○○7『自然と人間の歴史・日本篇』新生代からの日本列島(1500万~2万年前)

2016-10-19 22:01:29 | Weblog

7『自然と人間の歴史・日本篇』新生代からの日本列島(1500万~2万年前)

 約1500万年前頃からも、日本列島を含む世界全体のスケールにて、氷期・間氷期が繰り返していた。それに応じて、の列島のあちこちで海水面の変化が続いたことだろう。氷期には水が氷河の氷となって固定される。海水の量は減ったであろうし、海面が下降する。それが間氷期に移ると、今度は逆に海面が上昇する。そんなこんなで大氷河時代における海面の上昇と下降の幅は、どの位であったであろうか。
 やがて新生代第四紀更新世(約258万~約1万年前)の中期(78万~12.5万年前)には、ナウマン象がユーラシア大陸から九州に、極東ロシアのサハリンからケナガマンモスが北海道に、それぞれ渡ってきた。
 2011年3月7日付け日本経済新聞の、「長野で発見の化石は古型マンモス、「現場の勝利」の記事に、こうある。
 「長野県佐久市でトンネル工事中に出土したゾウの歯と牙の化石が、120万~70万年前の古型マンモスのものであることが野尻湖ナウマンゾウ博物館(信濃町)の調査で確認された。発見のきっかけは作業員が抱いた疑問。学芸員の近藤洋一さん(55)は「工事現場の皆さんの「勝利だった」と振り返る。
 2008年12月。土を掘り返す重機のシャベルから「湯たんぽのような」塊がこぼれ落ちた。インターネットで形がよく似たゾウの化石の写真を発見し、施主を通じて博物館に連絡した。「運良く見つかっても、誰も興味を持たなければ大発見はなかった」
 歯と牙が同時に見つかるのは国内初。海岸線や湖近くでない山中の発見も珍しい。ゾウの進化や移動ルートをたどる貴重な資料と期待を集める。
 近藤さんは「何かを見つけて『面白い』と思う感性や『何だろう』と調べてみる好奇心が文化や学問を発展させていると、改めて思いました」と感心しきりだ。」
 1867年には、約410万年前の横須賀の十数万年間前の地層から、ナウマン象の歯の化石が発見された。当地では、横須賀でドックを建造するために大規模な造成をしていた。その隣接する地層から偶然に発掘された。それは、世界初のナウマン象の化石発掘であった。ドックに隣接する山は410万年前の地層である。なので、なぜ年代が断続するナウマンゾウが生きていたとされる10数万年前の地層と直接に接しているのか、疑問視されていた。言い換えると、当該の象が生きていたのは10数万年前だと推定できるとしても、その化石がなぜ約410万年前の地層から出てきたのかは、わかっていなかった。
 ところが2015年になって、410万年前の地層が隆起し削られた後にナウマンゾウの地層が堆積していたことが分かる。約410万年の地層の上にあった地層は浸食作用により取り除かれ、その上にナウマン象の化石を含んだ地層が乗り上げた。決め手は、昨年発見された横須賀のドックが出来た頃の写真により、古い地層が隆起して侵食され新しい地層が堆積した証拠が写っていたのだ。
 やがて120万年位前(新生代第四紀更新世前期中)になると、現在の大阪湾に海が進入し、一説にはこの海が、今の瀬戸内海の始まりともされる。さらに今から約60万年前になると、現在の大阪湾付近にあってた海岸線は、播磨平野にまで海が進入するようになる。それからも海域は西へ移動していき、今から約2万年前の「最終氷期」(新生代第四紀更新世後期中)には、海面高さが100メートル内外にも低下し、瀬戸内海は浅くなったり、狭まって陸化したりで、この内海は今の紀淡海峡や鳴門海峡まで後退した。
 ここで、「ヴュルム氷期」に触れておこう。これは、地質時代の第四紀更新世の最終氷期の代名詞である。この氷期のおよそ11万年前頃から少しずつ気温が低下し始め、多少の変動を示しつつも全体としては低下し続けていった。今から2万5000年前のウルム氷期中の、亜間氷期から最後の亜氷期へと向かううち、日本列島周辺の海面は、下降期を辿っていく。その頃の日本列島は、まだところどころがアジア・ユーラシア大陸と地続きであった。日本列島が大陸と繋がっていたのは、朝鮮半島、サハリン南部あたりであろうか。わけても現在の北海道に当たる地域は、アジア大陸と陸で繋がる半島(古北海道半島)を形成していた。他方、津軽海峡と朝鮮海峡は、現在の位置よりかなり狭まっていた。本州・四国・九州は、元々が浅瀬のためこの時期にはほぼ陸化していた瀬戸内海とともに一つのまとまりとしての島(古本州島)を成していた。さらに現在の沖縄諸島は、今とほぼ同様の、基本的には島嶼(とうしょ)のままであったのではないか。
 そんな中でも、最大規模に氷床(ひょうしょう)が拡大した約2万1000年前の時期を、最終氷期の最寒冷期(最終氷期最盛期)という。これは、地球の寒冷化で氷が溶けず、その分、川を下って海に流れ込む水の量が減り、海底の浅いところのかなりのところが陸地化したためであろう。その時の水面の高さの変化ということでは、今より少なくとも100メートルから80メートルくらいは海水面が上昇していたのではないかと考えられている(現在の茨城県筑波の地質調査研究所に、霞ヶ浦での模型の展示がある)。さらに、アジア大陸と北米大陸の一部も「ベーリング陸橋」でつながったというのが、現在の地理学の推測するところだ。

(続く)

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○○487『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(早期健全化法)

2016-10-10 13:24:40 | Weblog

487『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(早期健全化法)

 もう一つの早期健全化法は破たん前の処理をねらったものです。その基本な仕組みとしては、銀行など金融機関の経営が悪化して、自己資本比率が適正水準を割り込んだ場合に、一定の条件のもとに、公的資金を注入して債権する、というものです。国際基準の8%を下回っているものの、4%以上はキープしている銀行(国内基準では4%未満2%以上)が「過小資本銀行」と名付けられて一つのグループ。
 次いで、同4%未満2%以上(同2%未満1%以上)は「著しい過小資本銀行」となって二つ目のグループ、さらに2%未満(同1%未満)に至っては「特に著しい過小資本銀行」と烙印を押されて3つ目のグループに区分されます。このグループの更に下は「0%未満」ということになって、債務超過となって、これは破たん金融機関となってしまいます。
 同法(早期健全化法)による資本注入の条件は一応定められているものの、なぜか空虚な響きがあります。「過小資本銀行」に対しては、①行員数や経費の抑制による経営合理化②役員数削減による経営体制の刷新③配当や役員賞与の抑制、などを求める。これが2つ目の「著しい」という枕詞が付くと、①代表取締役の退任、給与体系の見直し、海外事業からの撤退などの組織業務の見直しをすべて含む経営の抜本改革②配当や役員賞与の禁止③弁護士などで組織する調査委員会の設置など、経営責任明確かのための取り組みなどが盛り込まれています。
 さらに「特に著しい」という枕詞を付された銀行に対しては、2つ目の銀行に要求される要件に加えて、「その銀行の存続が地域経済のなかで必要不可欠な場合」という要件が加わります。そうして、速やかな増資か、合併や他の銀行への営業譲渡、大規模な業務の縮小、さらには自主廃業という選択枝のなかから対応を選ぶことが要求されます。のみならず、場合によっては金融再生委員会の判断によって実質的な破たん処理に入ることもありえます。
 一方、同基準8%以上を満たしている「健全銀行」に対しては、①破たん銀行の受け皿となる場合、②急激で大幅な信用収縮を避ける場合、③合併とか再編に必要な場合に限って、公的資金が注入できることとなる。その際の条件としては、①役員数や経費の抑制による経営合理化、②配当や役員賞与の抑制などが求められているのみあった。これでは、自己責任の原則が甚だしくはずれており、あきれて開いた口がふさがらない。
 この新たな仕組み(早期健全化法)を使って、金融再編のドラマがさらに進展してゆく。1998年10月23日には長期信用銀行(現在:新生銀行)が破綻した。これは、金融再生法の特別公的管理、つまり国有化条項の適用が問題になる。さしあたり長期信用銀行の破たんに対応するがために3つ目の自己資本比率0~2%のゾーンが、98年4月早期是正処置導入時の4区分導入に加えて上積みされたというのが実際のところだろう。
 具体的には、長期信用銀行が債務超過であることを理由に「破たん銀行」(金融再生法第36条)として扱うか、それとも「破たんしていない銀行」(金融再生法第37条)として扱うか、すったもんだもめた。結局、金融監督庁の7月13日から約1か月間の検査結果により債務超過が白日に晒されたことが相俟って、同36条の破たん銀行処理に落ち着いた。
 日本債券信用銀行は98年秋の当局検査で900億円超の債務超過に陥り、12月に破綻しました。いずれも春の時点では政府は「まだ債務超過に陥っておらず健全な銀行である」と太鼓判を押していたものだ。銀行側もこれに呼応して真実を語ることにだんまりを決め込んだため、他の都市銀行と同時に公的資金注入を受けていたのですから、無責任体質のそしりを免れまい。
 預金保険法に基づく行政権限ということで、金融機関を職権で破綻処理するのは、98年の金融監督庁(年から金融庁)発足後では旧日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)が最初であった。続いて1999年4月に国民銀行が破綻、5月東京相和銀行が破綻、8月なみはや銀行が破綻、10月新潟中央銀行が破綻した。
 また1998年12月には金融システム改革法が施行される。銀行法、証券取引法、保険業法など22の金融関係の法律が一括して改訂された。具体的には、投資信託の銀行の窓口販売の解禁、会社型投資信託の解禁、株式売買委託手数料の自由化などを99年12月までに段階的に実施していくことになった。すでに5千万円超の売買については98年4月から自由化されていたのを無差別とするものあった。
 このような状況に対して、99年1月には自民党・自由党連立政権が発足しました。9年1月には金融再生委員会が運営の基本方針を発表しました。99年10月には公明党が相乗りして自民党・自由党・公明党政権が発足しました。2000年4月には自由党が連立を離脱、一部は保守党を結成して政権に残り、自公保連立内閣へ、その直後小渕氏が倒れ、森内閣が発足しました。2000年6月の総選挙では自公保は議席を減らしたものの、国会過半数は確保しました。7月になると、橋本氏が小渕派会長の後釜に座りました。
 金融再建はこの間も続けられ、日本長期信用銀行(略して「日長銀」、英語表示はLTCB)の譲渡先にリップルウッドが内定した。同行は、1998年に特別公的管理、つまり国有化になっていた。だが、この国有化のおり、同行が経営破綻(デフォルト)していたかにつき、国際金融の場で大問題になりかけていた。デリバティブには普通デフォルト条項が付いていて、信用がなくなったとなれば、同行が一方当事者であるデリバティブ商品の全てが清算に入る可能性があった。そのとき、日本銀行国際局が中心となって「LTCBはデフォルト状態ではない」とのメッセージを国際金融筋に送り続けて、急場を凌いだことがいわれる(例えば、志賀櫻氏の「タックス・ヘイブンー逃げていく税金」岩波新書、2013)。
 また、2000年6月になると、日債銀の譲渡先にソフトバンク連合が内定した。この2社いずれも特別公的管理、すなわち一時国有化に置かれた結果、投下された公的資金の一部は国家損失としてほぼ確定している。一方、国民、幸福、なみはや、東京相和の各銀行についてはブリッジバンクを利用して債務処理が行われた。99年3月には、大手銀行に対する2回目の公的資金が注入されたのだ。
 99年3月の資本注入は金融早期改善化法の枠組みで行われたもので、金融再生委員会が15の銀行にこれだけの資金を注入することは前代未聞の出来事であった。この場合の資金を国がどこから調達したかというと、それは民間の銀行から4兆円、残りの3兆5000億円は日本銀行から借りた、と言われる。
 これらの結果、大手17銀行と横浜銀行の99年3月末の自己資本比率は速報値で10%を超えました(「日経新聞99年4月1日付け)。10兆円規模の当時の不良債権を処理し、それで目減りした自己資本を公的資金で補った形。すなわち、「東京三菱10.0%、第一勧業10.9%、住友10.5%、三和11%、さくら12%、冨士11%、東海12.2%、あさひ11.4%、大和13.3%、日本興業11.1%、三菱信託10.9%、東洋信託14%、中央信託13%台半ば、三井信託15.1%、安田信託12%台後半、日本信託8%前後、横浜9.5%」となっている。98年9月末に比べると多くの銀行で1-4%程度上昇、海外業務からの撤退を表明している大和銀行や安田信託銀行についても国際決済銀行による8%基準をクリアするまでに漕ぎ付けた。
 これらの投入された公的資金は、もちろん銀行が資金を借りるに当たり提出した業務改善計画の提出と相俟って、5年から12年の間に国に返済しないといけない。しかし、倒産してしまえば別で、この場合は国の債権は貸し倒れになる懼れがあります。経営陣への責任追及やチェックについて徹底しないのではないかとの疑問も当初から出されていた。
 それから証券分野では、99年6月には東京地裁が山一証券に破産宣告し、残る大手3社(野村、日興、大和)を中心にその分シェアが肥え太る
ことになりました。続く1999年10月に「株式売買委託手数料」が自由化された。99年12月になると、越智金融再生委員長が信用組合にかぎりペイオフ解禁を延期すべきだと主張、これに相沢自民党金融問題調査会委員長もペイオフ解禁の延期を提案するに及んで、政府・与党がペイオフ解禁を全面的に2002年4月まで1年間延期すると決定した。生き残った資本の間で競争が再スタートしていた。
 1999年2月に日本銀行が打ち出したゼロ金利政策については、2001年3月19日時点で速水総裁の回顧が伝えられる。それによると、「99年2月は金融システムの不安が迫り、大銀行の破たんが迫るなか、所用の法律も整備されておらず、デフレスパイラルに陥る危機があった。その危機回避にはゼロ金利しかないと思ってやった。それはそれなりに効果があった。金融財政が同じに動いて危機回避できた。」と。」(拙ホームページ「戦後日本の政治経済社会の歩み」)

(続く)

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新71『美作の野は晴れて』第一部、近代からの天文学の発展2

2016-10-01 14:57:24 | Weblog
71『美作の野は晴れて』第一部、近代からの天文学の発展2

 現実というものは、理論の支えがあってこそ現実味が増してくるものだ。その後は、アイザック・ニュートンによる重力の何たるかに思い到る。それまでのルネ・デカルトらによる説によると、宇宙にはある媒質が充満しており、それらが互いに押し合いへし合いしながら、力を伝え、この宇宙をぐるぐるした渦をなして回っている。これだと、空虚なる空間は存在しない。ニュートンは、そのようなデカルトの描く宇宙モデルを打ち破って、遠隔作用による力の伝搬を唱える。ちなみに、彼はりんごの落ちるのをみて、重力の法則を発見したのだと伝説でいわれている。1713年(正徳3年)刊行の『プリンキピア』(第二版)において、ニュートンは「重力は物体の質量に比例し、その効果は常に距離の二乗に反比例して現象しながら、広大無辺な空間のあるゆる方向に伝わっていくものなのである」と結論付けている。それからの科学は、その普遍性の力をもって発見宗教の枠を乗り越えて、あるいは踏み倒して前へと進んでいくことになってゆく。そして、科学が高度に発達するに至った21世紀現代の今、この地球に住む人類に属する一人ひとりは、はっきりと意識するとしないに関わらず、私たちのこの宇宙の加速膨脹が続けば、クラウス教授に従えば、およそ2兆年後には私たちの視界から、私たちが古代から眺め、親しんできた星空が焼失してしまうという、ドラマチックな寂寥の世界に入り込んでいくという予想を突きつけられているのである。
 もう一度教授に語ってもらおう。
 「今見えている銀河は、未来のある時点で、われわれからの後退速度が光速を超え、それ以降は見えなくなる。その銀河から出る光は、空間の膨脹に逆らってこちらに接近することができず、われわれのところにはけっして届かない。その銀河は、地平線の彼方に消えてしまうのだ。しかし、その消え方は、あなたが想像しているのとは少し違うかもしれない。銀河は夜空から突如として消え去るのではない。銀河の後退速度が光の速度に近づくにつれ、その銀河から届く光の赤方偏移は大きくなる。かつて人間の目に見える可視光線だったものは、波長が伸びて赤外線やマイクロ波や電波になり、いずれその波長は、宇宙のサイズよりも長くなる。そうなった時点で、その銀河は名実ともに姿を消すのである。
 そうなるまでの時間は計算することができる。われわれの銀河系が属する局部銀河団に含まれる銀河たちは、重力の働きでひとまとまりになっているため、ハッブルの発見した宇宙の膨張によって互いに遠ざかることはない。一方、われわれの局部銀河団のすぐ外側にある銀河たちは、われわれからの後退速度が光の速度になる距離の、五千分の一ほどのところに位置している。それらの銀河が、われわれから光速で後退する地点に到達するまでには、これから千五百億年ほどかかるだろう。それは、現在の宇宙の年齢のおよそ十倍に相当する時間である。その地点まで後退したとき、銀河に含まれる星が発する光のすべては、波長が五千倍ほどになっているだろう。二兆年ほど経てば、それらの星から出る光の波長は、赤方偏移のため、観測可能な宇宙のサイズほどの長さになるだろう。つまり、これから二兆年ほどで、局部銀河団に含まれる銀河を別にすれば、すべての天体が、文字通り姿を消すことになるのである」(ローレンス・クラウス著・青木薫訳「宇宙が始まる前には何があったのか?」文藝春秋、2013)と。
 私たち地球上の植物や動物などが日々永らえ、かつ生命を子孫につなぐことができているのは、何よりも太陽からの光と熱があったのことであるが、その太陽は、いわゆる壮年期の40億歳くらいだと言われている。この先、中心部で燃えるものがなくなってゆき、外延部が途方もなく広がる段階になると、地球もそれにのみ込まれて、今の水星や金星のように昼間は「灼熱地獄」と化してしまうことに成りそうだ。しかし、そうなるまでにはこの先、少なくとも40億年も、50億年もの時間が遺されているのであって、今私たち人類がそのことを殊更に心配する必要はないのかもしれない。
 しかし、発生以来のたゆまざる進化によって人類は、一定程度の容積の発達脳を持ち得た。そして、直立歩行が重い脳を支えた。こうして人類は、はるか遠くの時空を見通すことでこそ、文明を発展させてきた、その点が地球上の他の生物たちと異なるところである。このことを踏まえると、かつて、ブレーズ・パスカルは、人間は自然の大きさに比べるべくもないが、自分がやがて滅びるであろうことを知っている、その点にこそ人間存在の尊さがあるとのことであった。彼の著書『パンセ』などから幾つか紹介すると、つぎのようだ。
 「人間は考える葦である。宇宙はこうしたことを何も知らない。ゆえによく考えることにしよう」、「人間は自然のなかで最も弱い、一本(ひともと)の葦にしかすぎない。だが、それは考える葦である。彼を押し潰すためには全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一しずくの水でも人間を殺すには十分だ。しかしながら、たとえ宇宙が彼を押し潰そうとも、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬこと、また宇宙が自分よりも優れていることを知っているからだ。宇宙はそれについて何も知らない。」
 ほかにも、教えられる言葉が数々あるようで、あと少し紹介させていただく。 
 「我々は、考えられる限りの空間の彼方に想像を巡らしてみても無駄である。我々の生み出しえるものは、事物の実在に比べれば、原子でしかない。実在とは,至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体なのだ」、「結局自然の中において、人間とは何者なのか?無限と比べれば無、無に比べれば全体である。つまり無と全体の中間に位置しているのだ」、「自分の命のわずかな持続が、前後の永遠の間に挟まれていることを考えるとき、また自分がそこにいて見てもいるわずかな空間が、私が知らず私に縁のない無限の空間の中に沈みこんでいくことを考えるとき、わたしは恐れとおののきを感じ、自分が何故かしこにではなく、ここにいるのかと自問するのだ。わたしをここにおいたのは誰なのか?誰の命令、誰の指図によって、この場所とこの時間がわたしに割り当てられたのか」、「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる」等々。
 パスカルが言いたかったのは、世界はルネ・デカルトが唱えたように人間の理性で完全に永久得られるものではなくて、人間の知には限りがあるのであって、私たちはその時々にわかっていることを頼りとしつつも、あとはその時その瞬間を、風が吹いたらその方向になびいてゆく葦の如く生きてゆくしかない、ということらしい。同時に彼は、人間はいつかは自分たちの文明がやがて滅びて、人間存在そのものがこの自然界からなくなってしまうことを知っているのであって、この認識からは無力に生きることにはならず、各々のかけがえのない命を精一杯生きて行きたまえ、ということになるのだろうか。
 クラウス教授がアリゾナ大学での大衆講義において示したものに、カッシーニという探査衛星が土星の裏側に入って撮った写真がある。この写真は、インターネットでも公開されている、それを観ると、土星から観て太陽のある方向に、はるかかなたに一つの青い点がなかばぼんやり写っていて、これが私たちの地球なのだといわれる。これをじっくりし眺めているうちに、なんだか透徹した気持ちに誘われるのは私だけであろうか。ここに誘われるとは、人間というものは大いなるものを体験した時には、あたかもその場に自分が居合わせて、その地球の姿を垣間観ながら、かけがえのない私たちの故郷がそこにある、と感じてのことであろう。そうとも、私たちがこのように感じるのは、この写真からも、地球とともにある人類は、その命が宇宙に比べればはかなく、頼りない存在であることを学ぶことができるからではないのだろうか。
 しかも、現代生理学の教えるところによると、人間の意識は脳から来る。それは、その脳のどこか一カ所に宿っているのではなく、多くの記憶とかが重層的に組み合わさった時に、そこから構造的に生まれてくるのと考えるのが理にかなっているようである。言い換えると、人の意識とかいうものは、脳内の膨大な細胞のつながりが有機的に働くことによって生まれてくる、と考えるようになっている。このようにして、人間存在にも小宇宙というものも呼べるものがあって、私たちの心の働きは、これを離れては存在しないのだと考えられている。
 そうであるなら、私たちは、いまこうしている間にも、宇宙の進化とともに、孤独への
行程をひたすら進んでいることになるのであって、自分の生きる意義を自分で積極的に見い出していくことが、なおのこと大切になるのだと思っている。どういう生き方が自分にとって適しているかは、最終的には自分の価値観に依拠して判断してゆくしかないのであるから、これからも宇宙の法則を知るということは、自分を探求し、形成していく道でもあると思われるのだが。

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新5の1『美作の野は晴れて』第一部、都会への憧れ

2016-10-01 14:06:02 | Weblog
5の1『美作の野は晴れて』第一部、都会への憧れ

 テレビの外国ものでは、さしあたり幾つかの番組の記憶が残っている。数ある外国番組の中でも、『保安官ワイアット・アープ(The Life and Legend of Wyatt Earp)』は圧巻だった。主題歌は、後の『OK牧場の決闘』ではない。もっと静かな曲調で、現在でもインターネットでさわりの部分を試聴することができる。はじめに「ワイアット・アープ、ワイアット・アープ」とあって、続きの文句は、いまだに英語が苦手な私の耳で繰り返し聞いてもはっきりしない。主演の男優はヒュー・オブライエンであった。彼は長身でいて、ニヒルな上にハンサムときている。それでいて心憎いほど女性に対して紳士的なところがあって、全体的にも善良な人達に優しいアープを演じていた。歩く時には少し腰をひねり気味に歩いているようであった。腰に提げている長めの、どっしりした拳銃のせいかもしれない。彼の仕草のあれもこれもが格好良くて、憧れの的であった。
 話の筋は、拳銃の撃ち合いばかりではなかったので、興味深く観賞させてもらっていた。時は19世紀のアメリカの西部開拓時代、その主な活躍の場所はアリゾナ州のトムスンであった。図書館に行けば、その町の写真を観ることができるだろう。それには、あちこちからの荷馬車でごったがえし、方々からの男たちで賑わっている、埃っぽい、その当時の町の目抜き通りが写っている。実際のアープはなかなかの生き方上手で、「清濁併せ呑む」類であったらしい。後には保安官を辞め、カリフォルニアに移って比較的裕福な晩年を過ごしたようだ。もっとも、そのことはずっと後に知ったことで、当時は露ほども知らなかった。夜9時以降の放映(1961~65年)だったかどうかは覚えていない。1回当たり30分のテレビでの放映全てを、テレビの前に正座して、まるで食い入るように観賞したものだ。
 『名犬ラッシー』も、毎回のように楽しんで観ていたのではないか。舞台としては19世紀のイギリス、空気以外はただではなさそうなロンドンなどの都会ではなかった。たぶん南部のヨークシャーかどこかの田舎のごく普通の少年のいる家庭において、この犬は大事に飼われていた。そのラッシーがどうしたことか、自分の飼われている家庭が貧乏なため、ある時裕福な貴族の家にもらわれていく。行き場所は、スコットランドにあるその買主の別荘であったのではないか。ラッシーはそこで大事に扱われていたのだが、昔のことが忘れられない。そこである日、宿所を抜け出して、はるばる南部のヨークシャーの昔の家を目指して旅する。今更昔の楽しげな思い出を懐かしんでどうなるんだ、しっかり前を向けとも思われるのだが、ラッシーは怯まない。頭のどこかの引き出しにしまわれていた記憶が何かの拍子に引き出されて、脳裏にひょいと浮かんでくるのだから仕方がないではないか。一番の気に入りのシーンは、買われていく前のことなのかもしれないものの、どこかの草原に出ていて、主人公の何とかいう少年が「ラッシーッ」と大声で呼ぶ。すると、主人を振り返ったラッシーが一瞬の間に踵(くびす)を返し、カメラを構える側に跳びはねるようにぐんぐんと走り寄って来る。少年が膝を降ろしてそれを待ち構える。そして、ラッシーが主人公のところにやって来て、少年に抱きつく。実に感動的なシーンだ。
 『コンバット(Combat)』は戦争物である。こちらは、1963年(昭和38年)から67年(42年)までコンバットが放映されていた。サンダース軍曹が「リトルジョン、カービーついてこい。ドイツ兵の後ろに回るんだ」などという。作戦が実施される。機関銃がうなる。手榴弾が炸裂する。それで相手が粉砕されてその回の放映が終わるというのが、大体の筋書きだったように思う。
 相手方のドイツ軍の作戦内容とかの事情や作戦はほとんどお構いなしで、アメリカ軍主体の動きで話がどんどん進んでいく。戦線の大きな状況を教えてくれるのは稀で、それが全体のどんな戦いなのかほとんどわからずじまいだった。子供心に残ったのは、とにかく双方の兵士たちが銃撃や爆弾を受けてはバダバタと倒れ、死んでいく。人間はどうしてこんなに殺し合わねばいけないのだろうということ、そのことであった。時々であるが、いやな感情がこみ上げてきた。でも、なぜアメリカとドイツが戦争しているかの原因をたぐり寄せるには至らなかったといっていい。
 カウボーイもので『ローハイド『』(「皮の鞭」の意味)というキャトル・ドライブを扱った劇画も放映されていた。その曲は、“Rollin', Rollin', Rollin'”とのかけ声で始まる。そして最後は、“Rawhide!”と長く伸ばして声を張り上げる。それからも、威勢のよいかけ声と鞭の音やらを織り交ぜつつ、どんどん曲がすすんでいく。
 そして、やや曲のテンポが変わって、次のところで佳境にさしかかる。
“Don't try to understand them,
(彼らの気持ちをわかろうなんて考えるな)
Just rope and throw and brand 'em,
(ロープを投げてわからせてやれ。)
Soon we'll be living high and wide!
(もうすぐ俺たちは、よくて気ままな暮らしができる!)
My heart's calculating,
(胸に手を当てよく考えてみれば、)
My true love will be waiting,
(私には心から愛する人が待ってくれている、)
Be waiting at the end of my ride.
(この旅の終わりまで待てば、)
Move 'em on, hit 'em up, hit 'em up, move 'em on
Move 'em on, hit 'em up, Rawhide
Cut 'em out, ride 'em in, ride 'em im,
(切り離せ、割り込ませろ、)
let 'em out, cut 'im out, Ride on in, Rawhide!
H'yah! H'yah!”(日本語は拙訳)
となって、終幕へと向かっていく。
 この歌の最初の「ローリン」の3回連呼と、最後の「ローハーーーイド」というところが、すこぶる快い。最初の「ローリン」の連呼とともに、自分は緩やかな傾斜のある大平原の只中にいて、馬を走らせ、仲間とともに牛の群れを先へ先へと誘導している姿が自分にも乗り移る。その勇姿というか、荒ぶる男達の移動する仕事場を朝の太陽が照り輝かせつつある。愉快だ、しかし過酷な労働だ。追体験などまるでないのに、まるでそこに馬に乗った自分がいて、牛を追っているかのような臨場感があった。途中でなにやらムチの音が入ったりして、畳重ねるようなリズムとともに心に響いてくる。さっそく、身振りと手振りよろしく、その真似をして悦に入っていく。ただし、同調して歌うには歌詞が難解かつテンポが速すぎることから、諦めざるをえなかった。
 番組では、テキサスからアリゾナまで「際限のない」ような遠い道のりを、6人の男たちが何千頭もの牛の群れを追っていく。そのルートを自分で確かめようと、地図帳まで動員したりでしらべてみたものの、わからずじまいで、途中で「まあいいや」となったのではないか。何しろ「ローハイド」というだけのことはあって、3か月から6ヶ月もかかる長旅だ。昼は牛泥棒や「コヨウテ」(オオカミの一種か)などの襲来で油断がならない。夜は夜で、コヨウテが鳴くなかで、牛を寝かしつけなければならない。臆病な牛たちが暴走をはじめたら止めようがないからだ。そこで彼らの楽しみは、日没後の熱い一杯のコーヒーと、たまにゆきづりの町で交代で出かけるバーで呑むウイスキー、さらに夜明けを待たずに仲間と入れて飲む、この日初めてのコーヒーといったところだったろうか。最後の「ローハーーーイド」のところは、主人公たちが牛に鞭を当てながら、自分たちの生き様を力一杯アピールしている。そんな堂々としたような印象を与えられて、テレビの画面から伝わってくるそのど迫力に私も鼓舞され、曲の最後の方では、周囲をはばかって小さな声に努めつつ、息を吐き切る程の小さな「雄叫び」を絞り出すのであった。
 その頃の私にとって、一番の楽しみは歌うことであった。個々の中の心象風景においては、ちょうど、その頃の祖母が時折、「田植え歌」らしきものを口ずさみつつ、家事をしているのと大して違わなかったのかもしれない。といっても、楽譜が読める訳でもない。ただ心地よいのだったし、それまで聞いたことのないメロデイーが耳に入ると、それだけで「ふむ、これは何だろうか」と「知りたい」と興味をそそられる。聞いているばかりでは面白くない。覚え立ての歌を、少しずつなぞって、とにかく歌ってみよう。それでこそ、その歌と自分が同化している感じがしてくる。それだけでなにやら、「気」というか、何かしら体の外に出て行くものが感じられる。一人ながら、それですっきりして元気になったり、爽やかな気分になったりするものだから、不思議だ。
 1967年(昭和37年)のレコード大賞は、ブルーコメッツの『ブルーシャトウ』であった。当時、私は小学四年生になっていた。その曲の出だしは「森と泉に囲まれて」となっていて、山と谷に囲まれ、平野が狭い日本の景色にはふさわしくない。異国情緒に溢れたその調べが流れ始める。すると、社会の授業で習った北欧の「フィヨルド」か何かの、涼しげというよりは、何かしら暦の上では夏でも冷たさを感じさせる風景が浮かんできていた。この作品に込められたメッセージが何であるかは、残念ながら知らない。今でも、歌詞だけは頭に畳み込まれていて、いつでもどこでも、記憶の引き出しから引き出すことができる。
 とにかく、グループのスマートな体に燕尾服の格好が良かった。洗練された大人のムードがかもし出されていた。それまでのいろんな歌にはない、エキゾチックな雰囲気が感じられた。そういうことなので、体というものは嘘をつかない。その透き通るような曲想に惹かれていったのは、自分にとって自然の成り行きであったろう。
ここで「栄光の」グループサウンズからもう一曲、記憶をたぐり寄せてみたい。ザタイガースの『花の首飾り』だった。「花咲く 娘たちは」に始まり、物語調に進んでいく。愛の印の「ヒナギク」の「花の首かざり」を「私の首に かけておくれよ」という下りになると、子供ながらになぜか切なくなってきたものだ(菅原房子・なかにし礼作詞、すぎやまこういち作曲)。花の首飾りとなると、あるハワイに咲く「プルメリア」の、あの淡い赤と白のコントラストの、かぐわしい臭いを発する花が思い浮かぶ。その歌詞にある「ひなぎく」もその類なのだろうか。
 グループサウンズの曲の良さの一つに、私は「間奏」を挙げたい。ブルーコメッツでいえば、ボーカルの人がフルートかピッコロらしきものを吹くのだが、それが異国情緒に包まれるようで心地よかった。まるで、北欧のフィヨルド(凍結した海岸線)のような、湖と針葉樹林のような光景が浮かんでくる。クラシックの曲に例えて申し訳ないが、北欧のグリーグの曲を聴いているような透明感がたまらない。一方、『花の首かざり』は、おかっぱ頭のボーカルの人を中心にハミングしながら謳っているような案配で、えもいわれぬ、なんというか、暖かい雰囲気をかもしだしていたのに惹かれた。
 気に入った曲目は、反芻しているうちに自然と覚えられたから不思議だ。一度覚えると、今度は歌ってみたいことになり、一人で歩いているときなど、自然に口ずさむようになるものだ。学校から換えるときはなにやら開放感があった、家に帰る途中、友達と別れてからは1人のときが多いので、この曲もレパートリーに加えつつ、歌いながら下校したものである。
 音楽番組以外にも、いろんな番組を見ていた。その頃の我が家でテレビのスイッチを入れるのは、夕ご飯後のひとときであって、大相撲とか高校野球は時間帯が合わない。ブロ野球、プロレス、それから大河ドラマなどを家族と一所に観ていた。その中でも、大河ドラマやプロレスはみんなで見ていた。力道山の「空手チョップ」には、父も「やれえ、やっちゃれえ」などと、体を何度も揺り動かして応援していた。力道山がどのような少年時代を送ったかについては、20代になって神戸で生活するようになってから、当時の日本と朝鮮との時代背景とともに知った。それを観ている者の心構えとしては、心に太陽を抱け、ということであったのだろうか。
 その他にも、NHKの大河ドラマの代表格は、なんと言っても、長谷川一夫主演の『忠臣蔵』であったろう。彼の「おのおのがた」という時の口の動かし方には、何というか、独特の趣があって、「やっぱり頭領というのは、ああでないといけないのかな」と、自分もその時代にタイムスリップしてような気分で「いかにも」と感心したものだ。

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