拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

室内合唱団を同好会から作り直すという妄想をおかずに何杯もご飯が食べられそうな私

2021-01-08 11:06:02 | 音楽
昨日の記事に法律を勉強した者云々と書いて若干こそばゆいというか忸怩たる思いがしたのは私が法学部を出ていないせい。もちろん受験勉強よりよっぽど勉強して試験を通って今の商売をしているわけだし、それどころか受験指導までしてるんだから勉強してないわけはないのだが、日本って国は学校で専門として勉強してないとプロと認めない風潮があるような気がして、権威主義的でイヤだなと思いながらも自分自身がそういう意識にとらわれているところがまたイヤなのだ。そんなことを言ったらドイツ語もそう。ゲーテ・インスティテュートの中級修了試験を受かっているのだから勉強してないわけはないのだが、独文科を出た人を前にすると水戸黄門の印籠を前にした代官のようにへへーっなってしまう。まして、音楽となればそういう感はマックス。だが、考えてみると、私の生涯で、子供時代から通算して一番時間を費やしてきたのは音楽である。だが、先生はだーれ?と聞かれて「ベートーヴェンとヴェルディ」ではまったくつぶしが効かない。そう言えば、「マイスタージンガー」でヴァルター・フォン・シュトルツィングが、先生はだーれ?と聞かれて大昔の吟遊詩人である「ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ」と答えてマイスターたちに大馬鹿にされるシーンがある。ドイツと日本は、そういうところは似てるかもしれない。「魔弾の射手」で、最後に「隠者」ってぇのが出てきて偉そうにのたまうと殿様を始め人々がみなへへーっとなって一件落着となるあたり、まるで水戸黄門の代官のようで、権威主義的だなー、と思う。因みに、ヴェルディは音楽大学の入試に失敗して大学に通えなかったのだが、ヴェルディが偉くなると、その音楽大学がちゃっかり校名にヴェルディの名を冠するあたりはさすがイタリアである。じゃあ、私が専攻したのは何かというと経済である。今、私の人生において見事になんの役にもなってない。いや、実は目に見えない何かが私の人生の手助けになっているかもと思って一生懸命考えても、まったくない。もっぱら室内合唱団で歌を歌っていた4年間であった。そういうこともあって、ぼちぼち仕事をやめて、母校の大学に、今度は文学部独文科とやらに学士入学で入ってみたい、と思うことがある。授業料を調べたこともある。だが、その気持ちの中にうっすらと潜んでいた魂胆~室内合唱団にもう一度入ってアルトを歌う~は、室内合唱団がなくなってしまったので実現不能となった。今、思いついた!だったら、誰かと誰かと誰かと一緒に集団で楽士(これは、面白い変換!)……じゃなくて学士入学して、同好会から作り直そうか。この妄想をおかずにして何杯もご飯を食べられそうである。