武井爾云(たけゐじうん)[1/2]
〔現代仮名遣い〕たけいじうん
※下線部は信長公記以外の記事によります。
夕庵・武井夕庵・二位法印。
はじめ美濃国斎藤道三・義竜・竜興三代に仕え
副状を発する地位にあった。のち信長の右筆と
して重用。奏者役も勤めた。右筆として最も早
い文書に1567年12月付け万里小路大納言惟房
あての請文がある。
1574年3月多聞城での蘭麝待切り取りの儀式の
奉行をつとめる。
1575年7月誠仁親王が蹴鞠の会を主催。信長、
主上から天盃を授かり見物。同日主上
から昇官を勧められるが、信長は遠慮
して受けず。そのかわり、下記の人事
を奏上した。
*松井友閑→宮内卿法印
*武井夕庵→二位法印
*明智光秀→惟任日向守
*簗田広正→別喜右近
*丹羽長秀→姓を惟住に。
1575年7月上京・下京の衆が信長のために妙顕
寺で能を興行。そこで能を観る。
1578年1月元旦、信長主催の朝の茶会に参加。
1578年1月信忠が万見重元のところで行なった、
昨年末信長から譲られた茶道具のお披
露目に参加。
1578年4月信長が神保長住を招いた時の申し次。
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※下線部は信長公記以外の記事によります。
夕庵・武井夕庵・二位法印。
はじめ美濃国斎藤道三・義竜・竜興三代に仕え
副状を発する地位にあった。のち信長の右筆と
して重用。奏者役も勤めた。右筆として最も早
い文書に1567年12月付け万里小路大納言惟房
あての請文がある。
1574年3月多聞城での蘭麝待切り取りの儀式の
奉行をつとめる。
1575年7月誠仁親王が蹴鞠の会を主催。信長、
主上から天盃を授かり見物。同日主上
から昇官を勧められるが、信長は遠慮
して受けず。そのかわり、下記の人事
を奏上した。
*松井友閑→宮内卿法印
*武井夕庵→二位法印
*明智光秀→惟任日向守
*簗田広正→別喜右近
*丹羽長秀→姓を惟住に。
1575年7月上京・下京の衆が信長のために妙顕
寺で能を興行。そこで能を観る。
1578年1月元旦、信長主催の朝の茶会に参加。
1578年1月信忠が万見重元のところで行なった、
昨年末信長から譲られた茶道具のお披
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