新67『美作の野は晴れて』第一部、新たな出発1の2

2016-02-26 09:44:45 | Weblog

67『美作の野は晴れて』第一部、新たな出発1の2

 ガモフの唱えたビッグバンの後、宇宙はどのように歩んでいったのだろうか。そのビッグバンの1万分の1秒後には、宇宙の温度は1兆度(摂氏)から10兆度位、大きさは現在の太陽系ほどに広がっていた。ここまでが第1期で、素粒子が生まれている。第2期は1秒後から3分後までをいう。ビッグバンの1秒後の宇宙の温度は、約100億度(現在の太陽の核の温度の約1000倍、太陽核の温度は約1500万度)、大きさも1兆キロメートル(現在の太陽系の100倍)に広がる。
 その最初には、水素原子核がつくられる。それは、高温のためばらばら状態であった陽子と中性子が一つずつ結びついて重水素の原子核になっている。その重水素原子核からは、陽子一つ、中性子二つからなる三重水素の原子核(トリチウム)ができる。三重水素の原子核は、弱いベータ線(放射線)を放射しながらベータ崩壊を起こして、陽子2つと中性子1つで構成されるヘリウム3の原子核となる。これは、ヘリウムの同位体であり、これから陽子二つと中性子二つによるヘリウム原子核ができていく。この一連の反応を辻褄の合うようにまとめると、四つの水素原子核(陽子)がくっつくことで反応が始まり、そこから三重水素、ヘリウム3と呼ばれるヘリウム同位体を経て、ヘリウムの原子核になっていくのである。これを水素核融合反応と呼ぶ。
 このような水素核融合反応は、現在の太陽核でも続いている。なお、これに関連して、村山斉氏は、アインシュタインの質量のエネルギーへの変換式(E=m×(かける)Cの2乗)を、こう説明しておられる。
 「太陽核では、水素の原子核(陽子)が四つくっつくことで、ヘリウムの原子核がつくられます(このとき陽子は、ニュートリノと陽電子(電子の反物質で電荷がプラス)を出して中性子に変わります。ニュートリノと反物質はこれから出るくるのです)。ところが、ヘリウム原子の質量と陽子四つ分の質量は同じではありません。くっついた後の方が、0.7%ほど軽くなっています。重さ25グラムのお団子を四つくっつけて秤(はかり)に載せると99.3グラムになっているようなものですが、この失われた0.7%の質量がエネルギーに変換されて、太陽の熱を生み出しているわけです。」(村山斉「宇宙はなぜこんなにうまくできているのか」集英社、2009)
 第3期としては、ビッグバン後3分から40万年までの展開があったのだとされる。第2期の反応の進行で、拡大する宇宙にヘリウム原子核がある程度溜まってくると、今度はそのヘリウムが元となってより重い元素の方へと順次、新たな核融合反応が始まっていく。この時期に、約38万年より前と後に区分される。それまでは、まだ大変熱く、電子が原子核(陽子)にお構いになく、ビュンビュン飛び交っていたことだろう。それが約38万年経ってからは、温度がさらに落ちて転機が訪れる。そして、原子と分子の形成にまで進んだと推定されている。物理学者の京極一樹氏の言を借りれば、次のように説明されている。
 「約38万年を経て温度が約3000K(絶対温度で、その1Kは摂氏でマイナス273.15度)まで下がると電子と陽子が結合し、それまで光を散乱させていた電子がなくなったために透明になり、光が直進できるようになります。これは「宇宙の晴れ上がり」と呼ばれ、熱宇宙に光が満ちあふれます。」(京極一樹著・加藤恒彦監修「こんなにわかってきた宇宙の姿」技術評論社、2009)
 つまり、それからというものは、電子と陽子が結合して電荷が差し引きゼロとなり、電磁波の一種である光が、電気に反応して電子とぶつかることはなくなる。つまり光は、電子に邪魔されることなく、まっすぐに進めることになった。したがって、晴れ上がる前の宇宙は望遠鏡を向けても見ることはできないが、それ以後の宇宙は理論的には見ることができるのだと。
 ここに水素とヘリウムは、その後現在の宇宙で一番多い割合を占める元素である。太陽より重い星になると、その中では炭素や酸素、窒素による核融合反応も始まる。それらによって、原子番号26番までの元素がつくられていくのだが、鉄よりも元素番号が大きな元素がつくられるのは簡単なものではない。それらは、恒星が「超新星爆発」をして寿命を終える時に多くがつくられる。その時は恒星に含まれていた原子なり原子が宇宙にばらまかれるばかりではない。それらの集合や離散に伴う、膨大な圧力や熱やあれこれによって、原子番号が100番を超えるラジウムやウランなどの元素も一度につくられた。そうしてばらまかれた原子や元素は、星間に漂うガスや塵となって宇宙に漂い、条件が整うと新たな恒星や惑星の材料となっていく。
 そして第4期は、ビッグバンの40万年後から現在までで、宇宙構造形成の時代と言われる。すなわち、「ビッグバンからおよそ4億年後に物質密度のゆらぎが成長し、そのゆらぎ自体の質量によって収縮したガスの濃い部分で星々が生まれ、これが銀河に成長し星が生まれながら膨脹を続け、宇宙の大規模構造が形成されて」(京極一樹氏の前掲書)いったのだと。
 1970年代初頭、アメリカの天文学者ヴェラ・ルービン女史がアンドロメダ銀河を観測していた。この銀河は、私たちの銀河系と同じ渦巻銀河で、星たちは銀河の中心を軸に回転している。星たちは全体として平たい円盤状を形成しているのであるが、星の数は円盤の内側ほど多く、円盤の外側に行くにしたがってまばらになっていく。そのため、私たちの目に見えている星が銀河にある全ての物質だとすれば、星が多く集まる銀河の内側ほど星を内側に引っ張る引力が強くなると考えられ、これでは回転がとまってしまう。
 この前提で強い引力と釣り合うためには強い遠心力が必要であり、そのためには内側の星ほど回転の速度は速くならないといけない。ところがルービンは、銀河の回転速度が銀河の内側と外側でほぼ同じである、つまり中心から遠く離れても遅くならないことを発見した。これを説明するには、星が少ない銀河の外側にもたくさんの物質がなければならない。そこで、ここは目には何も見えない、つまり不可視の物質で満たされていると考え、これを「ダークマター」(暗黒物質)と名付けた。
 1979年3月、天文学者たちはクウェーサーと呼ばれる準星状天体の発する強い光を観測し、その中に地球との間に凸(とつ)レンズのような働きで像を結ばせる、強い重力が働いているときにあらわれるのを発見した。これは、観測されるべきクエーサーが発した光が、途中で銀河もしくは銀河団によって作られた重力空間を通過するとき、その光が重力の力によってあたかも水やガラスレンズ の中を通過するように屈折率が大きくなって、光が曲げられて地球と観察者に届くというもので、「フヴオリソン・アインシュタイン効果」、一般的には「重力レンズ効果」と呼ばれている。これをもって、「光は曲がった空間に沿って直進する」(NHK「宇宙を読み解く」シリーズの第14回「深まる謎:ダークマターとダークエネルギー」(2015年1月6日放映分)での放送大学の海部宣男客員教授(国立天文台・名誉教授)、放送大学の吉岡一男教授による、今日までの「考え方と観測事実」の系列の整理、その他より)とも言えるのだ。
 1994年に撮影されたNASA(アメリカ航空宇宙局)のハッブル宇宙望遠鏡による写真を使って、このダークマターの3次元の解析が試みられた。ここでの重力源は、私たちから50億光年彼方の銀河にある。これらの星は太陽ができる前にこの光を放ったから、これらの星はいまや存在していないかもしれない。だが、写真の中で奇妙なことがあり、それは青い光が細い弧状になって見えていることだ。
 クラウス教授によれば、この青い光は、「このさらに50億光年先のたった一つの銀河から放たれた光が重力レンズの効果で拡大されつつ複数に見えているもの」と考えることができる。そうなると、今私たちに見えている光は、「100億年前に放たれた光ということになるから、現在137億年と見積もられる宇宙の歴史にあって、その初期、銀河が初めて形成された頃の光だといえる。その頃、星たちは熱く燃えていて青かったから、手前の銀河とは色が違って見える。そこで、この写真で光の曲がり方をたどり、逆にどんなレンズ(質量)があるかを分析する。つまり、この写真のような重力レンズ効果が生み出されるには、どこに、光がどこにどれだけあるかをたどり、それからどれだけの質量があればいいのか、ダークマター(暗黒物質)の空間分布を計算をしてみた」(同教授)。
 その計算の結果は、教授が使う黒板の横にしつらえてあるOHPの画面の中の図に表される。それによると、とがったところに銀河があるわけだが、それ以上に、銀河の間にも多くの質量が存在してしているということだ。クラウス教授によると、「目で見える銀河の物質はとがっている部分で、さらにその周りに10倍もの質量がまとわりついている。すべてを足し合わせると、目に見えるものの質量の40倍もの質量があることがわかるんだ。宇宙の質量のほとんどは目にみえないということが改めて実証されたんだ」とされる。ここで、通常の物質がダークマターを引き寄せているのではなく、銀河は、ダークマターが沢山あるところに通常の物質が集まり、形成されたのだということになっている。

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新45『美作の野は晴れて』第一部、月見の楽しみ

2016-02-15 20:20:04 | Weblog
45『美作の野は晴れて』第一部、月見の楽しみ

 小学校の低学年まで、我が家では「月見」をしていたのが、懐かしく思い出される。「中秋の名月」は、秋分の日の頃の満月をいい、月は秋分点のあたりにあり、太陽は春分点のあたりにある。いつの頃なのか、中国で月を愛でる習慣ができて、それが日本にも伝わった。太陰暦では8月15日の夜の月のことをいい、その日を太陽暦に直すと9月8日頃から10月8日頃までのいずれかの日となる。
 ここに秋分とは、二四節気の一つで、春分から数えて13番目となる。立春から数えると、約45日後になる。ここに二四節気というのは、次の二つの理論値が考えられる。その一つは、1太陽年の長さを24等分する方法で、平気法(常気法、懐気法ともいう)という。いま1年を365.2422日とすれば、これを24等分した15.2184日が一区分となるものの、「地球が太陽の周りを回る公転スピードが一定でないために、地球の自転軸の向きを太陽の地球との位置関係は、先に説明したようにはなってくれない」(石原幸男「暦はエレガントな科学ー二四節気と日本人」PHP研究所、2011)。そこで、定気法(実気法ともいう)が登場する。今、太陽を含む動きを天球に見立てる。これだと、太陽の赤緯は、太陽の黄経、つまり黄道という決まった経路を動いていく。そこで太陽の見える位置がどうなのかで、天球上を24等分し(つまり地球の公転軌道上の位置を24等分する)、それぞれの分割点を含む日に、季節感を表す名称を付ける。こうしてできた二四節気の間隔は、360度を24で除した15度ちょうどになることから、普通、黄経度上の角度は春分をゼロ度に置いて考えることから、夏至は90度、秋分は180度、冬至は270度となる。また秋分の太陽は、赤緯(天球上での緯度)がゼロ度のところにある。つまり、天球に見立てたときの赤道(「天の赤道」)上にある。そのことは、春分(二四節気の1番目)でも同様だ。ちなみに、夏至(二四節気の7番目)には北緯23.4度の北回帰線、その逆の冬至には南緯23.4度の南回帰線の上にある。それから、春分の日と秋分の日の太陽は、ほぼ東から昇り、ほぼ西へ沈む。太陽が南中になる時の地平線からの高度は、55度となる。
 ここでの舞台は太陽系としよう。すると、太陽と地球との位置関係については、地球は太陽の周りを約1年で1回転(公転)しており、季節の移り変わりで変わっていく。他の惑星もまた、地球の周期とは異なるが、太陽の周りを回っている。それらの回転の軌道は、どんなであろうか。ヨハネス・ケプラーは、ティコ・ブラーエの弟子にして助手であり、師の残した膨大な観測データから、始は卵形とかの軌道上を回っているのではないかと試行錯誤をしていたのであった。やがて「惑星は太陽を一つの焦点とし、惑星によりそれぞれ決まった形と大きさの楕円軌道上を公転する」と考えると、結果はデータをうまく説明できることにたどりついた。彼は、このことを1619年の『新天文学』と言う本で公表し、今日では「ケプラーの第一法則」と呼ばる。
 話を次に進めよう。秋分から冬至までの間に、地球は公転軌道を90度回る。冬至から春分までの間も、太陽の周りを回る地球の公転の軌跡は90度回転している。冬至の時の地球は、太陽から一回りのうちで最も近い距離にあり、この点を「近日点」と呼ぶ。今度は、春分から夏至、夏至から秋分かけても90度ずつ太陽の周りを回転していく。こちらは、夏至の日の地球が太陽から最も遠い地点(遠日点)にあることから、春分から夏至、さらに夏至から秋分にかけての経路は、秋分から冬至、冬至から春分へ向かうときよりも長い。併せて、これらの経路を細分して、地球が15度ずつ太陽の周りを回る(公転する)動くのにどのくらい時間がかかるかを考える。これが二四節気の一区切りになるのだが、近日点近くでは短く、遠日点近くでは長くなっている。
 またケプラーは、太陽の周りを惑星が回るとき、その惑星は太陽に接近したときには速く動くことを、師である、天文学者ティコ・ブラーエによる望遠鏡を用いない観測結果(惑星の位置データの集積)から導き出した。この場合の軌道を進むのにかかる時間は、経路長ではなくて、その経路と太陽の位置とでつくられる扇形の面積に比例する。これは、ある一定時間に惑星が移動する部分と太陽とでできる三角形の面積は一定であると言い換えてもよい。なぜなら、経路長(太陽と惑星を結ぶ線分)は、等しい時間に太陽までの距離r(アール)に比例するが、その惑星ごとにそれぞれ等しい面積を覆いながら公転するときの扇形の面積は、r(アール)の2乗に比例する。これを「ケプラーの第二法則」と呼ぶ。
 さらにケプラーは、同じく師から受け継いだデータから、惑星の太陽からの平均距離、つまり軌道の平均の半径と、太陽を一周するのにかかる公転周期について、その半径の3乗と周期の2乗との比は、惑星によらず一定であることを導いた。これを「ケプラーの第三法則」と呼んでいる。
 厳密には、春分から次の春分までの間に、春分点は51秒だけ動いている、つまり地球は太陽の周りを360度より少ない、359度59分9秒しか回っていない。これだと、地球が25800年の間に25799回しか回っていないことになる。それでも、暦としては。太陽黄色経(おうけい)は、春分から次の春分まで(冬至から次の冬至てまで)に360度動いて元季節に戻るという、擬似ではあるが自然のメカニズムを考えるのが便利だという価値判断となっている。
 さて、日本では、春分と秋分とを国の学術機関が算定して決める。2016年のその日としては、「秋分の日は9月22日に、16年」という新聞記事(2015年2月2日付け日本経済新聞)があって、こう書かれている。
 「国立天文台は2日付の官報で、2016年の春分の日を3月20日、秋分の日を9月22日とする暦要項を発表した。
 春分の日と秋分の日は、国立天文台が太陽の位置を計算し決める。秋分の日は9月23日が多く、22日となるのは12年以来で、それより前は1896年だった。
 16年はうるう年。3月9日に皆既日食があり、日本では部分日食として観測できる。5月9~10日に水星が太陽の手前を横切る現象や、9月1日に金環日食があるが、いずれも日本からは見えない。
 改正祝日法で16年からの実施が定められた8月11日の祝日「山の日」も暦要項に記載された。
 国立天文台は二十四節気のほか、日の出日の入りや月の満ち欠けなどを計算し発表している。」
 当時、小学校の音楽の時間に習った歌は、「でたでた月が、まるいまるい、ぼんのような月が」(作詞・作曲ともに不詳)と、調べがゆったり、素朴で感じられるものであった。 その日の天候が快晴だと、夜は「お月見」ができる。夕方になると、縁側に卓を置いた。その上に秋の七草の中から、ススキを指した花瓶を置いた。ススキを備えるようになったのは、もともとは男性の象徴であるかららしい。ススキと似たものにオギがあるものの、こちらは大振りかつ穂全体が銀白色で、小穂には芒(のぎ)がない。花入れには、他に女郎花(オミナエシ)を好んで生けた。青色の桔梗(ききょう)もめざとく山裾にみつけて、一本か二本採ってきた。オミナエシの小さくて、黄色い花が月に映えるようで、大層美しく見えた。
 その時の記憶をたぐり寄せると、月を向こうにして、卓を立て、その上に供え物を並べていく。茄に4つの足を付けてうさぎか何かの動物に見立てた。南瓜(かぼちゃ)は「きびや」や母屋の隣の別棟倉庫に保存しているものの中からを選んで来て、丸ごと供えた。表面に穴が開いていたり、あばたや染みが沢山あるものは避けて、つるりとした小ぶりのものを選んでおく。我が家の番茶も入れておく。最後に、ろうそくを立てる。夕方、縁側に座って、西の空高く月が見える時があった。幻想的な月の明るみと、そのまわりの仄かな月影とが合わさって、とても美しい。
 「秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ」(藤原顕輔『百人一首』)
 もう一つ、建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうだいぶ)の歌も紹介しよう。
 「月をこそ眺(なが)めなれしか星の夜の深き哀(あわ)れを今宵知りぬる」(建礼門院右京大夫は平安から鎌倉時代にかけての女流歌人)
 「今晩は、ええ月じゃなあ」
 「うん」
 母が縁側に「月見饅頭」か何か、供え物を運んできて、私の側らに座る。のんびりしたいという性格は、母に似ていたのかもしれない。両人とも、庭から見える月を眺める。その夜の月はまん丸で、なんとなく秋の風情が感じられる。
「うさきがいるいうとらんかったな」
と母がしんみりと言う。
 たしかそのときは3、4年生で、誰かから「うさぎに見えるだけで、うさぎはいない」ことを聞いていた。
 「いんにゃ、うさぎは棲んどらんって、言うとりんさったで(棲んでいないといっておられたよ)」
 私は生半可な返事をした。しばらく黙っていた。それから、想い出してこう付け加えた。
 「おかあちゃん」
 「うん?」
 「望遠鏡で見たら、あそこに蛸いぼのような穴が開いているのが沢山見えるんじゃて。クレーターっていわれてるものなんじゃろう」
「そうじゃろうか」
 母は、ゆったりと、そして柔らかい調子で声を返してから、空のお盆を携え、おもむろにその縁側に立ち上がった。
 後年、天体に興味を持つようになってから、月の写真を見て、うさぎの頭の辺りは、クレーターの他にも、月の「アペニン山脈」が三日月型に弧を描いている。その長さたるや、750キロメートル、西隣の「雨の海」からいきなり8000~9000メートルもの高さがある、こちらの星のヒマラヤ山脈に勝るような巨大な岩壁がそそり立っている。
「泰司、ご飯ができるまでそこにいるんか」
と母が聞くので、
「もう少し見たら、手伝いに行くけん」
 母がその場を去ってから、そのまましばらく静寂に浸っていると、心もだんだんと澄み渡っていく。その月は、その翌日の夜明け前の西空に残って、淡い姿を見せていた。
「人逢喜事西進爽(レン・フョン・シー・シー、シー・シェン・シュアン)
月一至中秋分外光(ユエ・ダオ・ヂョン・チウ、フェン・ワイ・グアン)」
 「中国では旧暦の8月15日の中秋節に、満月を象徴した月餅を供えたり、親しい人たちに贈ったりする」(「長澤信子「満面春風・中国ことば旅」鎌倉書房、1991)という。
 なお、「お月見」にはやはり丸っこいものが似合うらしい。今も人々を引きつけてやまない「お月見」だが、岡山にこんな話が伝わっている。
「お月見には丸い物を供えたらいい、いうてお団子を十五個作ってお三方に入れて、梨とか葡萄とか丸い物をお供えして。お月見は旧の八月の十五夜なんだけど、もういっぺん、あと月というのもあったよ。あと月は旧の九月一三日でね。前の十五夜に雨が降ったりしたら代わりにお月見をするの」(座談会「懐かしいあのころの暮らし」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集「さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百年」岡山市)。
 月見の風習は、古代の中国から伝わった。今時、中国といえば、過剰な反応を見せる人をまま見かける。しかし、中国からやってきて日本人の暮らしに馴染んだものは文字ばかりでなく、心温まる習慣も沢山ある。日本人が直接思いついたり、編み出したりした風習をも含めて、よいものはよいのである。
 あれは小学校の高学年の理科の時間であったのだろうか。一般的な月の自転公転の様子を確認する時間があったのではないか。理科室のある机の上に太陽、地球、月の模型があって、児童たちが3者のおよその相対関係がわかるように簡単な仕掛けが施されていたのではなかったか。先生は、それを使っての私たちに色々と説明して下さった。丸い月の直径は1738万キロメートル、一周の長さは1万900メートルある。月は、今では地球から38万4400キロメートルのところにある。地球は太陽の周りを1年かけて回り(公転し)、月は地球の周りを27.32日かけて回るということだけで、地球から見た満月から一回転して、元の満月にはならない(東側が少し欠ける)ことくらいは教わったのかもしれない。地球は太陽の周りを1日当たり約1度公転するので、29.5日かかる間には、360度の中の29.5度公転する。それだから月は、地球を1回転、360度回った後に、もう少しだけ、29.5日になるまで回ってやっと満月に戻ることになる。あと、月は元から今の位置にあったのではなく、できたての、およそ46億年前には、もっと地球に近く、今の距離の20分の1、1万9220キロメートルから16分の1、2万4000キロメートルのところにあったとされる。
 顧みるに、小学校時代に、天体観測の経験が一度だけあったような気がしている。あれは小学5年生の夏であっただろうか。ある日、夕方の校庭で望遠鏡を覗く機会があったのではないか。望遠鏡を代わる代わる覗き込ませてもらったような気がするものの、記憶が知らぬ間に時空を越えて横滑りしているのかも知れない。もしその記憶が正しければ、自分の順番が来て、望遠鏡を覗き込むと、月のクレーターがはっきり見えた。やっぱり、うさぎはいなかった。しかも、望遠鏡に見えていたのは、その月の公転周期と自転周期とは同じなので、地球からみる月の表面はいつも同じでなのである。そうなっているのは、次のような訳があるからだと言われている。
 「原始の月が地球の近くにあったとすれば、月にも地球の引力が強く働いていたはずです。例えば、月の内部にある重たい核とマントルは、地球の引力に強く引っ張られて地球側に偏るため、表側(地球側)の地殻が薄く、裏側の地殻が厚くなると考えられます。
 また、地殻が薄い表側に隕石が衝突すると、地殻の下にあった玄武岩質のマグマが流れ出し、やがて冷え固まって玄武岩の海が表面だけに生じます。さらに、月の重心が地球側(表側)に偏っていると、重心が常に地球の引力で強く引っ張られるので常に表側が地球のほうを向くようになる、つまり月の自転と公転の周期が同期します。」(左巻健男編著「面白くて眠れなくなる地学」PHP研究所、2012)

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