◻️176の8『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川興斎 )

2020-02-17 22:23:28 | Weblog

176の8『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川興斎 )

 宇田川興斎 (うだがわこうさい、1821~1887)は、蘭方医だ。美濃大垣(現在の岐阜県大垣市)の医者、飯沼慾斎(いいぬまよくさい)の3男として生まれる。幼い頃から、坪井信道や宇田川榕庵(うだがわようあん)の塾に学ぶ。榕庵に気に入られ、1843年(天保14年)には、彼の養子になる。
 やがての1846年(弘化3年)、養父の榕庵が亡くなると、津山藩医をつぐ。それに加えてか、幕府の天文台和解御用に任命される。
 そしての1863年(文久3年)には、津山への引っ越しを命じられる。一家を挙げての転居にて、城北通りに住まいを与えられる。現在、その場所に、津山市が案内の看板を設けているところだ。
 津山藩医の箕作阮甫(みつくりげんぼ)や箕作秋坪(みつくりしゅうへい)らと共に、ペリー来航時やロシアと日露和親条約を結ぶときの交渉、それに文書翻訳などにあたる。
 1872年(明治5年)には、幕末から住んでいた津山より一家で東京に移る。聞けば、蛎殻町3丁目にあった旧藩主松平家の邸内に、ひとまず落ち着いた模様。
 語学の大家にして、訳書に「地震預防説」(1856、地震予防法)、「万宝新書」(1860、実用技術の百科辞典)などがあるほか、オランダで出版された「シカットカメル」といって、アムステルダムで出版されたフェルガーニの英語での文法書を訳出した「英吉利文典」も著す。

 仕事以外にも、漢文の大家である。また、書を能くしたり、和歌にも秀で、謡曲、囲碁にも楽しんだと言われ、当世での文化人としても名高い。

(続く)

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