『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

小早川隆景(こばやかはたかかげ)[1/2]

2017-03-23 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小早川隆景(こばやかはたかかげ)[1/2]

〔現代仮名遣い〕こばやかわたかかげ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


毛利元就の三男。

1544年安芸の豪族竹原小早川氏の養子となる。

1550年に小早川氏の総領家である沼田小早川

家を相続し、ここに小早川氏は統一された。

隆景は兄の吉川元春とともに「毛利両川」と

称され、父の元就、兄の隆元、甥の輝元を助け

て中国及び四国・九州の一部を平定した。

1555年の厳島の戦いで毛利元就は陶晴賢を

破ったが、このとき隆景の率いる小早川水軍

が活躍している。毛利氏は1557年大内義長を

討滅し防長両国を掌握した。その間およびその

後において吉川元春が山陰地域を担当したのに

対し、隆景は水軍の力も活用して主として

山陽地域の軍事と統治を担当し毛利氏の発展に

尽力した。また安国寺恵瓊とともに毛利氏の

対外担当者として活躍し、織田信長・羽柴秀吉

などとの折衝にも当たっている。


1578年4月信長方についた上月城山中幸盛を

    攻囲。

1581年8月「毛利輝元・吉川元春・小早川隆景

    が鳥取城の後巻きに出陣する」との風説

    が流れる。


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