○33『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語と漢字の伝来

2017-06-12 21:22:56 | Weblog

33『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語と漢字の伝来

 話言葉(はなしことば)としての古代日本語は、そのまま文字を具備することにはならなかった。つまりは、生まれたばかりの日本語(古代日本語)は、固有の文字を持っていなかった。「日本民族」と呼べるものはまだ存在していなかった時代、日本列島に暮らしていた人々は、その日暮らしで文字を編み出すまでの生活の余裕がなかったのかもしれないし、或いは、考えあぐねていたのかもしれない。

 これまでの古代遺跡の調査で、記号のようなものは見つかっているらしいのだがそれでも、ある程度の信頼性をもった、真相に近いところはわかっていない。では、外部から何をもらったのかといえば、それよりはるか以前の時代に中国で成立していた漢字なのであった。それでは、日本列島に漢字という文字が伝わったのは、いつのことであったのだろうか。
 まずは、伝説をまとめた『古事記』」に漢字と漢文表記の書名が、倭(大和)朝廷編纂の歴史書の『日本書紀』に年代が、それぞれ記されている。この二つの記述を関連していると見なしてドッキングさせてみると、中国から伝わったのは、『論語』と『千字文』であり、時代としては第15代応神大王(おうじんだいおう、当時「天皇」の称号はまだ存在していない)の「十六年春二月16年であったというシナリオが導かれる。『日本書紀』の記述の前後の関係から、大王の在位は西暦に直して270~310年とも計算でき、これをたどって漢字の輸入はその内の286年(西暦)の出来事であったのではないかと考える。
 では、どのような伝わり方をしたのであろうか。『日本書紀』の該当部分を参照すると、「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始?也」のくだりが見つかる。この文中に王仁(わに)とあるのが書物を伝えた人物なのであろうか。当時、百済(くだら、朝鮮語ではペクチェ)から倭に来て滞在していた。ところが、『古事記』」に述べてある『論語』はそれまでに成立しているのでよしとして、もう一つの『千字文』については、中国の南朝・梁(リアン、502~557)の武帝((464~549)が、文官・周興嗣に命じて字の学習用にと文章を作らせたものだ。これでは、数十年どころか、それ以上の開きがあり、漢字伝来の時期の点で辻褄(つじつま)が合わない。したがって、これらの『訓紀』の記載は、歴史的事実ではなく、言い伝えに過ぎないとも考えられる。
 そこで別の面から考えてみたい。それに関する情報は、地中からやってきた。わが列島素人々に文字が伝来したのは、弥生時代のことであったというものだ。これまでの発掘なりで見つかっている最古の漢字としては、「貨泉」の二文字が刻まれた硬貨が見つかっている。これは、中国の前漢が倒れた後の「新」(しん、中国語読みでシン(第1声))の時代(9~25年)に皇帝を語っていた王○(おうもう)が14年(中国の暦で天鳳元年)に鋳造させたものだ。これと並ぶものとして、江戸時代に博多(はかた)沖の志賀島(しかのしま)で発見された後漢の光武帝時代(25~57年)の金印、「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)がある。更に時代が下ると、1994年、京都府竹野郡の大田南五号古墳から、中国・魏の年号「青龍三年」(235年)の銘文が入った銅鏡が発見されている。それには漢文で、「顔氏」という鏡作りの工人の名前が長寿や出世を祈る吉祥句(きっしょうく)とともに記されている。ほかにも、「景初三年」(239年)や「正始元年」(240年)の銘の読み取れる三角縁神獣鏡などが見つかっていて、これらの鏡は当時の中国の王朝から当時の倭の某かの勢力(蓋然性としては古代の国)に「下賜」として渡されたものなのだろう。
 これに加えて傍証になれるのかどうなのかはわからないものの、その頃の社会において、骨をもって占う「骨卜」の習慣があった。そのことが、『魏志倭人伝』にこう記されている。
 「其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火?占兆其會同坐起父子男女無別人性嗜酒見大人所敬但搏手以當脆拝」
この前半部分は、「其の俗、事を挙げ行来するに、云為する所有れば、輒ち骨を灼いて卜し、以て吉凶を占う」と書き下される。これに、○末之(はいしょうし)の注に、『魏略』に曰わく・・・・・其の俗、正歳四時を知らず」とあるのを重ねると、「中国の亀卜とは似て非なる獣骨卜を行い、暦も持たない弥生人の姿が見える」(湯浅邦弘編「テーマで読み解く中国の文化」ミネルヴァ書房、2016)と結論づけようとも、あながち誇張ではあるまい。これから推し量っても、当時の倭人にはまだ文字を使う社会的習慣は育っていなかったのではないだろうか。
 もちろん、書物にせよ、物的なものであるにせよ、刻印が残っているとしても、そのことが漢字が遣われていたということには、そのままでは繋がらない。実際に、日本人が日本語の表記にも使用し始めたのは、6世紀に入ってからのことであったのではないかと見られている。その後には、漢字を日本語の音を表記するために利用した万葉仮名(まんようがな)が作られ、やがて、漢字の草書体を元に平安時代初期に平仮名(ひらがな)が、漢字の一部を元に片仮名(カタカナ)がつくられていったというのだ。

(続く)

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○○470『自然と人間の歴史・日本篇』アイヌ新法(1997)

2017-06-04 22:33:16 | Weblog

470『自然と人間の歴史・日本篇』アイヌ新法(1997)

 1997年(平成9年)5月に成立し公布され、同年7月に施行されたものに、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌ文化振興法、アイヌ文化法、アイヌ新法)がある。この法律の附則2条により、北海道旧土人保護法(明治32年法律第27号)および旭川市旧土人保護地処分法(昭和9年法律第9号)は廃止された。
 その目的については、1条にこうある。
 「この法律は、アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況にかんがみ、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的とする。」
 なぜ「アイヌ民族」といわないのかが不明であるものの、おそらくは世界の先住民族の先住権を認める流れに、日本政府が抗しえなくなった、何らかの対策を講じない訳にはいかなくなったものとみえる。その特徴は、あくまで国としてアイヌ文化の発展に向けて努力したいという目標を掲げるに留まっている。
 その後の展開だが、2016年5~6月の各紙による報道で、「政府、アイヌ新法に先住民族明記検討 理念先行に懸念も」などの見出しが連なった。そこでの最大の眼目は、政府が2020年までの制定を検討するアイヌ民族に関する新法の中に、「先住民族」を明記する方向での検討はあるものの、アイヌ民族への生活・教育支援については「盛り込むことは難しい」となっていることだ。
 これに対して、北海道アイヌ協会協会幹部らは「新法は理念をうたうだけで骨抜きの内容になりかねない」と怒りを露わにしたと伝わる。反発した。そもそも、同協会は昨年3月、生活・教育支援を政府に要請した。この時、菅義偉官房長官が「法的措置の必要性を総合的に検討する」と表明。昨年7月からアイヌ政策関係省庁連絡会議で、「生活の安定・向上」や「幼児教育の充実」など6項目の検討に着手していたものである。

(続く)

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