小早川隆景(こばやかはたかかげ)[1/2]
〔現代仮名遣い〕こばやかわたかかげ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
毛利元就の三男。
1544年安芸の豪族竹原小早川氏の養子となる。
1550年に小早川氏の総領家である沼田小早川
家を相続し、ここに小早川氏は統一された。
隆景は兄の吉川元春とともに「毛利両川」と
称され、父の元就、兄の隆元、甥の輝元を助け
て中国及び四国・九州の一部を平定した。
1555年の厳島の戦いで毛利元就は陶晴賢を
破ったが、このとき隆景の率いる小早川水軍
が活躍している。毛利氏は1557年大内義長を
討滅し防長両国を掌握した。その間およびその
後において吉川元春が山陰地域を担当したのに
対し、隆景は水軍の力も活用して主として
山陽地域の軍事と統治を担当し毛利氏の発展に
尽力した。また安国寺恵瓊とともに毛利氏の
対外担当者として活躍し、織田信長・羽柴秀吉
などとの折衝にも当たっている。
1578年4月信長方についた上月城山中幸盛を
攻囲。
1581年8月「毛利輝元・吉川元春・小早川隆景
が鳥取城の後巻きに出陣する」との風説
が流れる。
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〔現代仮名遣い〕こばやかわたかかげ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
毛利元就の三男。
1544年安芸の豪族竹原小早川氏の養子となる。
1550年に小早川氏の総領家である沼田小早川
家を相続し、ここに小早川氏は統一された。
隆景は兄の吉川元春とともに「毛利両川」と
称され、父の元就、兄の隆元、甥の輝元を助け
て中国及び四国・九州の一部を平定した。
1555年の厳島の戦いで毛利元就は陶晴賢を
破ったが、このとき隆景の率いる小早川水軍
が活躍している。毛利氏は1557年大内義長を
討滅し防長両国を掌握した。その間およびその
後において吉川元春が山陰地域を担当したのに
対し、隆景は水軍の力も活用して主として
山陽地域の軍事と統治を担当し毛利氏の発展に
尽力した。また安国寺恵瓊とともに毛利氏の
対外担当者として活躍し、織田信長・羽柴秀吉
などとの折衝にも当たっている。
1578年4月信長方についた上月城山中幸盛を
攻囲。
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が鳥取城の後巻きに出陣する」との風説
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