○○49『自然と人間の歴史・日本篇』吉備国と出雲国の併呑(出雲国)

2016-06-27 21:24:33 | Weblog

49『自然と人間の歴史・日本篇』吉備国と出雲国の併呑(出雲国)

 現時点までの文物をみる限りでは、5世紀までに吉備の国が出雲・ヤマトの勢力に対抗する力を失い、そのことで出雲・ヤマト勢力による支配に組み入れられた(支配下に入った)かどうかは、判明していない。このような学問の進捗状況では、出雲や吉備がヤマトの勢力に組み込まれたのが6世紀半ば以降になってからという説の方が、より自然だという考えも出て来る。これらを合わせ考えると、卑弥呼の邪馬台国後から5世紀までの倭国内においては、「大王(おおきみ)」と各地の大首長との関係で多くの出来事が展開していた。大王としては、自らの地位を確立して大首長を隷属させ、当時の「全倭国」に対する集権的な支配権を樹立したい。
 その一つは、自立的な地域支配者としての地位を確保して大王に対立する道であり、他は、大王に協力して隷属を強めつつ、それによって政治的地位の安泰をはかる道である。先年発見された埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文にみられるヲワケ一族は、後者を選んで「世世杖刀人首」として大王に忠誠を誓っている。吉備氏は前者の道を選んで反乱への道を進んだのである」(吉田晶「吉備からみた大和」:「図説検証、原像日本3古代を綾る地方文化」旺文社、1988)と。
 ここに出雲に由来する神話も考え合わせ、弥生時代の三大国の一つ、投馬(とま)国を出雲であるとする説(倉西裕子「吉備大臣入唐絵巻、知られざる古代一千年史」勉誠実出版、2009)がある。同氏によれば、「当時有力であったのは、卑弥呼の「女王国(戸数七万、首都は畿内大和にあった邪馬台国)は、奴国(戸数二万)と投馬国(戸数五万)の二大国から構成される連邦国家であった(倭三十ヶ国はそれぞれ奴国、投馬国に属す)。その奴国、狗奴国と地理的にも歴史的にも近い国であり、あたかも姉国と弟国といったような関係にあった可能性がある。後漢時代に博多湾沿岸地域を中心に勢力を張っていた奴国と、九州中南部地域を勢力範囲としていた狗奴国は、ともに九州に本拠を置いていた国である」(同著、61ページ)、とされる。
 その当時の倭の中で、最も強い力をもっていた勢力とは、出雲とヤマト、北九州、そして吉備などであったのではないか。3世紀前半の出雲国(いづものくに)がどのように組み込まれていったかは、まだほとんどがわかっていない。おそらくは、別の強い勢力によってわしづかみで権力基盤を奪われた、つまり滅亡に追い込まれたのではなかったろう。とはいえ、このあたりの戦後の遺跡発掘により、九州にも似た独自の文化圏が、大和の統一政権の前に成立していたことが、明らかになりつつあるのではないか。その出雲の国の成立は未だに厚いヴェールに包まれている。後の8世紀になってから、朝廷が編纂したではない、門脇禎二氏によると、『出雲風土記』において神々の世界がどう語られているかを、こう伝えている。
 「このように古墳の存在だけでなく、独自の支配体制をつくりだしていた痕跡が東部に認められるが、さらに独自のイデオロギー形成も考えられる。
 古墳時代の終わりまで、出雲の有力な地域神としては、四大神があった。西からいえば、キツキの神、それからノギの神、それから北部のサタの神、そしてオウの神である。ところがこの四大神に、それぞれの地域の振興が集約的に代表されながらも、それらの神々と東部が決定的に違うのは、東部にはオミズヌ神の社(意宇の社)をもっていたことである。オミズヌ神というのは、『出雲風土記』にだけ残る国引き神話の国づくりの神話である。海の彼方から余った岬や島を引き寄せて、出雲の「初国」をつくったという有名な神話であるが、この仕事を一夜で完了したといっている。ー中略ーそして何よりも注目したいのは、このオミズヌ神はヤマトの貴族の神話では、さまざまな名前でよばれ、中には「国作神」=地方神とさえされるが、出雲を中心とした西日本地域では、天下づくりの神として長く伝承され続け、広く信仰された神である。この天下づくりの神と国づくりのオミズヌ神、両者を対極に置いた独自の神話体系が生まれていたと思われる。
 オウの首長と出雲王国。以上、出雲東部の首長は、独自にトモの組織や独特の玉生産を集中したような支配体制、さらに独自の建国神話、こういうものをととのえ上げ、六世紀
半ばに至る以前にほぼ出雲全域にわたる支配体制を形成していたとみられる。それは、キビがヤマト国家との対立・抗争を強めたことからその影響力を弱めた五世紀後半いらいのことと思われるが、この体制は王国(地域国家)の条件をほぼととのえており、オウの首長はその王にほかならなかった」(門脇禎二「出雲からみた大和」:「図説検証、原像日本3古代を綾る地方文化」旺文社、1988)とされている。
 それから吉備の国については、出雲・ヤマトの勢力、後のヤマ朝廷になる彼らは、互いに攻めたり攻められたりの戦いを繰り広げていたのではないか。後代に編集された『古事記』の大部分は、伝承による口述からのものである。したがって、神話の占める割合が多い。その第八巻「孝霊天皇」の下りでは、朝廷が播磨を通り過ぎて、吉備を攻めたことになっている。これをもって、吉備の国を平定したということではないだろう。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆


○○66『自然と人間の歴史・日本篇』土地私有の解禁

2016-06-24 22:43:53 | Weblog

66『自然と人間の歴史・日本篇』土地私有の解禁

 こうした初期の律令体制に対しては、地方の豪族たちがうまみがないとの不満があとを絶たず、彼らは制度の修正を朝廷に働きかけた。当時の朝廷政治の首班は、右大臣の長屋王(ながやおう)であった。これに答えるため、723年(養老7年・神亀元年)に制定されたのが、三世一身の法(さんぜいっしんのほう)であった。前年の百万町開墾計画とともに、年貢増徴を計るための苦肉の策として打ち出された。この法律では、本人一代に限り、既存の灌漑施設を利用して農地を開墾した場合、その土地を開墾者本人の一代に限って自分の所有することを認めた。『続日本記』に、こう紹介される。
 「(養老七年四月)辛亥(しんがい)、太政官奏すらく、「此者(このごろ)、百姓漸(ひゃくせいようや)く多くして、田池狭窄(でんちさくきょう)なり。望み請(こ)ふらくは、天下に勧め課(おお)せして、田疇(でんちゅう)を開○(ひら)かしめん。其の新たに溝池を営む者有らば、多少を限らず、給ひて三世に伝へしめん。若し旧き溝池(こうち)を遂(お)はば、其の一身に給せん」と。奏可す。」(『続日本記』)
 これにあるように、灌漑施設を新設して新田を設けた場合は三世(本人・子・孫の三代とする説と、子・孫・曾孫の三代とする説がある)の後に、旧来の灌漑施設を利用して新田を開墾した場合は本人一身のうちに、それぞれ国家に返せばよい。つまり、広げた農地は負って国家に取り上げ公地に編入するというのであるから、土地私有制を導入したことにはなっていない。案の定、多くの農民は一身での所有に満足せず、その所有を世襲で引き継いでいけるよう制度改正を求めるようになっていく。この要求に対し、朝廷も土地統制を緩めることを考えざるをえない。ついに743年(天平15年)、当時恭仁京(くにきょう)に在った聖武天皇の「勅」により、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が発布される。
 原文:「勅。如聞。墾田拠養老七年格。限満之後、依例収穫。由是農夫怠倦、開地復荒。自今以後、任為私財無論三世一身。悉咸永年莫取。其国司在任之日。墾田一依前格。但人為開田占地者。先就国有司申請。然後開之。不得回並申請百姓有妨之地。若受地之後至于三年。本主不開者、聴他人開墾。天平十五年五月廿七日・・・・・」(『類聚三代格』、平安時代に書かれた法令集)
 書き下し文:「聞くならく、墾田は養老七年の格(きゃく)によるに、限り満るの後、例によりて収受す。これによりて農夫怠倦(たいけん)して、開ける地また荒ると、今より以後は、任(まま)に私財と為(な)し、三世一身を論ずことなく、咸悉(みなことごと)くに永年取ること莫(なか)れ。(中略)ただし人、田を開かんがために地を占めなば、先ず国に就きて申請し、然る後にこれを開け。(中略)もし地を受くるの後、三年に至るも本主(ほんしゅ)開かざれば他人の開墾を聴(ゆる)せ。それ親王の一品(いっぽん)及び一位には五百町、二品(にほん)及び二位には四百町、(中略)初位已下(そいいげ)庶人に至るまでは十町、ただし郡司(ぐんじ)には大領少領に三十町、主政主帳(しゅせいしゅちょう)に十町、もし先に給える地、この限りより過多なるもの有らば、すなわち公に還せ。・・・・・」(黛弘道編「古文書の語る日本史ー飛鳥・奈良」筑摩書房、1990による) 
 これは、開墾した土地の永大所有を認めるもので、公地とは別の枠で把握されるに至る。その限りでは、三世一身の法での国家による、ゆくゆくに渡る墾田収公の原則は破棄されている。従前の班田と、これからはみ出して増えつつある墾田とを統一的に再編成せざるを得なくなったわけである。また、以後の墾田開発は位階による開墾制限によって運営される。この引用にあるように、一位・一品(いっぽん)は500町、初位・庶民による開墾は10町までと決まった。つまり、位階が高い者ほど、墾田制限額が大きくとられることになるので、昇進に上白(うえしろ)のある地方豪族にとっては、一挙両得ということで有利になるだろう。これが制定されると、王臣家やその他の豪族から寺院、富裕家に至るまで、ここぞとばかりに人をかり出し、動員して自らが墾田を開拓していく。これを「自墾地系荘園」と呼ぶ。当初の荘園は、こうして生まれていった。こうしてできた新たな土地は、朝廷から与えられた口分田だけでは足りない公民にも貸借され、荘園の所有者は収穫の際の一部を引換に得ることができる形であった。その後の土地の開墾、拡大につれて、だんだんと流民を労働力として受け入れるようになっていくのであった。そうして、だんだんに公地公民制度がくずれて荘園制が広まっていく元になった。
 さらに、この頃には朝鮮から多くの渡来人の流入があり、かれらの中には農と工の技術集団あり、学者あり、楽人もいたろう。大陸からもたらされたのはそれだけではない。それとともに、日本語も外部の言語が相当の年月の間に折り重なり、この時期までに影響を及ぼし合ってしだいに骨格が形成されていったのではないか。このうちアイヌ語を巡っては、797年、征夷大将軍として派遣された坂上田村麻呂が蝦夷討伐を行うまでは、東北地方及び北海道はヤマト朝廷の支配下に入っておらず、こんにちの意味の日本領土にはほど遠い状況であった。1669年(寛文9年)、江戸期の松前藩(北海道渡島半島の西端、2014年現在の松前市)で蝦夷(えぞ)の反乱があった頃には、アイヌ語を話すアイヌ民族が広範囲の地域で暮らしていた。しかし、それらの人々はその後の日本民族との同化過程をくぐり抜けるうち、今ではアイヌ民族としての伝統を受け継ぐ者は限られつつあるようだ。
 765年(天平神護(てんぴょうじんご)元年)旧暦3月、道鏡政権により、加墾禁止令が出されるに至る。それには、こんな文句が連なっていた。
 「丙申(へいしん)、勅(ちょく)すらく、「今聞く、墾田は天平十五年の格(きゃく)に縁るに、今より以後は、任(まま)に私財と為し、三世一身を論ずること無く、咸悉(みなことごと)くに永年取る莫れ、と。是に由りて、天下の諸人競いて墾田を為し、勢力の家は百姓を駆役し、貧窮の百姓は自存するに隙無し。今より以後は、一切禁断して加墾せしむること○(なか)れ。但し寺は、先来の定地開墾の次は禁ずるに在らず。」(『続日本記』)
 文中、「天平十五年の格(きゃく)」とあるのは墾田永代私財法のことで、以来墾田をなした者には三世一身を適用することなく土地の永久使用を認めてきた。しかし、開墾を競い合って諸々の弊害が出ているため、今後は加墾を禁止することにするというもの。最後のところで寺を令の適用から外しているのは、当時称徳天皇の寵愛を受け、太政大臣禅師・法王と出世を極めつつあった道鏡の意向を反映している。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆


○106『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓)

2016-06-22 21:10:35 | Weblog

106『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓)

 ここからさらに南下して、岡山市の御津町へと入っていく。その下流には、藩営による新田開発のための灌漑水路として旭川と結ぶ運河が造られ、「倉安川」もしくは「倉安運河」と称している。1679年(延宝7年)、前岡山藩主で隠居中の池田光政が藩士の津田永忠が計画書を上申していたのものに彼に命じて工事を起工させ、同年中に完成させた。これは、当時の児島湾の浅瀬であった上道郡に倉田、倉益(くらます)、倉富(くらどみ)の3カ所の新田開発の一環とされたもので、「倉田新田」とはその総称で豊作への期待が込められている。こうして開削された約290余町歩の土地は、一反辺りの地代銀を30匁(もんめ)として、くじで割り当てた。これにより、藩内の農民49名と他領者2名が土地の割増しを得たことになっている。
 また、この時期には灌漑用水と、旭川と吉井川とを結ぶ「倉安川」という名の運河が開削された。主に高瀬舟の交通の便を図ったもので、当時のこの運河の幅は約7メートル、総延長は約20キロメートルもあるから、かなりの突貫工事だったのではないか。吉井川に通じる倉安川(運河)の取入口たる「倉安川吉井水門」をくぐり抜け、その運河の流れを伝って、岡山城下との間の河川運輸が可能となった。あわせて、そのルートは「裸祭りで知られる西大寺の会陽(えよう)にも人びとはこの高瀬舟で集まったのである」(「江戸時代図誌20、山陽道」筑摩書房、1976)というように、一般の人びとの利便も大いに改善したものとみえる。
 津田はこのほか、1684年(貞享元年)に幸島新田(邑久郡)を、1692年(元禄5年)に沖新田(上道郡)の干拓工事も手掛けたことが知られている。この河口のあるところには、古代のヤマトと結ぶ山陽道の大道が通っている。ここから西に辿れば、日生、備前と続き、県境を越えると兵庫県の赤穂市である。兵庫との県境に近いあたりは日生(ひなせ)である。なだらかな稜線の山々を背に湾のうねりが見られるとともに、その南の海上に浮かぶ大小14の日生諸島からなっている、清々しいところだ。日生はみかん狩りで有名だし、天然の良港を抱える牛窓が近い。
 さらに、戦国・近世からの干拓の延長線上にあるのが、現在の児島湾の西の端、湾奥には締切堤防の建設なのであって、その西は児島湖となっている。岡山県岡山市南部の児島半島に抱かれた児島湾中部に位置し、江戸時代以来の干拓でやや縮小していた地帯である。この堤防建設を計画したのは農林省で、土地改良事業として、1951年(昭和26年)に着工する。この事業の中身は、児島湾干拓地の水不足解消と灌漑(かんがい)用水の供給が主目的。つまり、農業用水の確保が本命であったらしい。用水確保のほか、塩害・高潮被害の除去などの目的も含まれていたという。計画では、総延長1558メートル、幅30メートル(現在の岡山市南区築港から同区郡(こおり)まで)をつくる。これに沿って工事が進み、1959年(昭和34年)には潮止めが、1959年(昭和34年)には完工となる。こうして、淡水湖としての児島湖が誕生した。この人工湖の面積は10.9キロ平方メートルで、ダム湖を除いた人造湖としては建設当時世界第2位、ただし水深は浅い。笹ヶ瀬川(ささがせがわ)と倉敷川、妹尾(せのお)川などが、これに流入する。これらから流入する水、土砂などによって湖水の汚染が進んでいるともいわれるが、この締切堤防は岡山市中心市街地から児島半島東部への短絡路線にもなっていて、このあたりの人びとの交通の利便の役割も果たしている。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○137『自然と人間の歴史・日本篇』室町幕府による初期政治

2016-06-22 17:30:11 | Weblog

137『自然と人間の歴史・日本篇』室町幕府による初期政治

 こうして足利幕府が発足した。論功表彰では、例えば武功著しかった赤松則村は播磨の守護に任じられた。それらもつかの間、直義派と幕府執事(軍事と財政を担う)に就任した高師直(こうもろなお)との間で、政治路線の違いが鮮明になっていく。直義派は、足利一門による守護勢力の利益を代表しており、穏健な政策をとろうとする。

 もう一方の師直は、畿内やその近国の小領主や在地の武士といった、台頭しつつある新興勢力を代弁しており、政治的には旧荘園体制を終わらせようと画策する。両者の力関係は、政治面では尊氏から政治を一任された足利直義の側が有利であって、高師直は執事を解任されてしまう。反撃に出た師直は、軍勢を集めて直義を追い、直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲することまでやっている。この抗争は尊氏の仲介で直義が引退・出家することで決着がつけられる。ところが、師直が反乱を起こした直義の養子足利直冬の討伐に向かうのであるが、直義はこの機会に挙兵して南朝に降伏、そして援軍を得ると遠征途上の尊氏の軍に襲いかかる。
 1351年(正平6年)には、南朝方の北畠、楠木、和田の軍勢が京を襲い、都を防御する足利勢をけちらして、光明天皇の後を継いだ崇光天皇に加え、光厳、光明の天皇経験者についても捕らえて、吉野へ護送するという珍事が起こる。慌てた足利幕府は、崇光の弟の弥仁を擁立して、新しい帝位に就かせる。
 1352年(観応3年、南朝正平7年)、足利尊氏は南朝の後村上天皇から「直義追討」の綸旨を受る。ほとんど同時(その年の旧暦7月24日の通達として)に、「半済制度」を導入して直義派の一掃を図る。この令の文言は、こうなっている。
 「一 寺社本所領の事、観応三年七月廿四日の御沙汰
 諸国擾乱に依り、寺社の荒廃、本所の□篭、近年倍増せり。而してたまたま静謐の国々も、武士の濫吹未だ休まずと云云。仍って守護人に仰せ、国の遠近に依り日限を差し、施行すべし。
 承引せざる輩に於ては、所領の三分一を分ち召す可し。所帯無くば、流刑に処すべし。若し遵行の後立帰り、違乱致さば、上裁を経ず国中の地頭御家人を相催し、不日に在所に馳せ向ひ、治罰を加へ、元の如く沙汰し雑掌を下地に居え、子細を注申す可し。将又守護人緩怠の儀有らば、其の職を改易す可し。
 次に近江・美濃・尾張三箇国、本所領半分の事、兵粮料所として、当年一作、軍勢に預け置く可きの由、守護人等に相触れおはんぬ。半分に於ては、宜しく本所に分渡すべし。 若し預人事を左右に寄せ、去渡さざれば、一円本所に返付す可す。」(『建武以来追加』)
 要するにこれは、尊氏側の軍事費を調達するために国内の荘園や公領の年貢の半分を取り立てる権限を獲得したことの、いわば宣言に他ならない。そのために兵粮米徴収に指定された所領において、半済みの権限を与えられた守護の喜びようはさぞかし、と言うべきか。それから「次に近江・美濃・尾張三箇国、本所領半分の事、兵粮料所として、当年一作、軍勢に預け置く可きの由」とあるのも、「奇々怪々」とでも評するべきだろうか。いずれにせよ、これらが一因となって、彼らは守護大名化してゆくことになる。
 このような周到な準備を整えた尊氏側の軍勢は、弟の直義を倒すべく鎌倉へ攻め込む。尊氏は鎌倉の攻略に成功し、直義方はあえなく降伏するのだが、その後直義は鎌倉で尊氏によって毒殺されたとする説が有力である。この1350(観応元年)から1352年(観応3年、南朝正平7年)にかけての幕府内部の対立を、当時の年号をとって「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ぶ。「太平記」はこの時期をして、「天下三分」と表現している。その頃の日本は、関東・北陸・中国・九州を直義派がおさえ、近畿・東海は尊氏派が支配し、大和国の南部に南朝の勢力がある、という複雑さであった。
 さて、尊氏の息子ながら、父親の尊氏から疎外されていた足利直冬(あしかがなおふゆ)は、養父として自分を慈しんでくれた足利直義(あしかがなおよし)の仇打ちのためにも上洛を考える。中国地方でも周防(すぼう)と長門(ながと)の国に勢力を張る大内氏、山陰地方に勢力を張る山名氏が直冬を奉じて戦うと、直冬に申し出てくる。そしてこの頃の中国地方での直冬党には、美作の多くの武士が加勢に駆けつけている。1352年の秋、山名時氏が直冬党に属して、幕府に反旗を掲げる。彼は、前年の初めに直義の方についていて、幕府から丹波、若狭の守護職を没収されていたので、その回復を図る行動を含む。山名氏の根拠地は山陰にもあり、1352年の冬から翌1353年の春にかけて、山陰から中国山地を越え、美作そして備前に攻め込む。これを抑えるため、幕府からは、美作守護に任じられた赤松貞範などが応戦する。この段階で、赤松ら幕府勢は、美作東部を幕府方の支配下に組み入れることに成功したのに対し、山名を主力とする中国地方の直冬党は、加茂川以西を勢力下に置いて、相手側とにらみ合う構図となっている。
 幕府と直冬党の国を二分しての戦いは、その後も続いていく。今度の直冬は、降着状態の戦況打開のため、大博打を打つことにする。南朝に降伏して、足利尊氏討伐の綸旨を得たのだ。こうしておいてから、彼の直冬の軍勢は、1354年(文和3年)、山陽と山陰からの大軍を加えて京都へ向かう。これには、直義派の桃井直常(もものいただつね)や南朝の楠木正儀らも呼応して立ち上がる。幕府方も、これらを迎え撃つべく出撃する。1355年(文和4年)、二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が敵主力と目された直冬軍に備えるため播磨に出陣した隙をついて、直冬側についていた桃井直常ら北陸勢が手薄になった京都に侵入してくる。留守を守っていた尊氏はあわてて後光厳天皇を奉じて近江武佐寺に脱出していく。一方、義詮が率いる幕府軍主力は播磨に孤立していて動けない。直冬の軍勢は、そんな義詮軍にはあえて挑まず別ルートを通って意気揚々と京都に入る。ところが、正月早早の桃井軍入京から一月もしないうちに、摂津神南の合戦で直冬軍は義詮に大敗を喫す。近江の尊氏軍も京都六条に進出し、直冬軍とほぼ2か月にわたり激しい市街戦を演じるうち、さしもの直冬軍も衆寡敵せず、散り散りになって命からがら京の都を脱出するのである。
 そして1358年(正平13年、延文3年)に尊氏が死ぬと、それからは、南朝勢力は幕府の度重なる攻勢の前にしだいにジリ貧になっていく。1360年(延文5年)、中国地方での幕府と直冬党の代理戦争の戦いが、山名らと赤松らによって繰り広げられていく。
両軍、攻めたり攻められたり、失地を奪還したり又失ったりで双方入り乱れて戦ったようである。その結果、1362年(康安2年)夏には、山名が幕府勢に競り勝って美作の中心地である院庄に入り、そこからは備前と備中へも兵を進めるに至る。ここに山名氏は、従前からの伯耆、因幡に加え、美作、出雲そして隠岐を完全に掌握するとともに、石見、備中、備前、そして但馬(たじま)にも支配権を確立するに至ってゆく。美作が北朝の勢力下に入ったことを覗わせる仏門夫婦の供養塔が「新野保」(新野郷変じて、現在の津山市新野東)にあり、それには「康永2年」と北朝方の元号が刻まれている(勝北町編集「勝北町誌」)ことも吹きしておきたい。
 この流れで、1363年(貞治2年)秋に入ると、大内弘世、山名時氏らが幕府に降り、直冬党は瓦解したも同然の状態になっていく。山名氏の場合は、なかなかに策謀が長けていたことで知られる。というのも、山名としては元々直冬と運命を共にする考えはなく、天下の形勢が幕府側に傾いたのを認知してからは、それまでに得た強大な領国支配をねたに幕府側に基準したことになっている。幕府の方もさるもので、時氏から講和の申し出をすんなり受け入れるとともに、山名一族に対しほぼ所領を安堵したのであった。1352年までの観応の擾乱より始まった、尊氏派・直義派(直冬派)による室町幕府内紛劇は、ここに終幕を迎える。直冬といえば、1366年(正平21年、貞治6年)の書状を最後に消息が不明となるのであった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆