『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

奈佐日本介(なさにほんのすけ)

2018-08-05 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
奈佐日本介(なさにほんのすけ)

〔現代仮名遣い〕なさにほんのすけ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


因幡守護山名豊国の家人。

1569年6月尼子再興をはかった尼子勝久・山中

幸盛に応じて隠岐に渡島し、さらに出雲忠山に

上陸した。

1570年10月尼子の船手大将として満願寺城を

攻める。

1573年西方から山陰に進出した吉川元春に降伏。


1581年10月鳥取城の吉川経家・森下道与・奈佐

    日本介の三人が切腹の上頚を進上するこ

    とで降参開城。

戦国人名事典では鳥取城陥落の際、海賊行為の故

に近隣の丸山城で自刃を命ぜられ、10月佐々木三

郎右衛門らと自刃したことになっている。



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