♦️81『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの共和制

2018-01-29 21:15:28 | Weblog

81『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの共和制


 「ローマは一日にしてならず」の故事で知られるローマは、紀元前753年にローマ王国が建国された。それまでのエトルニア支配から脱したのであった。紀元前509年には、ローマにおいて共和制が成立する。紀元前272年にイタリア半島統一にこぎつけた、連邦体制に拠った。共和制をとっていたローマであるが、元老院と執政官が政治を取り仕切っていた。元老院議員は終身で、後の時代の最盛時には300人にもなった、とも言われる。また執政官とは、平時には行政、司法の長として重責を担っていた。任期は1年であり、毎年開かれる民会で再任されるには10年を待たねばならなかった。これは、独裁者の出現を阻むためのものであったに違いない。ほかに、独裁官という役職も設けられたが、こちらは限られた任務のみに関わり、それが終わると役職を降りなければならない。
 紀元前167年には、イタリア権という権利をもうけるにいたる。これは、イタリア在住のローマ市民権者であれば、人頭税を免除するものであり、これにより、ローマはイタリア半島において急速に強国への道を歩んでいく。
 その後のローマは、周辺国との戦いで領土を拡大していく。カルタゴやリビア、それにマケドニア、ヌミディアなどと次々に戦争を行う。特に、紀元前149年から同146年にかけて戦われた第三次のポエニ戦争で、ついに宿敵カルタゴ(地中海に面したアフリカ北岸にあった都市国家)を倒して、ローマの属州とした。マケドニアとの戦争も紀元前215年から紀元前149年までの長きに渡って戦ってついに勝ち、こちらもローマの属州とした。
  それまでのローマの共和政は、貴族中心に運営されていた。かれらのあらかたは、地主などの非労働階級であった。このような偏りのある国政に対して、次第に平民の不満はふくらんでいった。彼らは、生産者としての税と兵役の大部分を担っていたのに、その社会的地位は低いままであったからに他ならない。そして迎えた紀元前494年、平民を保護する目的で護民官の職が設けられる。ローマ元老院としても、市民の要求を無視できなくなったためだ。この役職だが、市民権保持者の利益を代表することをその職務とする。民会以外の官職である、執政官や独裁官、元老院議員がほとんど貴族からしか選ばれなかったのに対し、護民官は平民のみが就くことのできる役職であった。
 紀元前133年、ティベリウス・グラックス(紀元前163~同133)は、護民官となり、農地改革に着手した。紀元前146年のローマは、カルタゴを滅ぼしたり(ポエニ戦争)、マケドニアを属州とし、コリントを破壊する。これらで領土を拡大したにもかかわらず、長引く戦争での農地は荒廃していた。植民都市からは、安価な穀物が流入していた。そんな中で、中小農民の没落に乗じて貴族の大土地所有(ラティフンディウム)が拡大していた。彼らは、耕作に奴隷を用いた。そのことがさらに中小農民の没落を招き、無産者となりローマをはじめ都市に流入する事態となっていた。
 そんな時、ティベリウス・グラックスが護民官となり、没落しつつあったローマの自営農民を救うべく土地問題の改革を目指す。しかし、これは国政を牛耳る貴族の利益に反することなのであった。とうとう彼は、策謀により元老院派に殺される。その後10年を経た前123年に護民官に選ばれたのがガイウス・グラックス(紀元前154~121)で、かれは兄のティベリウスがやりのこした諸改革にのりだす。農地改革や穀物価格統制などの改革を進めようとする。ところが、昼夜分かたぬ努力で職務を続けていたところに、元老院派による罠にはめられて自殺に追い込まれる。当時の愁眉の政治課題となっていてたのは、カルタゴのあった土地での、「ユノー植民都市の建設の可否を問う投票」であった。
 賛成派も反対派も、民衆は改革に邁進するガイウス側につくか、派手好みの政策に連なる反対派のドゥルースス側につくかに熱狂していた。そんな信任投票的な色彩を帯びた平民集会での投票を前に、グラックス派の人々に「悪党は道を空けろ」となじった者に対し、彼を刺し殺すという事件が起きてしまう。ローマ法では、裁判もなく市民が殺されるということでは、正義は貫かれない。皮肉にもそれをグラックス派の人々が再現したの絶好の機会とみた元老院は、秩序維持のための元老院最終勧告を発動し、ガイウスに圧力をかける。これは、事態の収拾はすべて執政官オピミウスに委ねられるとのことであって、もはや護民官のガイウスは拒否権を発動することができなくなってしまい、ローマを離れることにも失敗したのであったが、これにより彼の目指した諸改革は頓挫してしまう。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️67『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争とその後)

2018-01-29 21:02:16 | Weblog

67『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争とその後)

 紀元前500年~紀元前449年の間に、4回にわたってギリシア(ギリシャ)のアテネを中心とするポリスの連合軍と、アケメネス朝ペルシア(ペルシャ)との戦争が繰り広げられた。紀元前499年には、そのペルシアが支配権を持っていたイオニア地方のギリシア人植民都市が、ペルシアの支配に不満を持って反乱を起こすのだが、ペルシアによって鎮圧される。紀元前490年、そしてペルシアは、援軍を送ったアテネなどのギリシアのポリスに対し、大遠征軍を送った。これがペルシア戦争の始まりである。
 紀元前478年になってもペルシアとの戦いは続いていた。この年、デロス同盟が結成された。これには、アケメネス朝ペルシアの脅威に備え、アテネを盟主としてイオニア地方など主にエーゲ海の諸ポリスが参加した。最大時200のポリスが参加した。各ポリスが一定の兵船を出して連合艦隊を編成し、それのできないポリスは一定の納入金(フォロイ)を同盟の共同金庫に入れることにした。
 かかる同盟の共同金庫は、共通の信仰の対象であったアポロン神殿のあるデロス島におかれ、同盟の会議もそこで開催された。数の上からは劣勢にあったギリシア連合軍であったが、マラトンの戦いでミルティディアスの率いるアテネ主力のギリシア軍が勝利した。なお、このときペルシア海軍の主力となったのはフェニキア人であった。彼らは、地中海の交易権をめぐりにギリシアと対立していた。紀元前449年、アテネのペリクレスの時にカリアスの和約を結んで、ほぼ50年に渡る戦争が終結した。
 そしてい迎えた紀元前431年、ペロポネソス戦争(~紀元前404)が始まった。アテネは、この戦争で西の方に位置する兵士国家スパルタと戦う。ここにスパルタというのは、実はペロポンネソス半島にあったラケダイモンという国の支配階級の名称なのであった。スパルタの下にはヘイロータイと呼ばれる被支配階級がいて、歴史的にはスパルタに征服されて奴隷になっていた部族の総称と成り立っていた。その社会は、殺伐としていた。毎年スパルタがヘイロータイに対し、形式的な宣戦布告を行い、ヘイロータイを辱め、反抗する者があれば殺すことも、おおっぴらに行われていたというから、驚きだ。スパルタの子弟においても、まだ幼い子供男子に対し身体検査などを行い、体力の劣る者を穴に埋めたり谷底に投棄するなりして、選別していたとのこと。強者だけによる国造りを目指して手段を選ばなかったのが伝わる。弱肉強食を地でいっているだけに、当時のアテネ連合に対抗し戦うだけの武力を蓄えていた。
 紀元前404年になって、アテネ連合はスパルタに敗北する。それまで身の丈を越えた勢力拡張をひた走っていたアテネであったが、その野望に終止符を打たれた形であった。しかし、この戦争に勝利したスパルタの覇権も長続きは師亡かった。紀元前371年、「レウクトラの戦い」でテーベの軍がスパルタ軍を破り、それからの紀元前370~361年にかけて、テーベによるペロポンネソス半島への侵攻が続いたのである。
 紀元前338年、マケドニアのフィリッポス2世が、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、ギリシアを併呑した。紀元前334年、マケドニアのアレキサンダー大王がマケドニア・ギリシャ連合軍で壮大な東征を開始する。紀元前333年、イッソスの戦いが行われ、アレクサンドロス大王のマケドニア軍ががペルシアのダレイオス3世の軍を破った。紀元前330年、アケメネス朝ペルシアは滅亡する。同大王は、ペルシアを敗り、エジプトから西アジアに及ぶ広大な帝国を作りあげた。その結果として、古代ギリシャの精神を汲むヘレニズム文明を広めることにもなっていく。とはいえ、紀元前323年、同大王はバビロンで病死し、残された領土を巡り将軍たちが争う事態となる。ほぼ同じ頃の紀元前323~322年、アテネなどのギリシア諸国家がマケドニアの圧政に反乱(ラミア戦争)を起こす。
 紀元前168年には、ローマはピュドナの戦いでマケドニアを解体する。ここまで来て、ローマの領土がさらに広がり、ギリシャは一地方となる。しかしローマは、文明先進国としてのギリシア文化をむしろ尊重し、これから学ぶ姿勢をとったことがあり、そのことでギリシア文明が西洋文明の大きな流れの中に融合し、受け継がれていく。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️284『自然と人間の歴史・世界篇』ウィーン体制とその崩壊

2018-01-26 20:54:24 | Weblog

284『自然と人間の歴史・世界篇』ウィーン体制とその崩壊

 ウィーン会議とは、ナポレオンの没落後の1814年9月から翌年6月にかけて続けられた、ヨーロッパ旧体制の再構築を目指そうとする会議のことだ。ナポレオン・ボナパルト打倒に指導的役割を果たしたイギリス、ロシア、オーストリア、そしてプロイセンの4国によって、主導された。外交上の課題は、晩餐会や舞踏会などを交えながらだらだらと進められ、俗的には、「会議は踊る。されど、会議は進まず」と評される。
 ようやく取りまとめられた「ウィーン会議最終議定書」が成立する。フランス革命前の勢力均衡と、各々の王家の復興を目指すことを機軸にし、オーストリア代表のメッテルニヒやフランス代表のタレーランによって声高に唱えられ、各国の急体制の面々の賛同を得る。
 その内実だが、東方からのロシア、そしてフランスの脅威が、その他の国にひしひしと感じられており、多くの国でナポレオン時代に没落していた君主や貴族らが国際舞台に復権を果たす。ウィーン会議によって成立した、フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパを、革命前の絶対王政に戻そうという体制は「ウィーン体制」と呼ばれ、保守反動がその基本的性格となる。
 その補完としては、ロシアのアレクサンドル1世が提唱し、イギリスを除く主要なヨーロッパの王国が加盟した神聖同盟がある。また、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンによる四国同盟があり、これらを含めてウィーン体制と呼ぶこともある。なお、フランスだが、1818年までにナポレオン戦争の賠償金の支払いを終え、四国同盟に加わることにより、五国同盟の一員となる。ウィーン体制はまた、各国内においては、あらゆる面での反動体制として特筆されよう。すなわち、フランス革命とナポレオンによって生み出された自由と平等、くわえるに国民の統一という革命理念を否定し、革命以前の絶対王政の支配権を復活させようというというのであった。
 このように鳴り物入りの体制であったのだが、国際舞台で通用したのは、時期は1815年から1848年の二月革命までの、ほぼ19世紀前半までに限られる。まずはイギリスだが、国内でも自由主義的な改革が進んだので、次第にウィーン体制から距離を置くようになり、「光栄ある孤立」と称してどこ国とも組まず、独自の植民地獲得(1840年アヘン戦争など)を展開していく。その念頭にあったのは、ヨーロッパというよりは、「パックス・ブリタニカ」といわれることになる植民地帝国の形成なのであった。
 この間、新たな国境線の形成・獲得をめぐっての導火線も形成されていく。バルカン半島のオスマン帝国領内のギリシア独立運動をめぐって、いわゆる東方問題が起こる。すると、バルカン進出を図るオーストリア、ロシアの利害が表面化する。旧体制の冠をかぶりながらも、対外的な領土拡張への道を歩く。さらに、この体制の圏外に位置していたアメリカは、1823年にはモンロー宣言を発して新興勢力としてヨーロッパ諸国とは別な道をとり、南北のアメリカ大陸への独占的な勢力圏の形成をめざす。
 ウィーン体制に対する国内での抵抗も増していく。フランス革命が植え付けた自由主義、民主主義、それにナショナリズム(自国第一主義)の運動が、各国へも伝搬し、ひれら諸国においても、各地で運動が起こっている。ドイツではブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)が1817年に蜂起し、イタリアではカルボナリ(炭焼党)が1820年に蜂起した。1820年に憲法制定を求めてスペイン立憲革命が起こり、ロシアでは1825年にデカブリストの反乱が起こる。
 1830年にはフランスで七月革命が勃発し、ブルボン復古王政を倒す。これが導火線となって、全ヨーロッパに各類の気運が広がる。オランダからベルギーが独立する。ポーランドでは、ロシアの支配に対して民衆の反乱が起こる。ドイツやオーストリアでは、自由主義的な憲法の制定と統一を目指し民衆が立ち上がる。イタリアの地でも、北イタリアのオーストリアからの解放とイタリアの統一をめざしてイタリアの反乱が起こると。これらは国内だけでなく、当時の国際的な政治の潮流の一つとしての側面を持っていた。
 そして、ウィーン体制の終焉だが、これを決定的にしたのは、1848年のフランスにおける二月革命であった。その背景には、イギリスに始まった産業革命が中央ヨーロッパにも波及してきたことによって、各国の資本主義化の進行し、旧来の生産関係に大変動が起き始めた。また、労働者層が成長して自分たちの階級的意識にめざめていった。
 フランスでの二月革命は、ベルリンやウィーンなどでの三月革命を呼び起こしたことでも広く知られており、その意味では、これら一連の1848年革命によって当時のヨーロッパに激震が走った、と見るべきであろうか。
 およそこのようにして、フランスでは第二共和政が成立、オーストリア支配下の諸民族が自立する諸国民の目覚めがあり、その他ドイツやイタリア、ロシアなどにおいても社会を揺るがす運動が連続して起こる。各国に先鋭なる国民意識が芽生えるようになり、ウィーン体制に象徴される国際的な枠組みは、その終焉を迎える。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️90の3『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンとオーストリアの3月革命

2018-01-25 20:54:22 | Weblog
90の3『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンとオーストリアの3月革命

 フランスの二月革命の報道が伝わると、ドイツとオーストリアでも統一運動や自由主義運動が広がる。まさに、人の目があり、それらが重なり合うことによって、世の中や政治への大衆的な意思が形成されていく。具体的には、1948年3月13日、オーストリアのウィーンで市民や学生が暴動を起す。反動体制の宰相メッテルニヒはその収拾に失敗して、イギリスに亡命する。続いてハンガリーやボヘミアなどでも暴動が起り、3月18日にはベルリンにも飛び火して市民と軍隊が衝突が起こる。
 まずドイツでは、この18日にベルリンで民衆が要求を掲げて街頭に出る。当時のドイツは、統一国家ではなく、多くの中小国に分裂していた。そのことに、国民の多くはいらだちを覚えていた。十分な準備があったとは言い難いが、それまで政治体制の転換を求める市民の革命は、プロシア王フリードリヒ・ウィルヘルム4世の言論,結社の自由などを認める勅令を引き出し、自由主義的な カンプハウゼン内閣が成立させ、ひとまず勝利を収める。5月22日には、ベルリンに国民会議が招集される。そこでは、自由主義的な憲法の作成に着手するのを決める。同様の革命がバーデン、バイエルン、ヴュルテンベルク、ザクセンなどでも起こり、それぞれ自由主義を標榜する内閣が成立する。
 5月18日には、フランクフルト・アム・マインで、各国の代表が参加したドイツ最初の国民議会が開かれる。そこでは、悲願であるドイツの統一を教義することに決める。ところが、この議会の主な構成メンバーであった知識階級は、決定と行動は後回しで、議論に明け暮れる。プロシアを中心に統一しようとする小ドイツ主義派が台頭し、これに、オーストリアを盟主にしようとする大ドイツ主義派とが対立する。また、共和制をとるか、君主国とするかの対立もあったという。
 このように、革命というには、多くが欠けていたことが、その後のあっけない展開につながっていく。革命勢力が有効な手立てを講じないままに、時間が空費される。ドイツ内部では、特に労働者階級の台頭を恐れるブルジョアジーは、支配勢力に接近する。一方、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義派が優勢になる。彼らは、自由主義的な帝国憲法を採択し、プロシア王を世襲のドイツ皇帝に選出する。しかし王はこれに満足せず、帝冠を拒絶し、南ドイツの各王侯政府もこの種の憲法を制定するのに否定的的となる。
 そして迎えた1848年11月にはベルリンで、軍隊による反革命が起こる。1849年5月、ドイツ各地に自由主義的憲法承認を要求する暴動が起ったが,1ヵ月足らずのうちに鎮圧される。オーストリアでも、革命勢力が相互に連絡し、妥協点を見出そうとすることなく、反目し合っていた。その間に保守反動勢力は態勢を立直していく。10月ウィーンで、軍隊による反革命が成功する。ハンガリーやボヘミアの革命運動が、政府軍に各個撃破された。
 概して、これらに参加した人びとは、ブルジョア的な自由主義から勤労者的な自由主義まで、広範な領域に散らばっている感があった。つらいことが沢山ある日常をなんとかできるのではないかと、政治的自由の獲得への希望の灯火がともったとの判断の下に、街頭や意思表明の場に出ていったのだが、自分たちの希望を実現するには、まずは違った階層に俗する者同士が戦術的に統一した意思を形成して目の前の一歩を踏み出し、その次もまた歩みを止めないのが肝要なのだ
 敵と妥協しないためには、見方と大胆で必要な妥協をすることが必要であり、そのためには揺るぎない原則というものを持たねばならない。その際には、複雑に絡み合う利害、勢力関係などをその都度見極めながらも、順序だって進んでいくことでなければならなかった。これらの地方での革命の早々での失敗は、それらが完遂できなかった点で時期尚早であったという見方もできるのかもしれない。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

♦️341『自然と人間の歴史・世界篇』米西戦争とキューバ独立・フィリピンのアメリカ植民地化

2018-01-24 10:00:19 | Weblog

341『自然と人間の歴史・世界篇』米西戦争とキューバ独立・フィリピンのアメリカ植民地化


 1898年2月、ハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メインが爆発し、沈没する事件が起こった。一説には、燃料の石炭に引火したともいわれたものの、原因はわからずじまいであった。一部断続はあるものの、約400年にわたりこの地を植民地として領有していたのは、スペインであった。アメリカの一部メディアは、根拠のないままに、スペイン人によるサボタージュが原因であると騒ぎ建て、国民の敵愾心を煽った。マッキンレー大統領は直ぐ様の開戦に同意せず、スペインも現地職員の一部を本国に引き揚げさせるなどして沈静化に努めるも、もはや矢は放たれる感があった。
 1898年4月、マッキンレーは、「内戦の終了」という目的をでっち上げ、キューバへ軍隊を派遣する権限を求める議案を議会に提出する。キューバでは、スペイン植民地からの独立を目指す運動があり、これとの連携を匂わせる。アメリカの議会は、キューバの自由と独立を求める共同宣言を承認する。それと同時に、マッキンレーにスペインの撤退を要求させるべく軍事力行使の権限を与える。これを受けて、スペインはアメリカとの外交関係を停止する。ほどなく、アメリカとスペインとは戦争状態に入った模様で、「アレヨアレヨ」というお慌ただしい展開を遂げていく。
 この戦争の勝敗は、あっけなくついた。アメリカにとっては自らの庭のような近い位置にあって、幾らでも補給が効く上、キューバに駐屯していたスペイン軍は約10万を数えたものの、サンチャゴは手薄であった。そこでアメリカ軍はサンチャゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を攻撃したことで、スペイン軍は総崩れとなる。陸上に上がっての戦いでもアメリカは優勢で、同年7月にはプエルトリコにまで上陸を果たす。、
 この戦争の戦場は、太平洋を隔てたフィリピンでもあった。フィリピンでの最初の戦闘は1898年5月のマニラ湾の戦いであった。アメリカの太平洋艦隊がスペイン艦隊を痛めつける。エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの国家主義者は、米艦隊とともに独立運動を再開し、スペイン軍の多くは降伏する。スペインは、太平洋艦隊と大西洋艦隊の両方をほぼ失い、戦争自体を継続する能力を失った。
 両国の交戦状態は、8月に停止した。アメリカの完全勝利であった。1898年12月、フランスが仲介者となり、パリで休戦会談、ついで講和条約(パリ条約)が締結される。翌1899年2月、これがアメリカ上院によって批准された。この戦争により、スペインはまずはキューバを放棄する。
 一方、アメリカは、フィリピン、グアムおよびプエルトリコ(プエルト・リコ)を含むスペイン植民地のほとんどすべてをスペインに譲らせ、獲得する。グアムはアメリカ領に編入され、プエルトリコはアメリカの保護領にされてしまう。また、フィリピンについては、2000万ドルを支払うことを条件に、全フィリピン諸島を手に入れたことになっている。あわせて、そのキューバは、1902年5月20日、キューバ共和国として独立したものの、それは完全独立にはほど遠く、事実上アメリカの軍政下に入る。さらに、フィリピンの独立勢力とアメリカとの関係は、それまでのものにまた一輪を掛けるような、帝国主義的な狙いを隠さぬもので、こう言われる。
 「しかし、こうした大国間取引とは別に、アギナルドらはこれより先スペインとの戦争の中で98年6月独立を宣言して革命政府を樹立し、翌99年1月には東アジアにおける最初の共和国を誕生させた。しかしアメリカはそれを認めず、ここにフィリピン・アメリカ戦争が始まる。1902年フィリピン側は一応の降伏をするが、反米闘争の残り火は13年ころまで続いた。」」(新藤栄一「米西戦争」:大貫良夫ほか監修「ラテン・アメリカを知る事典」平凡社、1987)
 ともあれ、これでアメリカにとって避けては通れない、世界進出への大いなる足掛かりが整った。これ以降、アメリカの国力は飛躍的に拡大していき、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され、代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つことになっていく。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️101『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(アーリア人の進出と古代インドの諸国家)

2018-01-23 09:34:10 | Weblog

101『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(アーリア人の進出と古代インドの諸国家)


 インダス文明の後の紀元前1500年頃から同1200年頃にかけては、アーリア人の
インドへの流入があった。彼らは、イラン人から分岐した、インド・ヨーロッパ語属に属す民族であって、一説には紀元前2000年頃には故郷を出発していたとも。アーリアとはサンスクリット語の「高貴」の意からきている。
 ヒンドゥークシ山脈、カイバル峠を越えて、インダス川中流域のパンジャブ地方に進出してくる。この進出の動機ははっきりしないものの、中央アジアを中心に遊牧生活をしていた彼らが、何かの契機に恵まれ、肥沃なインダス川流域に目をつけたのであろうか。武術に長けるアーリア人たちは、部族毎に、おそらくドラヴィダ人やムンダ語諸族などの先住民を蹴散らし、あるいは支配下に置いていく。
 そして彼らがインダス川流域からガンジス川流域へと進出してくるに及んで、父系制社会の進出族と母系制社会の先住民との間では相当数の混血が行われたのではないか。両者の持つ文化についても融合化が進み、ヒンドゥー(ヒンズー)文化が形成されていく。その際の精神の結び目としては、紀元前1000年頃までには、インドの神々にちなんだ歌集「ヴェーダ」(知識の意味)がつくられる。
 かかるヴェーダは4つからなり、各々はリグ・ヴェーダ(神々への賛歌集)、サーマ・ヴェーダ(泳法集)、ヤジュル・ヴェーダ(呪法集)、アタルヴァ・ヴェーダ(祭式集)というものであり、後に成立することになるバラモン教の根本聖典へと研磨・研鑽されていく。参考までに、現在のヒンドゥー教というのは、「バラモン教の継続変形」(蔵原惟人(くらはらこれひと)「宗教ーその紀元と役割」新日本新書、1978)だといって、差し支えなかろう。
 一方、アーリア人主導の部族国家がインド域内につくられていく過程で、紀元前10世紀から紀元前7世紀にかけて、「ヴァルナ」と呼ばれる身分制度が形成されていく。このヴァルナは、後に、来航したポルトガル人によって「カースト」と呼ばれるか、生まれを意味する「ジャーティ」という語に纏われ、社会の階層化を厳格に定めることになっていく。具体的には、上から順に、バラモンは司祭階層で、宗教儀式を行う。クシャトリヤは武士とか貴族といった特権をもつ階層で政治や軍事に携わる。ヴァイシャ(バイシャ)は農民や商人などの一般庶民階層をいい、大多数がこの身分に属する。シュードラ(スードラ)は最下層の隷属民とも訳されるが、ダーサと呼ばれる奴隷のような売買の対象となる存在ではなく、上層の三つの身分に奉仕する宿命を背負わされた身分を指す。
 アーリア人たちの率いる部族単位の小国家は、そればかりに留まっているばかりではなない。このあたりは気候が湿潤で、地味も肥えていて、稲作を中心とした農耕にはもってこいの土地柄であった。このことが原動力となり、それらの国家がしだいに都市国家のようなものへ発展し、その対立連合の裡(うち)にさらに統合されていった。とりわけ、ガンジス川中流域を中心に16もの国が現れる。これらを総称して、「古代十六」と呼ぶ(それらの位置関係については、(伊藤清司「インドの古代文明」:伊藤清司・尾崎康「東洋史概説Ⅰ」慶應義塾大学通信教育教材、1976))。
 そんな中でも強かったのは、コーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサの4国であった。因みに、仏教の創始者ゴータマ・シッダールタ(シャカ、釈尊)が王子として生まれた、現在のネパールのアーリア系南部シャカ族の国としてのカピラヴァストウは、コーサラの属国の一つであった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️83『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)

2018-01-21 21:58:10 | Weblog

83『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)


 さて、古代ローマといえば、一日にならずして、長い統治の間に、「偉大なる歴史像」というか、輪郭が徐々につくられていく。それまでの世界にない文明、文化をつくっていった。みなさん、世界地図を広げてみよう。まるで足長靴のような狭い半島から始まって、周辺に力をじわじわと伸ばしていく。地中海世界をほぼ支配したばかりでなく、文化の点でも、今日のヨーロッパ、北アフリカ、中東へと大いなる影響を与えた。ここでは、それまでの文明の歴史になかったローマ独特のものから、幾つか紹介したい。
まずは、浴場の利用である。ここで紹介したいのは、個人の家の内に設けられた私的な風呂で湯につかることではない。この風習というか、文化が社会に定着したのは共和制の時代というより、帝政時代に入ってからだ。歴代皇帝の命で領土や属国のいたるところに巨大な公共建築が建設されていった。
 その都ローマの最盛期においては、数百もの公衆浴場があったという、公衆浴場をつくって市民に安価で提供するのは、政府や皇帝の役目と見なされた時代。巨大建築のコロッセウム(円形闘技場)で剣闘士の試合を見せることがある。
 だが、それよりもっと、心地よく、生きる力に直結し、日々の暮らしに役立つものがあったのではないか。もっとも、日本のヤマザキマリ氏のマンガ作品『テルマエ・ロマエ』(ラテン語で「ローマの浴場」の意味)を読んでも感じるのだが。そんな頃、ひとたびローマ市民になると、特段のことがなければその社会的地位を保持することが可能であった。家父長制の下で、市民たる者の家族は守られたことであろう。
 その当時、市民の権利の中には、色々なものがあった。取り立てては、それらの公共建築や、これを使用しての娯楽や健康づくり、社交や図書館利用、スポーツなど、数え上げたらきりがない程の恩恵が得られることになっていたらしい。大理石の玄関や列柱、ローマン・コンクリートで固められ、所々に色彩豊かなモザイクタイルが施してある床面は、まるで別世界であるかのよう。
 ここに立ち入る者の身分を問うかのような、特段のことはない。皆が、刺しゅうの入った壁などをくぐり抜けたところに、大広間があり、そこからは様々な湯房に分かれていたのではないか。これを利用できるのは、市民の特権であった。一説には、一部の奴隷も、カネさえ払えば利用できていた。いずれにせよ、ここを訪れた市民たちは、くつろいだ、彼らが、「気持ちがよい」「幸せです」などといえる何時間なりかを過ごしたであろうことは、いうまでもなかろう。
 例えば、80年。帝政期のティトゥス帝が命令して、ティトゥス浴場を建設させたことになっている。この浴場がいかなる使われ方をしていたものであったかは、ローマ人自身がこう紹介している。
「公共浴場には、垢すり、マッサージ、詩の朗読会、散歩に最適な心地よい庭園、図書館、食べ物の屋台などほしいものが何でもそろっている。(中略)浴場には筋肉質の女もいる。(中略)それから温浴場へ向かい、騒がしい男の集団にまみれて気持ちよさそうに汗を流す。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、ジェリー・トナー解説、北綾子訳、『ローマ貴族9つの習慣』太田出版、2017)
 もう一つの浴場の事例を紹介しよう。こちらには、現地解説が見つからないのだが。その浴場は、イタリアの首都ローマにある。古代ローマ時代の大浴場の遺跡として現代に伝わるのだが、1980、1990の両年に、ローマ歴史地区、教皇領とサンパオロフォーリ・レ・ムーラ大聖堂」の名称で世界遺産に登録されている。
 こちらの浴場のいわれだが、帝政時代の中期(212~216)、ローマ皇帝のカラカラが造営を命じる。そして完成した公衆浴場は、当初は「アントニヌス浴場」、後に「カラカラ浴場」と呼ばれ、市民の間で人気を博す。というのも、アッピア旧街道は、当初、ローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門、つまりこのカラカラ浴場付近を起点としていた。その先は、モンドラゴーネ(シヌエッサ)、カープアまでをつなぐ。それが紀元前19年、ベネウェントゥム(現在のベネヴェント)やウェヌシア(現在のヴェノーザ)までさらに延長され、さらにタレントゥム(現ターラント)とブルンディシウム(現在のブリンディジ)まで延長される。
 この浴場の広さだが、遺構の調査から11万平方メートルもあったことがわかっている。かかる広大な敷地に、一度に約1600人もの市民客を収容できのではないかという。冷水浴室、高温浴室、サウナのほかに、図書室や体育室なども備えていた。ほかにも、ミトラス教の神殿が敷地内に附属していたというから、驚きだ。そんな中でも、特筆されるべきは、この種の施設の運営には奴隷の労働力が寸刻たりとも欠かせななかった。というのは、施設の地下は3階構造となっており、床の下には湯を沸かす炉と大釜がじつにたくさんあり、それらの炉にくべる木材を奴隷たちが運んでいた。その現場の下には、水道が導かれていて水を供給、さらに園下には下水道という具合に、全体が階層構造をなしていたと伝わる。これらを推し量るに、かかる地下・地階での労働は日光が満足にとどかない場所での、苦役に近いものであったであろうことは、想像するに難くない。
 こんなすごい例は今時の日本でも、ほとんど類例のあるのを聞かない。入浴料はどの位であったのだろうか、その情報がほしい。もし安価であったのなら、ローマ市民のための十分に機能していたのではないか。現代の美術館に展示されている数多くの作品が、これらの公衆浴場から発掘されていることから見ても、れっきとした総合娯楽施設であったのではないか。
 そういうことなら、ローマの市民たちが、これらの傑作で飾られていた浴場を、「われら貧乏人のための宮殿」と呼び、日々の生活を潤していたというのも、頷ける。奴隷を含め庶民が集うのであったが、市民の中には単独で来るよりも、家内奴隷の数人を従えてやって来て、施設内で「アカスリ」やら「ひげそり」、「ひげぬき」などを彼らにやらせていたといわれる。このようにローマ市民にとってなくてはならない施設であったのだろうが、6世紀に入っての「ゲルマン民族の大移動」で肝心の水を引き入れる水道が破壊されてしまう。他の建築物と同様に、ローマ市内にたくさんあった浴場も、相次いで失われていったようだ。その間に、人びとの入浴習慣も失われていき、やがてローマの滅亡とともに、浴場文化は姿を消していった。今日に残されたタワー状の遺構や水道(上下水道)施設などにより、かつてここに市民の憩いの場、そして社交場としての賑わいの場のあったことがの偲ばれる。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️100『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(魏の屯田制へ)

2018-01-21 19:11:11 | Weblog

100『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(魏の屯田制へ)

 196年、中国の地では、大きな時代の移行期の時期にさしかかっていた。後漢の献帝を戴いた曹操は、尚も力を伸ばしていく。208年、華北をほぼ平定した曹操は、さらに南進しようと遠征軍を発し、呉(ご、中国読みはウー、222~280)の孫権(そんけん)と、これに合流していた劉備(りゅうび)の連合軍と揚子江(ようすこう)の赤壁 (せきへき、現在の湖北省嘉魚県) で対峙する。そのときの戦いを「赤壁の戦い」という。
 この戦いにおいては、呉の総督である周瑜(しゅうゆ)の部将黄蓋が曹操の水軍を全滅させる。曹操の軍が大船団を構えているところへ「火攻めの計」を用いて火矢を放つ。折からの強風でその火勢が煽られたので、さしもの曹操軍は大混乱に陥った。多くの船が戦うどころはなくなる所へ、呉軍がここぞとばかりに押し寄せ、陸でも劉備の軍に攻め立てられ、全面敗退を喫し、魏軍は命からがら華北へ逃れたという。
 曹操は、赤壁での大敗北から色々と学んだ。その一つが、呉の都の建業を目指し復讐(ふくしゅう)の遠征軍を送る時に補給線が絶たれ、戦力が減殺されるのを如何にして防ぐかであった。そこで、同じ196年、参謀の韓浩らの提言に従う形で、この補給線に沿って兵隊を募って駐屯させることにする。具体的には、、「黄河と准水間の河川沿ぞいと、さらに前線の揚子江北岸等の灌漑(かんがい)工事にあたるため軍民を派遣し屯田を行わせた」(貝塚茂樹「中国の歴史・上」岩波新書、1964)という。
 後漢末の治世では、「黄巾の乱」(こうきんのらん、184年に太平道(黄巾賊)を率いる張角(ちょうかく)が起こした反乱)を契機に荒れ果てた土地がかなりあり、また流民も発生していたので、営農が止まっていた。そのことで、それまでの後漢王朝の「人頭税」という方法で税をかけていたのが、「戸籍台帳」に登録されていない住民が激増したため、その徴収額は激減していた。
 ここにいう屯田制だが、前例がなかった訳ではない。秦(しん、中国読みでチン、統一王朝としては紀元前221~206)の時代には、兵士に田地を与えて自給自足させ(兵戸)、同時に辺境の防備に充てようとするのを軍屯(ぐんとん)といっていた。新しいやり方では、入植させた農民に農具や牛を貸与するとともに、その見返りとして収穫の半分以上(一説には6割とも)を上納させるという一種の小作方式(これを民屯という)をとる。
 この制度の導入当初、かかる屯田を耕作する住民は戸籍登録されることなくして、特別に「屯田民」と呼ばれていた、ともいう。これにより、税収は、だんだんに上向いていくのであった。歴史学者の貝塚茂樹氏の言葉を借りるなら、「この屯田制は魏(ぎ、中国読みはウェイ、220~265)の南方進撃作戦の基礎となったばかりでなく、荒廃していた華北の農業を復興する原動力となり、次に来る晋(しん、中国読みでジン、西晋は265~316、東晋は317~420)の占田制(せんでんせい)に始まる中国中世独特の国家的農地所有制の先駆をなした」(同)ということだ。やがて、中国は魏・呉・(しょく、中国読みでシュー、221~263)蜀の三国鼎立時代を経て晋の時代に入っていく。
 そこで、晋の時代に入ってからのこの制度のありようなのだが、尾崎康氏はこうまとめている。
 「魏の屯田策は呉・蜀と闘う兵士の食糧確保のために戦乱で荒廃した土地に兵士や流民を入植させたものであるが、晋代には豪族化・貴族化が進んで荘園が激増していたから、土地の所有制限がいよいよ必要になって占田・課田法を行った。この制にはわからないことが多いが、官位によって土地と佃客(でんきゃく)との所有量を制限しようとしたことは明らかで、また戸籍を整えて人民に土地を給付し、一戸ごとに課税するようにして、農民の土地所有面積を平均化し、国家の租税収入の安定化を図るものでもあった。これは隋唐の均田制の先駆をなすが、大土地所有制限の効果のほどは疑わしい。」(尾崎康「貴族社会の形成ー魏晋南朝の政治と社会」:伊藤清司・尾崎康「東洋史概説Ⅰ」慶應義塾大学通信教育教材、1976)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


□78『岡山の今昔』山陽道(播磨から備前へ)

2018-01-21 09:12:00 | Weblog

78『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(播磨から備前へ)

 古くからの天下の大道としての山陽道を播磨方面からやって来て、岡山に向けてさらに進んでいく。相生(あいおい)からの山陽本線は、赤穂線を分岐させる。後者は、瀬戸内海の沿岸沿いを南へ西へうねうね辿りながら、岡山へと繋げていく。昔の山陽道からはずれるということで山陽脇街道というか、作家の井伏鱒二は、持ち前の紀行文の中でこれを「備前街道」と呼んだ。赤穂は、いうまでもなく、南に塩田を抱えて江戸時代に商業で栄えた、千種川(ちぐさがわ)の三角州(デルタ)の遠浅の地に発展したところだ。そのこともさることながら、この地は「忠臣蔵」の赤穂浪士の町でもある。
 赤穂の西は寒河そして日生(ひなせ)だが、後者の有り余る日光を浴びているかのような土地名は、どこから来るのであろうか。その次に伊里、それから備前片上、西片上を経て伊部(いんべ)へと鉄路が続く。このうち伊里のすぐ南の海に面したところが穂波(ほなみ)といって、このあたりでは瀬戸内海が深い入り江をなし、平地にいるかぎりは水平線は見えないといわれる。
 さらに岡山へ向かっての先に進もう。現在の岡山と相生を1時間20分ほどで結ぶJR赤穂線(あこうせん)のほぼ中程に伊部(いんべ)駅がある。この駅には、東西の大動脈としての国道2号線が駅前間近に通っているので、交通の便は鉄路、車道ともに良い。国道2号線を渡ると南北に「伊部通り」という名の大通りがあり、それを来た道へ向かって歩いてゆくうち約100メートルにて、T字形にて旧山陽道に出くわすことになっているとのこと。而(しか)して、この伊部という地域には、上代から脈々と伝えられし備前焼きの故郷がある。
 一方、山陽本線の方だが、山間部にしばらく分け入って進む。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


□80『岡山の今昔』山陽道(備前の海)

2018-01-20 22:45:42 | Weblog

80『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(備前の海)

 ところで、備前の人々の南の目の前には、昔も今も、普段はたおやかなる海が広がっている。ここには、この国の上代の昔から暮らす漁師達の生活の場が広がっていた。最初に、大正期の短編小説の中から。正宗白鳥の小作品「入江のほとり」の舞台は、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市伊里地区穂浪)にある、このあたりは「風光る入江の村」といったところか。「赤穂線に沿う備前町、日生町のあたりでは瀬戸内海は細長い入り江をつくる。というのも、前方には日生諸島が連なるし、邑久の岬が突き出していることから、この景色を眺めている自分は波静かな瀬戸内の懐に入っているのではないかと感じられる。その一節には、さして大きくない船を操る人びとが描かれる。
 「西風の凪(な)いだ後の入江は鏡のようで、漁船や肥舟は眠りを促すような艪(ろ)の音を立てた。海向いの村へ通う渡船は、四五人の客を乗せていたが、四角な荷物を背負(せお)うた草鞋脚絆(わらじきゃはん)の商人が駈けてきて飛乗ると、頬被(ほおかぶ)りした船頭は水棹(みさお)で岸を突いて船を辷(すべ)らせた。」(五)
また、このあたりの自然の造形の様を俯瞰すれば、暖かな空気ばかりではなく、寒さに震える暮らしもある。この作品が雑誌「太陽」に発表された1915年(大正4年)頃には、陰と陽の二つの顔がそれとなく移り代わっていたのであろうか。
 「瀬戸通いの汽船が島々のかなたにはっきり見えて、春めいた麗(うらら)かな日光の讃岐(さぬき)の山々に煙っていることもあれば、西風が吹荒れて、海には漁船の影もなくって、北国のような暗澹(あんたん)たる色を現わしていることもたまにはあった。そんな風の強い日には、大きな家の中がさながら野原のようで、いくら襖(ふすま)や帯戸を閉めきっても、どこからか風が吹きこんで、寒さを防ぐ術(すべ)もなかった。」(八)
 かかる白鳥の三男、正宗得三郎(~1952)は洋画家が本職であるが、随筆『故郷』の中で、生家のあったところの景色に想いを馳せつつ、こう述べる。
 「郷里の家の二階の窓は、前に海が展開し後に山が控えている。瀬戸内海入江の一端なのである。入江の海面は五月の快風にも鎮まり返っている。湾口を小島が塞いでいるので、まるで沖が見えない。湖ともいえる位で、漁る舟は点々として数えられる位である。」 
 このあたりの3つ目の情景描写としては、「岡山県の瀬戸内海の入江で、生まれて育った」といわれる作家の柴田錬三郎(しばたれんさざぶろう)の随筆から、しばし紹介させていただく。
 「ー前略ー瀬戸内海の鯛は、水深十メートルから五十メートルの間を、泳いでいる。上り鯛と下り鯛がある。産卵のため大平洋からやって来るのを、上り鯛という。
 八十八夜あたりから、上って来るもので、漁師は、鯛漁をはじめる。
 しばり網、天保網、五知網の三方法があった。現代は、五知網だけが残っているらしい。ローラー五知、というやつで、ロープを曳いて、船を叩くと、鯛があわてて集結する習性を利用して、引きあげる方法である。但し、これは、雷がとどろいたり、ジェット機などが飛ぶと、駄目らしい。
 私が知っているのは、しばり網である。桂(短冊状の物をつけたロープ)で、広い海面を円形にとりまき、これに鯛を追い込んで、せばめて、引きあげる漁獲法である。
 上り鯛は、旧暦の六月二十三日頃まで、大平洋から瀬戸内海に入って来る。そして、夏をすごして、再び大平洋へ去って行く。麦刈りの時期が、最もたくさん穫れるが、しかし、もうこの頃は、産卵を終わっているから味が落ちているのである。
 おもしろいことに、鯛の群れは、ちゃんと海路をきめていて、決してその路線をはずれるようなことはしない。その海路を、網代という。この網代を、満月の夜あけに、しばり網でやると、豊漁であった。
 さて、漁師は、網元と網子の上下関係を、三百年間、保って来た。一人の網元に、七、八十人の網子がついていた。
 網元と網子の関係は、ひとしろ(一人前)の漁獲高の歩合(合と称する)で、成り立っている。
 「ひとしろ一万円だから、お前は、七合(七千円)でよかろう」
 といった契約になるわけである。ー後略ー」(柴田錬三郎「鯛について」)
 ちなみに、作家の故郷は岡山県邑久郡鶴山村鶴海(現・備前市鶴海)らしいのだが、彼が1917年に生まれ、東京の大学に入るまでの少年期まで過ごしたであろうか、そこに広がる海は、彼の日常生活の間近にあったらしい。   

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


□64の1『岡山の今昔』山陽道(閑谷学校)

2018-01-20 22:44:22 | Weblog

64の1『岡山の今昔』山陽道(閑谷学校)

 ここで趣向のいささか変わったところでは、備前市の閑谷の地に閑谷学校が建っている。1670年(寛文10年)に時の岡山藩主池田光政が開校したもので、現在に伝わる建物群となったのは1701年(元禄14年)のことであった。敷地には、国宝指定の講堂を始め、重要文化財の五棟の建物が森を背景にして鎮座している。わけても講堂は、堂々たる体躯(たいく)で江戸時代の風をたたえるというか、えもいわれぬ風情を感じさせてくれる。当初の目的としは、一般庶民に儒学や実学(生活に関する知識全般)を中心とするものであったらしい。江戸時代の比較的初期、武士のために設けられた学校は全国に数々あれども、庶民教育の殿堂をつくったのは、以後の岡山人にとって郷土の誇りで在り続けている、といえよう。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


□79『岡山の今昔』山陽道(備前焼)

2018-01-20 22:43:12 | Weblog

79『岡山の今昔』山陽道(備前焼)

 この地は、備前焼発生の地として全国に知られる。この焼き物は、「釉薬を掛けない焼き締め陶」として名高い。そもそも古代の焼き物といえば、あの怪しげな形と縄を巻き付けたような文様をした縄文土器が思い浮かんでくるではないか。たとえば、北海道南茅部町垣ノ島B遺跡より出土した漆塗り土器の製作年代は、約九千年前にも遡るとも言われる。幾つかの本をめくってみるのだが、備前焼の発祥は、その流れとは異なるらしい。こちらの大方には、古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展したものが最初と推定されている。それならば、初めて窯がで焼かれてから千年の時が経っていることになるではないか。
 意外にも、この地域の焼物が有名になるのは、私たちの頭の中にイメージが出来上がっているあの「備前焼」としてというよりは、「瓦」(かわら)であった。1180年(治承4年)に遡る。その頃瓦づくりを行っていた地域としては、備前にとどまらず、そこから岡山にかけての地域に点在していたようである。この年、平清盛の子・平重衡(たいらのしげひら)の軍勢による「南都焼き討ち」によって焼かれた。この事態に、黒谷の源空(法然上人)に後白河法王より東大寺再興の院宣が下る。法然は、老齢を理由に門下の僧の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を推挙して、重源が再建費用を集める大勧進職(だいかんじんしき)に任命される。やがて東大寺の再建を始める。その造営費用に当てるため、備前と周防の2国を「造東大寺領」とした。その国税を再建費用にあてる「造営料国」(ぞうえいりょうごく)の一つとされたのだ。周防から材木を、備前と遠江から瓦を焼いて送った。屋根瓦は、東大寺領であった備前国の万富で9割以上が焼かれ、備前焼の近くや、吉井川河口の福岡を経由して舟で奈良へと運ばれた。残りの数パーセントが渥美の伊良湖で焼かれた。そして、9年後の1193年(建久4年)から東大寺再建が成った。
 この時の窯跡が遺跡に指定されていて、その中の代表的なものが万富(まんとみ、現在の岡山市東区瀬戸町万富)の東大寺瓦窯跡(とうだいじがようせき)とされる。この遺跡は、南北方向に延びた丘陵の西側斜面にあった。遺跡そのもののあった場所は現在、高さ2メートルほどの段差をもつ2面の平坦地(へいたんち)になっている。万富地域は、良質の粘土を産するほか、吉井川の水運を利用して資材や出来上がった製品の運搬にも便利であったろう。1979年(昭和54年)と2001年(平成13年)~2002(平成14年)、2005年(平成17年)に磁気探査(じきたんさ)と発掘調査(はっくつちょうさ)が行われた。上の平坦地で14基の瓦窯が見つかっている。
 このほかに、工房(こうぼう)や管理棟(かんりとう)の可能性がある竪穴遺構(たてあないこう)、礎石建物跡、暗渠排水施設なども見つかっている(この発掘の報告は、岡山県教育委員会編『泉瓦窯跡・万富東大寺瓦窯跡』『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告三七、1980による。また当時の瓦窯模式図が、高橋慎一朗編『史跡で読む日本の歴史』第6巻「鎌倉の世界」吉川弘文館、2009、87ページに復元されている。)。
 私たちが今日知るところの備前焼(びぜんやき)は、古代からの「須恵器(すえき)」での製造技術が、日本で変化を遂げて初めて作り上げられていた。それが、今から約800年の鎌倉期にいたり、開花期を迎える。須恵器(すえき)は、同時代に作られていた土師器(はじき)に比べると、堅ろうで割れにくい。そのため、平安時代末期になると庶民の日用品として人気を集めていく。こうして備前の伊部(いんべ)地方で発展した須恵器は、鎌倉時代中期には備前焼として完成の度合いをつよめていく。
 しかも、室町期に入ると、この須恵器が、各地で備前焼、越前焼、信楽焼、瀬戸焼、丹波焼、常滑焼などに発展していくのであった。顧みるに、室町の文化の一つの特徴は、生活様式の侘(わ)びとか寂(さ)びの境地に相通じるものであったろう。備前焼については、その素焼きの美しさ、飾り気のない渋みを楽しみたい、風雅人に好まれ茶の湯の席にて頻繁に使われたのだという。やがて安土桃山時代に入ると、備前焼きの愛好は黄金期を迎えるのだった。さらに江戸期に入ると、備前岡山藩主の池田光政が郷土の特産品として備前焼きを奨励するに至るうち、朝廷や将軍家などへの献上品としても名を成していく。従来の甕や鉢、壺に加え、置物としての唐獅子や七福神、干支の動物へと広がる。高級品ばかりでなく、庶民を対象にした酒徳利や水瓶、擂鉢などにも用途が及んでいくのであった。
 備前焼の製造は、これの黎明期、どのようなものであったのだろうか。備前焼は、その昔古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展し、変化を遂げて作り上げられたものといわれているものの、確かな由来は突き止められていない。焼き物というと、まずは土であり、これをどのように調達するかが大事だろう。これを供給するのは、「伊部の田圃の底に眠る、黒っぽい陶土」((株)ナック映像センター・田邊雅章編著『ふるさとの匠と技~中国地方の伝統工芸』第一部、中国電力(株)広報部、1993より)とのことであって、「手間ひまかけて慈しむように仕込み、焼物として使いやすいように充分に練り上げ」(同)る。
 こうして土が出来たら、今度はそれを大量に焼かねばならない。製造設備の要となるのは、やはり窯であろう。室町時代の終わり頃から安土桃山時代を経、さらに江戸時代にかけて備前焼が焼かれていた窯(かま)の跡ということでは、伊部(いんべ)南大窯跡(現在の備前市伊部)が有名だ。東側窯跡・中央窯跡・西側窯跡の三基からなり、一番大きな東側窯跡は長さが約54メートル、最大幅が5メートルもあり、窯の中に仕切りのない窯としては国内最大級の窯であった。これまでの市の発掘調査で、東窯跡の中央には40本近くの柱が並んでおり、窯の天井がそれらにより支えられていた。また、窯の側面には焼き物を出し入れする入り口があったこと、江戸時代前半にやや小さな窯につくりかえられていたことなどがわかっている。
 備前焼を他の地域の焼物に対し特徴付けるものとして、前述のように釉薬(ゆうやく、「釉」(うわぐすり))を一切使用しないことがあるのだが、摂氏1200度から1300度の高温で焼成する焼締めるとのこと。その素朴な中にも深い味わいというか、古からの趣を感じさせるというか、それらは全体として土の性質や、窯への詰め方や窯の温度の変化、焼成時の灰や炭などによって生み出されるものだろう。人によって描かれる紋様はないらしい。それでいて、備前焼は、一つとして同じ色、同じ模様にはならないといわれる。茶褐色の地肌は、備前焼に使われる粘土の鉄分によるものだという。
 2015年2月9日に放映された「日曜美術館」においても、「銀行頭取を務めた陶芸の巨人!川喜田半泥子、▽桃山に学んだ自由奔放な傑作」の中で、その類稀なる伝統ならではの陶器のあれこれが紹介されていた。その放送によると、彼が備前焼の赤紋様を醸し出す技術に習い、作品に新境地を拓いた。それから、備前焼は,釉薬を用いなくても赤とか、橙とか、オレンジなどの色を出せるとのことで、成形後乾燥された作品は登窯に入れてる際、作品を置く棚板や他の作品との接触を避けるため作品に稲藁を巻くと、稲藁との接触部分にこれらの特徴ある赤色模様が現れるのだとか、テレビに写し出されたのは思いを込めた赤味がかった朱色であった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️323『自然と人間の歴史・世界篇』マルクス・エンゲルスの宗教観

2018-01-20 10:03:11 | Weblog

323『自然と人間の歴史・世界篇』マルクス・エンゲルスの宗教観

 さてさて、19世紀も半ば近くになると、宗教の本質についての批判が激しさを増す。その一つには、こうある。
 「宗教は人間の本質が自己自身のなかへ反省反映したものである。(中略)感情もまたすでに、自己のなかへ反映反省し神のなかで自分自身の鏡をのぞくことができるような段階へ高まっているのである。神は人間の鏡である。(L.A.フォイエルバッハ著 (『キリスト教の本質』、1841の船山信一訳より)
 これと似た論評ながら、重点の沖か方が異なるものとして、社会主義者へと思索を深めつつあったカール・マルクスのものがある。
 「ドイツについて言えば、宗教の批判は実質的に終わっている。(中略)宗教とは人間的本質が真の現実性を得ていないがゆえになされている、その空想における現実化なのである。宗教に対する闘争はそれゆえ、間接的には、世界、つまりその精神的香りが宗教となっている倒錯した世界にたいする戦いでもある。
 宗教という悲惨は、一面では現実の悲惨の表現でもあり、同時にもう一面においては、現実の悲惨に対する抗議でもあるのだ。宗教とは、追いつめられた生き物の溜め息であり、心なき世界における心情、精神なき状態の精神なのである。宗教こそは民衆の阿片である。
  民衆に幻想の幸福を与える宗教を止揚ということは、彼らに現実の幸福を与えるよう要求するということだ。自己自身の状況についての幻想を民衆が放棄すべきであるとする要求は、幻想を必要とするような状況は放棄せよという要求なのである。宗教批判はそれゆえ、涙の谷(注:苦しみの多いこの世を意味する比喩)への批判の萌芽なのである。涙の谷に聖なる光背をかぶせたものが宗教なのだから。」(カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』、1844の三島憲一訳より)
 より簡潔には彼によるメモ書きがあり、それには「哲学者たちは世界を多様に解釈してきただけであった。しかしながら、肝要なのは世界を変えることである。」(『フォイエルバッハに関するテーゼ』第十一提題、1845、神代真砂実訳による)。
 これらで明瞭になっているのは、宗教そのものを、それはいけないといっている訳ではなく、その批判に甘んじていては何も始まらない、というのであろうか。
 その後、資本主義の運動法則の解明に進んだマルクスの経済学の構築の中では、さらに次のような書きぶりに変化している。
 「現実世界の宗教的反映は,一般に実践的な日常勤労生活の諸関係が人間にとって相互間および自然とのあいだの透明な合理的な関係をあらわすようになったときに、はじめて消滅しうるのである。社会的な生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたときに、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである。しかしそのためには、社会の物質的基礎が、もしくは一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた、ひとつの長い苦悩に満ちた発展史の自然発生的な産物なのである。」(大月版『マルクス・オンゲルス全集』第23巻)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️102『自然と人間の歴史・世界篇』インド(マウリア朝など)

2018-01-19 19:37:09 | Weblog

102『自然と人間の歴史・世界篇』インド(マウリア朝など)

 紀元前321年のインドにおいては、チャンドラグプタがナンダ朝を滅ぼしてマウリア(マウリヤ)朝を建てる。王となった彼は、一説には、ウァイシャ制(カースト制)でいうところの「スードラ」出身の女性を母としていた。この国は、さしあたりガンジス川とインダス川流域を中心に支配する。つまり、肥沃な中原としての平野地帯に出張った訳だ。
 紀元前312年、彼は、インド侵入の動きを見せていたセレウコスのシリア軍を攻撃し、敗退させる。それでは満足せず、ベルチスタン地方を併合する。都をパータリプトラに定める。そして、東はベンガル湾、西はアフガニスタンの一部にも勢力を及ぼす、大国となる。
 その統治の仕組みについては、ペルシアのサトラップ制を参考に官僚制度を敷く。各部署に密偵を置いたほか、行政監察を巡回させ行政の監督に当たらせる。時の宰相カウテリアがチャンドラグプタ王に示したという『実利論』が、現在の形になったのは、紀元2~3世紀と言われるが、それには政治や軍事の全般に関する方策が記される。とはいえ、これらをもって強権政治一点ばりというのは似つかわしくなかったようで、より詳細には、伊藤清司氏による説明にこうある。
 「地方行政組織は要衝の地に王子またはこれに代わるべき重要人物を太守として派遣し、その下の行政官の任命権は太守にまかせるという封建的性格のつよいものであった。これに対し大都市と各郡には地方長官を任命し、その下に管財官・収税司法官・その他の行政官などの官僚を分属させたが、地方行政は一般的に分権的性格がつよく、貨幣も地方ごとに異なり、共通語もなく、氏族制社会の残存が根強くあり、サトラップ制を採用したとはいえ、強力な中央集権体制は確立されていなかった。」(伊藤清司「インドの古代帝国」:伊藤清司・尾崎康『東洋史概説Ⅰ』慶応義塾大学通信教育教材、1988)
 3代目アショーカ王(在位は紀元前約268~同232頃)の時、このマウリア朝は、インドの東南海岸のカリンガ王国を征服する。これで最南端部を除く全インド世界の統一を果たすのだが、この時激しい戦いであったらしく、相手に対し大量虐殺を行ったのを悔いる。この王のそれからの心に去来していたものは何であったのか。そのことを物語るのが、石柱をはじめとする遺跡であって、中でも、中国の唐代の僧、玄奘三蔵がインドで学んでの帰国の後に著した『大唐西域記』の記述を元に、1896年、インド考古局のフューラーらがルンビニで発掘調査を行い、発見した石柱には、5行に渡って文字が刻まれ、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」とまずある。そして、「この土地の租税を軽減する」ことを謳う。 
 
(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️30の5の3『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(古代インドのアーリア人諸国家)

2018-01-17 23:19:04 | Weblog
30の5の3『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(古代インドのアーリア人諸国家)

 インダス文明の後の紀元前1500年頃から同1200年頃にかけては、アーリア人の
インドへの流入があった。彼らは、イラン人から分岐した、インド・ヨーロッパ語属に属す民族であって、一説には紀元前2000年頃には故郷を出発していたとも。ヒンドゥークシ山脈、カイバル峠を越えて、インダス川中流域のパンジャブ地方に進出してくる。この進出の動機ははっきりしないものの、チュウオウアジアを中心に遊牧生活をしていた彼らが、何かの契機に恵まれ、肥沃なインダス川流域に目をつけたのであろうか。武術に長けるアーリア人たちは、部族毎に、おそらくドラヴィダ人やムンダ語諸族などの先住民を蹴散らし、あるいは支配下に置いていく。
 そして彼らがインダス川流域からガンジス川流域へと進出してくるに及んで、父系制社会の進出族と母系制社会の先住民との間では相当数の混血が行われたのではないか。両者の持つ文化についても融合化が進み、ヒンドゥー(ヒンズー)文化が形成されていく。その際の精神の結び目としては、紀元前1000年頃までには、インドの神々にちなんだ歌集「ヴェーダ」(知識の意味)がつくられる。
 かかるヴェーダは4つからなり、各々はリグ・ヴェーダ(神々への賛歌集)、サーマ・ヴェーダ(泳法集)、ヤジュル・ヴェーダ(呪法集)、アタルヴァ・ヴェーダ(祭式集)というものであり、後に成立することになるバラモン教の根本聖典へと研磨・研鑽されていく。参考までに、現在のヒンドゥー教というのは、「バラモン教の継続変形」(蔵原惟人(くらはらこれひと)「宗教ーその紀元と役割」新日本新書、1978)だといって、差し支えなかろう。
 一方、アーリア人主導の部族国家がインド域内につくられていく過程で、紀元前10世紀から紀元前7世紀にかけて、「ヴァルナ」と呼ばれる身分制度が形成されていく。このヴァルナは、後に、来航したポルトガル人によって「カースト」と呼ばれるか、生まれを意味する「ジャーティ」という語に纏われ、社会の階層化を厳格に定めることになっていく。具体的には、上から順に、バラモンは司祭階層で、宗教儀式を行う。クシャトリヤは武士・貴族階層で政治や軍事に携わる。ヴァイシャ(バイシャ)は農民や商人などの一般庶民階層をいい、大多数がこの身分に属する。シュードラ(スードラ)は最下層の隷属民とも訳されるが、ダーサと呼ばれる奴隷のような売買の対象となる存在ではなく、上層の三つの身分に奉仕する宿命を背負わされた身分を指す。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆