♦️680『自然と人間の歴史・世界篇』国境紛争1(イラン・イラク戦争、1980~1988)

2017-09-08 21:00:43 | Weblog

680『自然と人間の歴史・世界篇』国境紛争1(イラン・イラク戦争、1980~1988)

 1980年9月22日から1988年8月20日までの約8年間に渡って、イランとイラクが戦争を交えました。
 戦争に至った背景には、アラブ世界の覇権争いがあったことがうかがわれます。
直接的な契機の一つは、1975年に両国間で結ばれた「アルジェ協定」にあり、この協定では『両国の国境を、シャトル・アラブ川の中心とする』という内容でした。イランが長年これを守らなかったとして、イラクが宣戦布告する理由に挙げられました。
 民族的な問題も指摘されています。イランはペルシャ系、イラクはアラブ系という民族的な違いがあります。同じイスラム教でも、イランはシーア派が多数を占めている上に主導権を握っています。一方、イラクは国内ではシーア派が大多数にも関わらずスンニ派が主導権を握って政界と産業界の要職わ占めていました。
 イラクのフセイン政権がイランの革命の波及を恐れたことも戦争を仕掛けた理由の中に入っていたことでしょう。
 戦争の経緯については、1980年の9月22日にイラク軍がイラン領に侵攻して始まりました。緒戦はイラクに有利でしたが、翌年南部戦線でイランが反攻し、1982年には逆にイラン軍がイラク領に入り込んできて形勢が逆転しました。
 その後は一進一退で、戦争が長期化するに従って、国際的な石油戦略に影響が出始め、特にアメリカが関わるようになると複雑化の様相を呈してきた。
 これを憂慮した国連が、1987年の安全保障理事会で両国に対し、即時停戦を求める決議を全会一致で採択しました。形勢不利と見ていたイラクはこれを受諾する意向を示しました。ところが、イランは先に仕掛けてきたのはイラクだとして、フセイン大統領を国際裁判にかけ、彼と彼の勢力の失脚を要求して、これが認められないとなると停戦要求を拒否しました。
 が、イランのペルシャ湾でのアメリカの石油タンカー誤爆などでアメリカとの関係悪化し始め、この圧力や国際世論に屈した形でイラン側も1988年8月20日になり停戦に応じたことで、戦争は終結しました。
 この戦闘による双方の死傷者は、多大であり、互いに国力を消耗する結果となりました。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️606の1『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ3(テヘラン協定とリヤド協定)

2017-09-08 19:59:59 | Weblog

606の1『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ3(テヘラン協定とリヤド協定)

 1969年9月、リビアでは、カダフィ大佐の指揮で新政権が樹立され、かれらはリビアで操業している独立系石油会社に対し、原油公示価格および石油所得税率の引き上げを要求しました。独立系石油会社は当時、リビア産原油に大きく依存していましたので、リビアの要求を大筋で受け入れざるを得ませんでした。
 1970年12月、OPECの第21回総会がベネズエラのカラカスで開かれました。
この会議においては、原油公示価格のさらなる引き上げ、石油の利益に対する所得税率を最低55%へ引き上げるとともに、従来行っていた石油会社に対する値引きを禁止することで、先進諸国によるインフレに伴う産油国側(発展途上国)の購買力の低下を補償する必要がある、などの方針が決議されました。
 これを受けてペルシア湾岸産油6か国が、イランの首都テヘランにおいてメジャーズ(13社)との交渉に入り、その交渉の結果、1971年2月14日にはテヘラン協定(tehran agreement/ teheran agreement)が締結されました。その内容の概略は次のとおりでした。
①ペルシャ湾岸原油の公示価格を一律に1バーレル当たり30セント引き上げる。
②税法上従来認められていた公示価格からの諸控除を撤廃する。
③公示価格を1975年までの毎年1バーレル当たり2.5%プラス5セント引き上げていくこと。
④ペルシャ湾岸6カ国は、本協定の期間中は、他地域の産油国において本協定と異なる事項を適用した場合でも、本協定を上回るものは求めないこととする。
⑤利益に対する所得税率を1975年までに最低55%に引き上げることとする。
 このテヘラン協定の最大の意義は、何であったのでしょうか。それは、OPECが国際石油市場における全般の、もう一方の当事者として認知されたということに他なりません。これを受けて、1971年4月、リビアはメジャーズとの間に「トリポリ協定」を締結しました。
 また、テヘラン協定は1975年までのペルシャ湾岸産の石油の公式価格を固定させようというものでしたが、1971年8月のいわゆる「ニクソン・ショック」以来の度重なる米ドルの切り下げ、国際通貨変動に対処して、1972年1月20日にテヘラン協定の補正としてジュネーブ協定、さらには新ジュネーブ協定が結ばれ、アメリカを中心とする国際通貨の変動に伴って米ドル表示の公示価格をその都度変動させることになりました。 続いて、1972年12月になると、もう一つの大きなOPECの攻勢が実を結ぶことになります。それは、1968年6月のOPEC総会で石油利権への経営参加という考え方が初めて示されたのに始まります。その後、この考えはさらに具体化され、1972年1月からメジャー側との交渉が始まりました。メジャーズはこれに対してはなかなか譲歩しようしませんでした。なぜなら、この潮流の拡大が続けば、やがて産油国側との石油利権を対等の立場で決めていくこともあやうくなるであろうことを見通していたからです。しかし、ここでも結局、メジャー側が譲歩を余儀なくされ、1972年12月に、既存の石油利権のうち25%分を産油国のものとして認めること、そして1983年まで産油国側の経営参加率を51%にまで引き上げることで交渉がまとまりました。これが「リヤド協定」と呼ばれているものです。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️605『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ2(1960年9月~第一次石油ショック前)

2017-09-08 19:47:01 | Weblog

605『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ2(1960年9月~第一次石油ショック前)

 それから約1ヶ月後の1960年9月にOPEC(石油輸出国機構)が結成されますが、その精神的支柱となったペレス・アルフォンソの思想とは、自国だけでなく、産油国全体が結束してこそおのおのの石油資源維持策を進めていくことができる、というものでした。ここに、双方の石油を巡る争いは新たな段階へと歩を進めます。
 このOPECの1960年9月14日の結成時点での(「原加盟国」という。)は、イラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、そしてベネズエラの5か国でした。
 この第1回のOPEC総会(会場はバグダット、本部はオーストリアのウィーン)は、石油の公示価格をメジャーによる引き下げ以前の水準に戻すよう要求を突きつけることでの決議を採択しました。しかしながら、当時の石油の需給がゆるみつつあったことや、発足時のOPEC側の生産規制の足並みをいっぺんに整えることの困難であることなども加わり、彼らの要求実現はかないませんでした。
 その後、1962年6月、OPEC総会は新たな要求をとりまとめました。それは、従来、メジャーズ等の石油会社から産油国政府に支払われる利権料が、産油国に納付する税額から差し引かれていたのを改め、以降は、その利権料を税額から差し引かない形にすることが決議されたのでした。この決議が採択されて以降のメジャーズとの粘り強い交渉の結果、1964年にはメジャー側はOPECの要求を受け入れることになりました。
 さらにその後、1965年と1966年の二度にわたり、産油国側としての生産計画を策定するとともに、彼らにとって適正かつ有利な水準で公定価格を決定しようとの試みはあったものの、まだ当時は石油需給が引き締まっておらず、そのため生産規制による価格引き上げよりも、自らの石油生産を増やすことで石油収入を増加を図ることの方が現実的と判断していたため、その試みは結局実を結ぶことはありませんでした。
 次の機会は政治がらみで、1967年6月に発生した第三次中東戦争のときに訪れました。このとき、石油を持つアラブ諸国はバグダッドにおいて外相会議を開いて、イスラエル側に圧力をかけるため、その後ろにいる先進国メジャーに対し石油供給の制限策をとろうしたものの、イランとベネズエラが加わっていなかっこと等の理由から、これも失敗に終わりました。
 その翌年の1968年、サウジアラビア、クウェート、そしてリビアの三国は、互いに結束を固めてメジャーズに立ち向かうため、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)を結成するに至りました。また、OPECの陣容も、1961年にカタールが、1962年にリビア、インドネシア(石油純輸入国になったことを理由に2008年末に脱退)が、1967年にアブダビが、1968年にはアラブ首長国連邦(UAE)が、1969年にアルジェリアが、1971年にはナイジェリア、1973年にエクアドル(1992年に「加盟国の停止」を受けて脱退した)が、1975年にガボン(1995年に脱退)が、それぞれ加わっていきます。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️608『自然と人間の歴史・世界篇』キューバ危機(1962)

2017-09-07 18:55:12 | Weblog

608『自然と人間の歴史・世界篇』キューバ危機(1962)

 そして迎えた1962年、いわゆる「キューバ危機」で米ソが13日間にわたり外交上を中心に攻防を繰り広げたのである。この時、アメリカ大統領は、ジヨン・F・ケネディであり、ソ連側は、フルシチョフ首相であった。アメリカは、本土をねらうミサイル基地が建設されることを阻止するため、海上封鎖を行う。結局は、ソ連のフルシチョフの譲歩により両国による核戦争の危機は回避される。核戦争が回避されたことになる。
 両首脳の主なやりとりはつぎの通り。
 「あなたが本当に平和と貴国の人々の福利に関心がおありなら、私は同様にソ連邦首相として、我が国の人々の福利に関心があります。さらに、普遍的な平和の維持は両国の共通の関心事であるはずです。もし戦争が現代の状況下で勃発したら、それは単に両国間の戦争ではなく、悲惨で破壊的な世界規模の戦争となるからです。(中略)
 私は提案します。我が国は、キューバに向かう我が国の船舶がいかなる軍備もしていないことを宣言するつもりです。あなたは合衆国がその軍隊でキューバを侵略する意図はなく、キューバを侵略しようとする他のいかなる努力をも支援するつもりがないことを宣言して下さい。そうすれば、キューバ内に我が国の軍事専門家が存在する必要はなくなるのです。」(ケネディ宛フルシチョフ電文、1962年10月26日)
 「平和を脅かす戦いをできる限り迅速に無くすため、平和を望む人々に確信を与えるため、またソ連国民と同様に平和を望んでいると私が確信しているアメリカ国民を安心させるため、ソ連政府はキューバにおける武器基地建設工事の中止命令を出した。さらに、貴殿が攻撃的だと考える武器を撤去し、木枠に詰め、ソ連に持ち帰るようにとも命令した。」(モスクワ放送でのケネディ宛フルシチョフのメッセージ、同年10月28日)(NHK取材班 『十月の悪夢 キューバ危機 戦慄の記録』 NHK出版、1992)
 それでは、米ソのこの問題解決の糸口となったのは、具体的にどのような話であったのだろうか。それは、当時世界中に張り巡らしつつあった、互いの防衛網の調整、いわば「痛み分け」であった、とのスクープがある。経済学者の伊藤光晴氏が、こう分析しているところだ。 
 「フルシチョフがキューバにミサイルを送った時のことです。ケネディはこれを阻止するために、ソビエト大使、アナトリー・ドブルイニンと極秘交渉に入りました。このアメリカ側代表は、大統領の弟ロバート・ケネディでした。
 アメリカはトルコからミサイルを撤退する。それゆえにソビエトもキューバにミサイルを持ち込むなーギブ・アンド・テイクーこれがその提案でした。それゆえにソビエトはこの案をのんでミサイルを撤退したのでした。
 だがケネディは、この内容を公表しませんでした。トルコのことはふせ、キューバからソビエトはミサイルを引いたことだけ発表しました。逆にハト派路線を唱えたスチーブンソンを批難し、強い大統領を国民に印象づけることによって、大衆の支持をとりつけようとする政治的誘惑にかられたのでしょう。まさに言行不一致でした。
 このことが、以後アメリカ国民の中に、力で押すならば、ソビエトはひく、という固い国民感情をつくりだし、以後のアメリカ大統領の行動を制約したはずです。かくて対外交渉が大衆社会下の国民感情によって制約されだしたのです。
 ソビエトとて同様です。力でキューバにミサイルを送ったから、アメリカはトルコからミサイルを引いたと、政治局員たちは確信しているのです。力への確信が表面づらを走りだしました。以後の東欧政策は、つねに強硬政策が勝利を占めるのです。こうした方向に政治が向かうことがわかっている以上、権力者としての私(ブレジネフ・引用者)は、その路線を先取りして、その上に立たざるを得なかったのです。それが私をして、ますます権力者は孤独だと感じさせたのです。」(伊東光晴「経済戯評、現実のなかの経済学」岩波書店、1987、58~59ページ)
 
(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○213『自然と人間の歴史・日本篇』18世紀前半の飢饉・天災(復興の功労者、伊奈半左衛門 )

2017-09-06 21:36:05 | Weblog

213『自然と人間の歴史・日本篇』18世紀前半の飢饉・天災(復興の功労者、伊奈半左衛門)

 1707年(宝暦4年)から2週間ばかり続いた富士の噴火に直面して切歯扼腕(せっしやくわん)して、農民たちの救済に尽力した武士に、伊奈半左衛門(いなはんざえもん、本名は忠順(ただのぶ)ともいう、生年不詳~1712)がいた。彼は、関東郡代・伊奈忠常の次男に生まれた。この半左衛門、その後稲葉正篤の養子になる。兄・忠篤の死後は、その兄の養子となり、代々の関東郡代職と武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)の赤山城の遺領を継いだ。知行4千石というから、その通りなら幕臣の中でも相当なクラスであったのではないか。
 さて、富士噴火で被害に遭った関東地域住民の救済を目的に、幕府は全国の大名領や天領に対し献金(石高100石に対し金2両かともいわれる)を命じた。江戸幕府が全国的課税を行ったのはこの時が初めてであったという。ところが、将軍綱吉の次の代家宣の相談役であった新井白石の『折たく柴の記』に従えば、集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両に過ぎず、残りは幕府の財政に流用されてしまう。もっとも、1708年(宝永5年)中に集まったのは金48万8770両余、銀1貫870目余ともいわれ、おまけに被災地救済に支出されたのは6万2500両余とするる史料(『蠧余一得』)も伝わっているところだ。
 おりしも、関東郡代を仰せつかっている半左衛門としては、この大噴火で被害に遭った地域を担当していたのであるから、その被害に対処する立場であったことはいうまでもない。それからの彼の事績については、必ずしもきちんとした史料が残っている訳ではないらしい。そんな中でも、山岳小説家で知られる新田次郎の小説『怒るの富士』」にかなり詳しい。史料を駆使しての作家のあとがきには、こうある。
 「私(新田次郎)は、富士山山頂観測所の勤務で、昭和7年から昭和12年まで、年に3か月か4か月富士山で暮らした。
 宝永噴火と代官伊奈半左衛門の話は、強力(ごうりき)たちの口を通して最初に耳にした。宝永噴火のため田畑が砂に埋まり、農民が餓死に瀕しているとき代官伊奈半左衛門は、駿府にある幕府の米蔵を開けて飢民を助けたが、その咎を受けて幕府に捕えられ、江戸に送られて、死罪になったという話に私は感動した。
 私は「富士山頂」「芙蓉の人」など富士山頂と関係のある小説を書いたが、もっと大きなスケールで富士山を書きたいと思った。
 私は伊奈半左衛門忠順の人物から調査を始めた。関東郡代としての業績はかなりはっきりしているが、駿府の米蔵を開けて飢民を救ったという記録は何処にもなかった。
 しかし、駿東郡内を調査していると伊奈半左衛門の伝説は、伝説というよりも固定観念として根強く残っていることにまず驚いた。江戸時代から伊奈半左衛門を祭った小祠があちこちにあったが幕府の眼をおそれて例祭日を設けなかったなどという話は、伊奈半左衛門の死がなにか異常であったことを思わせた。
 伊奈半左衛門が切腹したという記録はないが、調べて行けば行くほど、その死が尋常なものではなかったように思われて来た。小説『怒る富士』は資料倒れするほと資料を集めた。そしてその引用を明らかにするよう努めた。
 私としては今までになく気張った小説であった。小説としての興味よりも、真実のとしての興味に、何時の間にか引張りこまれていた。いい仕事をしたという満足感はあった。」
 かさねて、この小説には、幕府が、駿東郡59か村を「亡所」にするという場面が出てくるので、半左衛門の粉骨砕身の仕事ぶりをもう少し付け加えたい。
 「山野が一面火山灰に覆われていて、復興開発ができないから、住民たちは何処にでも勝手に離散して生活しろと幕府の奉行はいう。しかし、百姓は、どこの国にいく方便もなく、ただただ餓死を待つばかりとなった。こうした無為の救済策をとることに関東郡代・伊奈忠順は納得しません。現にそこに住んでいる人がいる限りそれを救済しようとするのです。そのため、適法でないやり方で、駿府の米蔵を開かせるのでした。米蔵を開くということは百姓を救済することであり、幕府の「亡所」という施策に対する抵抗となります。」
 このくだりが、史実に基づいてのものであるかどうかを知らない。とはいうものの、まんざら作りあげた虚構の話なのだともいえないところに、死後の彼が神がかりになって民衆の心にしみいっていくことにつながってようである。
 宝暦の富士噴火にちなんで、蛮勇を奮ったことで広く知られる人物から、もう一人取り上げたい。その人の名を田中休愚(たなかきゅうぐ、1662~1729)という。休愚は、甲斐武田旧臣の系譜をひく武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都秋川市)の農家、窪島八郎左衛門重冬の次男として生まれた。少年期であるが、農業を手伝いながら絹織物の行商をしていたという。20歳の頃、これより前に武州橘樹郡小向村の田中源左衛門家へも出入りするようになっていた縁によって、東海道川崎宿本陣をあづかる田中兵庫の養子に入ることができた。
 当時の川崎宿だが、六郷川を控え、江戸へ三里位しかないところにあった。今京浜急行の電車に乗ってトロトロと川にさしかかると、昔の「六郷の渡し」が彷彿としてくるではないか、この川崎は、当時は疲弊のどん底にあった。川崎宿には、街道を上下する公用の運送に必要な人出と馬の供出が義務付けられていたからである。
 やがて関東郡代・伊奈半左衛門にその力量を認められた田中は、1704年(宝永元年)には養父の跡をつぎ本陣当主となる。その翌年には宿の問屋役、名主を兼ね、宿運営の全般をみることになった。そこで田中は、かねてから考えていた六郷川船渡権の取得を幕府代官に陳情したのであった。そして1709年(宝永6年)には川崎宿財政の建て直しのために、六郷川渡舟権の取り扱いを関東郡代伊奈忠順に上申して許可された。これの御陰手、川崎塾の人びとは大いに助かったという。
 それからも、田中の精進は続く。1711年(正徳元年)の50歳のとき隠居し、江戸に遊学して荻生徂徠や成島道筑に師事した。これは、人生二度説とどこか似ている、大した心がけだ。允許で自由な時間があったのだろうか、1720年(享保5年)には西国行脚に出る。1721年(享保6年)の60歳のときであった、かれは幕府の農政、交通政策などを論じた『民間省要』を執筆を完成させる。この意見書においては、約40年にわたる川崎宿での体験が下地になったといわれる。かれにとってありがたいことに、この書は1722年(享保7年)、師成島道筑それから町奉行大岡忠相を通じて将軍徳川吉宗に献上された。
 そして迎えた1723年(享保8年)には御普請御用を命じられ、幕臣に取り立てられる。十人扶持が給され、享保期の普請関係の役人として著名な井沢弥惣兵衛の指揮のもとで以降、治山治水の仕事を与えられる。。これらの事績が認められ、大岡忠相の指揮下に入り、宝永の富士山噴火後、水災害に悩む酒匂川(さかわがわ)の治水工事を行うことを命じられる。この工事だが、難工事であった。関東郡代伊奈や小田原藩も手をこまねいていたのを、田中は地元農民の力を巧みに引き出し一応の成果を収めたというから、驚きだ。中でも、火山灰の降り積もった農地に長い溝を掘り、そこにその灰を落とし込んでまともな土を被せて地味を回復させたとある。ほかにも、多摩川、荒川、利根川の治水にあたり、またニケ領用水、六郷用水の改修についても指揮したことになっている。
 幕府は、これらを高く評価した。1729年(享保14年)には、田中を武州多摩川周辺3万石余を支配する代官(勘定支配格(かんじょうしはいかく))に抜擢したのもつかの間、江戸の役宅に没した。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️578『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の資本主義(アメリカの産軍複合体)

2017-09-06 09:38:19 | Weblog

578『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の資本主義(アメリカの産軍複合体)

 今日では当たり前のように語られる「軍産複合体」なる言葉を、広く公の場で初めて唱え、これに警鐘を鳴らしたのは、1961年1月に退任に臨んだアイゼンハワー大統領であった。その演説の一節には、こうある。
 “Until the latest of our world conflicts, the United States had no armaments industry. American makers of plowshares could, with time and as required, make swords as well.”
(Dwight D. Eisenhower,“Farewell Address”,delivered 17 January 1961)
 「第2次世界大戦まで、アメリカは軍需産業というものを持ったことがなかった。というのも、アメリカでは、時間的な余裕があったため、必要に応じて(戦時に)剣を作ることですますことが出来たからである。
 “But we can no longer risk emergency improvisation of national defense. We have been compelled to create a permanent armaments industry of vast proportions.”
 しかし現在では、急に国防の備えをなすという危険を冒すわけにはいかなくなっている。私たちは、大規模な恒久的な軍需産業を創設することを余儀なくされている。
 “Added to this, three and a half million men and women are directly engaged in the defense establishment. We annually spend on military security alone more than the net income of all United States cooperations -- corporations. ”
 「このことに加え、50万人の人びとが軍事産業に従事している。私たちは、アメリカの全会社の年間純総所得を上回る額を、軍事費だけのために年々消費するまでになっている。」
 “Now this conjunction of an immense military establishment and a large arms industry is new in the American experience. The total influence -- economic, political, even spiritual -- is felt in every city, every Statehouse, every office of the Federal government. We recognize the imperative need for this development. Yet, we must not fail to comprehend its grave implications. Our toil, resources, and livelihood are all involved. So is the very structure of our society.”
 「こうした大規模な軍事組織と巨大な軍需産業との結合という現象は、アメリカ史上かつてなかったものである。その全体の影響力、すなわち経済的な政治的なさらには精神的な影響力までもが、あらゆる都市に、あらゆる州政府に、連邦政府のあらゆる官庁に認められる。私たちとしては、このような事態の進展をいかんとも避けられないものであることはよく解っている。」
  この演説で言及された、軍産複合体(ぐんさんふくごうたい、Military-Industrial Complex)とは、通常は軍部と軍需産業を中心とした結びつき・癒着構造のことをさしている。この用語は、アイゼンハワー演説の起草者の一人であるマルコルム・ムース(元ミネソタ大学総長)が作り出したと言われる。
この軍産複合体が生まれる端緒となったのは、第二次世界大戦中における原爆開発のため政府によって組織されたマンハッタン計画(1942~46)であった。そのコストは当時のカネで約22億ドルともいわれる。この計画に動員された人々は約12万人、その中でもダウケミカル社、デュポン社、ロッキード社、ダグラス社などの軍需産業やシカゴ大学、カリフォルニア大学、ロスアラモス研究所など多くの大学・研究機関が参加・協力したという。
 これへの着手とともに形成・確立されてきたものが、戦後になった途端に消滅することはなかった。このような結びつきは、第二次世界大戦の終結直後からの東西の冷戦状況下で、さらに発展していった。米ソによる核軍拡競争の展開や宇宙・原子力開発政策の推進によってさらに肥大化することになった。政府はこれに従う産業、学術研究に対し、大量の武器製造・軍事技術の革新を軍需産業に委任していく。そうする一方、軍事に傾く産業すなわち軍需産業は、利潤拡大と企業存続のための巨大な軍事支出と恒常的な注文生産を政府に期待・依存することになり、ここに相互の永続的な癒着構造が生まれた。そのことによって客観的な軍事的脅威や真の仮想敵国の有無に関わらず、戦後一貫した形での軍と軍事産業の肥大化がアメリカにおいて突き進んでいく事になったのである。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️737『自然と人間の歴史・世界篇』世界で進む経済格差の拡大

2017-09-04 08:23:54 | Weblog

837『自然と人間の歴史・世界篇』世界で進む経済格差の拡大

 2014年に発刊されたトマ・ピケティの『21世紀の資本』により、経済格差の拡大を示す、この数百年の歴史的データ(推計)が明らかにされた。まずは、結論部分から述べよう。そこで、データからいえる「資本主義の基本法則」とは何であるか、つぎの二つがあるという。
(1)第一法則としては、次のとおり。
α(資本分配率)=r(資本収益率)×β(資本所得比率)
 ここでα(アルファ)は資本収益(資産ストックから得られる利益)の国民所得に対する比率であって、通常これは「利潤シェア」ないし「資本分配率」と呼ばれるものに近い。しかし、ピケティのいう資本(資産ー負債)とは、「企業や政府機関の使う、各種の不動産や、金融資産、専門資産(工場、インフラ、機械、特許など)を指す」ものの合計額から、当該主体の負債を差し引いたもので積算した。これは、経済学の通常の資産、資本の概念と異なる。ついては、資本をそうした幅広の概念としてデータ処理するが故に、この資本収益としては、そうした資本から得られる様々な利得や家賃収入なども含め集計することになっていることに、留意しておこう。
 一方、r(ガンマ)は資本収益の資本ストックに対する割合をいう。β(ベータ)は資本ストックの国民所得に対する割合をいう。
 この法則によって、β(資本所得比率)が一定の場合、r(資本収益率)が上昇するとα(資本分配率)が上昇する反面、労働分配率(労働所得の割合)が低下するという資産家優位の構造を統計的に明らかにした。
(2)第二法則としては、次のとおり。
β(資本所得比率)=s(貯蓄率)/g(経済成長率)
 ここでg(ジー)は経済成長率をいう。s(エス)は貯蓄率)をいう。
 この法則により、g(経済成長率)が低下し、s(貯蓄率)が増大するにつれ、β(資本所得比率)が上昇する、その分資産家優位の構図を統計的に明らかにした。
 第二には、経済格差拡大の要因は何かを考える。
 次に、以上で得られた2法則を前提に、ピケティは不平等をもたらす根本的な要因を、r(資本収益率)>g(経済成長率)にあると捉えた。r(資本収益率)がg(経済成長率)より高ければ、資産保有者は資産からの所得を投資に回すだけで経済成長率を上回る所得を手にすることができる、というわけだ。
 そこで、ピケティがこれら二つの法則を導くにいたった諸国別のデータの分析結果の中から、その結論部分のみを紹介してみたい。提供のあったのは、主として税務データであって、これに様々な統計なり、諸家による研究なりが付加された。その一つは、ヨーロッパでみられる「世襲中流階級」の出現であって、フランスの分析に続いてこういう。
 「入手可能な他のヨーロッパ諸国のデータを見ると、これは一般的現象だ。イギリスでのトップ十分位シェアは第一次世界大戦直前に90パーセント以上あったものが、1970年代には60~65パーセントにまで減少し、現在は70パーセントだ。トップ百分位のシェアは20世紀中のショックにより崩壊し、1910~1920年には70パーセント近くあったものが、1970~1980年にはかろうじて20パーセントを超える程度にまで激減し、現在は25~30パーセントにまでほとんど持ち直している。スウェーデンでは、資本所有の集中は常にイギリスよりも低いが、全体的な奇跡はかなり似ている。いづれのケースでも、最も止める10バーセントが失ったものの大部分を「世襲中流階級」(富の中間40パーセントと定義されている)が得ていて、人口の最も貧しい半数には渡っていない。
 (中略)大きな構造的変化は、人口のほぼ反芻を湿る中流階級の出現であり、それは何とか自分の資本を獲得できた個人によって構成されているーーその結果、かれらは集団として国府の4分の1から3分の1を占めるにいたった。」(『21世紀の資本』第Ⅲ部第10章)
 こうしたヨーロッパの状況推移に対して、アメリカでのそれはこういわれる。
 「米国での富の格差は、所得の格差同様に、1910年から1950年の間に低下したが、ヨーロッパほどではなかった。これはもちろんもともと格差が小さく、戦争によるショックもそれほど激しくなかったためだ。2010年までには、国富におけるトップ十分位のシェアは70パーセントを超え、トップ百分位のシェアは35パーセント近くになった。(中略)
 ヨーロッパと米国の経験のちがいは明白だ。(中略)米国での認識はまるでちがう。ある意味で、(白人)世襲中流階級は19世紀にすでに存在していた。この階級は金ぴか時代に事態の逆転に苦しんだが、20世紀半ばには再び反映を回復し、1980年以降もう一度逆転に苦しめられた。(以下、略)」

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️897『自然と人間の歴史・世界篇』世界政府をめぐって

2017-09-03 22:43:44 | Weblog

897『自然と人間の歴史・世界篇』世界政府をめぐって

 世界政府の樹立をめぐっては、これまで幾つかの提言が出されている。その数は、ざっと数えて十指に余るくらいだろうか。ここでは、その中から代表的な幾つかを紹介してみよう。
 まずは、イマニヌエル・カントの、『永遠平和のために』(Zum ewigen Frieden, 1795)がある。その「永久平和のめの予備条項」としての第一条項とは、「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない」とある。第二条項とは、「独立しているいかなる国歌(小国であろうと、大国であろうと、この場合は問題ではない)も、継承、交換、買収または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない」というものだ。
 ここからは、やや具体的な国家のあり方に移る。第三条項では、「常備軍は時とともに全廃されなければならない」とする。第四条項としては、「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない」という。第六条項は、やや生々しくも「いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和ジニおける相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。例えば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条件を破ったたり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これにあたる」としている。
 次に、「永久平和のための確定条項」に移ろう。その第一条項には、「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない」とある。第二条項として、「国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである」と。第三条項に「世界市民法は、普遍的な友好をもたらす」という。
 さらに「永遠平和のための秘密条項」として、「公の平和を可能にする諸条件について哲学者がせもと確率が、戦備を整えている諸国家によって、忠告として受け取られなければならない」というのものである。
バートランド・ラッセルは、まずは1945年11月28日に開催のイギリス上院において次の発言を行った。
 「まず私は、議員諸兄がよくご存じであろう二、三の技術的な問題を確認することから始めたい。第一に指摘したい点は、原爆は、現時点ではまだ初歩的段階にあり、将来の核兵器はさらに破壊的で、また手軽に生産が可能となるだろうという事実である。しかも極めて近い将来のうちに。(中略)また第二の点は、そのような将来の核兵器がもし使用された場合には、広い地域におよんで人間ばかりか、小さな昆虫、つまり生きと生けるすべての生き物を殺傷してしまうであろう。」
 1961年になると、より整った形で『人類の将来』(Has Man a Future?, 1961, chap.7.)なる著作を世に問うた。
 「世界政府に味方する主な論拠は、もし適切に構成されれば、戦争防止に役立つという点にある。世界政府という超国家組織の構成は可能であっても、それが有効に戦争を食い止める実効を生むのは容易でない。多くの最も強い反対意見は、国家主義的感情から起きている。だが、国家の自由のためにという心情は、近々百五十年の間に急速に強大になったものである。
 国家の無制限な自由を支持する者は、それと同じ論拠から個人の無制限な自由を正当化する論理が生れ、それで他人が迷惑することを悟っていない。
 他人の自由を侵害する暴行や殺人はどの国でも法律で禁止されている。もし禁止しないと、殺人犯以外の人々の自由は小さくなる。否、その殺人犯も他の殺人犯に殺されかねないから、その本人の自由もなくなる。
 国家が各個人の殺人権を法的に取り上げて、個人の自由を保障するのと全く同じように、世界政府が各国家のもつ外国人殺人権を国際法で取り上げて、戦争をしたくない人類の自由を保障するのは同じ論理の延長である。これが反対されるのはおかしい。民族国家の手前勝手な自由主義、民族的優越感、原始的衝動に甘える無反省などが、人類共通の幸福を阻害している。莫大な破壊性、極端な迅速性、計り知れない殺傷性をもつ核兵器が出現した現代では、どうしても民族国家の外国人殺人権を世界政府に委譲しなければならなくなったのである。
 国際法の祖グロチウス(一五八三~一六九五)がこの見解から法文を作る企てをしたのは、全く賞賛に値する。核戦争に恐怖する前に、この殺人権の委譲の必要性を悟るべきであるまいか。」(牧野力(編)『ラッセル思想辞典』早稲田大学出版部、1985所収)
 アルバート・アイシュタインは、1945年11月に発売された雑誌『アトランティック・マンスリー』(Atlantic Monthly,1945.11)において、なかなかに意欲的な構想を発表している。
 「もろもろの主権国が存在する限り、戦争は不可避である。世界政府は、合衆国、ソ連邦、イギリスという大軍事力を持っている三大国のみで設立されるべきである。それらの三国は、この世界政府に軍事力の一部を寄託しなければならない。三大国が憲法を起草しえた後、より小さい国々は、その世界政府に招聘(しょうへい)されるべきである。」
 それから、英国の理論物理学者スティーヴン・ ホーキングが、世界政府創設案を支持した。ホーキング博士がタイムズ紙のインタビュー(2017年3月16日)で語ったところによると、まずは現在の世界の現状認識については生物兵器あるいは核兵器の脅威にさらされており、これは以前「進化に貢献した人間特有の侵略の現れ」だという。そこでホーキングは、「我々はこの継承された本能を理論や常識を用いてコントロールする必要がある」と考えを示し、それを可能にするのは「世界政府の何らかのフォーマット」だと指摘した。
なおホーキングは、この道を進む場合において独裁などの別の問題が生じる可能性も排除しなかったとあるから、この話は良いことづくめではないと認識していることになろう。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️582『自然と人間の歴史・世界篇』ラッセル・アインシュタイン宣言(1955)

2017-09-02 22:33:27 | Weblog

582『自然と人間の歴史・世界篇』ラッセル・アインシュタイン宣言(1955)

 1955年には、核兵器の廃絶を訴える、いわゆる「ラッセル・アインシュタイン宣言」がだされた。その時、署名者の念頭にあった最大のものは、水爆の使用の脅威であったといい、その一説にはこうある。
 「私たちは、一つの陣営に対し、他の陣営に対するよりも強く訴えるような言葉は、一言も使わないようにこころがけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もし皆がこの危機を理解することができれば、ともにそれを回避する望みがあるのだ。
 私たちには新たな思考法が必要である。私たちは自らに問いかけることを学ばなくてはならない。それは、私たちが好むいづれかの陣営を軍事的勝利に導く為にとられる手段ではない。というのも、そうした手段はもはや存在しないのである。そうではなく、私たちが自らに問いかけるべき質問は、どんな手段をとれば双方に悲惨な結末をもたらすにちがいない軍事的な争いを防止できるかという問題である。
 一般の人々、そして権威ある地位にある多くの人々でさえも、核戦争によって発生する事態を未だ自覚していない。一般の人々はいまでも都市が抹殺されるくらいにしか考えていない。新爆弾が旧爆弾よりも強力だということ、原子爆弾が1発で広島を抹殺できたのに対して水爆なら1発でロンドンやニューヨークやモスクワのような巨大都市を抹殺できるだろうことは明らかである。
 水爆戦争になれば大都市が跡形もなく破壊されてしまうだろうことは疑問の余地がない。しかしこれは、私たちが直面することを余儀なくされている小さな悲惨事の1つである。たとえロンドンやニューヨークやモスクワのすべての市民が絶滅したとしても2、3世紀のあいだには世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、とくにビキニの実験以来、核爆弾はこれまでの推測よりもはるかに広範囲にわたって徐々に破壊力を広げるであろうことを知っている。
 信頼できる権威ある筋から、現在では広島を破壊した爆弾の2500倍も強力な爆弾を製造できることが述べられている。もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能をもった粒子が上空へ吹き上げられる。そしてこれらの粒子は死の灰または雨の形で徐々に落下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁夫たちとその漁獲物を汚染したのは、この灰であった。そのような死をもたらす放射能をもった粒子がどれほど広く拡散するのかは誰にもわからない。しかし最も権威ある人々は一致して水爆による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している。もし多数の水爆が使用されるならば、全面的な死滅がおこる恐れがある。――瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数のものはじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊してゆく。
 著名な科学者や権威者たちによって軍事戦略上からの多くの警告が発せられている。にもかかわらず、最悪の結果が必ず起こるとは、だれも言おうとしていない。実際彼らが言っているのは、このような結果が起こる可能性があるということ、そしてだれもそういう結果が実際起こらないとは断言できないということである。この問題についての専門家の見解が彼らの政治上の立場や偏見に少しでも左右されたということは今まで見たことがない。私たちの調査で明らかになったかぎりでは、それらの見解はただ専門家のそれぞれの知識の範囲にもとづいているだけである。一番よく知っている人が一番暗い見通しをもっていることがわかった。」
 ここで水爆というのは、太陽での核反応と同じ規模のものをこの地球上で瞬時の爆発でもって行おうとするものであって、その起爆剤には原爆が用いられるという。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆