192の4の10『岡山の今昔』岡山人(19世紀、平賀元義)
平賀元義(ひらがもとよし、1800~1865)は、国学者にして歌人。岡山藩士の親の下に生まれる。
平賀元義(ひらがもとよし、1800~1865)は、国学者にして歌人。岡山藩士の親の下に生まれる。
やがての32歳の時、家督を弟に譲り、自身は自由の身となる。
それからは、本姓は平尾なのだが平賀と称し、中国地方を流浪の旅を行う。賀茂真淵に私淑していたとも伝わり、万葉調の歌を好む。
文化人とはいえ、貧乏と病苦にさいなまれながらも、かなりの和歌をつくっていく。
五月十六日。美作の一の宮にまゐでて。
「中山の神の社やしろのさくらかげあさけ涼しくなつの風ふく」(1849)
八月十一日。久米郡倭文の郷にて。
「玉櫛笥たまくしげ二神山ふたがみやまにくれなゐの雲たなびきて雨は晴れにけり」
嘉永五年十月十一日。美作国久米郡倭文の郷にて。
「たたなめて射水神いみづかみの嶺ね奈義なぎの峯初雪ふれりみつつ遊ばむ」
ここに「射水神の嶺」とは、美作の射水権現社のある山をさし、「奈義の峯」とは、因幡と美作国境の奈義山をいう。
「上山は山風寒しちちのみの父のみことの足ひゆらむか」など。
まさに、行住坐臥に歌心あり、というところであったろうか。
やがて、行き倒れのように世を去った元義の評価は、定まらず、その筋から疎んじられていく。生前は、「我好みて古書を読む。たまたま情緒の発して歌となることあれど是我が本領にあらず」と語っていたらしい。
そんな元義の和歌については、死後三十年余り後、世に出る機会がやって来る。明治になって、羽生永明〔はにゅうえいめい〕が「恋の平賀元義」にて紹介する。それをたまたま正岡子規の弟子が読み、師のもとに送る。
それに感じた子規が、新聞「日本」紙上の記事「墨汁一滴」で紹介した中に、こうある。
「天下の歌人挙って古今和歌を学ぶ、元義笑って顧ざるなり。(中略)万葉以降に於いて歌人を得たり。源実朝、徳川宗武、井出曙覧、平賀元義是なり。」
しかして、「元義ひとり万葉を宗とす。天下の歌人笑って顧みざるなり」と言ってのけた。
(続く)
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しかして、「元義ひとり万葉を宗とす。天下の歌人笑って顧みざるなり」と言ってのけた。
(続く)
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