろ)、日高(そだか)、海部(すいふ)、在田(ありた)、伊都(いと)、那賀(なか)の六箇郡は毎都(どの郡も)十分の八か九はすでに荘領(荘園)也。公地いくばくもあらず。(公地として)僅かに残るところは、名草一郡ばかり也。」(歴史資料「高野山文書」より)
 この期になってからの土地所有の本質については、前述の西谷氏の論説にこうある。
 「院政期に成立した中世荘園が、中世前期における領主的土地所有の典型である。荘園公領制の規制が消滅した結果、中世後期には公領所属の所領が荘園と同質化(荘園化)し、中世の領主的土地所有は完成段階に達した。また中世後期には、下級土地所有の分野で顕著な発展がみられる。畿外では作手が(狭義の)土地所有権として確立し、畿内では「職の分化」が生じた。近世の検地を通じて中世の下級土地所有権は領主の権利に組み込まれ、近世的な領主的土地所有が成立した。」(西谷正浩氏の前掲書)
 この当時は、摂関家である藤原氏と、設けられたばかりの院庁の勢力とが拮抗していた。この資料によると、その国(現在のほぼ和歌山県に当たる)の田畑のうちおよそ8~9割は荘園主のものと化しており、班田である公地は僅かになりつつあった。おまけに「この報告書を作成している在庁官人というのが、いわゆる地方豪族で事実上荘園の所有者である」(「人物日本の歴史3王朝の栄華」小学館の配本に付属の月報(15)にあるM氏の論考より抜粋させていただいた)というのだから、奈良期からの中央政府の土地施策は、この地域においては事実上瓦解していた。
 同氏はこの状況を評して、つぎのように慨嘆しておられる。
「公地を維持すべき国衙(こくが)の役人が、同時に荘園の所有者であったのだから、律令政治の矛盾もここにきわまれり、といえる。
 それでも受領(ずりょう)(遥任国司(ようにんこくし)の代官として、実際に任国に赴任する国司)たちは、その残り少ない公地の農民(公民)から思うままに搾取し、中央貴族に劣らない財をなすことが多かったのである。(M)」
 こうした土地所有関係に関連して、鎌倉幕府の基本法とされる御成敗式目の42条に、農民の社会的地位を伝えるこんな下りがある。前提として、農民たちは農地にはりつくことで暮らし・生計を立てているとしよう。西洋においては、これを「農奴」と呼ぶ。彼らは、領主から貸与された土地を耕作し、作物を収穫をなす。その収穫の中から、領主や国家に対し地代その他の税等を納め、また数々の賦役をこなす。彼らには、奴隷と異なり人格は認められるものの、住所の移動や転業の自由の奪われている場合が多かった。
 「百姓逃散の時、逃毀(ちょうき)と称して、妻子を抑留して、資財を奪ひ取る。所行の企てはなはだ仁政に背く。もし召し決せらるるの処、年貢所当の未済あらば、その償ひを致すべし。然らずんば、、早く損物を糾(きゅう)し返さるべし。ただし去留おいてはよろしく民意に任すべきなり。」
 つまりこの条では、領主に年貢をきっちり払い込めば、「去留おいてはよろしく民意に任すべきなり」となって「去就の自由」が認められることになる。それまでは、「百姓逃散の時、逃毀(ちょうき)と称して、妻子を抑留して、資財を奪ひ取る」ことになっていたのが、「仁政に背く」として改められ形だ。
 藤原明衡は、11世紀に著した自身の評論集の中で、既に手広く行われていた大規模名田経営(みょうでんけいえい)につき、こういう。
 「三の君の夫は出羽権介田中豊益。偏に耕農を業となし、更に他の計ない。数町の戸主、大名の田堵なり。兼ねて水旱の年を想い、鍬・鍬を調え、暗に腴迫の地を度り、馬把・犁を繕う。或いは堰塞・堤防・□渠・畔畷の功に於て田夫農人を育み、或いは種蒔・苗代・耕作・播殖の営に於て五月男女を労うの上手なり。作るところの□・□・粳・糯の苅頴、他の人に勝り、舂法、毎年増す。
 しかのみならず薗畠に蒔くところの麦・大豆・大角豆・粟・黍・稗・蕎麦・胡麻、員を尽くして登り熟す。春は一粒を以て地面に散らすと雖も、秋は万倍を以て蔵内に納む。凡そ東の作より始めて、西の収に至るまで、聊も違誤なし。常に五穀成就稼穡豊膽の悦を懐き、未だ旱魃・洪水・蝗虫、不熟の損に会わず。検田・収納の廚、官使送迎の饗、更に遁避するところなし。況や地子・官物・租穀・租米・調庸、代稲・□米・使料・供給・土毛・酒直・種蒔・営料・交易・佃・出挙・班給等の間、未だ束把合勺の未進を致さず」(『新猿楽記』)
この文中に「出羽権介田中豊益」(でわごんのすけたなかのとよます)なる人物は、国司から数町歩の名田(みょうでん)を請け負って耕作の責任を負うという意味で、大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる。この仕組みでは、10世紀初め頃からはもはや多くの地域で律令制に基づく、個人賦課方式としての「班田」は行われていないことが事実上の前提。そのため、中央から派遣される国司、すなわち通称「受領」(ずりょう)は、国の定める諸税の徴収などの多くを彼らに請け合わせ、自らは彼らを束ねたその上にあぐらをかいてその地方の支配を行う。その生態をありありと伝えている一つが、「受領ハ倒る所ニ土ヲツカメ」(源隆国か『今昔者物語』)、つまり「受領というものは転んでも(土をつかむくらい)ただではおきない」との下りであろうに。

(続く)


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○○114『自然と人間の歴史・日本篇』荘園制の拡大(~12世紀)

2017-01-13 20:19:57 | Weblog

114『自然と人間の歴史・日本篇』荘園制の拡大(~12世紀)

次に院政期に移ろう。1106年(嘉承元年)、白河法王の治世、紀伊の国の在庁官人により作成された土地事情に関する報告書には、こうある。
 「当国(紀伊国)は七箇郡を管する也。この七箇郡のうち、牟ろ(むろ)、日高(そだか)、海部(すいふ)、在田(ありた)、伊都(いと)、那賀(なか)の六箇郡は毎都(どの郡も)十分の八か九はすでに荘領(荘園)也。公地いくばくもあらず。(公地として)僅かに残るところは、名草一郡ばかり也。」(歴史資料「高野山文書」より)
 この期になってからの土地所有の本質については、前述の西谷氏の論説にこうある。
 「院政期に成立した中世荘園が、中世前期における領主的土地所有の典型である。荘園公領制の規制が消滅した結果、中世後期には公領所属の所領が荘園と同質化(荘園化)し、中世の領主的土地所有は完成段階に達した。また中世後期には、下級土地所有の分野で顕著な発展がみられる。畿外では作手が(狭義の)土地所有権として確立し、畿内では「職の分化」が生じた。近世の検地を通じて中世の下級土地所有権は領主の権利に組み込まれ、近世的な領主的土地所有が成立した。」(西谷正浩氏の前掲書)
 この当時は、摂関家である藤原氏と、設けられたばかりの院庁の勢力とが拮抗していた。この資料によると、その国(現在のほぼ和歌山県に当たる)の田畑のうちおよそ8~9割は荘園主のものと化しており、班田である公地は僅かになりつつあった。おまけに「この報告書を作成している在庁官人というのが、いわゆる地方豪族で事実上荘園の所有者である」(「人物日本の歴史3王朝の栄華」小学館の配本に付属の月報(15)にあるM氏の論考より抜粋させていただいた)というのだから、奈良期からの中央政府の土地施策は、この地域においては事実上瓦解していた。
 同氏はこの状況を評して、つぎのように慨嘆しておられる。
「公地を維持すべき国衙(こくが)の役人が、同時に荘園の所有者であったのだから、律令政治の矛盾もここにきわまれり、といえる。
 それでも受領(ずりょう)(遥任国司(ようにんこくし)の代官として、実際に任国に赴任する国司)たちは、その残り少ない公地の農民(公民)から思うままに搾取し、中央貴族に劣らない財をなすことが多かったのである。(M)」
 こうした土地を巡る所有を中心とする諸関係に関連して、鎌倉幕府の基本法とされる御成敗式目の42条に、農民の社会的地位を伝えるこんな下りがある。ここでの話の前提としては、農民たちは農地にはりつくようにして暮らし・生計を立てているとしよう。西洋においては、これを「農奴」と呼ぶ。彼らは、領主から貸与された土地を耕作し、作物を収穫をなす。その収穫の中から、領主や国家に対し地代その他の税等を納め、また数々の賦役をこなす。彼らには、奴隷と異なり人格は路米良レ邸他ものの、移動や転業の自由が奪われている場合が多かった。
 「百姓逃散の時、逃毀(ちょうき)と称して、妻子を抑留して、資財を奪ひ取る。所行の企てはなはだ仁政に背く。もし召し決せらるるの処、年貢所当の未済あらば、その償ひを致すべし。然らずんば、、早く損物を糾(きゅう)し返さるべし。ただし去留おいてはよろしく民意に任すべきなり。」
 つまりこの条では、領主に年貢をきっちり払い込めば、「去留おいてはよろしく民意に任すべきなり」となって「去就の自由」が認められることになっている。それまでは、「百姓逃散の時、逃毀(ちょうき)と称して、妻子を抑留して、資財を奪ひ取る」ことになっていたのが、「仁政に背く」として改められ形だ。
 藤原明衡は、11世紀に著した自身の評論集の中で、既に手広く行われていた大規模名田経営(みょうでんけいえい)につき、こういう。
 「三の君の夫は出羽権介田中豊益。偏に耕農を業となし、更に他の計ない。数町の戸主、大名の田堵なり。兼ねて水旱の年を想い、鍬・鍬を調え、暗に腴迫の地を度り、馬把・犁を繕う。或いは堰塞・堤防・□渠・畔畷の功に於て田夫農人を育み、或いは種蒔・苗代・耕作・播殖の営に於て五月男女を労うの上手なり。作るところの□・□・粳・糯の苅頴、他の人に勝り、舂法、毎年増す。
 しかのみならず薗畠に蒔くところの麦・大豆・大角豆・粟・黍・稗・蕎麦・胡麻、員を尽くして登り熟す。春は一粒を以て地面に散らすと雖も、秋は万倍を以て蔵内に納む。凡そ東の作より始めて、西の収に至るまで、聊も違誤なし。常に五穀成就稼穡豊膽の悦を懐き、未だ旱魃・洪水・蝗虫、不熟の損に会わず。検田・収納の廚、官使送迎の饗、更に遁避するところなし。況や地子・官物・租穀・租米・調庸、代稲・□米・使料・供給・土毛・酒直・種蒔・営料・交易・佃・出挙・班給等の間、未だ束把合勺の未進を致さず」(『新猿楽記』)
この文中に「出羽権介田中豊益」(でわごんのすけたなかのとよます)なる人物は、国司から数町歩の名田(みょうでん)を請け負って耕作の責任を負うという意味で、大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる。この仕組みでは、10世紀初め頃からはもはや多くの地域で律令制に基づく、個人賦課方式としての「班田」は行われていないことが事実上の前提。そのため、中央から派遣される国司、すなわち通称「受領」(ずりょう)は、国の定める諸税の徴収などの多くを彼らに請け合わせ、自らは彼らを束ねたその上にあぐらをかいてその地方の支配を行う。その生態をありありと伝えている一つが、「受領ハ倒る所ニ土ヲツカメ」(源隆国か『今昔者物語』)、つまり「受領というものは転んでも(土をつかむくらい)ただではおきない」との下りであろうに。

(続く)


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□18『岡山の今昔』三国の成立と発展(平安時代中期~晩期)

2017-01-11 21:37:10 | Weblog

18『岡山(美作・備前・備中)の今昔』三国の成立と発展(平安時代中期~晩期)

 律令的な人民の支配(公地公民の制)も、10世紀に入るとだんだんに崩れていった。
例えば、785(延暦4年)に出された、朝廷によるある官符の一節には、こうある。
 「右、頃年の間、不課は増益し課丁は損減す。郡司等の撫養、方に乖き、課口損減し、姦詐多端にして、不課益増す。授田の日、虚に不課と注し、多く膏腴の上地を請い、差科の時、課役を規避して、常に死逃の欺妄を称す。(中略)今宜しく所部の百姓の国中に浮宕するものを検括し、厳に捉搦を加え、妄死逃走して除帳の輩を勘注せしむべし。」(後に『類聚三代格』(法令集)に収録)
 奈良時代の中期、一定の条件の下で土地の私有化を認めたのが、墾田永年私財法(743年)であった。その後も、国の人民管理は、戸籍計帳を元に、一人ひとりに税や用役を課するのを建前としていた。けれどもその間、租税を逃れるための、公民の浮浪や逃亡そして偽籍(男を女と偽るなど)といった消極的な戸籍の空洞化が、止むことはなかった。それが平安時代の中期にもなると、大っぴらに空閑地・荒廃地を開墾したり占有する富裕な農民(富豪層)、院宮王臣家(有力な貴族・大寺院・皇族など)が相次いで出てくる。こうした彼らによって経営される土地のことを、「荘園」を呼ぶ。
 もちろん、当該の土地を開墾したり占有するとのであるから、朝廷(天皇)の勅旨田(ちょくしでん、天皇の直営田)は除かれる。それらの土地は、原則として一定の税が課せられる輸租田なのであるから、まだ彼らの完全なる私有地とは成っていなかった、といって差し支えあるまい。尚更に、12世紀になって広く見られるようになる「不輸・不入の権」を獲得した完全な私有地としての荘園でもないのだが。彼ら、ともあれ、権門勢家たちは、こうして諸々の方法で占有下に置いた土地で、浮浪・逃亡など戸籍記載地から脱落した人民を使役することをためらわなくなっていく。
 続いて、988年の尾張国からの訴えの解文(げぶみ)には、こうある。
 「尾張国の郡司(ぐんじ)百姓等(ひゃくせいら)解(げ)し申す。官裁を請うの事。
 裁断せられんことを請う、当国守(とうこくのかみ)藤原朝臣元命(あそんもとなが)、三箇年内非法の官物を責め取り、并(なら)びに横法(おうほう)を濫行(らんぎょう)すること三十一箇条の愁状(しゅうじょう)。
一(1)、裁断せられんことを請う、例挙(れいこ)の外(ほか)に三箇年の収納、暗に加徴(かちょう)せる正税四十三万千二百四十八束の息利(そくり)十二万九千万百七十四束四把(わ)一分(ぶ)の事。(中略)
一(3)、裁断せられんことを請う、官法の外意に任せて租穀段別三斗六升を過徴するの事。(中略)
一(4)、裁断せられんことを請う、進る所の調絹の減直、并びに精好の生糸の事。(中略)
一(7)、裁断せられんことを請う、交易(きょうやく)と号して誣(し)ひ取る絹・手作布・麻布・漆(うるし)・油・○(からむし)・茜(あかね)・綿等の事。
一(13)、裁断せられんことを請う、三箇年池溝并びに救急料稲万二千余束を充て行 わざるの事。(中略)
一()、裁断せられんことを請う、旧年用残の稲穀を以て京宅に春運せしむるの事。 (中略)
一(27)、裁断せられんことを請う、守(かみ)元命朝臣京より下向するに、毎度有官散位の 従類、同じく不善の輩を引率する事。(中略)
一(30)、裁断せられんことを請う、元命朝臣の子弟郎等、郡司百姓の手より雑物を 乞い取るの事。(中略)
一(31)、裁糺せられんことを請う、去ぬる寛和三年二月七日諸国に下し給わるる九 箇条の官符の内、三箇条を放ち知らしめ、六箇条を下知せしめざるの事。 (中略)
 以前の条の事、憲法の貴きを知らんがために言上すること件の如し。(中略)望み請ふらくは、件の元命朝臣を停止せられ、改めて良使を任じ、以て将(まさ)に他国の牧宰(ぼくさい)をして治国優民の褒賞を知らしめんことを。(中略)仍(よ)りて具(つぶさ)さに三十一箇条の事状を勒(ろく)し、謹みて解す。
  永延(えいえん)二年(988年)十一月八日、郡司百姓等」(『尾張国解文』)
ここに守(かみ)某とあるのは、受領(ずりょう)と略称される地方の国司(こくし)をいい、「郡司百姓等」は地方の有力農民を指す。これらの項目について、調べの上、「官裁」(太政官における裁定)をお願いするとの「解」(上申文書)なのだ。例えば7条目に「交易」云々とあるのは、正税で地方の産物を買い、中央に送る制度によるのだといって、生産者から作物を騙し取っていたことを告発したもの。これらからは、律令制の下、上級貴族なり寺社なりの土地・人民の私的支配に対する、地方の富裕農民層の抵抗が読み取れる。
 このような状況に鑑みて、施政者の側からは、色々と立て直しが試みられる。
902年(延喜2年)に公布された、荘園整理の推進のために出された「太政官符」には、こうある。時の政権積む最高担当者は、菅原道真を失脚させて実権を握ったばかりの左大臣、藤原時平であった。
 「太政官符す
 将に勅旨開田ならびに諸院諸宮及び五位以上の、百姓の田地舎宅を買い取り、閑地荒田を占請するを停止すべきの事。
 右、案内を検ずるに、このごろ勅旨開田遍く諸国に在り。空閑荒廃の地を占むると雖(イエド)も、これ黎元の産業の便を奪ふなり。新之(しかのみならず)新たに庄家を立て、多く苛法を施す。課責尤(もっと)も繁く、威脅耐え難し。且(か)つ諸国の奸濫(かんらん)の百姓、課役を遁(のが)れんがために、ややもすれば京師(とも)に赴きて好みて豪家に属し、あるいは田地をもって詐りて寄進と称し、あるいは舎宅をもって巧みに売与と号し、遂に使に請ひて牒を取り封を加え○(ぼう、境界を示す標識)を立つ。国司矯○(きょうしょく、偽り)の計と知ると雖も、而(しか)も権貴の勢いを憚(はばか)りて口を鉗(つぐ)み舌を巻き敢えて禁制せず。○(これ)に因りて、出挙(すいこ)の日、事を権門に託して正税を請けず、収納の時、穀を私宅に蓄へて官倉に運ばず。賦税の済(な)し難き、斯(ここ)に由らざるは莫(な)し。加以路遺(しかのみならずろい)の費す所、
田地遂に豪家の庄となり。○○(かんこう)の損なふ所、、民烟(みんえん)長(とこしな)へに農桑の地を失ふ。終(つい)に身を容(え。)るに処なく、還りて他境に流冗(るじょう)す。(中略)
 宜しく当代以後、勅旨開田は皆悉(ことごと)く停止して民をして負作せしめ、その寺社百姓の田地は各公験(おのおのくげん)に任せて本主に還し与うべし。且(か)つ夫(そ)れ百姓、田地舎宅をもって権貴に売り寄するは、蔭贖(おんしょく)を論ぜず、土浪を弁ぜず、杖六十に決せよ。もし符の旨に乖違(かいい)して嘱を受けて買い取り、ならびに閑地荒田を請占するの家あらば、国須らく具に耕主ならびに署牒の人、使者の名を録して早速に言上すべし。(中略)但し元来相伝して庄家たること券契分明にして、国務に妨げ無き者はこの限りにあらず。よりて須らく官符到る後百日の内に弁行し、状をつぶさにして言上すべし。延喜二年(902年)三月十三日」(『類聚三代格』)
 ここの下段で「宜しく当代以後、勅旨開田は皆悉(ことごと)く停止して民をして負作せしめ、その寺社百姓の田地は各公験(おのおのくげん)に任せて本主に還し与うべし」云々とあるのは、朝廷が勅旨田を開くのを手始めとした。この田圃となる所以は、天皇の命令により諸国の空閑地・荒廃地などを占有し開墾することをいい、これが成るや皇室領の扱いとなるので、「不輸租」の特権が与えられる訳だ。これからは、勅旨田の開田は一切やめて人民に賃租形式で耕作を請け負わせる、つまり律令そもそもの班田収受法の復活を目指そうとの、「上から目線」での政策者の意図するところが窺える。
 続いて914年(延喜14年)、三善清行が、醍醐天皇の求めに応じて提出した「意見封事十二箇条」には、「中位の下から目線」でこう記される。
 「臣某言す。・・・・・臣去にし寛平(かんぴょう)五年(893)に備中介(びっちゅうのすけ)に任ず。彼の国の下道郡(しもつみちのこおり)の迩磨郷(にまのさと)有り。爰(ここ)に彼の国の風土記を見るに、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の六年(660)に、大唐の将軍蘇定方、新羅の軍(いくさ)を率い百済を伐(う)つ。百済使を遣はして救はむことを乞ふ。天皇筑紫に行幸したまひて、将に救(すくい)の兵を出さむとす。(中略)路に下道郡に宿したまふ。
 一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此郷の軍士を徴(め)したまふ。即ち勝兵(しょうへい)二万人を得たり。天皇大いに悦びて、此の邑(むら)を名づけて二万郷(にまごう)と曰(のたま)ふ。後に改めて迩磨郷といふ。(中略)而るに天平神護年中に、右大臣吉備朝臣、大臣といふをもて本郡の大領を兼ねたり。試みに此郷の戸口を計へしに、纔(わずか)に課丁(かてい)千九百余人有りき。貞観(859~877)の初めに、故民部卿藤原保則(ふじわらやすのり)朝臣、彼国の介(すけ)たりし時に、(中略)大帳を計(かぞ)ふるの次(つい)でに、其の課丁を閲(けみ)せしに、七十余人有りしのみ。清行任に到りて、又此の郷の戸口を閲せしに、老丁(ろうてい)二人・正丁(せいてい)四人・中男(ちゅうなん)三人有りしのみ。去にし延喜十一年(911)に、彼の国の介(すけ)藤原公利(ふじわらきみとし)、任満ちて都に帰りたりき。清行、迩磨の郷の戸口、当今幾何を問ふに、公利答へて日く、『一人も有ること無し』と。
意見十二箇条(中略)
一、まさに水旱を消し、豊穰を求むべき事。(中略)
一、奢侈を禁ずるを請うの事。(中略)
一、諸国に勅し、見口の数に随いて口分田を授くるを請うの事。(中略)
一、大学生徒の食□を加給するを請うの事。(中略)
一、五節の妓員を減ずるを請うの事、(中略)
一、旧に依りて判事の員を増置するを請うの事。(中略)
一、平均に百官の季禄を充て給うを請うの事。(中略)
一、諸国の少吏并びに百姓の告言訴訟に依りて朝使を差遣する停止するを請うの事。(中略)
一、諸国勘籍人の定数を置くを請うの事。(中略)
一、贖労人をもって諸国の検非違使及び弩師に補任するを停むるを請うの事。(中略)
一、諸国の僧徒の濫悪、及び宿衛の舎人の凶暴を禁ずるを請うの事。(中略)
一、重ねて播磨国魚住泊を修復するを請うの事。(中略)
延喜十四年四月廿八日
従四位上行式部大輔臣三善朝臣清行上る」(「三善清行の意見封事十二箇条」)
果たせる哉(かな)。この意見書は、律令制支配の後退を憂え、たがを締め直すことで往年の「輝き」を取り戻そうとしたのであろうか。当地(現在の倉敷市の上二万、下二万あたりか)では、課丁、すなわち調庸(ちょうよう)を負担すべき成年(17歳以上)男子がつるべ落としに減っていった。この文書においては、かくもショッキングな状況へと繋がっていった理由には掘り下げていなく、「天下の疲弊ここに極まれり、これは何とかいないといけない」という意味での、織り込み済みというなのだろうか。


(続く)

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□1の2『岡山の今昔』先史年代の吉備(瀬戸内海、成り立ちと寒冷化、13万年前~1万年前)

2017-01-10 16:09:15 | Weblog

1の2『岡山の今昔』先史年代の吉備(瀬戸内海、成り立ちと寒冷化、13万年前~1万年前)

 地球上の氷河時代は、氷期(極に氷が存在することで、こう呼ばれる)と間氷期とに分かれる。両者は、近くでは10万年単位で入れ替わってきている。現在から数えて一番近い氷期(最終間氷期)は、「エーム間氷期」と呼ばれる。13万年前頃~11万5千年前頃のことであった。

 北グリーンランドでの土壌調査によると、最終間氷期が始まったばかりの12万6千年前頃が最も温暖で、気温が現在よりも約8℃±4℃高かったことが分かっている。その後約10万年が経過した、今から約2万1000年前には、地球は氷期(一番最近のものなので、「最終氷期」と呼ぶ)のピーク(最盛期)にあった。この時期には、数十万立方キロメートルとも推測される大量の氷がヨーロッパや北米に氷河・氷床として積み重なった。海水を構成していた水分が蒸発して降雪し陸上の氷となったためだと推測される。地球上の海水量が減少した結果、海面変化が著しいところでは約120メートルも低下したところもあり、その影響で海岸線は現在よりも相当分沖合に移動していた。
 この海水準がもっとも低下した時代、アジアとアラスカの間にはベーリング陸橋が形成された。南半球の東南アジアにおいては、現在の浅い海が低い陸地になっていた。そして日本列島およびその周辺では、海岸線の低下によって北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなっていた。また、現在の瀬戸内海や東京湾もほとんどが陸地となっていたことがわかっている。それからであるが、この最終氷期が終わり温暖化が始まった状態から、今から1万2800年頃から1万1500年前頃にかけて、北半球の高緯度地方のイングランドなどを中心に寒冷化の揺り戻しが起こった。これをヤンガードリアス期と呼ぶ。その影響は、軽微ながら日本列島にも及んだと考えられている。
 それでは、今から約数万~2万年前の日本列島、その中の瀬戸内海は、どのようであったのだろうか。例えば、瀬戸内海に南に鋭く出っ張っている鷲羽山、その登山道に設けられている案内板の一つ「瀬戸内海のおいたち」には、「瀬戸内海は、一つの大きな地溝帯で、全体が大きなブロックに分かれています。

 そしてブロック別にうきあがったり沈んだりしてその凹凸に海が入りこみ、いわゆる多島海になったり、ぜんぜん島のない灘になったりしています」とある。これからも概略が窺えるように、当時は、氷河期(現在に一番近いというという意味で「最終氷河期」とも)の末期にあたり,世界規模の寒冷化の影響で海水面が低くなり,瀬戸内一帯は広大な草原であったといわれている。

 これが真実であるなら、当時は対岸の四国まで海を隔てて指呼の距離というどころか、浅瀬を歩いてわたれるほどであったのかもしれない。今の倉敷あたりは、つまるところ起伏と変化に富んだ陸地であって、沼あり、川あり、小高い台地ありで、海生や陸生の生き物が住み着いていたのではないか。古代の人々はその台地や洞窟に住居を構えられ、住み着いたりして、主にそれらを狩って食料としていたことが窺えるのである。
 では、このあたりに人類の足跡が認められるのであろうか。答えは、「是」である。そのことを覗わせるものに、倉敷周辺の小高いところ、つまり海面下でなかったところに散らばる遺跡がある。人々が住みはじめた痕跡が明らかに認められるのは、旧石器時代までさかのぼる。代表的なところで拾うと、例えば、児島の鷲羽山遺跡などの遺跡がそれである。この当たりには、当時の人々が使っていた石器が数多くみつかっている。同じく鷲羽山への登山道にしつられてある案内石版には、「鷲羽山には、数万年の昔から人類が住みついていました。彼等は香川の五色台付近に産出するサヌカイトをいう岩石を加工してつくった石器をつかい、魚や野獣を捕らえて生活していました」とある。
 それが終わった後には、再び地球温暖化が進み出していく。少なくとも6000年前くらいからは、温暖化による海水面の上昇がみられるようになっていく。日本列島周辺では、この現象を「縄文海進」(じょうもんかいしん)と呼び慣わしている、その最盛期には,日本列島の津々浦々、海外線の至るところで、現在の平野部の奥深くまで海水が入り込んだ。

 現在の瀬戸内海周辺も、その例外ではなかった。倉敷市の市域の北半を中心とする付近には、瀬戸内海とつながる細長い内海が東西に広がっており、その南の先の海の中に「児島」という島が浮かんでいた。当時の瀬戸内海は豊かな海で阿つたことだろう。内海にして魚貝類の繁殖する海域であり、かつ温かかったことから、人々が住みやすい環境であったであろうことは想像に難くない。これらの相乗効果で、瀬戸内海の沿岸は西日本有数の縄文貝塚遺跡の密集地となっていたのではないかと推測される。

(続く)

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○○129『自然と人間の歴史、日本篇』鎌倉仏教の勃興(禅宗など)

2017-01-10 09:51:13 | Weblog

129『自然と人間の歴史』鎌倉仏教の勃興(禅宗など)

 こうした極楽浄土を強調する日本仏教主流に対し、一際異彩を放つのが禅宗に他ならない。昔仏教を学びはじめの私は、禅は仏教とは異なる思想なのかと思い違いしていた。ともあれ大乗仏教の一分派である禅宗は、釈尊から数えて28代目の達磨大師(だるまたいし)が開祖とされる。達磨は、謎に包まれた人物で知られる。布教のためか、何のためなのかわからないが、インドからぶらり中国にやってきて、嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に滞在していた。彼の教えは、まとまったものは特に何も残されていない。その彼は、「面壁9年」といって、食べたり、寝ていたりする以外は、その間ずっと中国の少林寺(しょうりんじ)や、その付近の山中にある、とある洞窟の中で座っていたのだそうな。
 その時の修行の姿は、雪舟の『慧可断臂図(えかだんぴず)』という作品に描かれている。大師の後ろに立っているのは、当時の弟子になりたい禅光(しんこう)とされる。彼は、後に大師の跡を継いで禅宗の第二祖慧可(えか)となる人物だ。雪舟が中国に渡ったときの体験を元にした想像の産物か、同時代の明の画家推戴進(たいしん)の図を模写したのではないかとも言われる。そういえば、達磨大師が梁の武帝と交わした問答が伝わっている。あるとき、武帝は「私の前に座っている御仁は何者か?」と達磨に尋ねるや、すかさず彼は「不識」、つまり「知らず」と答えたらしい。自分の今座っている存在時代が、実は突き止めていくと、何がどうなっているのか、確かなことはわからないということなのかも知れない。世に、実存主義哲学(じつぞんしゅぎてつがく)というものがある。何やら、実存は本質に先立つもので、その実存はこちらから何らかの行動を起こさないかぎり、当の本人にとって自分は何者なのか永久にわからない。この道理については、なりやら、量子力学でいわれる極微の世界にも通じるのだろうか。ジャンポール・サルトルの唱えた実存主義にも何かしら通じるものがあるのではないか。
 この禅宗という仏教宗派は、悟りを得るのに、座禅をもって万物と相対することに特徴がある。それゆえ、浄土宗系の「絶対他力」乃至は「他力本願」に対し、こちらは「自力」の修行を重ねることで悟りに達するのを強調する。後に中国の地で発展したのが、雲門宗(うんもんしゅう)、い仰宗(いぎょうしゅう)、法眼宗(ほうげんしゅう)、曹洞宗(そうとうしゅう)及び臨済宗(りんざいしゅう)であり、まとめて「五宗」と通称される。さらに臨済宗には楊岐派、黄龍派の二派をも加えて、全体を「五家七宗」と呼ぶこともある。宋代になると、曹洞宗及び臨済宗が力を持ってくる。日本には、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗(おうばくしゅう)などが伝わる。日本の鎌倉期には、栄西(えいさい)や道元(どうげん)が中国の仏教から禅宗の流れを汲んだ教えを持ち帰り、日本に広めた。
 臨済禅は栄西(えいさい)が中国の宋から持ち帰る。武士にも参禅する者が相次いでいく。栄西その人は、備中国の吉備津神社の神主、賀陽(かや)氏の出身と聞く。19歳の時比叡山へ上り、天台宗徒になる。伯耆の国の大山寺にも学んだものの、中国留学の志が抑えがたく、伝手(つて)を求めて1168年(仁安3年)に中国大陸に行く。次いで1187年(文治3年)にもう一度、宋(いわゆる南宋(なんそう)のことで、1127~1279年に栄えた)を訪れる。二回目に行った時には明確に禅の一派を学ぶ意思があり、中国大陸の天台山の萬年禅寺で虚○懐○(こあんえじょう)の下で禅を学んで帰国した。京都において大いに布教しようとして果たせなかった。そこで鎌倉に赴き、そこで北条政子をはじめ、武士社会への浸透を図っていく。その試みは、無駄ではなかった。当初の想像以上に、うまく行ったものと見える。日頃から死と向かい合わせにいる武士の精神世界に、彼の持ち込んだ禅の思想が合ったのではないか。なお、栄西が中国から他に持ち帰ったものに茶の苗があったらしく、佐賀の山村(現在の佐賀県神埼郡脊振村(かんざきぐんせふりむら))に植えたとのこと。現在では、この過疎の村は、日本茶の発祥の地として知られる。
 黄檗宗(おうばくしゅう)は、中国から直輸入された禅の一派である。後のことだが、二〇代の私もある日寺を尋ね、住職に頼んで「接心会」で神戸の六甲の麓の寺に参禅させていただいたことがある。有る日、神戸大学構内で、稲葉襄教授主宰の神戸大学般若団の座禅案内のポスターを見て、これは何か心の糧になるものはないかと感じた。その冬場、一週間ばかり泊まりがけで夜と朝の幾時かを、他の参禅(さんぜん)の皆さんとともに座敷の畳や縁側の木の板に結跏趺坐して過ごした。その座り心地としては、私にとっては容易なものではなく、寒さに震えつつ耐えていたというのが、むしろ本音であったような気がしている。
 栄西が中国から持ち帰った臨済禅の特徴は、ありきたりの仏教教義に囚われない、その闊達さにある。筆のタッチに例えると、さしずめ簡潔にして豪快といったところか。この派においては、座禅はかりでなく、言葉も重視する。特に、開祖の黄檗(おうばくぜんじ)禅師の弟子である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の人の破天荒ぶりは群を抜いていたらしい。こんな逸話が残っている。それは、上堂して「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」(岩波文庫に『臨済録』として収録されている)と喝破しながら宙を指さしたものか。こうした義玄の奇怪な言動には、弟子達も大いに悩んだのではあるまいか。その言わんとするのは、私のことを見ている、私の中の私を見定めよ、ということなのだろうか。とりわけ師弟の間では、「公案」という禅問答を巡って到達した心境を推測する。他にも「公案」(こうあん)という、まるで雲を掴むような謎かけを行って、それを解いてみろ、と迫るのだ。
 日本のこの派の僧侶に、かの北条時宗が中国から招いた、円覚寺(えんがくじ)の開祖である無学祖元(むがくそげん)がいた。彼に室町期の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)と、江戸期の白隠(はくいん)禅師を加えると、趣向が整う感がある。一休宗純は、「一休さん」の愛称で知られる人物だ。それは、味わい深いだけでなく、なにしろ変わった人物であったようなのだ。悟りをひらいた後も入水自殺を試みたり、「森女(しんにょ)」と呼ばれる中年女性と「愛欲の日々」を重ねるなど、自由奔放かつ破天荒なところがあった。臨済宗(りんざいしゅう)には、時の政治的権威にも取り入っていくという、派手な面もあった。政治的には賑々しい面もあったらしい臨済禅に比べ、曹洞宗は相当に趣が異なる。つまり、どちらかというと地味だと感じられる。栄西らが日本で広めていった臨済宗の如く、朝廷の権威とか、新興武士の心にかなうことが比較的少なかった。
 曹洞宗(そうとうしゅう)を日本に輸入した道元(どうげん)は、1200年(正治2年)1月26日(陰暦では1月2日)に京都で生まれた。父は、天皇家の流れをくむ名門貴族、内大臣久我通親(こがみちちか)であった。母は、藤原基房(ふじわらもとふさ)の娘、伊子(いし)で、久家に嫁ぐ前は木曽義仲の内室であったらしい。幼くして父母が亡くなり、無情を感じたのか、1213年(健保元年)には比叡山に入った。翌年、天台座主(てんだいざす)の公円のもとで剃髪し、大乗菩薩戒を受け出家し、名を「仏法房道元」と改めた、とある。
 1223年(貞応2年)、彼が24歳のとき、求道の念篤くして明全和尚とともに海をわたり、宋(中国)に行った。それから数年の間、師を求めて諸方の寺を巡り歩き、諦めかけていたとき、如浄(にょじょう)禅師に巡り会い、弟子となった。師は、天童山景徳寺(現在の浙江省寧波地区)の第31世住職を務めていた。禅宗では、修行に命をかけた者でなければ分かり得ないのが悟りとされるが、そのと悟りはある時、思いがけずに向こうからやってくるのものなのであろうか。道元禅師の隣の修行僧が、坐禅中に居眠りをしているのを見て、如浄禅師は、すかさず「参禅は心身脱落(しんじんだつらく)なるべし。只管(しかん)に打睡(たすい)して、なにを為すに堪えんや」と一喝したのだそうな。この言葉を聞き、道元は劃然として悟りを開いたのだと伝えられる。ここに悟りというのは、自我を超越したところにある自然の摂理を見つけ、物事をあるがままに眺められるようになることであろうか。それに至るのは、ただただ座るという行為を中心にしつつ、その他の一条生活の全てを修行の場と心得よ、とある。悟りという安心立命の境地に到るには、他に手立てがないというのだから、修行者たる者が、命がけで取りかからねばわかり得ない境地なのかもしれない。
 さて、27歳になるまで如浄禅師の下で修行を積んだ道元は日本に帰り、布教活動を始めるものの、当時はまだ天台宗の全盛期で、宗教界の主流には受け入れられなかった。仕方なくというべきか、道元は弟子を集めながらも、著述に精を出した。この時、『普勧坐禅儀』と、後の『正法眼蔵』の第一巻となる『弁道話』は、道元禅の開宗宣言ともいえる。これらをものにした道元は、日本の仏教史を観ても屈指の英才であったといえるのではないか。1247年(宝治元年)のこと、庇護者の波多野義重から書状が届き、幕府の所在地、鎌倉へと招かれて行った。鎌倉では、時の執権(しっけん)、北条時頼と対面した。当時の鎌倉武士達の信仰は、加持祈祷(かじきとう)や密教がほとんどであった。そのこともあってか、その時の両者の話がさほど進んだようには伝わっていない。というのも、道元の禅は、臨済禅のような世俗への妥協の姿勢が掛けていた。彼の教義は、「不立文字」(ふりゅうもんじ)や「教外別伝」(きょうげべつでん)を否定しているし、男女の平等論を展開、さらに「学道の人は貧なるべし」といって、派手な振舞を嫌い、避けたところに特徴がある。
 1243年(寛元元年)、越前国(現在の福井県)の領主、波田野義重(はたのよししげ)が帰依して、道元に土地と伽藍を寄進した。ここに宇治の興聖寺などから門弟を呼び寄せ、3年後には永平寺と名付ける。「只管打座」(しかんたざ)とも、「威儀即仏法」(いぎそくぶっぽう)とも自らの立場を述べるかたわら、修行僧に対しては「永平大清規」を著して、ひたすら面壁での座禅を進める。冬にはシベリアからの寒風に晒されるこの地にあって、門弟の指導に精魂を傾けること約10年で彼は病没する。彼の法統は弟子たちに守られ、後の世に受け継がれていく。1615年(元和元年)、浄土真宗派が農村の隅々まで浸透していたこの地を観て、徳川家康が「永平諸法度」(えいへいしょはっと)を下して、永平寺を曹洞宗寺院の総取締(そうとりしまり)に任じると、すでに在った能登の総持寺(そうじじ)とともにも北陸での曹洞宗布教の拠点となっていく。
 私は、後に上野で国宝展のおり、ガラスのケースの中に、彼の後代の編纂と伝えられるものながら、彼の著『正法眼蔵』のページ見開きが置かれていた。その字体からは、稀に見る真摯な彼の在りし日の姿、そして生き使いが時空を越えて私の心に芽生えてくるような気がしたものである。    
 一方、この時期の仏教界は、武家との関わりを深める中で、様々な方向性が明らかになっていく。その一つの流れに隠遁があった。例えば、寂室元光(じゃくしつげんこう)は、1290年(正応3年)、美作国の高田(現在の勝山町)に、俗姓は藤原として生まれた。早熟の天才肌で、少年の頃から大人も一目おくほどの才気活発であったと伝わる。1302年(正安4年)には出家とある。本人が望んだのだろうかは、明らかでない。その脚であろうか、京都東福寺の無為昭元(むいしょうげん)禅師に師事した。それから臨済宗鎌倉禅興寺の約翁徳倹(やくおうとっけん)禅師の門に入り、そこで「元光」の名を与えられる。1320年(元応2年)には、どのような「つて」であろうか、中国の元(げん)にわたる。その地で中峰明本(ちゅうほうみんぽん)らに師事する。「寂室」の名前は明本から与えられた法号である。1377年(嘉暦元年)、37歳で中国から帰国した。変わっているのはその後で、京都へ帰ればそれなりの栄達が予想できた筈だ。ところが、あくまで清貧による思想の深化を極めようとしたものか、それとも民衆とともにありたいと願ってのことだろうか、隠棲(いんせい)を通じての修行の継続を選ぶ。中国地方を遍歴して、市井の人々とも交わったと伝わる。すなわち、中国地方遍歴では、西祖寺、 明禅寺、安国寺、滋光寺、菩提寺、備前金剛寺、八塔寺、金山寺などの諸寺のほか、美作の田原村、備前の吉備中山などへも色々巡ったことがわかっている。さらに、美濃、摂津、山城、近江、伊勢、尾張、甲斐、上野などの国々を遍歴した。これらから、かなりの健脚であったのだろう。
 1360年(延文5年)には、近江(おうみ)守護の近江守護佐々木氏頼からの招聘を断り切れず、近江の愛知川上流の地に一寺の寄進を受け、永源寺(滋賀県永源寺町)の開山(かいさん)となった。その後も後光厳天皇からは京都天龍寺、将軍足利義詮からは鎌倉建長寺に招聘されたがいずれも断り、永源寺から離れようとはしなかった。およそ名誉欲とからは縁遠いところで、生きていたと言える。1367年(貞治6年)、死を悟った彼は、遺偈 (ゆいげ)(永源寺蔵・重要文化財)として後世に遺すのを希望し、「屋後の青山、檻前(らんぜん)の流水、鶴林(かくりん)の双趺(そうふ)、熊耳(ゆうじ)の隻履(せきり)、又是れ空華(くうげ)空子を結ぶ」と書いた。

(続く)

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