287『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(モーツァルトなど)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)は、当時は神聖ローマ(東ローマ)帝国領ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストの父と、母との間に、七番目の末っ子として生まれた。6歳にして「神童」と呼ばれる程になっていて、その後、ザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷楽師として仕える一方でモーツァルト親子(父と姉と自分)は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地への演奏旅行を行う。
1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかし、こうした賞賛の割には、報酬はわずかなものであったという。30代には比較的安定した仕事に就き、「実直そのものの教師」(全音楽譜出版社出版部編「モーツァルト、ソナタアルバム2」全音楽譜出版社)であったというのだが、生活にもやや余裕ができたとも伝えられる。しかし、子供が死ぬなど家庭的には安定しなかったらしい。
短めの生涯に実に数多くの作曲をなした。覇気に富んだものとしては、「ピアノ・ソナタ第11番イ長調K(ケッフェル)331」が挙げられよう。第一楽章の変奏曲は特段の響きあり。その第3楽章ロンド(輪舞曲)は、「トルコ行進曲」とも呼ばれる。オスマン帝国の軍楽隊の音楽にインスピレーションを受けて作曲したという。曲調は流ちょうで軽やか、そして華麗。テンポはかなり速い。聴いていて、次々と場面がひらけていくかのようだ。
1788年には、6月に交響曲第39番が、7月に交響曲第40番が、8月に交響曲第41番が集中的につくられ、彼の「3大交響曲」と呼ばれる。いずれも、きっちりまとまっている感じだ。人びとは、不思議な感動を誘う、日常でない程の世界へといざなわれるのかもしれない。
これらの最後のものが「ハ長調K551」で、ギリシア神話における最高神にちなんで、副題を「ジュピター」(太陽の惑星としての「土星」も同名)という。このニックネームは、当時のヴァイオリン奏者でプロデューサーでもあったザロモンにより名付けられたという。「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」も淡麗な雰囲気を醸し出す名曲とされ、彼のパトロンである貴族向けにつくられた。
また後世に影響を与えたオペラ作品が幾つもあり、その一つ、歌劇「フィガロの結婚」が有名だ。フランスの劇作家ボーマルシェが1784年に書いた風刺的な作品に曲をつけた。伯爵の召使いフィガロと恋人スザンナの結婚をめぐる1日の騒動とのことらしい。
モーツァルトは、クラシック音楽の「古典主義の時代(1750~1820)」の前半に生き、後のロマン主義の時代への橋渡しを前に没しており、音楽史において、しばしばこんな調子で語られる。
「モーツァルトは改革者ではなかった。かれは当時流行していた形式や様式に従って書いた。モーツァルトのオペラは、音楽的に高いものをもっているので偉大なものと考えられている。実際に、18世紀のオペラの中でもモーツァルトのオペラのみが、今日でもつねに上演されているにすぎない。
様式。モーツァルトのオペラはイタリアの強い影響を示している。かれはパルランド様式を広く用い、またきわめて混み入った筋書きを用いている(フィガロやドン・ジョバンニ)。モーツァルトのオペラは同時代のイタリア・オペラに比べて偉大である。それは(1)モーツァルトの音楽の偉大さと演劇的な作品というものについての意味からいって、(2)モーツァルトの偉大な旋律的才能のゆえに、そして(3)その性格描写の手腕からいって偉大である。」(ミルトン・ミラー著、村井則子ほか訳「音楽史」東海大学出版会、1976)
かれは音楽を中心に色々書いており、奇抜な言い回しも見られる。その一つに、「音楽は、決して不快感を与えてはなりません。楽しみを与える。つまり常に「音楽」でなくてはなりません」があって、なかなかに世情に通じているといおうか、誠に味わい深い。
(続く)
123『自然と人間の歴史・世界篇』南北アメリカ(マヤ文明の衰退)
そして一説には、厳密な意味でのマヤ文明は、800~1000年頃崩壊した。その崩壊にいたった理由については、洪水や干ばつ、それに政治抗争などの諸説がある。その中で有力なのが、干ばつによるというものであり、例えば、こう紹介される。
「崩壊の原因として干ばつが考えられていたが、実際に起きた気候変動の程度は不明だった。
今回、イギリス、サウサンプトン大学のメディナ・エリゾルデ博士らは、ユカタン半島においてマヤ文明が崩壊しつつあったところに堆積した湖底の物質などの分析を行った。堆積物中の酸素の同位体比(同じ酸素分子だが質量のことなるものの比率)は、降水量の変動に影響される。そのため、当時の気候を復元できるのだ。
分析の結果、文明が崩壊したとされる期間に、くりかえし干ばつがおきていたことがわかった。ときには、例年より40%も雨量が減った年もあったという。
博士らは、今回の分析によって、当時の気候変動の程度がわかり、干ばつがマヤ文明の崩壊の原因の一つである可能性が高まった、とのべている。」(雑誌「ニュートン」ニュートンプレス、2012年6月)
もう少し詳しい干ばつの歴史については、中川毅(なかがわたけし)氏による説明がある。
「マヤ文明は、先古典期、古典期、後古典期という3つの大きな時代に分けられ、その移り変わり時期には大きな断絶を経験している。ハウグ教授はカリアコ海盆の堆積物を分析することで、あれほど洗練された文明が衰亡に追い込まれた理由を解明しようと試みた。
分析の結果は興味深いものだった。古典期のマヤ文明は9世紀頃から衰退を始めるのだが、ちょうどその時代にカリアコ海盆では、堆積物中のチタンの量が減少していたのである。
このことは、同じ時代にマヤ地方が乾燥化していたことを意味する。さらに重要なのは、年ごとの降水量の変動パターンだった。(中略)
悲劇の第一段階は、8世紀の後半からおよそ40年にわたって緩やかに続いた乾燥化だった。だが、この時点ではまだ集落の大規模な放棄などは起こっていない。事態が一気に暗転するのは西暦810年頃である。考古学的な記録によれば、この時期にマヤ文明の衰退が目立って進行するのだが、カリアコ海盆の記録はちょうどそのころ、わずか9年のあいだに6回もの干ばつが襲う次期があったことを示していた。(中略)
このときの危機は9年でいったん終息し、その後は比較的おだやかな時代が42年間続いた。だが、その後の3年はふたたび連続して少雨だった。このときの干ばつは、860年頃にふたたび集落の放棄が進んだ時期ときわめてよく一致していた。(中略)
悪夢のような3年が終わった後、47年間は気候がやや回復した。だが西暦910年頃、こんどは6年の間に少なくとも3回の干ばつが襲う時期が到来した。それまでに弱体化が進んでいた古典期のマヤ文明は、このとき最終的に崩壊した。」(「人類と気候の10万年史」講談社ブルーバックス、2017)
対外的には、10世紀にもなると、メキシコ高原からトルテカの勢力が進出してきた。その後も14世紀頃にはチチメカ人の民族移動があり、マヤ文明の独自性は侵食されていった。さらに1523年からは、スペイン人の侵攻を受ける。青銅器や鉄器などの金属器による武装もなかった。それでも、マヤの人々は根強く反抗を続けて、堪えに堪えた。
それでも、1528年には、今のメキシコ最南部のチアパス地方については、スペイン人の町がつくられたことをもって征服は完了した。スペインによる、ユカタン北部の征服が本格化したのは、1527年からのことであった。この地域がようやくスペイン人の軍門に下ったのは、1546年のことであった。さらに、現在のグアテマラ北部に暮らすペテン・イッツァ家がスペインに降伏したのは、1697年のことであった。
征服者としてのスペイン人は、それぞれの地域での統治開始後、治世の一環としてこの地の人びとにキリスト教への入信を勧めた。スペインと人の入植も進んで、混血も進んでいった。17世紀になって、マヤの人びとは、ようやくカトリック信仰などのスペイン文化を受け入れた。
(続く)
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136『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷へから鴨方、浅口へ
さて、船穂を通り過ぎた列車は、ほどなく新倉敷の駅に列車は滑り込むのだが、ここで、トンネルを含め南西へ下ってきた山陽新幹線と出会う訳だ。新倉敷を出たら、ほどなく浅口市(あさくちし)に入って、そこの金光(こんこう)に来たる。そこを過ぎて尚も西へ進むと、鴨方(かもがた)に至る。
江戸時代、この地には新田藩(にったはん)と呼ばれる小さな藩があった。これとなるには、岡山藩の分藩としてではなく、1672年(寛12年)に本藩の内高2万5千石を与えられる。事の成り行きは、前岡山藩主(初代)池田光政は、隠居するにあたって、二男の池田政言(まさとき)宛てに同石分の新田を分知することで、別家(本藩本知の外高を持った上での分家待遇)を立てようと思い立つ。この願い出は、大方幕府(将軍は徳川家綱)の認めるところとなる。
以来、岡山本家の支藩扱いにて、特に領内に陣屋は置かれることなく、日常の政務は本藩が面倒を見ていた形だ。そのまま推移して幕末に至ると、鴨方藩と称した。これら政務に関連して、本藩との間を結ぶ連絡道「鴨方往来」(かもがたおうらい)が設けられていた。この道は、当時の岡山城下、栄町の千阿弥橋を起点として、西に向かって当時の庭瀬(にわせ、備中国都宇郡賀夜郷)、撫川(なしかわ、上代のこのあたりは備中国都宇郡撫川郷)、浜ノ茶屋、長尾、占見、地頭下などを通って鴨方に通じていた。瀬戸内の海岸線に近いところから、「浜街道」(はまかいどう)とも呼ばれたらしい。
この鴨方(生まれたのは、現在の岡山市街)の郷土に江戸後期に生まれた画家に、浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820、本名は浦上兵右衛門)がいる。彼は早くに武家の家督を継いでから4代藩主・池田政香(いけだまさか、任は1760~1768)に気に入られるなどして精勤し、37歳で同藩の大目付に出世する。しかし、43歳の時、その任を解かれ、左遷される。
そうなった理由については、はっきりしていない。けれども、藩内に「此兵右衛門は性質院陰逸を好み常に書画を翫(もてあそ)び琴を弾じ詩を賦し雅客を迎へ世俗のまじらひを謝し只好事にのみ耽りければ勤仕も任せずなり行き」(岡山藩士・斎藤一興「池田家履歴略記」)とあるので、当たらずとも遠からずというところか。48歳の時には、妻が亡くなる。
50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことも幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。
やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。例えば、40歳代前半の作品に「南村訪村図」(岡山県立博物館蔵)がある。岡山の豪商河本一阿のもとめに応じて描かれたらしい。小品だが、中国風の山中に人が二人見えていて、後の漂泊の哀感がもう滲み出ているのでないか。 そればかりでなく、観る者に、もこもこした息吹を与えてくれるのが、なんとも趣がある。後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、それに至る頃の故郷にあって何を考え、どのような日々を送っていたのであろうか。
さらに鴨方を出て少し西に行くと、そこは里庄である。明治初期の道でみると、里庄からは、川手・本町・西町から里庄町高岡を経て笠岡の小田県庁(現在の笠岡小学校のある場所)に達していた。一方、里庄町から南へ向けては、南隣には寄島町(よりしまちょう)がある。ちなみに、以前の浅口郡内のうち、2006年3月に金光、鴨方、寄島の三つの町が合併して浅口市となっている。今地図を広げ、この寄島町へ倉敷方面から行くには、主に二つのルートがあるようだ。一つは、里庄町から県道矢掛寄島線を南に暫く下って行くと、そこはもう寄島の海である。今ひとつは、現在の倉敷市の南端から海岸沿いを辿って行けば、程なくしてこの温暖勝風光明媚な町に至ることができるだろう。
現在の浅口市寄島町南部の沖合いには、小さな三つの島(寄島とも三郎島とも)があるとのことだし、その南側には、特に瀬戸内海では今やほとんど見ることができない自然が広がっていて、さらに南方沖合(水島灘、備後灘の寄り合うあたり)には、いわゆる「笠岡諸島」があって、人々の生活がここでも営営と続いているのである。このあたりでは、大まかでの『古事記』に見える神功皇后(じんぐうこうごう、『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯 比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめ))とは、仲哀大王の皇后であるとされる人物で、応神大王を産んだとされる人物とされるものの、現在では、文中での脈絡のままに実在していた可能性は極めて薄いと考えられている。
けれども、各地にこの種の伝説が数多く残されている中での一つとして、この地ならではの伝説が生み出されてきたことは、それはそれとして、郷土にとって未来に向かっての意義あることとして受け取って良いのではあるまいか。
(続く)
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135『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から倉敷へ
岡山から現在の山陽道に沿って西へは、ごく大雑把に現在の山陽本線に乗って、庭瀬(にわせ、岡山市北区)に着く。その少し先から倉敷市に入って中庄(なかしょう)に至るが、ここはもう田園地帯といったところか。直ぐ南に位置するのは、同市の早島町(はやしまちょう)である。かつて上代の頃、今の岡山県南部に広がっていたであろう「吉備の穴海」があって、「早島」という名の島はその只中にあった、とされる。
その後近代に至って、宇喜多氏(うきたし)が干拓を手掛けたのを嚆矢(こうし)として、以来明治期までにこのあたりはことごとく陸地に組み入れられてゆく。そしていまでは、「ここがかつて海であったのか」と、上代の面影すら見つけ難いようだ。
さて、中庄を過ぎて西へ辿って行くと、倉敷駅に到着するであろう。そこから西進して西阿知(にしあち)の駅へと到る。現在の西阿知は倉敷市倉敷地域にある地区となっているが、かつての浅口郡西阿知町にあたる。さらに同方向へ進んで鉄橋の上て高梁川を渡るのだ。このあたり川幅は、河原を入れると300メートルを超えているのであろうか。直ぐ南には、国道2号線の高梁川大橋が架けられており、こちらは大動脈ゆえ、多くの車がせわしなく行き来している筈だ。
鉄路に戻って、同市船穂(ふなお)地区に入る。ここは高梁川の東岸だ。この地だが、21世紀に入ってからの合併で吉備郡真備町と共に倉敷市に編入され、同市船穂や町となった。地勢としては、大きく高い山は見あたらない。町の南部と北部は標高30~150メートル位の丘陵地帯、これと対照的に南部地区は概ね平野が広がっており。そこでの標高はわずか1~3メートル位でしかないとのこと。このあたりの多くは、埋め立て地で陸地になった経緯をもつ。
この地区での人々の暮らしの概要だが、人口は7千人台(2017年)でしかない。市街地の郊外といったところか。どちらかというと農村で、農家のある程度が施設園芸、その中でも葡萄栽培が生業(なりわい)であるらしい。そもそも岡山で葡萄の栽培が始まったのは、前世紀後半にまで遡る。現在、この地区での代表品種のマスカット・オブ・アレキサンドリア(略称は「アレキ」)についていえば、エメラルド色をした大粒の実にして、「女王」の異名をもつ。日本では、1886年に岡山県岡山市津島の地で温室による栽培が試みられたのに始まる。
それから相当な年月が経過していった。埋め立てた農地であるがゆえの塩害もあって、農家の収入は安定しなかったのではないか。やがて第二次大戦後となって、温暖で雨の少ない自然を活用して、この新しい品種の葡萄の栽培に取り組んでみよう、との気概をもつ人々が出てきた。1947年には、当地でアレキの栽培が始まる。1956年になると、アレキの温室栽培が始まる。
それからはとんとん拍子で栽培農家が増え、生産が伸びていく。1998年には、ピークに近い、アレキ生産農家数は102戸、栽培面積30ヘクタール、出荷額は約9億円にもなる。その後はだんだんに減っていき、2010年には同102戸、11ヘクタール、約4億円(JA岡山西調べ)と、ピーク時に比べほぼ半減しているとのこと。とはいえ、丘陵の斜面に沿って建てられた温室の群れが見える。栽培期、1~10アールのハウス(温室)の中では3000以上の房がぶら下がっていると伝わる。アレキの房がそして反対側に目を向けると、向こうに海を臨む。これらが車窓からの視界にある間、「ああ、ここで130年にもわたってきたアレキの生産が行われてきたんだなあ」との感慨さえもがこみ上げてくるのではないだろうか。
(続く)
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314『自然と人間の歴史・世界編』マルクス「私はマルクス主義者ではない」
マルクスの言葉の中には、どんな景色が見られるのだろうか。意外なものの一端に、次のものがある、彼の死後にエンゲルスが伝えた。
「今日では唯物論的歴史観も、歴史を研究しない口実にそれを利用しているような味方をたくさんもっています。マルクスが70年代末のフランスの<マルクス主義者たち>について、<私が知っているのは、ただ、私は決してマルクス主義者ではないということだ>といったのとそっくりです。」
(エンゲルスからコンラート・シュミット(在ベルリン)へ、ロンドン、1890年8月5日付け手紙)
かれはまた、別のところでこう述べている。
「(『資本論』第一巻の)本源的蓄積にかんする章は、西ヨーロッパにおいて資本主義的経済秩序が封建的経済秩序の胎内から生まれてきたその道をあとづけようとするものであります。したがって、それは、生産者をその生産手段から分離させることによって前者を賃労働者(ことばの近代的な意味でのプロレタリアに)、後者(生産手段)の所有者を資本家に転化させた歴史的運動を、叙述しています。(中略)
ところで、わが批評家は、この歴史的な素描をロシアに対してどのように適用することができたでしょうか?
ただ次のようにです。もしロシアが西ヨーロッパ諸国民にならって資本主義的国民になることをめざすならばーー近年ロシアはこの方向をめざして多大の苦労をはらって来たのだがーーロシアは、あらかじめ農民の大部分をプロレタリアに転化することなしには、それに成功しないであろうし、ついで資本主義制度のふところにひとたび引きこまれるや、他の世俗的諸民族と同様に資本主義制度の無慈悲な諸法則に服従させられるであろう、ということ、ただこれだけであります。」(「マルクス・エンゲルス全集」第19巻)
このような「わが批評家」の方法論に対して、マルクスは次の指摘をしている。
「西ヨーロッパでの資本主義の創生にかんする私の歴史的素描を、社会的労働の生産力の最大の飛躍によって人間の最も全面的な発展を確保するような経済的構成に最後に到達するために、あらゆる民族が、いかなる歴史的状況のもとにおかれていようとも、不可避に通らなければならない普通的発展過程の歴史哲学的理論に転化することが、彼(ミハイロフスキー)には絶対に必要なのです。しかし、そんなことは願いさげにしたいものです。」(同)
(続く)
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123『自然と人間の歴史・世界篇』南北アメリカ(マヤ文明の興隆)
最初に、マヤ文明の「マヤ(Maya)」とは、「民俗学的には特定民族集団を指示する概念ではなく、マクロ・チブチャ語族に属する約30の言語のいずれかを用いるインディオを総称する便宜的用語」(大貫良夫外監修「ラテン・アメリカを知る事典」平凡社、2004年新訂増補版)だと説明される。
その地理的領域は、メキシコ南東部のユカタン半島から中央アメリカ、現在でいうとグアテマラ・ホンジュラスにかけてであった。現在は深いジャングルに覆われている地域に、文明の地中心が設けられていた。その時は、300年頃に始まり、900年頃の最盛期(歴史家は、ここまでを「古典期」といっているらしい)を経て、1200年頃には衰退していったという。
マヤの国家の特徴としては、何であっただろうか。その一番目としては、巨大なピラミッドや神殿を中心に都市を形成していたことである。つまり、神権政治が確立されていた。占いも宗教的な生贄の儀式が盛んに行われた。当時、人びとの生活のかなり部分は、神の下にひれ伏すものであったという。二つは、大いなる文化体系を有していたこと。その文化領域は、暦法、数学そして絵文字から石彫建築まで及んでいたという。文字の発見は、いつ頃のことであったのだろうか。
彼らがつくったのであろう、マヤ文字とは、文字種が4万種にもなるとのこと。ただし、使用階層は限られていたのかもしれない。その解読はかなり進んでいる。数の数え方は、20進法であったという。「0」(ゼロ)の概念も知っていたらしい。天体観測を行っていた。一説には、火星や金星の軌道も計算していた。かのチチェン・イツァのピラミッド型神殿は、世界遺産に認定されている。王の墓からは、コパル樹脂香やヒスイなどを用いた装飾品が数多く出土しているとのこと。それらの多くは、ユカタン半島の密林地帯で生産されていた。それらの集大成が文化として、だんだんにつくられていった経緯については、自然の成り行きのようなものであったのだろうか、それとも学問の進歩とタイ・アップしてのことであったのだろうか、今も多くの学者が研究を進める。
それでは、当時の人びとの生活基盤なり生活様式はどんなであったのだろうか。文字で書かれた記録が沢山残っているわけではない。が、その基本は、トウモロコシの焼き畑農耕であったことが現代に伝わる。何しろジャングルと高地でのことであるからして、作物の栽培はたいへんであったらしい。現代になっての研究で、牛や馬などの大型家畜はおらず、金属製の農具の使用もなく、荷物や人の運搬手段としての車輪も実用化されていなかったとみられる。
それでも、衛星写真で灌漑用水路の存在も確認され、潅漑農業も行われていたことが知られるようになった。そこで想像をたくましくすると、雨が降るとその水を斜面を流れるにまかせてはなるまい。一段、また一段と畑を下るうちに水を溜める工夫がなされてのではないかと伝わる。それへの技術があったればこそ、文明が栄えた。それから、トウモロコシの食べ方だが、焼いて良し、茹でて良しであったのではないか。
(続く)
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143『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(正長の徳政一揆)
ところで、この室町期の日本に頻発したものに一揆があり、当時の代表的な社会風潮に「下克上」(げこくじょう)があった。まず一揆であるが、多様な形態が見られた。その中から幾つかを紹介したい。まず1428年(正長元年)8月に一揆が勃発する。これを「正長(しょうちょう)の徳政一揆」(「正長の土一揆」とも呼ばれる)という。この一揆の模様は、『大乗院日記目録』という記録に、こう伝わる。
「正長元年九月○日条
一、天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑 物等恣にこれを取り、借銭等悉くこれを破る。管領これを成敗す。凡そ亡国 の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」(尋尊(じんそん)『大乗院日記目録』)
この一揆の中心地は、大和国添上郡柳生郷(やぎゅうのさと)で、現在の奈良市柳生である。その場所に碑がしつらえてあって、奈良市指定史跡・「正長元年(しょうちょうがんねん)、「柳生(やぎゅう)徳政碑(とくせいひ)」という。これには、奈良市による説明書きが添えられていて、こうある。
「昭和五十八年(1983年)五月十九日指定
元応元年(1319)十一月の銘をもつ「ほうそう地蔵」の向かって右下、長方形の枠取りの中に「正長元年ヨリ、サキ者カンへ四カン、カウニヲヰメアル、ヘカラズ」と刻む。
大正十四年に地元柳生町の研究者杉田定一氏が正長元年(1428)の徳政を祈念する碑文とし、「正長元年より先は神戸四箇郷(かんべしかごう)(春日社領の大柳生・柳生・阪原・邑地(おうじ))に負目あるべからず」とその文意が現在解釈されている。
石刻の時期については諸説あるが、正長徳政一揆によって行われた負債の取り消し(徳政)について民衆が刻み残した資料としてその価値は高い。奈良市教育委員会」
この一揆では、近江・京を股にかけた近江坂本(おうみさかもと)の馬借(ばしゃく)、大和・河内(かわち)を往復した生駒(いこま)の馬借、大和・山城(やましろ)の境で活動した木津の馬借や武家の元家臣などが参加していた。ここに馬借とあるのは、当時の輸送(運送)・販売に携わっていた人々であった。「石刻の時期については諸説ある」とあるのは、馬借蜂起の初期に刻まれたというが多数説のようだが、決め手は見つかっていない。
つまり彼らは一揆の部隊の一角にして、これが惣(そう、農民の自治組織)を構成していた農民たちに加わり、一揆の一団を成していたと考えられる。一揆勢は、「徳政だ」と叫びながら、酒屋や土倉、寺院などを襲って、質入れしていた物品などを略奪の上、借金証文を破り捨てて回った。管領(かんれい)職の畠山満家が鎮圧に成功したため、彼らが要求した徳政令は出なかったものの、当時の支配層に大きな衝撃を与えた。
(続く)
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207『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン継承戦争(1701~1714)
スペインでは、1700年に国王カルロス2世が跡継ぎがいないまま死んで、王家が断絶する。すると、どうなったのか。
その事の次第からいうと、フランスのルイ14世の孫フィリップはブルボン分家の出であった。その彼が、フェリペ5世として即位する。とはいうものの、このスペイン王位の継承は、身内のオーストリアのハプスブルク家にとって容認し難いものであった。
それというのも、当時のスペインは広大な海外植民地を領していた。そのほかにも、ヨーロッパではネーデルランド南部(カトリック系の住人たちで構成されており、後のベルギー)、シチリア王国、ナポリ王国、ミラノ王国、サルデーニャ島といったところがスペインになびいていたのだ。
ところが、これらの領土を虎視眈々と狙う勢力があった。その名は、オーストリアばかりでなく、フランス、イギリス、それにオランダなども、そのままではスペイン王室の継承を認めたくない、いや、認められないというのであった。
こうして翌年からのスペイン継承戦争が勃発する。戦争は、これに北アメリカなどにおいても、これに参加する国々による局地戦としても戦われ、長期化した。その戦後処理であるところの1713年のユトレヒト条約においては、ブルボン分家のフィリップがスペイン王フィリップ5世として正式に認められるも、その海外を含めての権力行使には、大いなるたががはめられた。
すなわち、スペインはジブラルタル・ミノルカ島をイギリスに割譲、フランスは北アメリカのハドソン湾地方、ニューファンドランド、アカディアをイギリスに割譲、スペインはネーデルランドの一部などをオーストリアに割譲することなど。なお、これに関連して、1714年に神聖ローマ帝国とフランスのルイ14世とのあいだでラシュタット講和条約が結ばれた。
(続く)
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137『岡山(美作・備前・備中)の今昔』笠岡へ
さらに寄島の西隣は、もう笠岡市である。これを主観であらわすなら、そこまではすぐ間近なのに違いない。この笠岡地区は、倉敷のさらに西に位置する。福山からは直ぐ東隣のところにある。1871年(明治4年)の廃藩置県後、この地域は庭瀬・足守・浅尾・成羽・岡田・高梁・新見・倉敷などの10県に旧備後国福山県をも加える動きとなり、1872年(明治5年)には小田県と称し、県庁を幕府笠岡代官所跡(小田郡笠岡村)におくことにした。
小田県として笠岡に県庁が置かれたのであったが、それから3年後の1875年(明治8年)には全体が岡山県に統合された。ところが、翌年の第2次府県統合により、岡山県のうち旧備後国の福山が広島県へ移管され現在に至る。ついでながら、山陽本線の笠岡を過ぎては、備後の国に入り、その境の大門に、さらに福山へ通じていたのであった。
この地域での干拓事業の歴史も古い。1619年(元和5年)、水野日向守勝成が大和郡山5万石より転封によって福山城主となった。石高は、譜代の重鎮らしく10万石があてがわれた。これにより、笠岡は大島、尾坂等の一部を除き、現在の笠岡市域の大半がこの水野領に組み込まれる。同藩では、入封したらさっそく領地の南に広がる海面の干拓に乗りだした。
気候的にも温暖で雨が少なく、地形的にも平野が少ないため、土地を干拓や埋め立てを行うことによってまかなうことを狙った。この地域に大きな川が流れていないことがあり、夏の渇水時には慢性的な水不足になるなど、稲作りに支障が出ることでの、百姓たちの苦労があった。
かつての富岡湾の干拓も、江戸時代の古くから計画がなされていた。しかし、何回も挫折したものが、1946年(昭和21年)3月には笠岡湾干拓事業として、笠岡町に委託された。予算的制約から進捗もなかったのが、1948年(昭和23年)7月農林省に引き継がれ、それから13年後の1957年(昭和33年)12月完成した。
笠岡湾の干拓事業は、1968年(昭和43年5月)に関係漁民の深い理解により漁業補償が解決され、同年12月に工事が開始され、1990年(平成2年)3月に完成した。東西の堤防で締め切って造成した面積は2千ヘクタール近くにも及ぶ、日本で三番目に大きな干拓地が出来上がった。
これに関連して、最南端から程近くの海中にあった神島(こうのしま)も、陸続きとなった。顧みれば、地元出身の画家・小野竹喬(おのちっきょう)の作品には、郷里の自然や人々の暮らしぶりを題材にしたものが多いが、わけても『島二作』においては神島の穏やかそうに写る自然の中で、農作業にいそしんだりの人々の姿がさらりとしたタッチで描かれている。
こうして現代にいたり、装いを新たにした大規模干拓地の新地分は、工事を手掛けた当初は大規模機械化農地として期待されていた。ところが、造成後においてはコメ余りの中、性格が変化してきた。これに伴い、倉敷市を流れる高梁川から導水管を引いてくることにより、離島含む全世帯に水道水を給水することができ出したのはプラス面とされる。
なお、笠岡及びその周辺の沖合は、「備讃瀬戸」(びさんせと)といって、このあたりに点在する島々の大半が瀬戸内海国立公園の指定区域内にある。高島、白石島、北木島、飛島、真鍋島、六島のいずれもが古代からの内海航路の要衝として栄えたことで知られる。特に白石島の高山展望台からの眺望は、天候に恵まれるならば、大山や、四国の最高峰である石鎚山などが見渡せるとのことである。
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163『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア帝国へ
ロシアが一つの塊として歴史に登場してくるのは、「タタールのくびき」からの解放を求めての戦いからではないだろうか。1380年、モスクワ大公国のドミトリー・ドンスコイ大公が、諸侯の連合軍を率いて、モスクワ南方のクリコヴォでタタール軍と戦い、互角に戦ったという。
1480年になると、 同国のイワン3世(大帝)が、タタールへの忠誠を拒否する構えを示す。彼は、諸侯を束ね、統一国家を作ろうと、各個撃破で自主の道を歩む国を併呑していく。1453年、オスマン・トルコにより親戚のビザンティン帝国(東ローマ帝国)が敗北すると、モスクワはギリシャ正教を守という旗印を得た。同帝国の滅亡後に、その王家の紋章の「双頭の鷲」を引き継いだのは、時のモスクワ公国の主イワン3世の野心の現れでもあったろう。
イワン3世を引き継いだイワン4世のなると、1547年にモスクワのウスペンスキー寺院(「葱坊主」の形をした屋根をもつ)において、「全ロシアのツァーリ(皇帝)」を号すにいたる。内には、恐怖政治を敷く。対外的には、東のカザン・ハン国、南のアストラ・ハン国(ともにタタール系の国)を攻略する。
1584年には、イワンの後を弟のフョードル1世が継ぐが、1585年に節義なしで死ぬ。帝位は、義兄のボリス・ゴドゥノフ(ヒョードル皇妃の兄)のものとなる。1605年にそのポリスが死ぬと、皇帝権力が不安定になり、その正当性をめぐって混乱が続く。最後の3年間(1610~13)は空位という有様であった。
そして迎えた1613年、これを収拾し、17歳にして皇帝の座についたのがミハイル・ロマノフである。このロマノフ家のミハイル公は、リューリク家とは親戚の関係であったのを利用し、力を集め、ついに本家になりかわり、新王朝をひらいた。それからさらに50年以上が過ぎての1682年には、第4代の皇帝としてピョートル1世(大帝)がつく。彼の下で、ロシアは急速な「西欧化」をすすめ、やがてロシアをヨーロッパの列強に伍しての強国へと導いていく。
(続く)
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152『自然と人間の歴史・世界篇』タタールのくびき
1223年には、ロシアに外国からの軍隊が侵入してくる。それは、モンゴル人の騎馬隊であった。チンギス・ハンの孫バトゥ・ハンが率いる軍勢は破竹の勢いでウラジーミルを陥れる。そして、ヴォルガ川下流のサライを都とするキプチャク・ハン国を樹立した。
彼らは、以来1480年にイワン3世が、タタールへの忠誠を公然と拒否するにいたるまで、240年にわたってこのロシアの地に君臨することになる。この時代のことを「タタールのくびき」というのは、本来ダッタン人であるモンゴル人だが、キプチャク・ハン国の中で両者の混血がすすんだ。
また、新たな支配者の到来で元からのタタールのイスラム教が国教とされるなど、文化面でも交流がすすんだため、ロシアではモンゴル人のことをしだいにタタールと呼ぶようになっていったのに由来する。
(続く)
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151『自然と人間の歴史・世界編』ロシア王朝の勃興
ロシアの地では、9世紀にスカンディナビアから、ヴァイキングたちが侵入を繰り返す。826年には、現在のモスクワ近郊の交易都市であるノヴゴロドを、ヴァイキング首長のリューリクが占拠するにいたる。
882年、そのリューリクの後継者のオレーグがキエフを占領する。彼はキエフ公となり、ここを首都としてロシア最初の国家「キエフ・ルーシ」を打ち立てる。988年、キエフ公のウラジーミルは、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教の一派(東方正教)を受け入れる。そして、同国の皇帝の娘と結婚する。
11世紀前半のヤロスラフ公の時代になると、キエフ・ルーシの領土は、かつてなくひろがった。東西はヴォルガ川流域から今日のポーランド東辺まで、北はバルト海に達した。南は黒海にまで勢力範囲を拡大する。
しかし、1054年にヤロスラフ公が死ぬと、その遺領は分割相続された。リューリクの血をわけた多くの諸侯が並立し、大公の位をわがものにしようと争う。そして迎えた1169年、スズダリ公国のアンドレイ・ボゴリューブスキーの兵がキエフを占領すると、ルーシの首都はウラジーミルに移され、ウラジーミル・スズダリ公国となって、数あるルーシの中で最も強力な公国となった。とはいえ、諸公国の君主があり、その下に諸地域の領主、それに都市の三者が共存していたのであって、ある主の勢力バランスの宇江にロシア全体が保たれていた。都市共和国の中では、ノヴゴロドが市評議会による治世を敷いて栄えた。
(続く)
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62の1『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1497~1610)
1497年7月、ポルトガルのバスコ(ヴァスコ)・ダ・ガマ(1460頃~1524)が、インド航路開拓のため出航する。これは、ジョアン2世没後のマヌエル1世(在位は1495~1521年)の厳命であった。つごう4隻を編成しての船団は、カナリア諸島そしてベルデ岬諸島を経て南大西洋を航海し、喜望峰に出る。それからこの峰を回って東に向かい、翌年の3月にはアフリカ大陸の東岸モザンビークに到着する。現地の水先案内人の協力を得て、同年4月にはマリンディに着いた。
1497年、セバスチャン・カボット(1474頃~1557、ヴェネツィアにうまれ、イギリスに帰化した航海者)が、北アメリカ沿岸(ニューファンドランド)を探検する。
1498~1500年、コロンブスが3回目の航海で南アメリカ沿岸を探検する。1502~1504年、コロンブスがスペイン王の命により4回目の航海にして中央アメリカ沿岸の探検にでかける。
1499年5月には、彼の率いる船団がインドのコジコーデ(カリカット、現在のカルカッタ)に到着する。そこで、ヨーロッパ人のアジア進出を恐れるイスラム商人と相まみえた。同月末に帰途につく。だが、暴風のため多くの乗組員を失い、9月に首都リスボンに帰港を果たした。ここに、ポルトガル人は海路で香辛料の原産地に到達するというヨーロッパ人の長年の夢を実現した。この航路の獲得により、ポルトガル、ことに首都リスボンには、未曾有の繁栄がもたらされることになった。
かたやバスコ・ダ・ガマは、王命で1502年に再びインドに赴き、カリカット、コーチンの抵抗勢力を武力でもって従わせ、翌年にポルトガルに帰国する。
探検家のアメリゴ・ヴェスプッチは、1499年スペインの遠征隊に参加して南米北岸を探検航海する。そして、その北にあるのが、未知の大陸であることを発見する。まごうことなき新大陸であるにつき、アメリゴ・ベスプッチの名をとって「アメリカ」と命名される。
1501年には、彼の率いる船団はポルトガルの要請で南米東岸をブラジルから南下、そのほとんどを探検航海する。1511年には、ポルトガルの船団がインドから東に向かう。そして東南アジアのマラッカに到達し、占領するにいたる。ここには海峡があり、交通の要衝を抑えたことになる。
1513年、バルボアが、パナマ地峡を横断し太平洋に至る。1519~1521年、スペインのコルテスがアステカ王国(1428年頃から1521年まで現在のメキシコ中央部に栄えた)を征服する。
そして迎えた1521年、カルロス1世(カール5世)の命によりマゼランが世界周航に出発する。かの王は、16世紀前半のスペイン王にして、神聖ローマ皇帝、ドイツ王などを兼ねヨーロッパ最大の勢力を有していた。その翌年、マゼランの率いる船団は南アメリカ大陸の南端にいたり、マゼラン海峡を発見する。地球が天体であることが実際の航海できっきりした。
1524年、バスコ・ダ・ガマは、ジョアン3世の命を受けてインド副王として赴任したが,病を得て彼の地で死ぬ。1529年になると、東南アジアの領有をめぐってポルトガルとスペインの領有問題が燃え上がり、サラゴサ条約により東経144度30分を通過する子午線によって仕切ることになる。すなわち、その西側はポルトガル、東側に決まる。これにより、香辛料を産するモルッカ諸島がスペイン領になり、そのほかの東南アジアのほとんどはポルトガルが領有することになる。両国の間で、濡れ手に泡の権益を分け合った訳である。
1531~1533年、スペインの意を受けたピサロがインカ帝国(インカ文化)を征服する。1535年、カルチエがセント・ローレンス川を探検する。1543年、ポルトガル人が日本の種子島に到達し、鉄砲を伝える。1545年、スペインがペルーのポトシ銀山を発見する。1553年、ウィロビーによる、チャンセラーの最初の北東航海の試みがあった。
1558年にスペインのカール5世が退位すると、ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系とに分かれる。それに伴い、同家が支配していた領土も分割された。スペインが引き継いだのは、このうちのスペイン本土と海外植民地のほか、ネーデルランドやイタリア各地にあった所領をも含めてのことであった。1576年には、フロビッシャーが、北西航路開拓のためカナダに航海する。
さらに1580年になると、フェリペ2世のスペインがポルトガルを併合する。スペインによるポルトガル支配は、その後60年を経てブラガンサ家がポルトガル王朝を再興するまでへ続く。1602年、オランダ東インド会社が第1回航海を行う。1610年、ハドソンが北西航海に出発し、ハドソン湾からジェームズ湾に入る。
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(続く)
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61の2『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1490~1496)
クリストファー・コロンブス(1451~1506)は、旺盛な冒険心の持ち主であったらしい。イタリアの生まれ、若くして野心家だった。探検家となるべく、彼はポルトガルで航海技術を磨いていた。彼は、まずフランスのアンジュー公に新大陸探しをさせてほしいと持ちかけていたのが、断られた。でも、諦めなかった。
1484年、今度は、ポルトガル王ジョアン2世(アフォンソ5世の子)に対して大西洋を西へ向かう航海を提案した。ポルトガルがカイティーリャから分離して独立したのは1143年のことであった。ところが、当時アフリカから東に向かってインドに到達することを目指していたポルトガルは、彼の提案を受け入れなかった。
それでも夢を諦めきりないコロンブスは、メディナ・セドニア公のもとへ行く。それでも駄目だとわかり、今度はスペインに向かう。そこでも同様の話をもちかけ、粘り強い説得を続けたおかげで、カスティーリャ女王イサベル1世の支援が得られることになった。 これより前の1469年、現在のスペインの地には、カスティーリャ王国(中西部)とアラゴン王国(東部)が興った。1469年、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王であるところのフェルナンドが結婚する。これが始となっての1479年に二人は、両国の統治者(「カトリック両王」)として受け入れられ、統一国家としてのスペイン王国が誕生する。1492年、このカトリックを信奉するスペインはアンダルシア地方の街グラナダの攻略に成功する。
1492年10月、スペイン王の命を受けたコロンブスらの艦隊がカリブ海水域に到着し、そこに未知の島を発見した。その前の8月、かれの船団三隻はポルトガルのパロス港の近くサルテス川の河口から、出航していた。主船としては、サンタ・マリア号といい、ナオ船という大型帆船で100トン位であったろうか。残りの二隻はニーニャ号とピンタ号といい、カラベラ船(15世紀に生まれた三本マストの帆船)で約60トン程度であったという。
コロンブスらの目に、そこは別世界のように写ったのであろうか、かれらはその未知の島(バハマ諸島、キューバの島々あたりか)に上陸した。その時、コロンブスに従っていたラス・カサス神父は、後に上陸の様子をこう振り返っている。
「上陸してみると青々とした樹木が見え、水もふんだんで、いろんな種類の果物が実っていた。提督(コロンブス)は、二人の船長をはじめ、上陸した者達、および船隊の記録官である、ロドリゴ・デ・エスコベート、ならびにロドリゴ・サンチェス・デ・セゴビアを呼んで、彼が、いかにしてこの島をその主君である国王ならびに女王のために、並居る者の面前で占有せんとし、また事実、この地において作成された証書に委細記されてるように、必要な宣言を行ってこれを占有したかを立証し、証言するようにとのべた。
そこへ早速、この島の者達が大勢集まってきた。(中略)彼らは力ずくでよりも、愛情によって解放され、キリスト教徒に帰依する者達だと見て取りましたので、幾人かに、赤いボンネット帽と、首飾りになるガラス玉や、その他たいして値打ちのないものをいくつか与えました。すると彼らは非常に喜び、全くすばらしいほど我々になついてしまったのであります。(中略)彼らは武器を持っていませんし、それがどんな物かも知りません。私が彼らに剣を見せましたところ、刃の方を手に持って、知らないがために手を切ってしまったのであります。
鉄器は全然持っておらず、その投げ槍は、鉄の部分がない棒のようなもので、尖きに魚の歯などをつけております、(中略)彼らは利巧なよい使用人になるに違いありません。(中略)私は、彼らは簡単にキリスト教徒になると思います。(中略)私は、神の思し召しにかなうなら、この地を出発するときには、言葉を覚えさせるために、六人の者を陛下の下へ連れていこうと考えております。」(ラス・カサス著・林屋永吉訳『コロンブス航海記』岩波文庫)
1493~1496年、コロンブスの2回目の航海があった。小アンティル諸島、ハイチ島を探検した。1494年には、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介にて、ポルトガルとポルトガルの間でトルデシリャス条約が結ばれる。この条約で、スペイン、ポルトガルが両国の領有権を分割する。具体的には、アフリカ西岸のヴェルデ岬から370レグア(約2000km)西の子午線(西経46度30分)の西をスペイン、東をポルトガルの権利地域に定める。
(続く)
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410『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツとイタリアの降伏
イタリアにおいても、1943年になると敗色が濃厚になっていく。この年、ムッソリーニは失脚し、1945年にはパルチザンに銃殺された。
1946年、ヴィツトリオ・エマヌエレ3世は息子のウンベルト3世に譲位し、自らはエジプトに亡命した。この戦争へは、参戦前の当初中立を貫くべきだとの意見であったのが、軍事統帥権をムッソリーニに渡した後は、唯々諾々と過ごした。したがって、敗戦・戦後となれば、それまでの戦争への加担を責められる。連合国による裁判にもかけられることになめうことから、兎にも角にも逃れたかったからだろう。
しかし、政局は、もう王制を望んでいなかった。共和制への転換を望む世論が高まる中で、国民投票が行われ、王制は否決された。国王一家は、仕方なくポルトガルに亡命した。こうして、1861年のイタリア王国の建国から1世紀を経ずして、サヴォイア家は歴史の表舞台から消えていく。
(続く)
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