□109『岡山の今昔』高野、勝北、日本原、奈義から鳥取へ

2015-08-31 19:19:07 | Weblog

109『岡山の今昔』高野、勝北、日本原、奈義から鳥取へ

 さて、私の故郷は、この鳥取へ向かう道の途中にある。中国山地の麓にほど近い、美作の北東部(作北・横仙)にある。中世から現在の岡山県は備前、備中、美作の3つに区分されている。故郷はその中央から北東部の美作と呼ばれる地帯にある。生家のあるところは勝田郡(かつたぐん)の十四郷の一つで新野郷(にいのごう)と呼ばれていた。この名は奈良期から平安期に見える地名であって、平城京出土の木簡18号には、「美作国勝田郡新野郷傭米六斗」と墨書されている。美作の地名の由来は、これも朝鮮半島と因縁が深いことで知られている。

 「勝田(かつた)郡の「勝田」の訓は、「延喜式」民部省に、「カツタ」とあり、「和名鞘抄に加豆万多(かつまた)とある。勝田郡勝田郷の「勝田」の訓は、高山寺本「和名抄」に「加豆万多(かつまた)」、刊本に「加都多(かつた)とある。『美作風土記』逸文に勝間田(かつまた)池がみえるので、カツタ(勝田)は、カスカラ(大東加羅〈百〉がカスカラ→カツクラ→カツウラ→カツラ(桂)→カツタ(勝田)と変わった地名で、勝間田(かつまた)はカスカラ(大東加羅〈百〉)がカツマタに転訛した地名とみられる」(石波)との説がある。
 そこで、津山から因幡往来へ通じるための道のりであるが、江戸期までの人々は、川崎の玉琳(ぎょくりん)のところで、出雲街道と袂(たもと)を分かつ。しづな坂を越して、下押入へ進んでいく。下押入地区に入った因幡往来・因幡道(いなばおうらい・いなばみち)は、大別するに加茂道と、勝北へと通っていく道とに分かれる。今で言うと、県兼田上横野線の山西地区との境のところに、元禄年間(1688年~1704年)に造られた、花崗岩の道標が立っていて、東は因幡道、西は加茂道と教えてくれている。ここに加茂道とは、加茂谷に通じる道である。ここで土地の人にやや詳しく解説してもらうと、「下押入のところから鹿の子に入り、西高下を通って、夏目池の下を通り、現在の美作の丘の北を揚舟(あげふね)に抜けてて、綾部(あやべ)を通って、加茂谷に入」(津山市高野小学校編「むかし高野」1998年刊)るまでをいっていた。
 それから勝北方面へ向かう因幡道については、1970年(昭和45年)頃、中国縦貫自動車道の開通とともに従来の因幡往来が大きく路線変更になった。それまでの因幡往来・因幡道は、兼田橋から加茂川に沿って国立療養所(現在の津山中央病院のあたり)の南を北上していた。そのルートが、河辺地区を通り、加茂川を渡り、下押入から押入、高野へと抜けている。さらに野村、楢と北上したところで、同じ加茂川を今度は西から東へと渡って、勝北方面へと進んでくのである。その間、ゆるやかながらも500メートル位はありそうな奈良坂を上りきると、そこは勝北(現在は津山市)であり、この歩いての道こそは因幡道の本道にして、この後で紹介する、国道53号線を路線バスに乗って行く道とほぼ同じものと言って良いのではないか。
 勝北からの因幡往来の進路であるが、奈義へと北東への道を通り抜け、そこからさらに鳥取との県境の黒尾峠を越えて因幡(いなば、今の鳥取県全域)の智頭町(ちずちょう、鳥取県八頭郡)、用瀬(もちがせちょう、同郡)から鳥取城下(今の鳥取市)へと向かう。この鳥取との県境に、1971年(昭和46年)9月24日、「孤」(原文ママ)を描くループ橋は延長百八十メートルという、「西日本一のループ橋」が完成し、国道53号線が全線(135キロメートル)開通した。建設省がその2年前から約40億円をかけて進めてきた。両県を結ぶトンネルは延長843メートル、深さ32メートルの谷間に架かっている橋を下から見上げると、壮観である。

(続く)

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○○47『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(好太王碑文など)

2015-08-30 20:09:42 | Weblog

47『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(好太王碑文など)

 ここでは、倭と朝鮮半島との外交関係を紐解いてみたい。4世紀初めの朝鮮半島は、北方の高句麗(コグリョ、紀元前37年に建国)とその南方に百済(ペクチェ、紀元前18年に建国)と新羅(シルラ、57年に建国)の3国がいずれも王朝国家を形成していた。そのほか、半島最南部には「伽羅・伽耶連盟(から・かやぶんめい)」も展開していて、複雑な諸国家分立の状況にあった。高句麗の勢いは楽浪郡を滅ぼした後も益々盛んで、四世紀の終わり頃の好太王の治世には、大いに外征を行い、領土を広げていった。西は現在の中古具の東北三省の南の地方から、東はトンヘ(日本の立場で言うと日本海)の沿岸にまで領土を広げ、さらに海岸沿いに北へ勢いを伸ばしつつあった。
 4世紀後半に至ると、今の中国の東北三省に拠点を置き、朝鮮半島北部まで進出していた高句麗がさらに半島を南下し、北進してきた百済と戦いを交える。これらのうち「加羅・伽耶連盟」では、かねてから少数豪族の分立が続き、その団結は強くなかった。ところが、南朝鮮にはその頃すでに、倭の勢力が入り込んでいたことがわかっている。それが、大和朝廷によるものであるかどうかは、はっきりしていない。5世紀に入る頃には、倭は百済と力を合わせて、北から南へと勢いを伸ばしていた高句麗と対峙することになっていく。
 ちなみに、かの有名な好太王の碑文は、現在の中国の吉林省集安市に建つ。碑は、長寿王が父の好太王の功績をたたえるために414年に建てた。碑文に彫られた正確な名前は、「國岡上廣開土境平安好太王」とのことで、それが刻まれている石柱の高さは6.4メートルある。碑の4面すべてに合計で1759文字が刻まれている。そこには、王の治世のさまざまな出来事が、手柄話を中心に記されている。なかでも、高句麗と百済・倭との17年に及ぶ戦い(391年、400年、404年及び407年)が記されている。
 例えば、第1面の8行から9行にかけて、「百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民」と彫られている。ここに、高句麗はかつて百済と新羅を属民としていた。それゆえ、両国は高句麗に朝貢して来た。しかし、倭は辛卯年(391年)よりこのかた、海を渡って百済を破り、□に新羅を□した。これによれば、倭は百済と新羅を臣民とした。この文章を、当時の倭が百済と新羅を従えていたと読むのであれば、飛躍に過ぎよう。そこで、この碑が言いたいのは倭との戦いにおける大義名分であって、倭はそれ程までに朝鮮半島の深くまで進出していた。それに脅威を覚えた高句麗はやむなく大軍を差し向けて倭と戦い、第1回目は勝利を収めたことになるのだろう。
 ところが、その後のことははっきりしていない。双方のいうところは異なっている。とすると、確かなところは藪の中にある。この碑文の細かいところでは、何しろ好太王の事績を褒め称えてある。古代ローマなどでも、都合のいいところだけを並べ立てていたのではないか。そうである可能性があるからして、今でもいろいろな解釈が並び立っているようである。4世紀末から5世紀初めの倭(日本)と朝鮮半島の姿を東アジアの視点から知ることができる貴重な歴史的資料であることに変わりはないものの、やはり何らかの考古学的な裏付けが必要だと考られる。
 もう一つ、4世紀の倭と朝鮮との関わりを推測させるものとして、七つの矛先をもつ七支刀(しちしとう)に触れたい。これは、神がかりの剣であって、古代の4世紀、朝鮮半島から伝わった。ヤマト王権の武器庫であったとも言われている石上神宮(いそのかみじんぐう、現在の奈良県天理市)にあって、国宝となっている。2000年5月の上野国立美術館で開催中の「国宝展」にも陳列された。その説明文にはこうあった。
「奈良県天理市石上神宮伝世
古墳時代4世紀
特異な形状の鉄剣で、表裏に61文字金象嵌される。
銘文は朝鮮半島をめぐる当時の倭の国際関係をうかがわせる記録的
文章である。」
 銘文に何が書いてあるかははガラスケース越しではよく読みとれなかったので、ここでは現場での注釈にさせていただこう。
「泰(和)四年(五)月十(六)日、丙午正陽造百練(鉄)、七支刀(出)百兵、宣供供侯□□□□付、先世以来有此刀百済(王)世(子)、奇生聖音故為倭王旨造伝示(後)世」
 なぜ七つの刃先なのかということについては、祭祀用に用いる剣だからということだろうか。倭王とは誰なのかを考える時、「宣供供侯□□□□付」のところの読みの一部が不詳となっている。朝鮮史研究会「朝鮮の歴史」による推測には、こうある。
 「「七支刀」(奈良県・石上神宮所蔵)は、369年に、百済が作製して倭王に送ったもので、こうした百済との関係樹立を記念したものである。ここに百済・加耶南部・倭の軍事的な同盟関係が成立したことになる。」(朝鮮史研究会「朝鮮の歴史」三省堂、1995より)
 「石上神宮の宝物として、鉄盾とともに伝えられたもので、身の両側にそれぞれ3本の枝刃を左右交互に出す特異な形からこの名がある。鍛鉄製の剣身に金象嵌(きんぞうがん)の銘「泰□四年□月十六日」があり、ここでの元号は「泰和」とみるのが有力である。
 『日本書記』」神功皇后52年の条に百済王が献じた重宝のなかに「七支刀」の記録があるのは注目される。」NHK出版編「国宝全ガイド」日本放送出版協会、1999より)
 この解説文のなかで腑に落ちないのは、泰和4年(369年)に百済王が倭王に「献上」したというなら、臣下なり同盟員が主人なり盟主なりに送ったことになりはしないか。この点について上田正昭氏の『古代史の焦点』は、こう推測される。
「(石上神宮の七支刀は)全長74.9センチ(刀身65センチ)の鍛鉄の両刃づくりで、刀身の左右に3つずつの枝が違い違いに出ている呪刀である。その刀身の表裏に、金の象嵌で六十余字が刻されている。三度実物を吟味したことがあるが、惜しいことに下から約三分の一のところで、刀身は折れており、銘文もまた錆落ばかりでなく、故意に削ったところがあって、銘文の判読に困難な個所がある。
 そのため苦心の解読が多くの人々によってなされてきたが、これまでの読み方で、決定的に誤っているのは、396年(泰和四年)に、百済王が倭王に「献上した」刀などと解釈してきたことである。銘文の表に「候王に供供(供給)すべし」とある候王とは、裏の「倭王」をさす。まずなりよりもこの銘文の書法は、上の者が下の者に下す下行文書形式であって、けっして「献上」を意味する書法でもなければ文意でもない。それは百済王が候王たる倭王にあたえたことを意味する銘文であった。それなのに、これを「献上」とか「奉った」とかなどと恣意に読みとったのは、我を優として彼を劣とする差別思想にわざわいされたものというほかない。
 21世紀の今、これまでの「歴史を直視せよ」といわれる。東アジアでは、歴史認識を巡っていろいろと面倒なことばかりが目立つ。その中では、共通する部分を明らかにしていこうという仕事が軽視されているきらいがある気がしている。そういう非和解とされる部分を辛抱強く紐解いていくと、どうなるだろうか。お互いの連関性を明らかにしてこそ、双方、多方面との違いも明らかになるのではないか。この国の文化も歴史も、そうすることによってこそ、生き生きと蘇ってくるのではないかと考えている。一九八〇年代のドイツとフランスの歴史的和解は「ついに握手ができたか」の灌漑ひとしおであったし、欧州12か国の歴史家が額をつきあわせて編集した歴史教科書「ヨーロッパの歴史」が1992年から出版されており、1997年には増補改訂版も出されていると伝えられる(朝日新聞の声欄、倉持三郎氏の「東アジアも共通の歴史教科書を」2015年3月27日に収録)。
 このようにして日本列島に勃興していた、もしくは大きな力を貯えつつあった勢力と、古代の朝鮮との外交関係がどうであったかは、2世紀頃までの外国との関係はなお、あまりよくわかっていない。こちらは中国との関係よりも、もっと「灯台もと暗し」で、双方の考古学の成果をかき集めても、それらの事実のひとつひとつを結びつけ、連続し、一貫した知識の体系として整理するまでには至っていない。朝鮮半島からは、主として対馬や隠岐を経由して、この列島のいずれかの地に行き渡る。3世紀から7世紀にかけて本格化した。それには少なくとも3回の波があった。一つは、民衆レベルのもので、朝鮮半島の飢饉などに悩んでいた人々が渡ってきた。二つは、貴族とか豪族が新天地を求めて渡ってきた。更なる一つは、7世紀からのものである。

(続く)

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□102『岡山の今昔』岡山から総社から倉敷へ(古代から鎌倉時代)

2015-08-26 11:28:19 | Weblog

102『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(古代から鎌倉時代)

 吉備線(きびせん)は、岡山と総社(そうじゃ)の間の20.4キロメートルを結ぶ。岡山からディーゼル機動車に引っ張られて西へ出発し、備前三門、大安寺、備前一宮を経て吉備津へと向かう。吉備津からは、備中高松、足守、さらに服部とやって来る。このあたり一円は、上代において摩訶不思議な伝説に包まれる地域であったことで知られる。
 その一つは、大和朝廷から遣わされた吉備津彦命(きびつひこのみこと)の鬼退治の話である。鬼の名前は温羅(うら)といって、百済(くだら)の王子という。この鬼がある時吉備国にぶらりやって来て、既に鬼の山に築かれていた鬼ノ城(きのじょう)に居城する。
 この城は、長らく倭(後の日本)と百済の連合軍が白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫してから間もない時、国内の防護のために築いた、と考えられていた。しかし今では、21世紀に入ってからの発掘で7世紀第4四半期(675~699)あたりの築城であったことが分かっている。ともあれ、総社の平地から400メートルの高さに延々3キロメートルに渡って陣地が築いてあった。ここを占拠した温羅は身の丈(たけ)1丈4尺(4メートル)もの巨漢にして、怒ると火を吹いたり、大岩を投げ飛ばすなどして暴れた。麓に住む村人には、若い女性を連れて来いと要求する。そこで大和朝廷は、武勇の誉れの高い吉備津彦命(きびつひこのみこと)に命じて、鬼退治に行かせる。
 その彼と温羅との戦いの主戦場が、矢喰宮(やくいのみや)であったそうで、吉備津神社側から放たれた矢と、鬼ノ城から放たれた矢がここでかみ合って落ちた。最後には、鬼ノ城の温羅の目に矢が当たり、おびただしい血が流れた。近くを流れる血吸川(ちすいがわ)の名前の由来は、これなのだと伝わる。これで温羅の戦意がなくなり、鯉に化けて逃げようとしたところ、吉備津彦命はその鯉をのみ込んでしまった。「鯉喰神社」(こいくいじんかじゃ)の由来は、ここにあると伝わる。2016年10月に友人と二人で訪れたこの地は、田園地帯の只中にあって、通りすがる一人としていなかった。
 その後の温羅は、吉備津神社の地下深くに閉じ込められ、以来日夜呻吟しているとのこと。温羅が百済から来たという伝説は、歴史的事実ではないにしても、このような伝説を生むもとになる史実があった可能性も捨てきれない。この地は、上代(上古)から鉄の一大生産地であったことは明らかである。加えて、『日本書紀』の「崇神天皇」の条において、こうある。
 「十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。」
 これらからは、吉備津彦命が、大和朝廷からこの地を平定するようにとの命令を受けてやってきたことことも想起されて、なかなかに興味をそそられる。もっとも、「崇神天皇」その人が3世紀初めに生きていたという確証は得られないことから、全くの作り話である可能性は捨てきれないのであるが。
 そして迎える吉備線の終着駅・総社。この地は、日本列島に国々ができた頃、吉備国(きびのくに)の「神々」の中心、「総社宮」があった処だ。そのことが、日本文教出版「岡山カメラ風土記3・空から見た岡山」1977)に、写真とともにこう紹介される。
 「7世紀の中頃、ここに国府が置かれ、それに伴って総社宮が立てられた。総社宮の建立は国司巡拝の軽減を目的とした寄宮といわれており、備中壱円の324の祭神が合祀されている。貞享年間(17世紀後半)に再建された本殿は簡素なただづまいを水面に落とし、回廊を巡らした三島式庭園は古代造園方そのままにいにしえの面影を伝えている。」
 今は総社市にある、備前と備中との境目に位置する「中山」(なかやま)と呼ばれる小さな山には、その当時、備前国の一宮(いちのみや、吉備津彦神社)と備中国の一宮(吉備津神社)の二つの社(やしろ)が取り付いていた。その聖なる山にかぶされた枕詞が、これまた「真金吹く」という「たたら製鉄」にまつわる歌言葉であった。顧みると、鉄の生産は、「吉備国」時代から連綿として続いてきた。誠に鉄は、かの国の威勢を現出していた原動力の一つであったのだろう。10世紀に編纂された古今和歌集にも、「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷(ほそたに)川の音のさやけさ」とある。

(続く)

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新5『美作の野は晴れて』第一部、都会への憧れ

2015-08-24 10:46:40 | Weblog

5『美作の野は晴れて』第一部、都会への憧れ

 テレビの外国ものでは、さしあたり幾つかの番組の記憶が残っている。数ある外国番組の中でも、『保安官ワイアット・アープ(The Life and Legend of Wyatt Earp)』は圧巻だった。主題歌は、後の『OK牧場の決闘』ではない。もっと静かな曲調で、現在でもインターネットでさわりの部分を試聴することができる。はじめに「ワイアット・アープ、ワイアット・アープ」とあって、続きの文句は、いまだに英語が苦手な私の耳で繰り返し聞いてもはっきりしない。主演の男優はヒュー・オブライエンであった。彼は長身でいて、ニヒルな上にハンサムときている。それでいて心憎いほど女性に対して紳士的なところがあって、全体的にも善良な人達に優しいアープを演じていた。歩く時には少し腰をひねり気味に歩いているようであった。腰に提げている長めの、どっしりした拳銃のせいかもしれない。彼の仕草のあれもこれもが格好良くて、憧れの的であった。
 話の筋は、拳銃の撃ち合いばかりではなかったので、興味深く観賞させてもらっていた。時は19世紀のアメリカの西部開拓時代、その主な活躍の場所はアリゾナ州のトムスンであった。図書館に行けば、その町の写真を観ることができるだろう。それには、あちこちからの荷馬車でごったがえし、方々からの男たちで賑わっている、埃っぽい、その当時の町の目抜き通りが写っている。実際のアープはなかなかの生き方上手で、「清濁併せ呑む」類であったらしい。後には保安官を辞め、カリフォルニアに移って比較的裕福な晩年を過ごしたようだ。もっとも、そのことはずっと後に知ったことで、当時は露ほども知らなかった。夜9時以降の放映(1961~65年)だったかどうかは覚えていない。1回当たり30分のテレビでの放映全てを、テレビの前に正座して、まるで食い入るように観賞したものだ。
 『名犬ラッシー』も、毎回のように楽しんで観ていたのではないか。舞台としては19世紀のイギリス、空気以外はただではなさそうなロンドンなどの都会ではなかった。たぶん南部のヨークシャーかどこかの田舎のごく普通の少年のいる家庭において、この犬は大事に飼われていた。そのラッシーがどうしたことか、自分の飼われている家庭が貧乏なため、ある時裕福な貴族の家にもらわれていく。行き場所は、スコットランドにあるその買主の別荘であったのではないか。ラッシーはそこで大事に扱われていたのだが、昔のことが忘れられない。そこである日、宿所を抜け出して、はるばる南部のヨークシャーの昔の家を目指して旅する。今更昔の楽しげな思い出を懐かしんでどうなるんだ、しっかり前を向けとも思われるのだが、ラッシーは怯まない。頭のどこかの引き出しにしまわれていた記憶が何かの拍子に引き出されて、脳裏にひょいと浮かんでくるのだから仕方がないではないか。一番の気に入りのシーンは、買われていく前のことなのかもしれないものの、どこかの草原に出ていて、主人公の何とかいう少年が「ラッシーッ」と大声で呼ぶ。すると、主人を振り返ったラッシーが一瞬の間に踵(くびす)を返し、カメラを構える側に跳びはねるようにぐんぐんと走り寄って来る。少年が膝を降ろしてそれを待ち構える。そして、ラッシーが主人公のところにやって来て、少年に抱きつく。実に感動的なシーンだ。
 『コンバット(Combat)』は戦争物である。こちらは、1963年(昭和38年)から67年(42年)までコンバットが放映されていた。サンダース軍曹が「リトルジョン、カービーついてこい。ドイツ兵の後ろに回るんだ」などという。作戦が実施される。機関銃がうなる。手榴弾が炸裂する。それで相手が粉砕されてその回の放映が終わるというのが、大体の筋書きだったように思う。
 相手方のドイツ軍の作戦内容とかの事情や作戦はほとんどお構いなしで、アメリカ軍主体の動きで話がどんどん進んでいく。戦線の大きな状況を教えてくれるのは稀で、それが全体のどんな戦いなのかほとんどわからずじまいだった。子供心に残ったのは、とにかく双方の兵士たちが銃撃や爆弾を受けてはバダバタと倒れ、死んでいく。人間はどうしてこんなに殺し合わねばいけないのだろうということ、そのことであった。時々であるが、いやな感情がこみ上げてきた。でも、なぜアメリカとドイツが戦争しているかの原因をたぐり寄せるには至らなかったといっていい。
 カウボーイもので『ローハイド『』(「皮の鞭」の意味)というキャトル・ドライブを扱った劇画も放映されていた。その曲は、“Rollin', Rollin', Rollin'”とのかけ声で始まる。そして最後は、“Rawhide!”と長く伸ばして声を張り上げる。それからも、威勢のよいかけ声と鞭の音やらを織り交ぜつつ、どんどん曲がすすんでいく。
 そして、やや曲のテンポが変わって、次のところで佳境にさしかかる。
“Don't try to understand them,
(彼らの気持ちをわかろうなんて考えるな)
Just rope and throw and brand 'em,
(ロープを投げてわからせてやれ。)
Soon we'll be living high and wide!
(もうすぐ俺たちは、よくて気ままな暮らしができる!)
My heart's calculating,
(胸に手を当てよく考えてみれば、)
My true love will be waiting,
(私には心から愛する人が待ってくれている、)
Be waiting at the end of my ride.
(この旅の終わりまで待てば、)
Move 'em on, hit 'em up, hit 'em up, move 'em on
Move 'em on, hit 'em up, Rawhide
Cut 'em out, ride 'em in, ride 'em im,
(切り離せ、割り込ませろ、)
let 'em out, cut 'im out, Ride on in, Rawhide!
H'yah! H'yah!”(日本語は拙訳)
となって、終幕へと向かっていく。
 この歌の最初の「ローリン」の3回連呼と、最後の「ローハーーーイド」というところが、すこぶる快い。最初の「ローリン」の連呼とともに、自分は緩やかな傾斜のある大平原の只中にいて、馬を走らせ、仲間とともに牛の群れを先へ先へと誘導している姿が自分にも乗り移る。その勇姿というか、荒ぶる男達の移動する仕事場を朝の太陽が照り輝かせつつある。愉快だ、しかし過酷な労働だ。追体験などまるでないのに、まるでそこに馬に乗った自分がいて、牛を追っているかのような臨場感があった。途中でなにやらムチの音が入ったりして、畳重ねるようなリズムとともに心に響いてくる。さっそく、身振りと手振りよろしく、その真似をして悦に入っていく。ただし、同調して歌うには歌詞が難解かつテンポが速すぎることから、諦めざるをえなかった。
 番組では、テキサスからアリゾナまで「際限のない」ような遠い道のりを、6人の男たちが何千頭もの牛の群れを追っていく。そのルートを自分で確かめようと、地図帳まで動員したりでしらべてみたものの、わからずじまいで、途中で「まあいいや」となったのではないか。何しろ「ローハイド」というだけのことはあって、3か月から6ヶ月もかかる長旅だ。昼は牛泥棒や「コヨウテ」(オオカミの一種か)などの襲来で油断がならない。夜は夜で、コヨウテが鳴くなかで、牛を寝かしつけなければならない。臆病な牛たちが暴走をはじめたら止めようがないからだ。そこで彼らの楽しみは、日没後の熱い一杯のコーヒーと、たまにゆきづりの町で交代で出かけるバーで呑むウイスキー、さらに夜明けを待たずに仲間と入れて飲む、この日初めてのコーヒーといったところだったろうか。最後の「ローハーーーイド」のところは、主人公たちが牛に鞭を当てながら、自分たちの生き様を力一杯アピールしている。そんな堂々としたような印象を与えられて、テレビの画面から伝わってくるそのど迫力に私も鼓舞され、曲の最後の方では、周囲をはばかって小さな声に努めつつ、息を吐き切る程の小さな「雄叫び」を絞り出すのであった。
 その頃の私にとって、一番の楽しみは歌うことであった。個々の中の心象風景においては、ちょうど、その頃の祖母が時折、「田植え歌」らしきものを口ずさみつつ、家事をしているのと大して違わなかったのかもしれない。といっても、楽譜が読める訳でもない。ただ心地よいのだったし、それまで聞いたことのないメロデイーが耳に入ると、それだけで「ふむ、これは何だろうか」と「知りたい」と興味をそそられる。聞いているばかりでは面白くない。覚え立ての歌を、少しずつなぞって、とにかく歌ってみよう。それでこそ、その歌と自分が同化している感じがしてくる。それだけでなにやら、「気」というか、何かしら体の外に出て行くものが感じられる。一人ながら、それですっきりして元気になったり、爽やかな気分になったりするものだから、不思議だ。
 1967年(昭和37年)のレコード大賞は、ブルーコメッツの『ブルーシャトウ』であった。当時、私は小学四年生になっていた。その曲の出だしは「森と泉に囲まれて」となっていて、山と谷に囲まれ、平野が狭い日本の景色にはふさわしくない。異国情緒に溢れたその調べが流れ始める。すると、社会の授業で習った北欧の「フィヨルド」か何かの、涼しげというよりは、何かしら暦の上では夏でも冷たさを感じさせる風景が浮かんできていた。この作品に込められたメッセージが何であるかは、残念ながら知らない。今でも、歌詞だけは頭に畳み込まれていて、いつでもどこでも、記憶の引き出しから引き出すことができる。
 とにかく、グループのスマートな体に燕尾服の格好が良かった。洗練された大人のムードがかもし出されていた。それまでのいろんな歌にはない、エキゾチックな雰囲気が感じられた。そういうことなので、体というものは嘘をつかない。その透き通るような曲想に惹かれていったのは、自分にとって自然の成り行きであったろう。
ここで「栄光の」グループサウンズからもう一曲、記憶をたぐり寄せてみたい。ザタイガースの『花の首飾り』だった。「花咲く 娘たちは」に始まり、物語調に進んでいく。愛の印の「ヒナギク」の「花の首かざり」を「私の首に かけておくれよ」という下りになると、子供ながらになぜか切なくなってきたものだ(菅原房子・なかにし礼作詞、すぎやまこういち作曲)。花の首飾りとなると、あるハワイに咲く「プルメリア」の、あの淡い赤と白のコントラストの、かぐわしい臭いを発する花が思い浮かぶ。その歌詞にある「ひなぎく」もその類なのだろうか。
 グループサウンズの曲の良さの一つに、私は「間奏」を挙げたい。ブルーコメッツでいえば、ボーカルの人がフルートかピッコロらしきものを吹くのだが、それが異国情緒に包まれるようで心地よかった。まるで、北欧のフィヨルド(凍結した海岸線)のような、湖と針葉樹林のような光景が浮かんでくる。クラシックの曲に例えて申し訳ないが、北欧のグリーグの曲を聴いているような透明感がたまらない。一方、『花の首かざり』は、おかっぱ頭のボーカルの人を中心にハミングしながら謳っているような案配で、えもいわれぬ、なんというか、暖かい雰囲気をかもしだしていたのに惹かれた。
 気に入った曲目は、反芻しているうちに自然と覚えられたから不思議だ。一度覚えると、今度は歌ってみたいことになり、一人で歩いているときなど、自然に口ずさむようになるものだ。学校から換えるときはなにやら開放感があった、家に帰る途中、友達と別れてからは1人のときが多いので、この曲もレパートリーに加えつつ、歌いながら下校したものである。
 音楽番組以外にも、いろんな番組を見ていた。その頃の我が家でテレビのスイッチを入れるのは、夕ご飯後のひとときであって、大相撲とか高校野球は時間帯が合わない。ブロ野球、プロレス、それから大河ドラマなどを家族と一所に観ていた。その中でも、大河ドラマやプロレスはみんなで見ていた。力道山の「空手チョップ」には、父も「やれえ、やっちゃれえ」などと、体を何度も揺り動かして応援していた。力道山がどのような少年時代を送ったかについては、20代になって神戸で生活するようになってから、当時の日本と朝鮮との時代背景とともに知った。それを観ている者の心構えとしては、心に太陽を抱け、ということであったのだろうか。
 その他にも、NHKの大河ドラマの代表格は、なんと言っても、長谷川一夫主演の『忠臣蔵』であったろう。彼の「おのおのがた」という時の口の動かし方には、何というか、独特の趣があって、「やっぱり頭領というのは、ああでないといけないのかな」と、自分もその時代にタイムスリップしてような気分で「いかにも」と感心したものだ。

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新40『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ3

2015-08-04 18:35:51 | Weblog

40『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ3

 私の子どもの頃は、田舎では今よりもずっと多く、仏教や神道が身近なものとしてあった。生活をしていく上での、あれもこれもが、その雰囲気というか、その網というか、影響下にあったといっても、過言ではなかったであろう。
 そのことをあれこれ振り返ると、浄土教でいうところの「西方浄土」も含めて、大方の大乗仏教では、普段はあの世に住んでいるご先祖のたちの仏(ほとけ)の魂は、さしあたり、独力ではこの世に戻ってこれない、とも考えられる。というのも、もし独力で戻るのなら、厳密には古代のエジプトにおけるようにミイラとかがこの世に残っていないと、理屈が成り立たないからだ。つまり、古代のエジプトの人々は、彼らは人間や物の本質を「カー」であると考えた。その「カー」を中心として、「バー」(魂)と肉体がくっつくことで生命力が発揮される。これを、吉村作治氏の「吉村作治の古代エジプト講義録」上、講談社文庫)によれば、人間が死ぬと「バー」はあの世に去ってしまうのだから、「カー」は独りぼっちになってしまう。一方、肉体は完全に滅びてしまうから、人間存在の本質であるところの「カー」は、そのままでは収まるところがなくなり、困ってしまうだろう。それゆえ、古代エジプトの人々は、「カー」が収まることが可能な、生前の肉体に代わる「第二の肉体」、すなわち「ミイラ」が必要だと考えた。
 このわかりにくい「カー」についての大城道則氏による説明にも触れておきたい。
 「「カー」とは神々であろうと王であろうと、あるいはそれ以外の人であろうと、彼ら一人一人に個別に与えられた「生命力」という概念であった。「カー」は図象として表現される際には、肘から先の両腕を高く持ち上げたヒエログリフで表された。クヌム神が轆轤(ろくろ)の上で土器のごとく人間と「カー」を作り上げることにより、出産とともに個々人が獲得すると考えられていた。そのため、あらゆる生命体が「カー」を内に持っており、それこそがそれらが存在しているという証でもあった」(大城道則「古代エジプト、死者からの声ーナイルに培われたその死生観」河出ブックス、2015)。
 このエジプトの「カー」は、人が死ぬと肉体を離れる。その「カー」は、個々人の肉体的死の後にも、その死んだ肉体の代わりに供物としての食物(栄養)を受け取る。それゆえ、人々の心の間では、その摂取の続く限り、「カー」は存在し続けることができる存在にほかならない。
 「さらに、「古代エジプトにおいて、墓は「カーの家」とみなされており、「何々某のために」という言葉とともに死者に対して唱えられた供養文が永久に「カー」のために準備されることを目的として作られたのだ」(大城道則「古代エジプト、死者からの声ーナイルに培われたその死生観」河出ブックス、2015)とも言われている。こうなるのは、独特の「カー」の概念ゆえのことであろう。
 仏教は、もともとは釈尊の無神論のみであった。ブッダというのは、「醒めた人」という意味で、仏教でいう場合には釈尊のことをいう。大乗仏典においては、ブッダの生の声を収録しているものばかりでなく、経によっては後の時代の多くの創作が入り込んでいる。日本にブッダの言葉が伝わりだしたのは、近代になってからではないか。さしあたり中村元訳の『ブッダの言葉』(岩波文庫)をひもとくと、そこに並んでいるのは神秘さなどまるでない、淡々とした彼の現世感なのである。
 ところが、このような論理構成に留まる限りは、来世は保証され得ない。だとすると、なんとかして新しい考えを編み出さないていけない。後の人達がそう考えて、紀元前後の大乗仏教運動を興した。その中で支配的になったものこそ、仏教の有神論化にほかならない。彼の後継者達は、そんな目的意識に導かれて、教祖・ブッタ(仏陀)にはなかった新たな論理構成をもって、あの世(浄土、極楽、天国など多彩な呼び名となっている)とこの世との通信をどのように確保するかが、各宗派の知恵に委ねられる。
 その端緒の一つは南アジアなり、東南アジアであったのが、本家のインドにおいては、アショカ王の治世下といった事態に興隆期を迎えたものの、その後は急速に廃れていった。まだ仏教の力というか、勢いがあったインド仏教のことを学びたい。そこで唐(とう、中国語で「タン」)の時代にインドに赴いた玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)らの努力により中国に伝わり、そこで大乗仏教の23派ともいわれる日本仏教の諸派が花開いた。そして、それらの多くが教典や法具などとともに、日本から修行に参じ、かの国の師匠から印可(いんが)を授けられた熱心な僧侶たちによって日本に移植される。
 こうした経緯については、鎮目恭夫氏が次のように洞察しておられる。
 「しかし、釈迦の死後に釈迦は擬人的な神(ただし仏教哲学の仏・法・僧という三位一体説では半擬人的な神だが)になった。そして、彼の弟子たちによってこの神を信奉する仏教集団ができて、その後百~二百年の間に、仏教はインドでかなり普及し、古代インドの統一国家のアショカ王の入信・協賛まで得たが、やがてヒンズー教に圧倒または吸収され、西暦紀元後七世紀にイスラム教が入ってくると、インドではほとんど滅びてしまった。しかし、仏教の流れの一部はインド大陸の南端のセイロン島(スリランカ)や、東方のビルマ(ミャンマー)やタイやカンボジアなどで生き残り、南方仏教と総称するものになり、また別の流れは北インドから発してチベット中国・朝鮮・日本で生き残って大乗仏教と総称されるものになった。」(鎮目恭夫「人間にとって自分とは何か」みすず書房、1999)
 「仏教では、それよりずっと前のイエスとほぼ同時代から北インドで始まった大乗仏教への流れの中で種々の教典の作成と教派の形成が進み、いろいろな如来や菩薩と呼ばれる準ブッダを含む点では多神教になった。ただし、いろいろな如来や菩薩は同一の釈迦の霊の化身とされているようだから、ユダヤ・キリスト・イスラム教とは異質の一神教といえよう。いずれにせよ、釈迦は生きてるうちに非ブッダからブッダになったとされるが、いろいろな如来や菩薩は最初からブッダである擬人的な神のように見える。さらにまた、大乗仏教の進化の一つとされる密教には、信者は特定の型や儀式や祭礼行事への陶酔の中で生きたままブッダになれるという説(即身成仏)も現れた。これらのことからみて、大乗仏教には、バラモン教の梵我一如の夢を新しい形で復活させたような面がある。」(同)
 さて、我が家と言えば、その真言宗の一檀家である。少なくとも、江戸期には、すでに真言密教がこのあたりにも宗教域を持っていたようなのだ。我が家においては、盆には、ほとんど毎年のように何家族かの親戚の皆さんが、先祖の墓参り方々やってきていた。時には、父の5人兄弟のうちの2、3組が我が部屋に一泊してくれるときもあって、その時は夏なので、夜は外に出て花火をやったりして、従兄弟のみんなと一緒の時を過ごした。これを行うときは、中くらいのバケツに水を入れて、側らに置いておく。花火は、竹の棒に花火火薬を塗った「スパークラー」からきんきらの紙の筒に花火火薬を詰めた「トーチ」、火薬を丸めた「火薬玉」など、いろんな種類が行き渡るように、予め買っておいた。一番夏にふさわしいと思ったのは、可燃剤に硫黄と木炭、酸化剤に硝石を用いる「線香花火」であったろう。
 まずは、こより状の細くなった元締めのところを手に掴んでぶら下げる。そうしておいてから、こよりの先端にマッチで火を点けると、その火が上に向かって燃えていくうちに火球が大きくなってゆく。そこからが面白く、ついには紅色をした火球が大きな固まりとなる。その火球はゆらゆら揺れているようでもある。それから数秒後、その火球からちらちら花火が出始める。なんだか結晶が弾ける際、内に秘めていたエネルギーのほとばしりのようでもあった。花火の色は地味な紅色で、江戸期の花火もこの「和火」であったとされる。この方が、なんとなく風情があるらしかった。細い花火の一筋、また一筋は360度、どの方角に出るかわからない。だから、次はどんなになるかと興味津々で眺めていた。他の人がぶら下げている花火も観賞できて、みんなで仲良く楽しめる。
 花火が激しく火花を散らす間は7、8秒くらいであったろうか、それが火勢の盛りの時で、あとは徐々に花火の筋が細くなってゆき、ついに火花がすっと消えて、火急は色を黒く変じて、ぽたりと地面に落ちる。儚い、しかしその火花が瞬いている間、人は普段の自分を囲っているしがらみから逃れられる気がしているのかもしれない。実際は、何人もが手でぶら下げてやっているので、火は隣で燃えている花火にくっつけてもらっていた。この花火は、ひと揃い10本くらいがセットでうられていて、他の例えばロケット状のものとかに比べ安価であって、しかも古の人々が火を扱っていた姿もこうであっとたのかと彷彿としてくるものがあったのではなかろうか、そんな不思議な魅力に包まれているようであった。そうして、火花の強さとはかなさと両方味わった後には、一服の清涼感というか、夏の風情を味わうことができたような気がしたものだ。
 
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新32『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(夏の自然と風物)  

2015-08-04 17:35:31 | Weblog

32『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(夏の自然と風物) 

 我が家では、小学校の低学年までは寝る部屋に「蚊帳」をって寝ていた。それを張らないで灯りを消すと蚊に食いつかれ、血を一杯吸われてしまう。しかし、当時は悲しいかな、「吸血鬼軍団」が病原菌を媒介しているという意識はほとんどなく、無知丸出しの意識の中にいたようである。それから、まだ起きているとき重宝したのが、蚊取線香で、あの渦巻き状をしたものである。それには除虫菊の粉が練り込まれていて、それが彼らを「イチコロ」にするのだと聞いていた。ひょっとしたら、その頃にはもう原料は除虫菊そのものではなく、化学合成成分に置き換わっていたのかもしれない。
 蚤(のみ)も、おそらく畳の中に沢山いた。あれが背中に何かの弾みでちょろっと入るとたまらない。腕を回してボリボリ掻くとしばらくは楽になるのだが、そのうちに腫れ上がってよけいにかゆみがひどくなる。闇の中で蚤を捕まえるのは大変だ。なにしろ小さい生き物なのだ。ばっと捕まえに言っても、ビョーンと跳ねるのでなかなかつかまらない。やっと捕まえたら、そいつをすばやく指先で「プチッ」と潰す。そのため、梅雨が終わる頃には、蚤やダニの跋扈をさけるため、畳の下には防虫剤を頻繁に撒いていた。蚊が居間にはいなくなり、蚤に噛みつかれることも大方なくなったのは、小学校の高学年になってからだ。山深い田舎のこととて、衛生の知識や家の周りの排水をきちんとするまでには時間を要したのではないか。
 夏場には「おひつ」は竹で編んだものに代えられた。冷蔵庫のない時代には、御飯を長持ちさせるためには湿気と暑気をなるべく避けなければならない。蝿をさけるために新聞紙や濡れふきんを載せて、天井下の横柱(梁)に釘で架けられた。濡れふきんを張り付けたのは気化熱を利用するためで、経験から生み出されたものだろう。
 はえは実に手強い。手で追っ払っても、また「ブーンと」いう音とともにやってくる。そこで、蝿たたきで蝿をたたくのが日課だった。こどものおやつは、母が作ってくれるながし焼き、水飴はどこから仕入れたのだろう。それをこっそり、端をシルシル巻くようにしてあめの棒にして取り出し、あと取って食べた。ばれていたはずなのに、母に叱られたことはなかった。
 夏には、勝北の到るところで、カーネーション、グラヂオラスやあさがお(朝顔)が咲いたようだ。あさがおの花は大変面白かった。竿を立ててやると、1~3メートルの高さに左巻きに登っていく。やがて花のつく部分が膨らんで、ある朝きれいな花を咲かせている。朝顔の彩りには、色々ある。一番なじみのあったのは、紫に白の線が入った色柄だったように思出すのだが。記憶をたぐり寄せようとしても、途中でプツツンと途切れてしまう。私のような凡人の記憶とは、その程度のものなのか。朝顔の花は、早朝が一番はりがあって美しい。そのときは、まるで朝露を受けたようにシャキッとしているものの、昼にはヘナヘナとなりしぼんでしまう。本格的に咲くのは夏の盛りを過ぎて、陽差しが少し柔らかくなった頃だが、花の寿命はわりあい長く、9月の中旬になっても、それそせれの蔓に次から次へと花をかえながら巧みに咲く。
 夏休みには、交代で学校の自分のクラスの花壇に行って、植わっている朝顔などの花に水をやりに来ていた。朝顔の花の色は白、紫、赤であったろうか。日光の当たり具合で青のも紫にも見えるものもある。美しい花々には虫もよく付く。その朝顔にはアブラムシやダニもとりついている。朝顔はほとんど匂いがしないが、その美しさで虫や蜂たちをひきつけているのだろうか。
 ひまわりも学校の花壇の片隅に植わっていたようだ。こちらは、まるで生き物のようなゴッホのひまわりの絵のような印象ではなかったものの、太陽にびったりの雰囲気を持って、すっくと立っていた。美しい花々に虫もよく付く。朝顔にはほとんどにおいがしないが、その美しさで虫や蜂たちをひきつけているのだろうか。その朝顔にはアブラムシやダニもとりつく。それでも朝顔は枯れない。夏休み中の学校当番でたっぷりと水をやっておくと、その翌朝には、花壇の花たちは生気を取り戻して潤っていたようである。雑草はといえば、どこの道ばたでも咲いているツユクサが、学校の花壇にも進入してきて、おしゃれな青色の2枚花を咲かせている。こちらは抜いてもまた伸びてきて、他の雑草ともどもたくましい。
 夏の野原には、シモツケの赤い花が眩しそうに咲いている。今では少なくなりつつある桔梗も野原の涼しいところに、処々可憐な花を咲かせていた。ササユリはもっと森の深いところかと思いきや、ふと気がつくと道ばたの涼しいところでも神秘な花がほころんでいる。やや日陰の道端の涼しげな草むらには、ホタルブクロは梅雨の頃から白、ピンク、紅紫などの釣鐘形の花が茎にびっしりと群がっていて、暫し見入ってしまう。色の鮮やかさではダリアで、真紅というより純粋な赤色で人の目を引きつけている。この花はメキシコ原産で、16世紀にヨーロッパにわたり品種改良が施され、それから19世紀中頃の1842年(年)オランダから渡来したものらしい。あの圧倒的な輝きで人の心を魅了するダリアの花は、いまでも先祖が眠る墓下の畑隅の畦で脈々と息づいているのだろうか。
 夏に元気になる植物は、もちろん、よく知られている花ばかりではない。都会の夏の風物詩で知られるほおずきは茄子科の植物で、ここ関東の地では浅草浅草寺のほおずき市があまりにも有名であるが、私たちの田舎でも栽培されていた。袋の中の赤い実を採りだして、何度も掌で押してから口に入れて苦い汁を吸っていた。ヤマグワは夏の頃、赤から黒っぽい紫になつて完熟した実を手で掬って食べる。こちらはさほど甘くないものの、上品な味がする。
 雑草のようなものも含まれていて、あるとき我が家の坂下の2軒の近所の家を通り抜けていく途中にある、道沿いの石垣の上の僅かな地面にヘビイチゴの赤い実がなっていた。それを観ながら「これは何の花かなあ」などと友達2人と首をかしげていたところへ背中越しに「何を観とるんじゃ」という低い声がするので振り向くと、祖母であった。「これじゃけど」と言うと、いきなり「これはヘビが食べようるんじゃ。知ってないんか。それを食べたら、ヘビに噛みつかれるぞ」と脅された。一同「ええっ?」と驚き、何かを言おうとする時には、彼女は既にその場からさっさと退き、我が家に向かう短い坂道を上り始めているのだった。
 夏の魚採りは、他の季節とは異なる楽しみがある。浅瀬の川底の土砂をすくい上げると、まわりから水が流れこんでくる。流れ込むときの水の表面はキラキラと光輝く。その水は太陽光線のために直ぐ温かくなる。温泉は出ないものの、膝から下はそれに浸かった気分になるから不思議だ。そうなると、魚採りには、別の楽しみが加わった。
 夏の日のアイスキャンデーは格別うまかった。流尾の半鐘のある場所は高台にあり、私の家の東の「かど」からはるかに見渡せる。だから、その場所にアイスキャンデー売りのおじさんの自転車がやってくると目でわかるし、チリンリンリン、チリリリーンと真鍮製のように見える振鐘がおじさんの腕をふってうち鳴らされる。急いで母から50円であったのか小銭をもらって、走って買いにいく。
「坊や、何本にするの?」
「おじちゃん、二本頂戴。一本は、ああちゃん(兄)に持ってかえるけん」
 そう言っておかねを自分の目より上の方へと腕で差し出す。
「2本でこれでいいんかなあ、おじちゃん」
 そういって、たぶん、2本分で50円くらいを差し出していたのではないか。キャンデー売りのおじさんは、にっこり笑ってそれを受け取って、「はいはい、毎度」と返事してくれる。それから、自転車の荷台に据え付けてある冷凍箱から取り出しにかかる。
 木の箱を開けると、ドライアイスの白い煙がファーと上がった。涼気のなかから、軍手をはめたおじさんの手で、長めのアイスキャンデーが取り出された。そうしているうちに良介(仮の名)ちゃんも啓介(仮の名)ちゃん(年上だが、ちゃん付けで呼んでいた)もやってくる。いまにして思えば、西下の北端までやって来てくれていたおじさんは、子供の喜ぶ顔見たさにわざわざの最北端へと来てくれていたのだろうか。
 小学校の高学年になると、キャンデー屋さんはぷっつりと来なくなった。これと相前後してアイスキャンデーのスタイルはモダンになり、西下の南、勝加茂村の上村を通っている国道53号線沿いの町内の店に置かれているのを目にするようになっていた。

(続く)

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