17世紀のボストンのピューリタンの社会を舞台に、姦通の罪(当時は重罪)を犯した女性、ヘスタがその父親の名を明かすことを拒み、波乱の人生を送る。
ヘスタは、老いた学者チリングワースとヨーロッパで結婚した後、二人で新大陸に渡ることにするが、後から来るはずだった夫が行方不明になってしまう。先に入植地へ到着していた彼女は、行方知れない夫を辛抱強く待つ一方で、牧師のディムズデールと愛し合うようになってしまう。彼女がディムズデールとの間にできた子どもを出産し、姦通の罪で裁かれているところへ、夫のチリングワースがやって来るところから物語は始まる。
ヘスタは子どもの父親を決して明かそうとはしない。学者であった夫のチリングワースは復讐に燃え、その知識を駆使して妻の不義の相手を探し出し、じりじりと追い詰めていく。
不義の相手であるディムズデールは黒髪で精悍な美男であるのに対し、チリングワースはもともと体に歪みがあり、姿が醜かった。復讐の鬼と化してからは、ますます顔つきは醜くなっていったという。
最近のpolitically correctな考えに慣れてしまっている頭で考えるからかもしれないが、チリングワースが「最初から醜い」必要はあるんだろうか?…なんて思えてならない。この作品では、他の登場人物においても、外面的特徴というものは内面の表象となって表れているが、それなら彼が「相手の弱みを握って追い詰める」という恥ずべき行為に手を染めたことによって、醜い容貌になったというだけで十分なはずなのでは?
もともと体に歪みがある(つまり、これは本人の意思・努力とは何の関係もないところでハンディがある)という設定は必要ではないのではないか?…
とまぁ、考えればいろいろあるんですが、私としては、この二人の男性…せめて外面的条件を同じにしないと、人間の罪とか、贖いによる再生とか…そういうテーマをフェアな立場では語れないんじゃないかと思えてならないわけで~こういうことを考えていると、文学というものに「距離」を感じたりするわけでもあります。
WICKEDを書いたグレゴリー・マグワイアも『オズの魔法使い』について同じような思いを抱いていたのでしょう。「肌の色が違う」=「絶対悪」を、単にsymbolicalと見なすことへの疑問から生まれたストリーであると考えられますしね。(原作は読んでいないんですが)でも、現実世界でのそのような「象徴破壊」が、また新しい価値観を生み出し、私たちが生きている社会を前へ進めていくわけでもありましょう。
とりあえず、人が生きていく世界においては、「両輪が必要」ということにしておきましょうか…
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