拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

さようなら

2021-01-16 09:46:30 | 音楽
というわけで、昨日の二つの記事ですっかり元気になってもはや鬱ではないのだが、せっかく鬱をネタにした記事を予定したので今日はその話。すなわち、(気分を変えて)私は鬱である。原因はコロナ禍ではない。こないだコード名「スターウォーズ」で開催したイベントである。直後はクラリネットを上手く吹けたこともありごきげんだったが後に私に鬱をもたらした。われながら始末に負えないのは、一つやなことがあると全部やめたくなることである。かつて、そんな感じで全部やめたことがある。しかし、さすがにカンレキを越えてほんのちょびっとだけ人間が進歩したからここで全部やめたら後悔することが分かっている。だからやめない。しかし、この抑うつとした気分をどうにかして晴らしたい。そうだ!生前葬というものがある。死んでないのに死んだものとして挙げる葬式である。いやなことをみんな持って行ってくれるという。同じ手を使おう。やめてないのにやめたとして、この誌上のみで手続をするのである。そう言えば、高校の吹奏楽時代に指揮者に文句のあるT井くんとY本くんは、しょっちゅう「今日こそは練習中にトランペットをなげつけてやめてやる」と意気込んでいて、私は、その現場を見たくて早くトランペットを投げないかな、と期待して見ていたが、投げたことはなかった。その手法を借りよう。早速実践。まずはA合唱団。ここはメール。指揮者と数名の団員に「やめます」と送る。いただいた楽譜はレターパックライトで送り返す(具体的)。S団。ここはライン。文章はもう少し凝ったものにしよう。「人生の先輩であらせられます皆様とご一緒できたことは私にとってかけがえのない財産です」。そして某会。みんなに相談してもらって次の連絡係を決めてもらったら個々の承諾を得てメアドを新しい連絡係に移行する。それではいさよならである。問題の通唱会は?あれは期限があるわけではないから、やると言わなければやらない。だから「やめます」と言う必要はない。さあ、ここからが今日のメインテーマだ。メール等を締めくくる一言、「さようなら」の書き方である。いずれ戻りたくなるわけだから、永久の別れの挨拶になってしまってはいけない。だから「Leben Sie wohl!」「Leb wohl!」(お元気でお暮らしやす!)は厳禁。例えば、「ヴァルキューレ」でヴォータンがブリュンヒルデに「Leb wohl! Leb wohl! Leb wohl!」と哀切を込めて歌うシーン。あれは一生の別れを覚悟しているからああいう表現になる。良いのは「Auf Wiedersehen!」。これは「また会いましょう」だから次がある。中国語の「再見」(サイチェン)と同じである(中国語で知ってるのはこれと「ニーハオ」だけ。われながら、かたことの知識でよくこんだけ文章が書けると感心する)。つうか、ホントにこうしたメール等を送るわけではないんだから(誌上の空論に過ぎないのだから)、そうした気遣いをする必要はそもそもないのであるが。むっ。ちょっと、書いたことが通らない話を思いついてしまった。ベートーヴェンのピアノソナタ第26番の冒頭の三つの音には「Le-be wohl」が割り振られている。だからこの曲は「告別ソナタ」と呼ばれているのだが、この曲の第3楽章の副題は「Das Wiedersehen」(再会)。「Lebe wohl」と言っておいて思いっきり再会している。いやいや理屈はつくぞ。私はやめても(だからやめないんだって)すぐ戻りたい。しかし、「Leb wohl」と言っちゃうと、すぐには戻れない(同ソナタの第2楽章は「不在」である)。ほら、だからやっぱり「Auf wiedersehen」がよいのである。今日の話はここまで。鬱なんだかふざけてんだか分からない話になった。いつものことである。因みに、文中に登場した高校時代の友人であるが、あんなことを言うくらいだから人間のできてなさ加減は私とどっこいであるが、ともに教員になった。彼らに教わった生徒諸氏に心より哀悼の念を送る。