『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

武井爾云(たけゐじうん)[1/2]

2018-01-31 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
武井爾云(たけゐじうん)[1/2]

〔現代仮名遣い〕たけいじうん

※下線部は信長公記以外の記事によります。


夕庵・武井夕庵・二位法印。

はじめ美濃国斎藤道三・義竜・竜興三代に仕え

副状を発する地位にあった。のち信長の右筆と

して重用。奏者役も勤めた。右筆として最も早

い文書に1567年12月付け万里小路大納言惟房

あての請文がある。


1574年3月多聞城での蘭麝待切り取りの儀式の

    奉行をつとめる。

1575年7月誠仁親王が蹴鞠の会を主催。信長、

    主上から天盃を授かり見物。同日主上

    から昇官を勧められるが、信長は遠慮

    して受けず。そのかわり、下記の人事

    を奏上した。

    *松井友閑→宮内卿法印  

    *武井夕庵→二位法印 

    *明智光秀→惟任日向守  

    *簗田広正→別喜右近 

    *丹羽長秀→姓を惟住に。

1575年7月上京・下京の衆が信長のために妙顕

    寺で能を興行。そこで能を観る。

1578年1月元旦、信長主催の朝の茶会に参加。

1578年1月信忠が万見重元のところで行なった、

    昨年末信長から譲られた茶道具のお披

    露目に参加。

1578年4月信長が神保長住を招いた時の申し次。


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