吉良義昭(きらよしあき)
〔現代かなづかい〕きらよしあき
※下線部は信長公記以外の記事によります。
三河国守護。三河西尾の西条城主。
1556年4月上旬三河国吉良義昭に駿河衆が
お伴、尾張国斯波義銀に織田信長
一行がお供し、三河上野原で参会。
一時尾張にいたが、1560年5~6月頃石橋殿・
武衛公とともに、信長から国外追放される。
1561年東条城に移る。
1562年徳川家康と戦い降伏。
1563年三河一向一揆が起きるとまた家康と
争ったが、7月落城、逃亡した。のち摂津
芥川で没したという。
※吉良氏は清和源氏で足利氏の支流。
足利一門の中でも家格が高く、嫡流は
応仁の乱まで「御一家」と称され、
室町幕府に出仕しました。「御所が
絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば
今川が継ぐ」といわれた名家です。
上記のように西条吉良氏が滅びた
一方で、東条吉良氏は義安の時今川
義元に破れましたが、家康から東条・
西条の併有を認められ、徳川氏の家臣
となり江戸期には高家として存続しま
した。
そのほか世田谷吉良氏は、鎌倉公方
一家として鎌倉府に出仕し、のち北条
氏に従い、江戸期は旗本となり「蒔田
(まいた)」と称しました。
『忠臣蔵』で敵役として描かれる吉良
上野介(義央)は世が世なら源氏の主流
だったということです。
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三河国守護。三河西尾の西条城主。
1556年4月上旬三河国吉良義昭に駿河衆が
お伴、尾張国斯波義銀に織田信長
一行がお供し、三河上野原で参会。
一時尾張にいたが、1560年5~6月頃石橋殿・
武衛公とともに、信長から国外追放される。
1561年東条城に移る。
1562年徳川家康と戦い降伏。
1563年三河一向一揆が起きるとまた家康と
争ったが、7月落城、逃亡した。のち摂津
芥川で没したという。
※吉良氏は清和源氏で足利氏の支流。
足利一門の中でも家格が高く、嫡流は
応仁の乱まで「御一家」と称され、
室町幕府に出仕しました。「御所が
絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば
今川が継ぐ」といわれた名家です。
上記のように西条吉良氏が滅びた
一方で、東条吉良氏は義安の時今川
義元に破れましたが、家康から東条・
西条の併有を認められ、徳川氏の家臣
となり江戸期には高家として存続しま
した。
そのほか世田谷吉良氏は、鎌倉公方
一家として鎌倉府に出仕し、のち北条
氏に従い、江戸期は旗本となり「蒔田
(まいた)」と称しました。
『忠臣蔵』で敵役として描かれる吉良
上野介(義央)は世が世なら源氏の主流
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