『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

近衛信尹(このゑのぶただ)

2017-03-22 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
近衛信尹(このゑのぶただ)

〔現代仮名遣い〕このえのぶただ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


信基とも。前久の子。

1577年7月信長の手配で元服式を行なう。

    正五位下に叙せられる。

1578年従三位。


1579年11月誠仁親王の二条御新造への

    移徙(わたまし)で近衛前久の

    次に輿で参る。

1580年従二位内大臣。

1585年従一位・左大臣。

1592年辞職。

朝鮮の役が起きると豊臣秀吉に渡海を強いて

希望したため後陽成天皇の怒りに触れ薩摩国

に流された。

1596年許されて帰京し左大臣に還任。

1605年関白・氏の長者となったが、

1606年辞職した。

晩年の父前久とは所領問題で不和となる。

1614年死去。

歌道・茶道に達し書にもすぐれ、寛永の

三筆-本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗-

の一人。


 ※信尹君も、信長公に一生懸命尽くして

  藤原家再興に人生を賭けた父前久の

  気持ちも知らないで仲違いし、自分は

  天孫降臨以来天皇家の支えとして

  代を重ねてきた歴史をわきまえず

  朝鮮戦役に参戦しようとして主上の

  勘気を蒙る。父上殿が泣いていますよ!


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