近衛信尹(このゑのぶただ)
〔現代仮名遣い〕このえのぶただ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
信基とも。前久の子。
1577年7月信長の手配で元服式を行なう。
正五位下に叙せられる。
1578年従三位。
1579年11月誠仁親王の二条御新造への
移徙(わたまし)で近衛前久の
次に輿で参る。
1580年従二位内大臣。
1585年従一位・左大臣。
1592年辞職。
朝鮮の役が起きると豊臣秀吉に渡海を強いて
希望したため後陽成天皇の怒りに触れ薩摩国
に流された。
1596年許されて帰京し左大臣に還任。
1605年関白・氏の長者となったが、
1606年辞職した。
晩年の父前久とは所領問題で不和となる。
1614年死去。
歌道・茶道に達し書にもすぐれ、寛永の
三筆-本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗-
の一人。
※信尹君も、信長公に一生懸命尽くして
藤原家再興に人生を賭けた父前久の
気持ちも知らないで仲違いし、自分は
天孫降臨以来天皇家の支えとして
代を重ねてきた歴史をわきまえず
朝鮮戦役に参戦しようとして主上の
勘気を蒙る。父上殿が泣いていますよ!
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信基とも。前久の子。
1577年7月信長の手配で元服式を行なう。
正五位下に叙せられる。
1578年従三位。
1579年11月誠仁親王の二条御新造への
移徙(わたまし)で近衛前久の
次に輿で参る。
1580年従二位内大臣。
1585年従一位・左大臣。
1592年辞職。
朝鮮の役が起きると豊臣秀吉に渡海を強いて
希望したため後陽成天皇の怒りに触れ薩摩国
に流された。
1596年許されて帰京し左大臣に還任。
1605年関白・氏の長者となったが、
1606年辞職した。
晩年の父前久とは所領問題で不和となる。
1614年死去。
歌道・茶道に達し書にもすぐれ、寛永の
三筆-本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗-
の一人。
※信尹君も、信長公に一生懸命尽くして
藤原家再興に人生を賭けた父前久の
気持ちも知らないで仲違いし、自分は
天孫降臨以来天皇家の支えとして
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